LOGIN夜になっても、拓也は店を出なかった。
窓の向こうにある九条グループ本社を何度も確認する。
蒼真が出てきたら話す。
それだけだ。
だが、閉店時間が近付いても蒼真は姿を見せなかった。
「……裏から出たのか?」
拓也はスマートフォンを確認する。
もう待っていても仕方がない。
今日は帰ろう。
席を立ち、店を出たところで。
「朝倉拓也さんですか?」
突然名前を呼ばれた。
振り向くと、二人の警察官が立っていた。
「……はい」
「少しお話を伺ってもよろしいですか」
拓也の顔が強張る。
「俺、何もしてませんけど」
「本日、こちらの会社を訪ねられましたね」
「行きましたけど」
「その後、長時間この付近にいらしたと伺っています」
「向こうの店にい
夜になっても、拓也は店を出なかった。 窓の向こうにある九条グループ本社を何度も確認する。 蒼真が出てきたら話す。 それだけだ。 だが、閉店時間が近付いても蒼真は姿を見せなかった。「……裏から出たのか?」 拓也はスマートフォンを確認する。 もう待っていても仕方がない。 今日は帰ろう。 席を立ち、店を出たところで。「朝倉拓也さんですか?」 突然名前を呼ばれた。 振り向くと、二人の警察官が立っていた。「……はい」「少しお話を伺ってもよろしいですか」 拓也の顔が強張る。「俺、何もしてませんけど」「本日、こちらの会社を訪ねられましたね」「行きましたけど」「その後、長時間この付近にいらしたと伺っています」「向こうの店にいただけですよ」「九条さんを待っていたんですか?」 拓也は一瞬黙った。「……話したかっただけです」「どういったお話ですか」「夫婦のことです」「九条さんとですか?」「九条さんが妻に関わってるからですよ」 拓也は苛立ちながら答えた。「妻には連絡してません。家にも行ってません。病院にも行ってないです。言われたことは守ってますよ」 警察官は落ち着いたまま聞いている。「以前、奥様が怖がっていることはお伝えしましたね」「だから美月には近付いてないでしょう?」「奥様と関係のある方へ接触を繰り返すことも、奥様に不安を与える可能性があります」「繰り返してないですよ。今日初めて来ただけです」「電話もされていますね」「一回だけです」 拓也はすぐに言い返す。「それに会社は公開されてる場所でしょう? 向
次の休日。 拓也は朝から九条グループ本社の近くにいた。 大きなビルを見上げる。「ここか……」 美月の住んでいる場所には行っていない。 病院にも行っていない。 九条の会社へ来ただけだ。 ここは住所も公開されている。 誰でも来られる場所だ。「話すだけだから」 拓也は自分に言い聞かせ、ビルへ入った。 受付へ向かう。「すみません」「はい」「九条蒼真さんに会いたいんですけど」「お約束はございますか?」「ないです」「恐れ入りますが、お約束のない方のお取り次ぎは――」「朝倉拓也って言えば分かります」 受付の女性の表情がわずかに変わった。「少々お待ちください」 どこかへ連絡を入れる。 拓也は期待した。 電話では駄目でも、直接来た。 これなら九条も逃げられない。 だが。「お待たせいたしました」 受付の女性は変わらない口調で告げた。「九条へのお取り次ぎはいたしかねます」「いや、俺が来てるって伝えました?」「申し訳ございません」「五分でいいんです」「お約束のない面会はお受けしておりません」「妻のことなんですよ」 拓也の声が大きくなる。「九条さんが俺の妻を――」「朝倉様」 別の男性社員が近付いてきた。「こちらでお話を伺います」「九条さんは?」「代表との面会はできません」「じゃあ、呼んでくださいよ」「できかねます」 淡々と返される。 拓也は苛立った。「俺、別に変なことしに来たんじゃないですよ。話がしたいだけです」「ご用件は先日の代表電
翌朝。 拓也は通勤電車の中で、蒼真の名前を検索していた。『九条蒼真』 もう何度見たか分からない。 九条グループの代表取締役。 経済誌の記事。 イベントに登壇した時の写真。「……こいつがいるからだろ」 拓也は画面を見つめた。 美月が家を出た時、九条が助けた。 病院にも連れていく。 調停の日にも迎えに来る。 住む場所まで用意しているのかもしれない。 だから美月は、自分がいなくても困らない。「甘やかしてるだけじゃん」 自分が仕事を始めても戻らない理由。 家を整えても戻らない理由。 全部そこへ繋がった。 九条がいなければ、美月は自分と向き合うしかない。 そうすれば、きっと話ができる。「……」 拓也は検索結果を眺める。 会社の公式サイト。 本社所在地。 問い合わせ先。 そこまで見て、指を止めた。 美月には連絡するなと言われている。 住んでいる場所にも行くなと言われた。 けれど。「九条に話すなとは言われてないよな」 拓也の表情が少し明るくなる。 九条と話せばいい。 美月から離れてくれと。 夫婦の問題に入ってこないでくれと。 それだけなら、おかしくない。 昼休み。 拓也は会社の外へ出た。 スマートフォンを手に、九条グループの問い合わせ先を確認する。 少し迷ったあと、電話を掛けた。『はい、九条グループ代表でございます』「あの、九条蒼真さんに繋いでもらえますか?」『恐れ入ります。お名前とご用件を伺ってもよろしいでしょうか』「朝倉拓也です」 拓也は堂々と答えた。「妻のことで話があります」『奥様のことでございますか?』「美月です。朝倉美月」 受付の声がわずかに間を置く。『恐れ入りますが、九条への個人的なお取り次ぎはいたしかねます』「個人的っていうか、大事な話なんです」『ご用件をお伺いできますでしょうか』「本人と話したいんです」『申し訳ございません』「俺、美月の夫なんですよ」 声が少し大きくなる。 近くを歩いていた人が振り返り、拓也は声を落とした。「九条さんが妻の面倒を見てるみたいなんで。そのことで話がしたいだけです」『お取り次ぎはできかねます』「じゃあ、伝言してください」 拓也は少し考える。「夫婦の問題なので、もう美月に関わらないでほしいって」『……』「あと、美
