《好きじゃないです、と言ったら王命で結婚させられました~恋を知らない魔術師は執着騎士に囚われる~》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

10 章節

※ ※ ※

騎士団の中庭に、静寂が落ちた。 昼下がりの訓練時間だった。 本来なら剣の打ち合う音や、騎士たちの怒号が響いているはずなのに、ヴィクトルには何も聞こえなかった。 人が、大勢いた。 よりによって、こんな場所で言ってしまったと、告げた後になってようやく気付く。 けれど、もう遅かった。 「俺は、ミラが好きだ」 王弟であり、騎士団副団長でもあるヴィクトル・ルーカス・エルンストが、たった一人の女へ向けて告げた言葉は、あまりにも真っ直ぐで、飾り気がなかった。 本当は、告白をする予定ではなかった。 彼は彼なりに、告白をするタイミングを見計らっていたがそれは今ではなかった。「ではいつだ?」と訊かれてしまえば、返答には詰まるが、人が大勢いる今ではなかったはずだ。 ただ、普段は表情が控えめなミラから笑顔を向けられたことで、気付けば彼女への想いを吐露していた。 目の前のミラは、黒い瞳でヴィクトルを見上げた。 首を傾げ、眼鏡がずれる。 彼女はそれを気にすることなく、ゆっくりと瞬きを繰り返した。 そして彼女もまた、真っ直ぐに答えた。 丸眼鏡の奥の瞳には、迷いがなかった。 悪意もない。 嘲笑もない。 ただ―― 「あなたのこと、好きじゃないです」 正直だった。 ――ああ。 ヴィクトルは理解した。 これは、断られたのだと。 騎士団副団長ヴィクトル・ルーカス・エルンスト、三十二歳。 生まれて初めて女に告白し、そして、人生で初めて振られた瞬間だった。
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第1章:前線の魔術師【001】

――数ヶ月前。 ミラ・アッシュフィールドは魔術師だ。 黒髪に黒い瞳。この国では不吉とされる色を全身に纏い、それでも臆することなく研究室から魔術塔に続く石畳の小径を、長いローブを靡かせながら速足で歩いていた。丸眼鏡が鼻の上で僅かにずれているが、本人は気にしていない。いつもそうだ。 その背中を追う影があった。 金色の髪に、青い瞳。この国では王家直系だけが引き継ぐとされる色だ。ヴィクトル・ルーカス・エルンスト――王位継承権を破棄した、騎士団副団長。(あんなに小さいのに、歩くのが早いな) 足が長い俺には造作もないことだが。 (逃がすか) 手を伸ばせば届く距離まで詰めて、息を吸った。 「ミラ!」 呼んだ瞬間、彼女が振り返った。 黒い瞳が、真っ直ぐにヴィクトルを捉えた。 ――ああ、やっぱり。 初めてこの瞳を見たのは、前線だった。 騎士団と魔術師部隊の合同任務。魔物の出没が相次ぐ山間の砦で、ヴィクトルは副団長として指揮を執っていた。魔術師たちは後方支援に回り、騎士団が前線で魔物を食い止める。いつも通りの布陣だった。 ――いつも通りのはずだった。 最初に異変に気付いたのは、左翼だった。 予想より数が多い。斥候の報告より、はるかに大規模な群れが山の陰から溢れ出してきた。騎士達が押され隊列が崩れる。怒号と剣戟の音が混じり合う中で、ヴィクトルは舌打ちをこらえながら指示を飛ばした。 その時だった。 後方に控えていた魔術師の一人が、すっと前に出た。 他の魔術師たちと同じ、黒いローブ。ただ、その動きに迷いがなかった。周囲の喧騒に臆した様子もなく、静かに崩れかけた前線に向かって歩いていく。 ヴィクトルは思わず目で追った。 女だった。 小柄な体躯。黒い髪。そして――丸眼鏡を、外した。 次の瞬間、展開されたバリアの規模に、ヴィクトルは息を呑んだ。 分厚い魔力の壁が、崩れかけた前線を丸ごと覆った。魔物がぶつかる。弾かれる。それでもバリアは揺るがない。 女の表情は、変わらなかった。 顔色一つ変えず、ただ静かに魔力を行使し続けている。恐怖も焦りも、その顔には欠片もなかった。 (なんだ、この女は) ――目が離せない。 ヴィクトルは知らず知らず、前線の指揮を執りながらも視線を引き剥がせなくなっていた。 戦闘が終わった
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第1章:前線の魔術師【002】

