LOGIN結婚式の前日、岸川慎一(きしがわ しんいち)は浮気した。 彼は岸川グループの10%の株の譲渡契約書を私の前に突きつけた。 「雪江が帰った。彼女を手放すわけにはいかない」 彼の言っているのは小林雪江(こばやし ゆきえ)。とっくに別れたはずなのに、彼の心に残り続けている女性。 私は彼と喧嘩して、卑屈になるまで彼に行かないでと懇願した。 七年間、私は彼と一緒に起業し、苦労を尽くしてきた。 それなのに彼は、かつて自分を捨てた女のために、私との結婚を取りやめようとしている。 慎一は私が感情的になる様子を平然と見ていた。 「森川知子(もりかわ ともこ)、もういい加減にしろ! 岸川グループの10%の株をやる。この七年間の補償としては十分だろう」 結局、私はサインして立ち去った。 その時、スマホに突然メッセージが届いた。 【知子、君の負けだ。僕との約束を忘れないでね】 【分かったわ】
View Moreあれから一年後、大地が私にプロポーズした。場所は、小雨の降る夕暮れの山の頂上だった。彼は夜景を見に行こうと言って、私を山頂の展望台へ連れ出した。車を止めると、目の前に広がる雨に滲んだ街のネオンが、まるで光の海のように揺らめいていた。ふと沈黙が落ちたかと思うと、大地はポケットから深藍色のベルベットのケースを取り出し、私の前で片膝をついた。「知子」雨音と街の喧騒の中、彼の声だけがやけに鮮明に響いた。「昔は誓いなんて重すぎて、自分には背負いきれないと思ってた。でも今は違う。君となら、これからの毎日を大切に積み重ねていけると思ったんだ。僕と結婚してくれ」差し出された彼の手は少し震えていたが、その眼差しは真剣だ。私が一番惨めだった時、片時も離れず寄り添ってくれた人。そんな彼を見ていると、思わずに涙が頬を伝った。私は頷き、涙声で、けれど確固たる意志を込めて答えた。「はい!」結婚式は翌年の春。身内だけの、ささやかで温かい式だった。私はシンプルなウェディングドレスを身に纏い、父の腕に引かれてバージンロードを歩いた。その先には、仕立てのいいスーツに身を包んだ大地が待っていた。彼の優しい眼差しは、過去の辛い記憶を、すべて包み込んでくれるような温かさだった。指輪の交換の際、彼の指先は微かに震えていた。彼は私の耳元で、祈るように囁いた。「知子、僕を選んでくれてありがとう」私は泣き笑いのような顔で頷いた。その瞬間、過去のすべての傷が癒やされた気がした。誓いの言葉が終わり、拍手が沸き起こる。親友たちの祝福の声が響いた。大地の笑顔を見ようと振り向いた時、ふと、入り口の暗がりが目に入った。そこに、亡霊のような男が突っ立っていた。サイズの合わないヨレヨレの古いスーツ。伸び放題の髭に、枯れ木のように痩せ細った体。かつての面影など見る影もなかった。手には薄汚れたビジネスバッグを握りしめ、虚ろな目で私たちを凝視している。かつて愛し、そして深く憎んだその顔には、凍りついたような驚愕と、隠しきれない惨めさだけが張り付いていた。その姿は、街角の浮浪者そのものだった。慎一だ。心臓がドスンと重く沈み、思わず足が止まりそうになった。記憶の中の意気揚々としていた彼の姿と、目の前の男
慎一の顔からサッと血の気が引いた。何か言いたげに唇を震わせ、すがりつくように手を伸ばしてきたが、私はさっと身を引いて避けた。私は立ち上がり、彼を見下ろしながら、一言一句を噛み締めるように言い放った。「あんたが成功できたのは、全部私の家族のコネのおかげじゃない。一番苦しい時、あんたを支えたのは、私の父の人脈と金だったでしょ?起業時の融資だってそう。父さんが周りの反対を押し切って無理やり通してくれたのよ。切れかけた取引だって、父の顔があったから首の皮一枚で繋がったんでしょ?それなのに、成功して用済みになった途端、あんたは私をボロ雑巾みたいに捨てた。小林雪江とずっと純愛ごっこをしながら、メディアの前で悲劇のヒーロー気取って酔いしれてたじゃない!」私は大きく息を吸い込み、胸の奥に残る微かな痛みをねじ伏せた。「慎一、あんたが全てを失ったのは今じゃないわ。結婚式をキャンセルしたあの日、あんたは人としての最低限の情けも、義理も捨てたのよ。今日のこのザマは、あんたが自分で蒔いた種を自分で刈り取ってるだけのことよ。私を捨てた時、こんな結末が来るとは微塵も思わなかった?あの時、あんたは私に少しでも情けをかけてくれた?」慎一の唇はわなわなと震え、何か言い訳しようとしたが、言葉にならなかった。彼は魂が抜けたように、がっくりと項垂れた。そんな彼の姿を見て、私の心に残っていた最後の温情が完全に消え失せた。かつて私を大切に扱い、優しさの全てを注いでくれた男。それが今や、現実に打ちのめされて、言い訳する気力もない、ただの負け犬に成り下がっている。けれど、同情なんてしない。ここで情けをかけたら、過去に傷つけられた自分をもう一度殺すことになるからだ。「慎一」私は背を向け、もう二度と彼を見ようとしなかった。「今のあんたの有様は、私のせいじゃない。あんた自身が招いた結果よ。二度と私の前に現れないで。あんたに借りなんて一つもないし、もう振り返るつもりもないから」私はそのまま、足早に立ち去った。
