LOGIN港市の独り娘として育った私、羽生澪花(はにゅう みおか)が、佐々木遥人(ささき はると)のために帝都へ行くと決めたとき、両親は私を勘当した。 「あの身寄りのない男が、お前に何を与えてくれるというんだ!苦労を買って出るなら一生していろ!出て行くなら二度と戻ってくるな!」 五年。遥人が帝都でトップクラスのカウンセラーへと上り詰めていく姿を傍で見守り、彼は約束通り、私に温かな家庭を与えてくれた。 年末年始を控え、私は彼を連れて実家に戻り、両親の許しを請おうとしていた。しかし搭乗の直前、彼は一人のうつ病を患う女性患者のために、再び私を置き去りにした。 彼は私の手を離し、その瞳には張り裂けそうな苦渋が滲んでいた。 「澪花、彼女は当時の俺と同じなんだ……身寄りがなくて、俺が行かなければ本当にビルから飛び降りてしまう!ごめん、今回だけだ。すぐに次の便でお前を追いかけるから……」 遥人は振り返り、迷うことなく出口へと走っていった。 私はその場に立ち尽くし、手元にある港市に帰る二枚の航空券を見つめていた。 結局、彼は救いを求める患者たちの心をことごとく癒しながら、私だけは、何度もその救いの輪から零れ落ちる「置き去りの存在」にしてきたのだ。 私はゆっくりと、彼の分の航空券を引き裂いた。
View Moreかつて深く愛したはずのその顔を眺めても、今の私には、ただの見知らぬ他人のようにしか思えなかった。「謝罪はもういいわ。すべては、終わったことよ」私の言葉に、遥人の瞳に宿っていた微かな光が、一瞬で消え失せた。「あなたとの物語は、あの子と一緒に……」私は視線を窓の外へ向けた。この街の空は、どこまでも澄み渡った青色をしていた。「去年の冬に、置いてきたの」私は静かに立ち上がった。それが「お引き取りを」という合図であることは明白だった。彼は座ったまま、しばらく動かなかった。長い沈黙のあと、彼はようやく重い腰を上げたが、その足取りは危うく、背中はひどく丸まっていた。ドアの前で彼は一度だけ振り返り、私を深く見つめた。その眼差しには、言葉にできないほど多くの感情が混ざり合っていた。けれど、結局彼は何も言わず、ドアを開けて去っていった。階下から車のエンジン音が響き、それが次第に遠ざかり、やがて雑踏の中へと消えていった。清華が歩み寄り、心配そうに私を覗き込んできた。「澪花さん、大丈夫ですか?」私は首を振り、窓辺に歩み寄った。階下では、見慣れた遥人の車がリノベーションエリアを抜け、波のような車流に飲み込まれていく。そして、二度と私の視界に戻ることはなかった。私はデスクに戻り、描きかけのデザイン画を手に取った。インクが滲んだその一箇所が、まるで一滴の涙のようだった。私は真っ新な紙に取り替え、再びペンを握る。今度は、迷いのない、しなやかで凛としたラインが紙の上に走った。それからというもの、共通の友人を通じて、遥人の噂が風の便りに届くことがあった。彼は帝都に戻ったが、二度とカウンセリングの仕事には就かなかったという。家を売った金の一部は、うつ病の支援団体に寄付したらしい。その後の彼は、荒れ果てた生活を送っているらしい。酒に溺れ、軽い抑うつを患い、今は一人で狭い賃貸マンションに身を寄せている。友人はため息混じりに零した。「彼はいつも、自業自得だって言ってるよ。澪花、彼は本当はね……」「もう、すべては終わったことよ」私は再び、穏やかだがそれ以上の追及を許さない口調でそう告げた。友人はそれ以上、何も言わなかった。やがて、遥人の消息もぷっつりと途絶えた。彼は私の世界から完全に姿を消した。まるで、最初か
あの日以来、彼はその話題に触れようとはしなかった。ただ、今まで以上に私を大切にしてくれた。腫れ物に触るような慎重さと、それでいて拒絶を許さないほどの真っ直ぐな優しさで。彼が待っているのは、分かっていた。私の心の傷が癒え、もう一度前を向こうと思える日が来るのを。けれど、あの街頭での醜態を目の当たりにしたことで、私の心の中の何かが完全に吹っ切れていた。私はこれまでの感謝を伝えるために、自分から樹生を食事に誘った。彼は目に見えて恐縮しながらも、食事の間ずっと、その瞳をキラキラと輝かせていた。食後の帰り道、夜風はどこまでも穏やかだった。ふと、彼が足を止めて真剣な眼差しで私を見つめた。「澪花さん。まだ心の準備ができていないのは分かってる。僕は全然、急いでないんだ。ただ、これだけは伝えておきたくて。僕は君が好きだ。君を支えたいし、これからの道を一緒に歩んでいきたい。今すぐ答えを出す必要はないよ。友達から、もっと仲の良い友達へ、そして……君が望むなら、どんな关系にでもなれるように。ゆっくり時間をかけていきたいんだ」そう語る彼の耳の先端は微かに赤らんでいたが、その瞳はどこまでも澄んでいて、揺るぎなかった。自分より年下のこの男を、私は長い沈黙の中で見つめ返した。「樹生。私は……若い女の子みたいに、情熱的な恋はもうできないかもしれない。私の心はね、もう真っ新じゃないの。何度も壊れて、そのたびに繕って……そうやって残った歪な継ぎ目が、今も消えずに刻まれている。そんな心なの」彼は笑った。路灯の下で、あの小さな八重歯が白く光った。「真っ新なものより、物語が刻まれた心の方がずっと美しいよ。僕は、長い時間をかけて磨かれたものに惹かれるんだ。ダイヤもそうだけど……今の君が、一番僕の心にずっしりくるんだ」彼は少し照れくさそうに頭を掻いた。「例えが下手だったかな……僕が言いたいのは、過去なんてどうでもいいってこと。僕は君の『今』と、そして『これから』のすべてを分かち合いたいんだ。時間はたっぷりある。ゆっくり行こうよ」私は彼を見つめ、静かに微笑みを返した。「ええ、分かったわ」そう、ゆっくりでいい。それから二ヶ月が過ぎ、アトリエもようやく軌道に乗り始めた。私は初めての正社員を迎え入れた。ある平日の午後。新しいデザイン案を描
