(子どもは授かりものですからって?私たちが跡継ぎ、孫の誕生を楽しみにしているのが分からないのか。なんて無責任なの…!)
私は怒りでわずかに声が震え始めていた。
子どもが産める時期や自然に妊娠しなかった場合のことも考えて不妊治療も考慮するように諭した時だった。隣に座っていた啓介が静かに口を開いた。彼の声は穏やかだったが目つきはひどく鋭かった。
「母さん、今はお互い仕事が好きで大切なんだ。子どもが欲しいと思ったら、その時に俺と佳奈で考えていくよ。」
(何を言っているの、啓介! あなたは高柳家の長男なのよ! 私がどれだけ孫を望んでいるかを知っているはずだわ!)
私の心臓が激しく波打った。息子までこの女に感化されてしまったのか。啓介までが高柳家の未来を軽く見ているというのか。
私は、睨みつけるように今度は佳奈に問いかけた。啓介がどうであれ、女性であれば結婚して子どもが欲しいと思うのは当然のことだろうと信じていたからだ。佳奈が私に同調し啓介を説得してくれることを期待していた。
「でも佳奈さんはそれでいいの?出産や子育てのことを考えるのであれば年齢的に早い方がいいんじゃないかしら?」
しかし、私の期待は残酷なまでに打ち砕かれた。
「ありがとうございます。でも、私も啓介さんと同じ考えなので問題ありま
夏也の言葉の真意は未だに分からないが、俺の心がモヤモヤしていることは確かだった。そんな俺の様子を察したのだろう。佳奈は突然、立ち止まって俺に微笑みかけた。「ね、気分転換しない? このモヤモヤした気分を引きずりたくないの。」「そうだな、何しようか?」俺の返事を待たず、佳奈は俺の腕を引いて一本外れた人通りの少ない路地に入っていく。繁華街の喧騒が遠のき、街灯の光だけが二人を照らしている。佳奈は周囲を気にせず背伸びをして俺にキスをする。そして唇が触れ合った瞬間、佳奈は俺を壁に押し付け、身動きが取れなくなるほど抱きついてきた。「え、佳奈?」「ねえ、啓介。私は啓介しか見ていないし、啓介にしか興味ないの。啓介にだけは誤解されたくないし、分かってほしくて。」佳奈はそう言って、俺をじっと見つめている。その潤んだ瞳は真剣で、俺の心の中のモヤモヤはあっという間に消えていった。「ありがとう。分かってるよ。なんか今、付き合おうって言われた日のことを思い出した。」俺はそう言うと、なんだか無性に懐かしい気持ちになった。あの夜、バーで酔っ払った佳奈に、店の入り口で不意打ちでキスをされた。飲んだばかりのジント
佳奈side「今日はありがとうございました。また是非。仕事でもよろしくお願いします。」店の入り口で別れの挨拶をする夏也は、相変わらず満面の笑みを浮かべていた。だが、私の隣に立つ啓介は、苛立ちを抑えきれないような少しばかり浮かない顔をしている。私が釘を刺したことで啓介がトイレから戻ってきてからは昔の話題を引っ張ることはしてこなかったが、それでも啓介の口数は減っていた。夏也の挑発は確実に啓介の心を揺さぶっていた。「啓介、行こう。」私は、今日のこの食事の苛立ちを隠すことなく啓介の腕をギュッと掴んだ。「あと、さっき言いそびれたけど、私、今とっても幸せだから。おやすみ!!」私は、誰よりも啓介に、私の気持ちが啓介に向いていることを伝えたかった。夏也の表情は見ずに、背を向けて腕を握ったまま早足で歩き始めた。街の喧騒から離れ、二人の足音だけが響く帰り道。私は、今日一日の出来事にもう一度怒りがこみ上げてきた。「あーもう、何だったの。なんかごめんね。嫌だったよね。」
佳奈side啓介がトイレで席を立った瞬間、私は今まで抑え込んでいた怒りを爆発させた。グラスを握る手に力を込めて夏也を睨みつける。「ねえ、さっきからどういうつもり?」夏也は、私のただならぬ雰囲気を察したのだろう。悪戯っぽく笑いながら、とぼけたように問い返してきた。「ん?何のこと?」「とぼけないでよ。さっきからわざと付き合っていた頃の話や、啓介に分からない話ばかりするじゃない!そんなことするために食事に誘ったなら、もう来ないし、啓介にも相手にしなくていいって言うからね!」私の真剣な眼差しに、夏也はニヤニヤしていた顔を少し引き締め、困ったように笑った。「おい、そんな怒るなよ。冗談だって。」「冗談じゃない!仕事はちゃんと依頼する気あるんでしょうね。ただの口実だったら、実家も出禁にするからね!」「おーこわっ。」夏也は、私の言葉に少し驚いたように、しかしすぐにいつもの陽気な表情に戻った。そして、ビールのグラスを一口傾けると真剣な眼差しで私を見つめた。「大丈夫、これでも仕事は仕事と割り切っているか