二人の口論は泥沼化し、責任のなすりつけ合いから人格攻撃へと発展していった。数日後、慎一の会社は倒産を発表した。そして、私が持っていた株はとっくの昔に雪江に売却済みだった。彼女は、その株さえあれば社長夫人の座に踏ん反り返っていられると思っていたのだろう。まさかそれが、破滅を招く引き金になるとは知らずに。事の顛末を知った雪江は、鼻で笑って言い放った。「ねえ慎一、私を愛してるって言ったじゃない?会社も失ったあんたに、どうやって私を幸せにする気?結婚式ひとつ挙げられない甲斐性なしのくせに!」慎一は弾かれたように顔を上げ、かつてないほどの憎悪をその目に宿した。「雪江、全部お前のせいだ!お前が経歴詐称して俺をハメたからだ!お前が俺の会社を破滅させたんだ!」「ハメた?」雪江は小首をかしげ、か弱いふりをしながらも、その目には冷たい嘲りが浮かんでいた。「慎一、あんたがヨリを戻そうって泣きついてきた時、そんなこと言ってなかったじゃない。笑わせないでよ。自分で言ったんじゃない。愛してる、信じてるって……いざ失敗したら人のせい?自分で裏も取れない無能のくせに、何言ってんのよ?」そう言い捨てて、彼女は背を向け、そのまま去って行った。……数日後、私はあるカフェで慎一と会った。彼は見る影もなく痩せこけ、無精髭を生やし、かつて自信に満ち溢れていた瞳には、死人のような後悔だけが漂っていた。私を見つけるなり、彼は転がるように駆け寄り、私の手を掴んだ。その声は震えている。「知子……すまない、俺が悪かった!」私は冷たく手を振り払った。「岸川社長、おやめください」「知子、聞いてくれ!誤解なんだよ!」彼の目は充血し、訳の分からないことを喚き立てた。「雪江にハメられたんだ!あいつ、経歴を偽って俺を騙しやがって……あいつ、俺のいない間に勝手に会社の宣伝をいじりやがって!浮気じゃない、俺は騙されただけなんだ!酒に酔わされて、それで……」彼は必死に叫び続け、ついには私の前に土下座し、俺の足にすがりついた。「知子、君は俺の一番情けない時期を知ってるだろ?だから、君の前だと頭が上がらなかったんだ。だから君から逃げたくて……雪江を選べば、君がいなくても俺は成功できるって証明できると思ったん
ついに慎一の我慢が限界を超えた。彼は猛然と机を叩き、抑えきれない怒りを露わにした。「いい加減にしろ!お前の言ってることはめちゃくちゃだ!」慎一の突然の剣幕に、雪江は一瞬怯んだものの、すぐに首をもたげて反論した。「怒鳴ったわね!やっぱり私のことなんて愛してないんでしょ!まだあの女のこと考えてるんでしょ!」「もう一度言う、彼女とは終わったんだ!」慎一の声はもはや唸り声に近く、顔色は土気色になっている。「そうやって喚き散らして、何もかも滅茶苦茶にして、それがお前のためになると思ってんのか!」雪江は彼の気迫に押されつつも、決して引き下がろうとはしなかった。「まだ彼女が好きなんでしょ!はっきりさせてよ、今日こそ答えをもらうわ!」その言葉が、慎一の理性を完全に吹き飛ばした。彼は荒い息を吐き、血走った目で彼女を睨みつけた。怒りと疲労で、その声は凍りついたように低かった。「そうか、答えが欲しいのか?」慎一の声は、歯の間から絞り出されるようだ。「いいだろう、教えてやる。お前を必死に口説いた俺が、救いようのない馬鹿だ!全部、俺の勝手な思い込みだったんだよ!お前さえいてくれば、人生大逆転できると信じ込んでたんだ!そのザマがこれだ!会社も信用も失って、最後はお前みたいなヒステリー女に詰められる始末だ!」彼は一歩踏み出し、彼女を見下ろすようにして言った。その口調は嘲りと絶望に満ちていた。「雪江、どっちを選ぶかって聞いたよな?教えてやるよ、俺は今、どっちも選びたくない!お前にはうんざりだ!こんなの全部、笑えない冗談だ!俺が愛してたかだと?ああ、言ってやるよ。俺はお前を愛したことなんて、ただの一度もありはしない!これまでの人生で唯一心を動かされ、唯一心から大切に思ったのは、森川知子だけだ!これで満足か!?」その言葉は強烈な平手打ちとなって、雪江の自尊心を粉々に砕いた。彼女は一歩詰め寄った。「頼んでもないのに口説いてきたのはそっちでしょ?私が海外に行ったのは家の事情よ、あんたには関係ないわ!勝手に私を理想化して、勝手に出世の踏み台にしようとしたくせに!その踏み台が崩れたからって、人のせいにするつもり?はっきり言うよ、全部あんたの独りよがりだから、自業自得なのよ!いい気