※ ※ ※ 任務から戻った後、部下に何気なく聞いた。 「あの魔術師は誰だ」 「ああ、ミラさんです。魔術師長アルバ直々の弟子ですよ」 「初めて見たな」 (あんなに可愛い笑顔を今まで見なかった) それ以外にも。 魔力がもっとも高いとされる黒髪と黒い瞳の魔術師は、戦場では最も頼りになる存在だ。先ほど見たバリアは見事なものだった。不吉などという迷信とは無縁の、純粋な実力。そんな人物が表舞台に姿を現さなかったのが不思議だ。 「研究室に籠もってばかりで滅多に顔を出さないんですが、聞いた話では、魔術師長から追い出された時だけ前線に出るらしいんですよ」 「普段の彼女と別人みたいでしたね」と部下が言った。 ――普段。 (俺は普段の彼女を知らない) 当たり前だ。今日初めて見たのだから。 なのになぜか、損をした気分だった。 前線のミラ。そして笑ったミラ。 あの黒髪の彼女はミラという名前らしい。 魔術師長アルバ直々の弟子で、研究室に籠もってばかりいて、滅多に笑わない。 (――もう一度、見たい) ――そして今、目の前にいる。 黒い瞳が、変わらず、真っ直ぐにヴィクトルを見ていた。 「ミラ!」呼ばれて、ミラは首を傾げた。 「……副団長殿。何か御用ですか?」距離が近い。 思っていたより、ずっと近い。 「……いや」 用事はある。ありすぎる。 だが、何から言えばいいのかわからない。 「……その」 言葉が詰まる。 戦場で指示を出すときは、迷ったことなど一度もないのに。 「あのですね」 「あっ、師匠が呼んでいます。失礼します」 小走りで去っていく黒髪を、ヴィクトルはただ呆然と見送った。 「黒い子ー」 魔術塔の入口で、魔術師長アルバが手招きしている。あの白髪の老人がミラを「黒い子」と呼ぶのは、昔からそうなのだろう。 ヴィクトルは黒と白のコントラストが視界から消えるまで眺め続けた。 ――終わった。 何も、始まっていないのに。 ただ、取り残された。 両眉が情けなく下がる。視界が、僅かに滲んだ。 それでも。 (――明日も、ここを通ろう) ヴィクトルは諦めない。 窮地に陥っても、一度も引いたことがない男、それがヴィクトル・ルーカス・エルンスト。 ヴィクトルは、滲んだ視界を消し去るかのように瞬きを繰り返してから、踵を返した。
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第1章:前線の魔術師【003】