四回目の調停の日。 美月は藤崎とともに、家庭裁判所の待合室にいた。 以前ほど緊張はしていない。 拓也とは顔を合わせない。 何を言われても、自分の答えは決まっている。「朝倉さん、どうぞ」 呼ばれ、美月は調停室へ入った。 調停委員から、これまでと同じように意思を確認される。「離婚を希望するというお気持ちに変わりはありませんか?」「はい。ありません」「分かりました」 短いやり取りだった。 やがて美月は待合室へ戻り、今度は拓也が呼ばれた。「よろしくお願いします」 拓也は丁寧に頭を下げた。 以前とは違う。 今日は、自信があった。「ご主人は、現在も夫婦関係の修復を希望されているということでよろしいですか?」「はい」「奥様の離婚の意思には、現在も変わりがありません」「でも、俺も変わりました」 拓也はすぐに言った。「仕事も決まりました。もう働いてます」「そうですか」「赤ちゃんを迎える準備もしてます。ベッドも買いました」 調停委員は話を遮らず聞いている。「美月が使ってたものも、ちゃんと揃え直しました。帰ってきても困らないようにしてます」「ご主人としては、今後生活を立て直し、再び同居したいというお考えなのですね」「はい」「分かりました。そのご意向として伺います」 拓也は少し身を乗り出した。「これ、美月にも伝えてもらえますよね?」「ご主人のお考えはお伝えします」「仕事始めたことも?」「はい」 拓也はほっとした。 これなら美月も考え直す。 そう思った。 再び、美月の番になった。「ご主人からは、現在仕事を始め、生活を立て直していること、またお子さんを迎える準備をしていることなどから、夫婦関係を修復したいというお話がありました」「……はい」「それを踏まえても、離婚を希望するお気持ちに変わりはありませんか?」「ありません」 美月は迷わなかった。「仕事を始めたことと、私が戻るかどうかは別です」「分かりました」「赤ちゃんのものも、私は用意してほしいと頼んでいません」 調停委員は頷き、記録する。「では、離婚のご意向に変更はないということですね」「はい」 それだけだった。 拓也が仕事を始めた。 以前なら、その一言で揺れたかもしれない。 頑張っているのだから。 もう一度くらい。 そんなふうに、
久しぶりの出勤の日。 美月は鏡の前で、エプロン姿の自分を見ていた。「……よし」 働くのは、ほんの二時間だけ。 それでも少し緊張する。 以前は毎日のように着ていた服なのに、ずいぶん久しぶりに感じた。 カフェの前まで蒼真に送ってもらう。「終わる頃に迎えに来ます」「ありがとうございます」「無理はしないでください」「はい」 美月は車を降りた。 ドアを開けると、店長がすぐに気付く。「あら~! 来たわね!」「今日からまたお願いします」 美月が頭を下げる。「こちらこそよ~。でも二時間だからね? 張り切って勝手に残業とか絶対ダメ!」「しませんよ」「美月ちゃんは信用ならないのよ~。頑張りすぎるから」 店長に笑われ、美月も笑った。 最初は、簡単な仕事だけだった。 テーブルを整える。 注文を取る。 料理を運ぶ。 混み始める前の時間なので、慌ただしさもない。「いらっしゃいませ」 自然に声が出た。 客が帰ったテーブルを片付けながら、美月は店内を見回す。 知っている景色だった。 ここでずっと働いていた。 拓也の妻になる前からではない。 それでも、自分が自分として過ごしてきた場所だ。「美月ちゃん」「はい?」「座って」「まだ大丈夫です」「ダーメ。休憩!」 店長に強制的に椅子へ座らされる。「まだ一時間も経ってませんよ?」「だから何よ。今日は復帰初日なの」 水を渡され、美月は苦笑した。「ありがとうございます」「どう? しんどくない?」「大丈夫です」 美月は店内を眺める。
カフェへ顔を出してから、美月の気持ちは少し軽くなっていた。 拓也のことが解決したわけではない。 離婚調停も続いている。 それでも、部屋の中で不安ばかり考えているより、知っている人と話した方がずっといい。 数日後。 美月は店長へ電話を掛けた。「もしもし、店長?」『美月ちゃ~ん。どうしたの?』「あの……少しだけ、お店に戻れないかなと思って」『戻るって、お仕事?』「はい。でも、前みたいには無理なので、短い時間だけ」 電話の向こうで店長が少し黙る。『先生には聞いた?』「次の健診で相談しようと思ってます」『じゃあ、まずそれからよ~。アタシが勝手に働かせて何かあったら嫌だもの』「はい」『でも、戻りたいって思ってくれたのは嬉しいわ』 美月は笑った。「私も、また働きたいです」『じゃあ焦らないこと! お店は逃げないんだから』「分かりました」 通話を終える。 自分の予定が一つ増えた。 たったそれだけなのに嬉しかった。 次の健診の日。 美月は医師に体調を伝え、仕事について相談した。「体調を見ながら、無理のない範囲でなら構いませんよ」「本当ですか?」「ただし、長時間立ちっぱなしにならないこと。具合が悪ければすぐ休んでください」「はい」 美月は何度も頷いた。 診察を終え、待合室へ戻る。 受付の近くを通ったところで、以前対応してくれた職員と目が合った。「朝倉さん」「はい」「先日以降、ご主人がこちらへ来られたことはありません」「あ……ありがとうございます」 美月はほっと







