LOGINそれから数日後。
美月は赤ちゃんを寝かしつけ、ようやく一息ついたところでスマートフォンを手に取った。
蒼真からメッセージが届いている。
『今度の日曜日、お時間はありますか』
「日曜日……」
予定を確認する。
仕事はない。
母も家にいると言っていた。
『午後なら大丈夫です』
返信すると、少しして次のメッセージが届いた。
『では、出かけませんか』
美月は画面を見つめた。
どこへ、とは書いていない。
『どこにですか?』
『水族館はいかがでしょう』
「水族館?」
思ってもいなかった場所だった。
『九条さん、水族館好きなんですか?』
『嫌いではありません』
「どっちなんだろ」
思わず笑う。
けれど、楽しそうだと思った。
『行きたいです』
水族館へ行った翌朝。 美月は赤ちゃんにミルクを飲ませながら、昨日撮った写真を見返していた。 大きな水槽。 色鮮やかな魚。 クラゲ。 ペンギン。 最後に、蒼真と二人で撮った写真が出てくる。「……ちゃんと笑ってる」 二枚目の写真では、蒼真もわずかに笑っていた。 美月自身も楽しそうな顔をしている。 こんなふうに誰かと出かけたのは、いつ以来だろう。 拓也との結婚生活が悪くなる前には、休日に出かけることもあった。 けれど昨日は、それとはまったく違う時間だった。 何時までいるのか。 次はどこへ行くのか。 疲れていないか。 何かを決めるたび、美月の意見を聞いてくれる。 嫌なら断っていい。 疲れたら休んでいい。 そんなことを意識しなくてもできる相手と出かけるのは、思っていた以上に楽だった。「また行きたいね」 腕の中の赤ちゃんへ話しかける。 もちろん、赤ちゃんから返事はない。 美月は笑ってスマートフォンを閉じた。 ◇ カフェへ出勤すると、店長が待ち構えていた。「美月ちゃん!」「なんですか、いきなり」「水族館どうだった?」「楽しかったですよ」「それだけ?」「それだけって?」「何かないの?」「魚見ました」「水族館だからね!」「ペンギンも」「そうじゃない!」 店長が大げさに肩を落とす。「何を期待してるんですか」「別にぃ?」「絶対何か期待してましたよね」 美月は呆れながらエプロンをつけた。「そうだ。写真見ます?」「見る!」 店長が勢いよく近づいてくる。「近いです」「早く!」 美月は昨日撮った写真を順番に見せた。「これが大きい水槽で、こっちがクラゲで――」「魚はいいのよ」「水族館の写真なのに?」「九条さんは?」「最後にあります」 何も考えず、二人で撮った写真を表示した。 店長が黙る。「……何ですか?」「美月ちゃん」「はい」「これ、送ってもらった?」「誰に?」「九条さんによ!」「私のスマホで撮ったんですけど」「じゃなくて、九条さんにも送った?」「送ってないです」「送りなさいよ!」「なんで怒るんですか」「一緒に撮った写真なんだから、欲しいかもしれないでしょう!」 言われてみればそうだった。「じゃあ、送っておきます」「今!」「仕事中です!」
それから数日後。 美月は赤ちゃんを寝かしつけ、ようやく一息ついたところでスマートフォンを手に取った。 蒼真からメッセージが届いている。『今度の日曜日、お時間はありますか』「日曜日……」 予定を確認する。 仕事はない。 母も家にいると言っていた。『午後なら大丈夫です』 返信すると、少しして次のメッセージが届いた。『では、出かけませんか』 美月は画面を見つめた。 どこへ、とは書いていない。『どこにですか?』『水族館はいかがでしょう』「水族館?」 思ってもいなかった場所だった。『九条さん、水族館好きなんですか?』『嫌いではありません』「どっちなんだろ」 思わず笑う。 けれど、楽しそうだと思った。『行きたいです』 送信すると、すぐに返事が届いた。『では、日曜日に』 ◇「水族館?」 翌日。 休憩中に何気なく話すと、店長が食いついた。「はい」「九条さんと?」「そうですけど」「へえー」「なんですか、その顔」「別に?」「絶対なんか思ってますよね」「思ってないわよぉ」 明らかに嘘だった。「この前、また誘ってくださいって私が言ったからですよ」「うんうん」「だから誘ってくれただけです」「そうねえ」「……なんか言いたいなら言ってください」「美月ちゃん」 店長は急に真面目な顔をした。「楽しんできなさい」「え?」「せっかくのお休みなんだから。赤ちゃんのことも仕事のことも、たまには誰かに