※ ※ ※ 一週間後。 ヴィクトルはついに本題を切り出した。 「騎士団の近くに、女性に人気のカフェがあるんですが、一緒に行きませんか。男一人だと気が引けて」 ミラは少し考えた――なんと、歩く足を止めて。 しかし、少し、というのは本当に少しで、三秒も経たなかった。 「研究で忙しいです」 やはりそうか、とヴィクトルが思った瞬間、ミラが続けた。 「あそこの令嬢が時間が空いているようです。私から誘いましょうか」 ミラの視線が、回廊の向こうへ向いた。確かに、木に隠れて、こちらをチラチラと見ている貴族の令嬢がいた。 「あちらの令嬢は、騎士団の殿方に贈り物を届けにいらっしゃった一人です。確か、副団長の親衛隊だと仰っているのを私は聞きました」 悪意がないのは分かるのだが……ヴィクトルの頑丈のはずのハートがグサグサと抉られた。 「伯爵令嬢!」 「あっ」 止めるより早く、ミラは動いていた。 ――速い。 戻ってくるのも、速かった。 「副団長、一緒に行ってくれるそうです」 「良かったですね」とミラ。 「では、私はこれで失礼します」 ローブを翻し、ミラは速足でヴィクトルの元を去った。 残されたのはヴィクトルと名前も知らない伯爵令嬢――。 ヴィクトルは口元をぎゅうっと引き結んだ。 ※   結論から言うと、伯爵令嬢はとても良い人だった。「私、ヘタレな男性は嫌いですの」 ――と言われてはしまったが……。 「女性へのアプローチが下手ですわ」 「今までアプローチしなくても近寄ってきたから、どうすればいいか分からないんだ」 金色の睫毛に縁どられた青い瞳を伏せ気味で呟くその姿は、一枚の絵画のように美しく。 伯爵令嬢は一瞬見惚れてしまうものの、玉砕している姿を思い出し、憧れは霧のように消え去った。 「……その言い方、ちょっと腹が立ちますわね」 伯爵令嬢は眉間に皺を寄せたまま、紅茶に口をつけた。 「まあ、いいですわ。私からアドバイスを差し上げます」 「ぜひ頼む」 伯爵令嬢はティーカップを置いた。ヴィクトルの目を見る。 「女性には花を贈るといいですわ。気持ちが伝わります」 「花」 「ええ。花束を抱えて現れた殿方を、無下にできる女性はそうそういませんもの」 ヴィクトルは真剣に頷いた。 ※ ※ ※ 翌
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第1章:前線の魔術師【004】

※ ※ ※一週間後。ヴィクトルはついに本題を切り出した。「騎士団の近くに、女性に人気のカフェがあるんですが、一緒に行きませんか。男一人だと気が引けて」ミラは少し考えた――なんと、歩く足を止めて。しかし、少し、というのは本当に少しで、三秒も経たなかった。「研究で忙しいです」やはりそうか、とヴィクトルが思った瞬間、ミラが続けた。「あそこの令嬢が時間が空いているようです。私から誘いましょうか」ミラの視線が、回廊の向こうへ向いた。確かに、木に隠れて、こちらをチラチラと見ている貴族の令嬢がいた。「あちらの令嬢は、騎士団の殿方に贈り物を届けにいらっしゃった一人です。確か、副団長の親衛隊だと仰っているのを私は聞きました」悪意がないのは分かるのだが……ヴィクトルの頑丈のはずのハートがグサグサと抉られた。「伯爵令嬢!」「あっ」止めるより早く、ミラは動いていた。――速い。戻ってくるのも、速かった。「副団長、一緒に行ってくれるそうです」「良かったですね」とミラ。「では、私はこれで失礼します」ローブを翻し、ミラは速足でヴィクトルの元を去った。残されたのはヴィクトルと名前も知らない伯爵令嬢――。ヴィクトルは口元をぎゅうっと引き結んだ。※ 結論から言うと、伯爵令嬢はとても良い人だった。「私、ヘタレな男性は嫌いですの」――と言われてはしまったが……。「女性へのアプローチが下手ですわ」「今までアプローチしなくても近寄ってきたから、どうすればいいか分からないんだ」金色の睫毛に縁どられた青い瞳を伏せ気味で呟くその姿は、一枚の絵画のように美しく。伯爵令嬢は一瞬見惚れてしまうものの、玉砕している姿を思い出し、憧れは霧のように消え去った。「……その言い方、ちょっと腹が立ちますわね」伯爵令嬢は眉間に皺を寄せたまま、紅茶に口をつけた。「まあ、いいですわ。私からアドバイスを差し上げます」「ぜひ頼む」伯爵令嬢はティーカップを置いた。ヴィクトルの目を見る。「女性には花を贈るといいですわ。気持ちが伝わります」「花」「ええ。花束を抱えて現れた殿方を、無下にできる女性はそうそういませんもの」ヴィクトルは真剣に頷いた。※ ※ ※翌日。ヴィクトルは花束を抱えて石畳の小径に立った。いつもはミラが歩く隣を追いかけるよ
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第1章:前線の魔術師【005】

