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第1章:前線の魔術師【001】

last update Petsa ng paglalathala: 2026-05-24 18:18:12

――数ヶ月前。

ミラ・アッシュフィールドは魔術師だ。

黒髪に黒い瞳。この国では不吉とされる色を全身に纏い、それでも臆することなく研究室から魔術塔に続く石畳の小径を、長いローブを靡かせながら速足で歩いていた。丸眼鏡が鼻の上で僅かにずれているが、本人は気にしていない。いつもそうだ。

その背中を追う影があった。

金色の髪に、青い瞳。この国では王家直系だけが引き継ぐとされる色だ。ヴィクトル・ルーカス・エルンスト――王位継承権を破棄した、騎士団副団長。

(あんなに小さいのに、歩くのが早いな)

足が長い俺には造作もないことだが。

(逃がすか)

手を伸ばせば届く距離まで詰めて、息を吸った。

「ミラ!」

呼んだ瞬間、彼女が振り返った。

黒い瞳が、真っ直ぐにヴィクトルを捉えた。

――ああ、やっぱり。

初めてこの瞳を見たのは、前線だった。

騎士団と魔術師部隊の合同任務。魔物の出没が相次ぐ山間の砦で、ヴィクトルは副団長として指揮を執っていた。魔術師たちは後方支援に回り、騎士団が前線で魔物を食い止める。いつも通りの布陣だった。

――いつも通りのはずだった。

最初に異変に気付いたのは、左翼だった。

予想より数が多い。斥候せっこうの報告より、はるかに大規模な群れが山の陰から溢れ出してきた。騎士達が押され隊列が崩れる。怒号と剣戟けんげきの音が混じり合う中で、ヴィクトルは舌打ちをこらえながら指示を飛ばした。

その時だった。

後方に控えていた魔術師の一人が、すっと前に出た。

他の魔術師たちと同じ、黒いローブ。ただ、その動きに迷いがなかった。周囲の喧騒に臆した様子もなく、静かに崩れかけた前線に向かって歩いていく。

ヴィクトルは思わず目で追った。

女だった。

小柄な体躯。黒い髪。そして――丸眼鏡を、外した。

次の瞬間、展開されたバリアの規模に、ヴィクトルは息を呑んだ。

分厚い魔力の壁が、崩れかけた前線を丸ごと覆った。魔物がぶつかる。弾かれる。それでもバリアは揺るがない。

女の表情は、変わらなかった。

顔色一つ変えず、ただ静かに魔力を行使し続けている。恐怖も焦りも、その顔には欠片もなかった。

(なんだ、この女は)

――目が離せない。

ヴィクトルは知らず知らず、前線の指揮を執りながらも視線を引き剥がせなくなっていた。

戦闘が終わったのは、それから間もなくのことだった。

魔物の群れを退け、騎士たちが息を整える。怪我人の確認。武器の損傷チェック。いつもの戦闘後の慌ただしさの中で、ヴィクトルはまだ女を目で追っていた。

女はバリアを解いて、眼鏡をかけ直した。

それから――二人は目が合った。時間にしては、ほんの数秒だったのに、ヴィクトルには永遠に感じられた。

「お疲れ様でした」

笑った。

さっきまでの無表情が嘘のように、ほんの少しだけ、柔らかく。

(――可愛い)

思った瞬間に、全部が決まった気がした。

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  • 好きじゃないです、と言ったら王命で結婚させられました~恋を知らない魔術師は執着騎士に囚われる~   第3章:王命【017】

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  • 好きじゃないです、と言ったら王命で結婚させられました~恋を知らない魔術師は執着騎士に囚われる~   第3章:王命【016】

     ※ 王宮の王の謁見場所に続く渡り廊下を歩きながらも、ミラの興奮は冷める気配がなかった。壁面や柱の随所に施された古代の防壁魔術を感知しているらしく、丸眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせながら、早口でその術式構造を解説している。「……なるほど、ここはただの通路ではなく、侵入者の魔力を自動で減衰させる複層陣が組み込まれているのですね! 実に見事な連動性です」「はいはい、すごいですねー」 その隣を歩くグレンは、完全に魂の抜けた棒読みで応じている。いつもなら、ヴィクトルがその分の熱量を持ってミラの言葉を一つ残さず拾い上げ、真摯に相槌を打ってやるところだった。彼女が嬉しそうに知識を披露する姿を見るのは、ヴィクトルにとっても至福の時間だからだ。 だが、今の俺にはどうしてもそれができなかった。(この胸のざわつきは、一体何だ……) 胃の奥を冷たく掴まれるような、嫌な予感がずっと消えない。 もしこれが、ただの大型の魔物討伐案件ならそれでいい。だが、それだけで国王である兄上がこの面々をわざわざ直接呼び出すだろうか。騎士団の最高戦力である団長と副団長、それに加えて魔術師を呼び出すなど、あまりにも過剰であり、どこか不自然だ。 そもそも、単なる武力解決で済む話なら、グレン一人を呼び出すればいい。桁外れの戦闘力があれば、大抵の有事は力技でどうにでもなるからだ。それなのに、副団長である自分と、さらにミラまで指名している。(兄上は一体、何を考えている) ヴィクトルが不安に眉を顰めていると、ついに謁見の間の重厚な大扉が大きな音を立てて左右へと開き始めた。 視界が開けた先、一段高い玉座には、威厳に満ちた佇まいでこちらを見下ろす兄上――国王陛下が鎮座していた。 そして、その玉座の傍らには、すでに先客の姿があった。 静かに佇んでいたのは、魔術師長アルバだった。「ふぉっふぉっふぉっ、お前ら遅いぞい」 長い髭を触りながら、緊張感のない声で笑った。「師匠もいらしていたのですか」 ミラがアルバの姿を捉え、トットットッと足音を立てて彼の元へ駆け寄った。彼女の優先順位はやはり自分はまだ下の方だ……と人知れず落ち込んでいると玉座の兄と目が合った――彼は、ニヤついていた。(なんだ、あの顔……?) 嫌な汗が背中に流れる。 経験上、兄があのような表情をする時はろくなことはなかった。「