啓介side食事が中盤に差し掛かった頃、佳奈が「ちょっとトイレに行ってくるね」と申し訳なさそうに席を立った。彼女の姿が見えなくなった途端、夏也は普段の陽気な表情とは全く違う、真剣な顔で俺を見てきた。その瞳の奥には笑みの欠片もなかった。「高柳さん、さっきからすみません。高柳さんがどんな対応をするかと思って、少し意地悪して、あえて昔の話ばかりしていました。」俺からすれば、到底「少しばかりの意地悪」には感じられなかった。俺の目の前で、佳奈との絆の深さを誇示して、威嚇しているようだった。「何故、そんなことを? それに、どうして俺にそのことを言うんですか?」俺は平静を装い、夏也の真意を探った。「俺は昔、佳奈を悲しませました。そのことをずっと反省していて……。佳奈には、絶対に幸せになってほしいんです。だから、もし佳奈が選んだ相手が、悲しませるような可能性がある人だったら……俺は、その人から佳奈を全力で奪い取ります。」夏也の瞳は真剣で冗談には思えなかった。佳奈を失った過去への後悔が入り混じった複雑な感情の表れだった。「……。木下さんには、今、私がどのように見えているんですか。これは警告ですか? それとも宣戦布告ですか?」俺は、動揺を隠しながら問いただした。すると夏也は、真剣な
「あー今日はお時間を作って頂きありがとうございます。また会えて嬉しいです」遠くから、夏也で手を大きく振りこちらに近づいてきた。『佳奈も含めて食事がしたい』夏也から来たメールを無視するわけにもいかず、社交辞令で「都合がつけば行きましょう」と返信した。しかし、夏也は具体的な候補をいくつも送ってきて会うしかない状況に追い込まれた。佳奈に話すと、驚くことなくむしろ呆れたように笑って返した。「あー、夏也は社交辞令とか知らない人だからね。誘ったら何が何でも時間を見つけて会おうとするタイプ。」(マジかよ……。)俺も社交辞令は好きではないが、今回ばかりは流れてくれるのを期待していた。だが、佳奈の言葉通り、時間が合わないようなら前泊するなど調整する姿勢を崩さなかった。こうして二週間後、別の取引先との商談を終えた夏也と、佳奈も交えて食事に行くことになった。佳奈と、佳奈の元カレで俺の会社の取引先社長の夏也という奇妙な関係の三人での食事は、どんな展開になるのか全く予想がつかなかった。夏也の希望で都内のクラフトビールの多い飲み屋に入った。店の喧騒が、この奇妙な三人の空気を少しだけ紛らわせてくれる。グラスを合わせると夏也はまるで昔からの親友と再会したかのように満面の笑みで言った。
佳奈side実家を訪問して、もしかしたら会うかもと思っていた夏也と顔を合わせた。私と別れた後も、海外に行っている時も日本に戻ってきてからも夏也は私の家族と親交を深めている。家族はみんな、私と夏也が付き合っていたことも、もちろん別れたことも知っている。それでも、小学生の小さい頃から知っている幼馴染として、私がいない今でも顔を出してくれる夏也を、内心、喜んでいた。「子どもが大きくなると、家に友達が遊びに来ることがなくなるじゃない。まして、佳奈は一緒に暮らしていないから、佳奈の仲良かった友達の顔を見ることがないのよね。だから、たまに『元気にしているのかな?』って思うの。夏也君が顔出してくれると、昔を思い出して楽しいのよ」以前、帰省した時に母がぽつりと言っていたことを思い出す。母にとって夏也は、単なる娘の元カレではなく、幼少期から成長を見てきた可愛い息子のような存在でもあるのだ。母や三奈は啓介の前では気を遣って言わなかったが、頻繁に実家を訪れる夏也を見て、「夏也君、まだ気があるんじゃない?」と何度もからかわれていた。そのたびに私は「もう、そんなことないってば!」と笑って否定していた。私たちの恋は、学生時代にとっくに終わっている。少なくとも、私はそう思っている。私たちはあの日、お互いの未来のために「幼馴染」に戻ったのだ。そこに後悔も未練もないはずだ。そんな夏也が、啓介の会社に仕事