※ ※ ※ 数日後。 ヴィクトルは左腕に血が滲んだ包帯を巻いて、魔術塔に隣接する治癒室へ向かった。 訓練中に少し切った――といっても、なかなかの深さだったのだが。 フィンが青褪めている姿は可哀想だったが、ヴィクトルは彼の顔なんぞ目もくれなかった。 いつもは速攻で弾き返す剣先を、ワンテンポ遅れて弾き返したのだが――わざとだった。それも全て、 (治癒室に行く口実が出来た!) このためである。 ミラは今日、治癒室当番なのだ。 ヴィクトルは把握していた。三ヶ月間、ミラの動向を観察し続けた成果である。 訓練場を喜々と立ち去るヴィクトルの背中を、部下たちが唖然と目で追っていた。彼は知る由もない。 (完璧な作戦だ) そのまま迷いなく、治癒室の扉の前に立った。 扉を叩いた。 返事がない。 もう一度叩いた。 「…………」 やはり、返事がない。 ヴィクトルは返事を諦めて、治癒室の扉を開けた。 丸椅子に腰かけてデスクにかじりついているミラの背中が視界に飛び込んできた。デスクの上は書類だらけだ。いつもの整理整頓された治癒室とは違うこの空間――ヴィクトルはミラらしい、と思った。彼女とまともに会話したことはない彼だが、魔術以外のことに無頓着だということは三ヶ月のスト――ではなく観察したことで仕入れた情報だ。 椅子に座ったまま、ミラは長い髪を靡かせながらくるりと回転させた。その勢いで丸眼鏡が鼻の上でずれたのを直しもしなかった。 彼女の黒い瞳に、ヴィクトルが映り込む。 「これは副団長殿。今朝ぶりですね」 ミラが覚えていてくれたことに、ヴィクトルは怪我人ではあるまじき満面の笑みを彼女に向けた。 破壊力がある顔を見せられても、ミラは揺るがなかった。 「今日は、どうされましたか?」 ヴィクトルは丸椅子に座り、ミラの正面に座った。 「少し怪我をしたんだが、治してもらえるか?」 「これは」とミラは眼鏡をかけなおし、ヴィクトルの包帯を凝視した。そして、ヴィクトルを見た。「私には無理ですね」 「え」 「はい。無理です」 ――今日は、当番では? 「今日は、当番では?」 疑問を心中に抱いたままにできず、思わず声に出していた。 「当番ですが」 「ならば」 「私は魔術の研究専門です。治癒は専門外なので」 「しかし当番に」 「師匠……アルバ
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第1章:前線の魔術師【006】

※ ※ ※ 魔術塔と騎士舎がある広い敷地内の丁度中央に食堂が存在する。そこは、騎士と魔術師が自由に食事をする場所であり、談笑もできる憩いの場であった。もっとも、騎士率の方が高いのは、魔術師達は研究室の近くでしか食事を摂らない。食堂に行く距離でさえ惜しいのだ。 長い机が並ぶ食堂は、今日も騎士達の声で満ちていた。 その中に、黒が二つ混じっていた。 ミラと彼女の同僚魔術師レオンが、長テーブルに並んで座っている。黒いローブに細身の長身、茶髪の青年だ。レオンはトレーに料理を並べているのに対し、ミラは右手に一口も齧られていないサンドイッチ、左手に書類。ミラの目線は書類に注がれていた。 「あれ、黒髪の魔術師じゃないか」 「珍しいな。食堂に来るなんて」 「……生きてたんだな」 「失礼なこと言うな」 ざわ、と周囲が揺れた。ミラは気付いていない。書類を読んでいるからだ。 レオンは小さく息を吐いた。 「ミラさん。食事中くらい書類を置いてください」 「読み終わったら置きます」 「その“読み終わる”が来ないんですよ。長に人の顔を見て食事をするように、と言われてここにいるんです。書類を置いて下さい。このまま食事を摂らなかったら、夜も食堂で食べさせられますからね」 まるで、幼い子供に言い聞かせるようなレオンの口調に、ミラは不服そうに書類をテーブルに置いた。 レオンはやれやれと肩を竦めて、スープを口に運んだ。 隣では、ミラがサンドイッチを両手で持って、ちまちまと齧りついていた。 小動物のようだ、とレオンは思った。 「付け合わせの芋も食べてくださいね」 返事がなかった。一生懸命、サンドイッチを齧っている。食事がゆっくりなのは、頭の中で魔術式でも考えているのだろう――長年の付き合いだから、分かる。 レオンは溜息をついて、ミラのフォークを取った。芋を一つ刺して、ミラの手元に置いた。 「はい」 「ありがとうございます」 ミラは言われるがまま、芋を口に運んだ。 ゆっくりと、丁寧に噛んでいる。 レオンは自分のカップを置いて、ミラの分のお茶を手渡した。 「はい」 「ありがとうございます」 ミラはお茶を両手で受け取って、一口飲んだ。 それを遠巻きに見ていた騎士達が、ひそひそと囁き合った。 「なんか、介護みたいだな」 「育児では?」 「懐いてるな」
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第1章:前線の魔術師【007】