  • 好きじゃないです、と言ったら王命で結婚させられました~恋を知らない魔術師は執着騎士に囚われる~   第1章:前線の魔術師【007】

    ※ 食事を終えた二人は、連れたって食堂を後にした。 「ミラさん、食事をしたばっかりなんですから速足で歩くのではなく、ゆっくり歩きましょう。消化に悪いです」 「研究の続きが」 「研究は逃げません」 ミラは渋々、歩く速度を緩めた――その時だった。 「ミラ!」 ミラは振り返らなかった。 足を止めず、研究室への道を、そのまま歩き続けようとした。 レオンがミラの肩を掴んだ。「……副団長殿が呼んでいます」 「あ」 ミラはようやく振り返った。 「こんにちは、副団長殿」 「やぁ、ミラ。昼間に会うのは初めてだね」 息を切らしながら前髪を掻き上げる姿は、やけに眩しいなとミラは目を

  • 好きじゃないです、と言ったら王命で結婚させられました~恋を知らない魔術師は執着騎士に囚われる~   第1章:前線の魔術師【009】

    「人の言葉を遮るのはいけないと、あれほど注意をしたというのに」レオンが言い終えないうちに、ミラはササっと消えるように――この場を去った。研究室に一直線に早歩きで向かっていた――早い。 ヴィクトルは何も言わなかった。 レオンも何も言わなかった。 石畳の小径の上に取り残された男二人。 レオンが俯いたまま身動ぎしないヴィクトルを、横目で見ながら小さく咳払いをした。「ミラさんの発言は気にしないで下さい」(気にするな、と言われても……俺はあの女が好きなんだ)今まで黙っていても向こうから女が寄って来た。それは意図せず、自分の意志とは関係なく、だ。 だが、ミラは違う。初めて親しくなりた

  • 好きじゃないです、と言ったら王命で結婚させられました~恋を知らない魔術師は執着騎士に囚われる~   第1章:前線の魔術師【008】

    ※ ※ ※ 朝日が照らす石畳の小径の上を、今日もミラは迷いなく進む。彼女の視線は、研究室に注がれていた。 彼女の前に、太陽の光のような男――ヴィクトルが姿を現した。 ミラは珍しく、足を止めた。 ヴィクトルは今日もまた、女性達が見惚れる笑みをミラに送り、挨拶を告げようとする前に……先に口を開いたのはミラだった。 「おはようございます、ヴィクトル副団長殿」 ヴィクトルは口を押さえた。 (名前を、呼ばれた……?) 初めてでは? 「昨日、レオンからヴィクトル副団長殿のお名前を教えてもらいました」 「今まで知らずにいたことをお詫びします」とミラは頭を下げた。 その勢いで、頭を上

  • 好きじゃないです、と言ったら王命で結婚させられました~恋を知らない魔術師は執着騎士に囚われる~   第1章:前線の魔術師【006】

    ※ ※ ※ 魔術塔と騎士舎がある広い敷地内の丁度中央に食堂が存在する。そこは、騎士と魔術師が自由に食事をする場所であり、談笑もできる憩いの場であった。もっとも、騎士率の方が高いのは、魔術師達は研究室の近くでしか食事を摂らない。食堂に行く距離でさえ惜しいのだ。 長い机が並ぶ食堂は、今日も騎士達の声で満ちていた。 その中に、黒が二つ混じっていた。 ミラと彼女の同僚魔術師レオンが、長テーブルに並んで座っている。黒いローブに細身の長身、茶髪の青年だ。レオンはトレーに料理を並べているのに対し、ミラは右手に一口も齧られていないサンドイッチ、左手に書類。ミラの目線は書類に注がれていた。 「あれ

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