一度だけ、私が窓の外を眺めて物思いに耽っていたとき、彼は淡々と言った。「澪花さん、過ぎたことはもう、海の底に沈めておきなよ。ずっと後ろを振り返っていたら、首が痛くなっちゃう。前を向いて歩いた方が、景色は綺麗だよ」私は、彼のその絶妙な距離感に救われる思いだった。ある金曜日の夕暮れ。私と樹生はクライアントとの打ち合わせを終えたところだった。初期案が通り、二人とも晴れやかな気分だった。樹生は「お祝いに、ちょっといい焼肉でもどう?」と提案した。車がリノベーションエリアの出口に差し掛かった、その時だった。一人の男が猛然と横から飛び出し、行く手を阻むように立ちはだかった。樹生が鋭く急ブレーキを踏む。慣性で前のめりになった私の胸元を、シートベルトが強く締め付けた。顔を上げ、フロントガラス越しにその姿を捉えた瞬間、全身の血の気が引いた。佐々木遥人。彼は見る影もなくやつれ果て、無精髭を生やし、その眼窩は深く落ち窪んでいた。その瞳は車内の私を蛇のように捕らえて離さない。充血した瞳の奥には、狂気じみた焦燥と、絶望的なまでの縋るような希求が渦巻いていた。彼は窓ガラスにしがみつき、爪を立ててガリガリと音を立てた。「澪花!やっと、やっと見つけた!」全身が凍りつくような感覚に襲われ、私は手のひらに強く爪を立てた。樹生は眉をひそめ、私の方を向いて言った。「……知り合い?」私は深く息を吸い込み、頷いた。「……元彼よ」樹生の瞳にスッと鋭い色が宿り、彼は無言でドアを開けて外へ出た。私もそれに続く。吹き抜ける夕風は、私の身体を微かに震わせた。「そこをどいてくれ。邪魔だ」樹生は私を庇うように立ち塞がり、冷淡に言い放った。遥人は彼を視界に入れることすらせず、その血走った目は私だけを射抜いていた。「澪花、一緒に帰ろう……話をさせてくれ、頼む。一度だけでいい、説明させてほしいんだ……」「私たちの間に、もう話すことなんて何もないわ」自分の声が驚くほど凪いでいることに、私自身が一番驚いていた。「ある!あるんだ!」彼は激昂し、樹生をすり抜けて私の手を掴もうと身を乗り出した。「俺が悪かった!最低だったんだ!お前を置き去りにしたことも、何度も失望させたことも、全部……真奈のことはもう清算した。仕事も辞めたんだ、カウンセラーなんて
今となっては、皮肉なほどに時間はいくらでもあった。私はジュエリーデザインの短期集中講座に申し込み、毎日地下鉄で街を横断してクラスに通った。クラスメイトの中に、鳴海樹生(なるみ いつき)という数歳年下の男がいた。地元出身の彼は、実家が宝石商を営んでいるにもかかわらず、自らデザインを学びに来ているという。彼はよく喋り、よく笑った。その瞳は、夕暮れ時の湾岸に灯る街明かりのように、眩しく輝いていた。「澪花さん、ラインがちょっと硬いかな。もっと力を抜いて、手首のスナップをきかせる感じで」「澪花さん、帰りにラーメンでもどう?穴場の旨い店を知ってるんだ」「澪花さん、いつも一人だけど、退屈じゃない?」私はいつも首を横に振り、丁寧だが拒絶の滲む態度を崩さなかった。誰とも関わりたくなかった。特に関わりを持つのが男であるなら、なおさら。そんなある雨の日だった。講義が終わったのは夜の九時。外はあいにくの土砂降りで、傘を持っていなかった私は校舎の入り口で立ち往生していた。そこへ一台の黒いSUVが滑り込んできて、窓が下がった。顔を覗かせたのは、樹生だった。「乗って。送っていくよ」私が躊躇していると、彼は屈託のない笑みを浮かべ、小さな八重歯を覗かせた。「そんなに警戒しないで。別に取って食おうなんて言わないから。クラスメイト同士の助け合いでしょ?」誘われるように、私は助手席のドアを開けた。車内は暖かく、仄かなシトラスの香りが彼の清々しい気配と混じり合っていた。「住所は?」マンションの名前を告げると、彼は慣れた手つきでハンドルを切り、夜の車列へと合流した。「澪花さんって、いつも何か抱え込んでるみたいだね」信号待ちの最中、彼がふと口を開いた。何気ない口調だったが、そこには誤魔化しようのない真摯な関心が込められていた。「……別に、何でもないわ」咄嗟に否定した私を、彼は静かな眼差しで一瞥しただけで、それ以上は何も聞いてこなかった。「この街の雨って、どうも余計なことまで考えさせちゃうよね。でも、止まない雨はないよ。雨が上がれば、虹だって出るんだから」彼は一度言葉を切り、照れくさそうに笑った。「まあ、実際はなかなかお目にかかれないけどね。でも、空は必ず晴れるよ」ありふれた、使い古された慰めだ。けれどその