――数ヶ月前。 ミラ・アッシュフィールドは魔術師だ。 黒髪に黒い瞳。この国では不吉とされる色を全身に纏い、それでも臆することなく研究室から魔術塔に続く石畳の小径を、長いローブを靡かせながら速足で歩いていた。丸眼鏡が鼻の上で僅かにずれているが、本人は気にしていない。いつもそうだ。 その背中を追う影があった。 金色の髪に、青い瞳。この国では王家直系だけが引き継ぐとされる色だ。ヴィクトル・ルーカス・エルンスト――王位継承権を破棄した、騎士団副団長。(あんなに小さいのに、歩くのが早いな) 足が長い俺には造作もないことだが。 (逃がすか) 手を伸ばせば届く距離まで詰めて、息を吸った。 「ミラ!」 呼んだ瞬間、彼女が振り返った。 黒い瞳が、真っ直ぐにヴィクトルを捉えた。 ――ああ、やっぱり。 初めてこの瞳を見たのは、前線だった。 騎士団と魔術師部隊の合同任務。魔物の出没が相次ぐ山間の砦で、ヴィクトルは副団長として指揮を執っていた。魔術師たちは後方支援に回り、騎士団が前線で魔物を食い止める。いつも通りの布陣だった。 ――いつも通りのはずだった。 最初に異変に気付いたのは、左翼だった。 予想より数が多い。斥候の報告より、はるかに大規模な群れが山の陰から溢れ出してきた。騎士達が押され隊列が崩れる。怒号と剣戟の音が混じり合う中で、ヴィクトルは舌打ちをこらえながら指示を飛ばした。 その時だった。 後方に控えていた魔術師の一人が、すっと前に出た。 他の魔術師たちと同じ、黒いローブ。ただ、その動きに迷いがなかった。周囲の喧騒に臆した様子もなく、静かに崩れかけた前線に向かって歩いていく。 ヴィクトルは思わず目で追った。 女だった。 小柄な体躯。黒い髪。そして――丸眼鏡を、外した。 次の瞬間、展開されたバリアの規模に、ヴィクトルは息を呑んだ。 分厚い魔力の壁が、崩れかけた前線を丸ごと覆った。魔物がぶつかる。弾かれる。それでもバリアは揺るがない。 女の表情は、変わらなかった。 顔色一つ変えず、ただ静かに魔力を行使し続けている。恐怖も焦りも、その顔には欠片もなかった。 (なんだ、この女は) ――目が離せない。 ヴィクトルは知らず知らず、前線の指揮を執りながらも視線を引き剥がせなくなっていた。 戦闘が終わった
Mehr lesen