※ 食事を終えた二人は、連れたって食堂を後にした。 「ミラさん、食事をしたばっかりなんですから速足で歩くのではなく、ゆっくり歩きましょう。消化に悪いです」 「研究の続きが」 「研究は逃げません」 ミラは渋々、歩く速度を緩めた――その時だった。 「ミラ!」 ミラは振り返らなかった。 足を止めず、研究室への道を、そのまま歩き続けようとした。 レオンがミラの肩を掴んだ。「……副団長殿が呼んでいます」 「あ」 ミラはようやく振り返った。 「こんにちは、副団長殿」 「やぁ、ミラ。昼間に会うのは初めてだね」 息を切らしながら前髪を掻き上げる姿は、やけに眩しいなとミラは目を細めた。太陽の光が金髪に反射しているから、だろうか。 ヴィクトルはちらりとレオンを見た。 レオンと目が合った。 レオンは無言で会釈した。 (この人、絶対俺のこと邪魔だと思ってる) レオンはそう思ったが、何も言わなかった。 レオンは毎朝欠かさずミラに話しかけるヴィクトルの努力を知っていた。ミラの背中を追うように、石畳の小径の上を彼も歩いて研究室へ向かっているからだ。 (副団長の忍耐力は、尊敬に値する) レオンはミラから一歩下がった。 二人にしてやろう、という彼なりの気遣いだった。ミラは気付いていないが……。 「そんなに急いで、どうされたんですか?」 「ミラが食堂にいると聞いて、急いで追いかけたんだが、もう既に出て行った後だった」 「そうですか。何か忘れ物でもありましたか?」 ミラは眼鏡に触れた――集中し過ぎて良く忘れるアイテムの一つだ。 「私、何を忘れたんでしょうか」 「いや、何もない……」 「何もないのに追いかけてきたんですか?」 こてん、とミラは首を傾げて見せた。息を切らしてまで追いかけてきたから、それほど重要な何かを忘れたのだと思ったのだが……どうやら違ったようだ。 「レオン、何か忘れ物しましたか?」 肩越しに振り返ると、どうしてか彼は両眉を八の字に下げて悲しそうな表情を浮かべたまま、首を左右に振った。 「レオンも忘れていないみたいです。その忘れ物というものは他の方の物のようです。持ち主が分からないようでしたら、魔法で」 「いや、だれも、何もないんだ」 ヴィクトルがミラを遮った。彼女は「そうですか」と小さく頷いた。 「追いかけた
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第1章:前線の魔術師【008】