離婚が成立してから数日が経った。 何かが劇的に変わったわけではない。 朝になれば赤ちゃんが泣く。 ミルクを飲ませ、おむつを替える。 仕事の日には母に預け、カフェへ向かう。 これまでと同じ生活だった。 それでも時々、美月は思い出す。 もう離婚したのだ。 拓也の妻ではない。 その事実を思い出すたび、胸の奥が少し軽くなった。 ◇「美月ちゃん、おめでとう……って言っていいのかしら、こういう時」 離婚したことを報告すると、店長は困ったように首を傾げた。「私も分かりません」「じゃあ、お疲れさま!」「それならしっくりきます」「でしょ?」 店長が両手を広げる。「ほんっとーに、お疲れさま!」「ありがとうございます」「長かったわねえ」「はい」 美月は笑った。 拓也が初めて店へ来た日のことを思い出す。 あの頃は、こんな日が来るとは思っていなかった。「これからは美月ちゃんと赤ちゃんで、のんびりやりなさい」「仕事もしますよ」「そういう意味じゃないわよ。すぐ頑張りすぎるんだから」「分かってます」「本当に?」「たぶん」「信用ならない!」 いつもの調子で怒られ、美月は笑った。 ◇ 仕事を終える頃、スマートフォンを確認する。 蒼真とのやり取りが残っていた。『今度、お礼させてください』 自分からそう送った。 けれど、具体的な約束はまだしていない。 何をすればお礼になるのだろう。 食事をご馳走する? 何か贈る?「……九条さん、何でも持ってそうだしなあ」「誰が何でも持ってるって?」「わっ!」 背後から店長に声をかけられ、美月は慌ててスマートフォンを伏せた。「何でもないです」「あらぁ?」「その顔やめてください」「私、何にも言ってないけど?」「絶対なんか考えてます」「九条さんねえ」「ほら!」 店長は楽しそうに笑った。「お世話になったから、お礼しようと思ってるだけです」「へえ」「本当にそれだけです」「はいはい」「信じてないでしょう」「信じてるわよぉ」 まったく信じていない顔だった。 ◇ 帰宅してから、美月は蒼真へメッセージを送った。『この前のお礼の話なんですけど、何か食べたいものありますか?』 少しして返信が届く。『朝倉さんが食べたいもので構いません』「
それから、離婚に向けた話し合いは思っていたより早く進んだ。 慰謝料については双方の代理人を通じて金額を調整し、財産関係についても必要な資料を確認した。 細かな部分では何度かやり取りがあったものの、拓也が再び離婚そのものを拒むことはなかった。 そして、双方が条件について合意した。 ◇ 和解の日。 美月は藤崎とともに裁判所へ向かった。「今日で終わるんですよね」『予定どおり和解が成立すれば、そうなります』「……なんか、変な感じです」 ずっと望んでいた。 拓也と離婚したい。 そのために逃げて、弁護士へ相談して、何度も話し合いを重ねてきた。 なのに、いざ今日で終わると思うと、まだ実感が湧かなかった。『緊張していますか?』「少し。でも、嫌な緊張じゃないです」 美月は小さく息を吐いた。「今日が終わったら、本当に終わるんだなって」 ◇ 拓也も、弁護士とともに来ていた。 以前のように美月へ話しかけようとはしなかった。 少し離れた場所に座り、時折こちらを見るだけだった。 やがて、手続きが始まる。 これまで代理人同士で調整してきた内容が、一つずつ確認された。 離婚すること。 慰謝料について。 財産関係について。 その他、双方が合意した事項について。 難しい言葉もあった。 けれど美月が一番聞いていたのは、最初の一つだった。 離婚する。 それだけだった。 確認を求められ、美月は答える。「はい」 声は震えなかった。 ◇ 拓也の番になった。 ほんの少し、沈黙があった。 美月は拓也を見なかった。 ここで何を言われても、自分の答
