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7話. 診療記録

Author: YuIm
last update publish date: 2026-11-04 13:29:03

土曜の午前、紗奈は5年前に入院していた病院を訪ねた。

看護師に会う前に、確かめておきたいことがあった。

出産後まもなく、産後うつの治療を受けた場所。

5年ぶりに足を踏み入れたロビーは、改装され、見知らぬ場所のようになっていた。

受付の位置が変わり、エレベーターの横にコーヒーの自販機ができていた。

それでも、廊下に満ちる消毒薬の匂いは5年前と同じだった。

医事課の受付窓口に並んだ。

前には3人、待っている人がいた。

紗奈はバッグの持ち手を、握っては緩めた。

「次の方、どうぞ」

紗奈は窓口の前に立った。

「診療記録の開示をお願いしたくて来ました」

「ご本人の記録ですか?」

「はい」

「身分証をお願いします」

マイナンバーカードを差し出した。

職員が画面を見ながら、氏名と生年月日を照合した。

「水原紗奈さんですね。入院歴が1件あります。産婦人科で、産後うつに関する治療ですね」

「はい、そうです」

「閲覧だけですか? 写しもご希望ですか?」

「写しもお願いします。全部です」

「写しは1件100円、追加のページが1枚10円になります」

「はい、大丈夫です」

「発行まで20分ほどかかります。待合室でお待ちください」

「ありがとうございます」

紗奈は申請書を書き、医事課の隣にある待合室の椅子に座った。

廊下の消毒薬の匂いが、鼻を突いた。

5年前にも、この匂いを嗅いだ。

匂いは同じなのに建物だけが変わっていることが、妙な感じだった。

あのときは、出産して間もなかった。

体が回復しないうちに、涙が止まらなくなった。

主治医に産後うつと診断され、投薬とカウンセリングが始まった。

2か月間の入院。

病室の窓越しに、季節が変わるのを見た。

治療が終わりに近づいた頃、離婚の書類が届いた。

紗奈は病院のベッドで、監護者指定の審判申立書を1字ずつ読んだ。

隣に座っていた看護師の顔は、思い出せなかった。

スマホが鳴った。

妹だった。

「お姉ちゃん、病院行った?」

「うん。診療記録の写しを待ってる」

「それでいいと思う。看護師さんに会う前に、自分の記録を確認しないと」

「うん」

「何かおかしなところがあったら、すぐ写真を撮っておいて」

「わかった」

「診療録と所見書、内容を比べてみて。違ってるところがないか」

「そのつもり」

「それで、看護師さんとは2時だよね?」

「うん」

「カフェで会うなら、私も行こうか? 近くで待っててもいいし」

「いいよ。1人で行く」

「……わかった。終わったらすぐ電話して」

「うん」

「病院の匂い、大丈夫?」

紗奈は待合室の壁を見た。

消毒薬の匂いが、鼻先に残っていた。

「大丈夫」

「無理しないでね」

電話を切った。

紗奈はスマホをバッグにしまい、待合室の壁に背を預けた。

向かいの壁に、新生児についての案内ポスターが貼ってあった。

5年前にもあのポスターがあったのかは、覚えていなかった。

「水原紗奈さん、写しのご用意ができました」

紗奈は窓口へ行った。

「全部で28ページ、370円です」

「カードでお願いします」

「こちらでどうぞ」

カードで支払い、厚い書類の封筒を受け取った。

「追加の閲覧や再発行が必要でしたら、お申し出ください」

「ありがとうございます」

待合室の椅子に戻り、封筒を開けた。

28枚の診療記録が、時系列に沿って揃えられていた。

入院証明書。

診療録。

投薬記録。

看護記録。

退院時サマリー。

紗奈は待合室の隅の椅子で、1枚ずつ書類をめくった。

隣の高齢の女性が、咳をしながら席を立った。

自然と、指で書類の縁をなぞっていた。

コピーされた書類には、インクが少しにじんでいるところもあった。

紗奈はそこを避けるようにしながら、1字ずつ、ゆっくり読み進めた。

診療録には、主治医の所見が書かれていた。

『産後うつ病。薬物療法およびカウンセリングを併用中。経過良好。』

次のページ。

『睡眠パターン改善。食欲回復傾向。』

その次のページ。

『自傷念慮なし。乳児に対する危険行動は認められず。』

紗奈の手が止まった。

『自傷念慮なし。』

『危険行動は認められず。』

これが、実際の診断の記録だった。

治療を担当した医師が、自分で書いた経過記録。

紗奈が治療を受け、回復していた証拠。

なのに、法廷に出された所見書には『自傷および乳児への加害のおそれ』と書いてあった。

保護命令の根拠。

接近禁止の理由。

5年間、子どもに会えなくなった、その始まり。

紗奈は書類をめくり続けた。

投薬記録、看護記録、退院時サマリー。

どれも書体と書式が揃い、同じ病院のロゴが入っていた。

最後のページの2枚手前。

1枚の紙が、挟まっていた。

紗奈の手が止まった。

書体が違った。

書式も違った。

病院のロゴの位置が、ほかの書類とわずかにずれていた。

印字も、残る27枚より薄かった。

まるで、それだけまったく別の場所から来た書類のようだった。

紗奈は慎重に、その紙を取り上げた。

上部には『所見書』とあった。

日付は、入院していた期間のもの。

下には主治医の署名欄があったが、筆跡は診療録の主治医の署名と違って見えた。

紗奈の指が震えた。

この1枚。

ほかの27枚とは、書体も、書式も、印字の濃さも違う。

紗奈は所見書を、診療録の横に並べた。

同じ病院。同じ期間。同じ患者の記録。

一方は『危険なし』。

もう一方は『危険あり』。

同じ患者について、同じ期間に、正反対の判断が書かれていた。

紗奈は2つの書類が重ならないようにして、バッグの中のファイルに収めた。

紙を持つ手のひらが、汗で湿っていた。

病院を出ながら、スマホを取り出した。

看護師にメッセージを送った。

『午後2時、お約束の場所でお会いしましょう』

病院の玄関前で、紗奈は少し立ち止まった。

バッグの中の書類が、重かった。

28枚の紙の重さが、そのまま5年分の重みになって肩にのしかかっていた。

バッグの持ち手を両手で握り直し、カフェのあるほうへ歩き出した。

そのうちの1枚だけが、ほかの27枚と、まったく違っていた。

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