※ ※ ※ 朝日が照らす石畳の小径の上を、今日もミラは迷いなく進む。彼女の視線は、研究室に注がれていた。 彼女の前に、太陽の光のような男――ヴィクトルが姿を現した。 ミラは珍しく、足を止めた。 ヴィクトルは今日もまた、女性達が見惚れる笑みをミラに送り、挨拶を告げようとする前に……先に口を開いたのはミラだった。 「おはようございます、ヴィクトル副団長殿」 ヴィクトルは口を押さえた。 (名前を、呼ばれた……?) 初めてでは? 「昨日、レオンからヴィクトル副団長殿のお名前を教えてもらいました」 「今まで知らずにいたことをお詫びします」とミラは頭を下げた。 その勢いで、頭を上げた時には眼鏡はずれ、フードを被ってしまっていた。やはり、ミラは気にしない。 「は、ふっ、うっ、あっ」 「今日もまた、お元気そうですね」 ヴィクトルは口元を抑え、感動のあまり言葉が出ず、小刻みに震えている。しかも涙目だ。彼は、ミラが今まで自分の名前を知らなかったことなんぞ、どうでも良かった。自分の名前を初めて呼んでもらったことの方が重要だった。『ヴィクトル』という名に、初めて意味があるのだと思わされた。 そんな感動に震えているヴィクトルを、ミラは不思議そうに見つめてこてんと首を傾げて見せる。 (この仕草、癖だろうか) 小動物のようで、可愛い過ぎないか。 「あ」と、首を傾げたまま、ミラが声を上げた。 「身分が高い方をお名前で呼ぶのは失礼でしたね。申し訳ございません、マナーに疎いもので」 ヴィクトルの熱が、スーッと下がっていく。 ミラはずれた眼鏡を直し、フードを下ろした。ヴィクトルから笑みが消えたことに気付いてはいない。 「エルンスト副団長殿、おはようございます」 ヴィクトルの右手が、ゆっくりと上がった。 「名前で呼んでくれ。王位継承権は捨てた身だ。今は一騎士として兄に仕えているだけだ」 「そこまで親しくないので名前では呼びません」 間髪入れなかった。 「ということは、副団長殿も私を名前で呼んでいるのはおかしいことになりますよね?親しくないですし」 「いや、名を呼ぶことを許してくれると嬉しいのだが」 ヴィクトルの眉が、情けなく下がった。 「そうですか。許します」 ヴィクトルは少し黙った。 (これで良かったのか) 「ありがとう」 (良かっ
last update最後更新 : 2026-05-27
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第1章:前線の魔術師【009】

「人の言葉を遮るのはいけないと、あれほど注意をしたというのに」レオンが言い終えないうちに、ミラはササっと消えるように――この場を去った。研究室に一直線に早歩きで向かっていた――早い。 ヴィクトルは何も言わなかった。 レオンも何も言わなかった。 石畳の小径の上に取り残された男二人。 レオンが俯いたまま身動ぎしないヴィクトルを、横目で見ながら小さく咳払いをした。「ミラさんの発言は気にしないで下さい」(気にするな、と言われても……俺はあの女が好きなんだ)今まで黙っていても向こうから女が寄って来た。それは意図せず、自分の意志とは関係なく、だ。 だが、ミラは違う。初めて親しくなりたいと思えた相手だ。それなのに、どう接したらいいか分からない。悉く失敗してしまう。「うちのミラさんがすみません……本人はこれっぽっちも悪気はないんです」 「……」――レオンの言葉が気になった。「俺とカフェに行かないでいいので」 「……の」レオンはヴィクトルの声が聞き取れなかった。「はい?」聞き返しても返事がない。 レオンは俯いたままのヴィクトルに一歩近付いた。(ついに、ミラさんに打ちのめされたかな……?)レオンが彼の顔を覗き込んだその時だった。 前髪の隙間から覗く青い瞳が、真っ直ぐにレオンを射抜いた。笑みはなかった。温度もない。「うちの、ミラとは?」低い声だった。「言葉の綾です」戦場にいるかのような鋭い視線にレオンは一歩、二歩と距離を取り両手を肩の高さまで上げた。 冷静に言葉を選び、距離を取るもヴィクトルの右手が剣の鞘に触れるのが視界に入り、背中に嫌な汗が流れた。このまま剣を抜かれてしまったら、こちらも魔術で対抗せねばならない。相手は魔力を持つ騎士であり、副団長という地位ならバリアは簡単に突破されてしまう。これは攻撃魔法を繰り出さなければ怪我じゃすまない――しかし、敷地内での仲間に対する攻撃魔法は、長から厳しく禁止されていた。 どうすべきか考えながらも、頭では詠唱を口ずさむ手筈を整えていたが……ヴィクトルの手が鞘から離れ、力なく落ちたのを見てレオンは口を結んだ。 ヴィクトルは目を伏せたまま肩を落としていた。その姿を見たイアンは、敷地内で殺気立てた彼を責めることは出来なかった。 暫く沈黙が続いた。「……副団長殿」
last update最後更新 : 2026-05-28
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