日曜日の食事から数日が経っても、美月は時々その日のことを思い出していた。 何か特別なことがあったわけではない。 食事をして、話をして、別れただけ。 それなのに、蒼真の「何度でも」という言葉を思い出すたび、少しだけ嬉しくなる。「……何やってるんだろ、私」 赤ちゃんを抱きながら、小さく笑った。 離婚はまだ成立していない。 そんな時に誰かを好きになることを考えるなんて、以前の美月なら自分を責めていたかもしれない。 けれど今は、蒼真に会いたいと思う気持ちまで否定したくなかった。 ◇ その日、藤崎から連絡があった。『先方から、条件について回答がありました』「どうでした?」『大筋では離婚を前提に協議する姿勢に変わりありません。ただ、慰謝料の金額など、いくつか調整を求められています』「そうですか」『こちらで内容を精査します。朝倉さんにも改めてご説明しますが、今のところ協議自体を拒絶するような回答ではありません』「分かりました」 美月は電話を切った。 少し前なら、拓也から何か回答が来るたびに一日中落ち着かなかった。 今は違う。 藤崎に任せるところは任せ、自分は自分の生活を続ければいい。 ◇ カフェでは、四時間勤務を試すことになった。「絶対に無理しない!」 出勤早々、店長から念を押される。「分かってますって」「三時間できたから四時間も余裕、とか思ってるでしょ」「ちょっとだけ」「ほら!」 笑いながら仕事を始めた。 昼を過ぎる頃には店内が混み始めた。 久しぶりの忙しさだったが、身体は思ったより動く。「美月ちゃん、二番お願い!」「はい!」 トレーを持って客席へ向かう。 忙しい。
離婚を前提とした話し合いが始まった。 藤崎から説明を受けながら、美月は資料に目を通していた。「私、そんなにいろいろ求めるつもりはないです」『お気持ちは分かります。ただ、早く離婚したいからという理由だけで、本来整理しておくべきことまで曖昧にする必要はありません』「はい」『財産関係については、双方の資料を確認したうえで整理します。不貞に関する慰謝料についても、こちらの請求内容を改めて提示します』 美月は頷いた。 以前なら、お金の話をすること自体に抵抗があった。 拓也から取り上げるような気がしてしまっていたからだ。 けれど藤崎から何度も説明を受け、今は少し考え方が変わっている。 これは仕返しではない。 夫婦だった二人が別々の生活へ進むために、必要なものを整理しているだけだ。「早く終わらせたい気持ちはあります。でも、藤崎先生が必要だと思うことはちゃんとやります」『その方がいいでしょう』「お願いします」 ◇ 一方、拓也も自分の弁護士から説明を受けていた。『相手方から、離婚条件について具体的な提示がありました』「……はい」 拓也は書類を受け取った。 財産関係の整理。 慰謝料。 離婚成立後の手続き。 紙の上には、これまで避け続けてきた「離婚」が、当然の前提として並んでいる。「慰謝料、やっぱり払うんですね」『不貞の事実がありますので、相手方から請求されています。金額については協議の余地があります』「分かりました」 拓也は以前のように反発しなかった。 払いたいわけではない。 けれど、浮気したのは自分だ。 そこまで否定する気力はもうなかった。「これに全部合意したら、離婚するんですよね」『条件について合意し、必要な手続きを行えばそうなります』







