LOGIN蒼真が自分の部屋へ戻ったあと、美月は内側の扉を閉めた。 鍵に手をかけて、少し迷う。 これまでは当然のように施錠していた。そもそも、この扉は互いの生活空間を分けるためのものだ。 付き合い始めたからといって、それを変える必要はない。「……うん」 いつもどおり鍵をかける。 それなのに、さっきまで蒼真がいたソファを見ると、少しだけ部屋が静かになったように感じた。 ◇ 翌日は仕事だった。「美月ちゃん、これ三番ね」「はい」 ランチタイムが終わるまで忙しく動き、ようやく客足が落ち着いた頃には、蒼真のことを考える余裕などなかった。 休憩に入ってスマートフォンを見る。 蒼真からの連絡はない。「……仕事だもんね」 当たり前だ。 自分だって仕事中だった。 そう思いながら画面を閉じると、店長が向かいから美月を見ていた。「何ですか?」「別に?」「絶対何か言いたい顔してます」「今日は九条さん来ないのかなと思って」「毎日来るわけないじゃないですか」「そうね」 美月はお茶を飲む。 数秒後、自分から口を開いた。「昨日は会いましたけど」「あら」「その反応やめてください」「聞いてないのに教えてくれるんだもの」「……もう言いません」 美月はそっぽを向いた。 ◇ 仕事を終えて帰宅すると、母が帰る支度をしていた。「今日はよく寝てたよ」「ありがとう」「じゃあ、またね」「うん。気をつけて」 母を見送り、赤ちゃんを抱いて部屋へ戻る。 いつもの夜が始まった。 着替えて、赤ちゃんの世話
キスをした翌日。 美月は朝から、妙に内側の扉が気になっていた。 蒼真と美月が暮らすスペースを隔てている、鍵のついた扉。 今までは安全のために分けられた境界だった。 けれど昨日から、その向こうにいる人は自分の恋人でもある。「……変な感じ」 もちろん、付き合ったからといって生活まで急に変わるわけではない。 蒼真が勝手にこちらへ入ってくることもないし、美月も向こうへ行かない。 それなのに意識してしまう。 ◇ 昼過ぎ。 母が帰ったあと、赤ちゃんが眠ったので、美月はソファで一息ついていた。 スマートフォンが震える。『昨日はありがとうございました』 蒼真だった。『こちらこそ』 返してから、美月は少し迷う。『今日はお休みですか?』『午前中だけ仕事でした。今は戻っています』 戻っている。 つまり、扉一枚向こうにいる。 美月は思わずそちらを見た。『そうなんですね』『はい』 そこで会話が止まる。「……いや、近いんだから」 わざわざメッセージをしているのが急におかしくなった。 少し迷ったあと、美月は立ち上がった。 赤ちゃんが眠っていることを確認してから、内側の扉へ向かう。 もちろん赤ちゃんを残して出かけるわけではない。 ただ扉を開けて、向こうに声をかけるだけだ。 鍵を開ける。 扉を少しだけ開いた。「蒼真さん?」 返事はすぐに聞こえた。「はい?」 しばらくすると、蒼真が向こうのリビングからやって来た。「どうしました?」「いや……」 美月はスマートフォンを見せた。「
次の休日、美月は宣言どおり蒼真をラーメン屋へ連れていった。「本当にここでよかったんですか?」「もちろんです」「前回との落差すごくないです?」 ホテルのレストランの次が、駅前の小さなラーメン屋だ。「美月さんが好きな店なのでしょう?」「好きですけど」「でしたら、来てみたかったです」 蒼真は何の抵抗もなく暖簾をくぐった。「どうですか?」「おいしいです」「ほんとに?」「なぜ疑うんですか」「蒼真さん、もっと高級なもの食べ慣れてそうだから」「普段から毎日コース料理を食べているわけではありません」「そっか」「ラーメンも食べます」「なんか安心しました」「何にでしょう」「ちゃんと普通の人なんだなって」 蒼真が少し笑った。「普通ではないと思っていましたか?」「だって御曹司で社長ですよ?」「それは仕事と家の話です」「十分普通じゃないですよ」 二人で笑う。 付き合う前と同じような会話なのに、テーブルの下で膝が触れただけで、美月は少しだけ意識してしまった。 ◇ 店を出ると、蒼真が自然に手を差し出した。 美月は一瞬その手を見てから、笑って重ねる。「今日は聞かないんですね」「前回、次もいいと言っていただいたので」「覚えてたんだ」「もちろんです」「そういうことは絶対忘れないですよね」「忘れたくありませんので」 また、さらりと言う。 以前なら聞き流していたかもしれない言葉に、今はいちいち胸が鳴る。「……蒼真さんって、付き合ってから結構言いますよね」「何をですか?」「そういうの」「そういうの?」「も
日曜日。「行ってきます」「いってらっしゃい」 母に赤ちゃんをお願いして、美月は家を出た。 今日が蒼真と付き合い始めてから初めてのデートだと思うと、朝から落ち着かなかった。 今までだって何度も二人で出かけているのに、服を選ぶだけでいつもの倍近く時間がかかった。 待ち合わせ場所へ着くと、蒼真はすでに待っていた。「おはようございます」「おはようございます、美月さん」「……まだ慣れない」「やめましょうか?」「やめないでください」 即答してから、美月は恥ずかしくなった。 蒼真が小さく笑う。「では、行きましょうか」「はい。ところで、そろそろ行き先教えてくれません?」「もう少しだけ待ってください」 ◇ 連れてこられたのは、ホテルの上階にあるレストランだった。 窓の向こうには街並みが広がっている。「えっ、ここ?」「はい」「待ってください。私、もっと普通のところ想像してたんですけど」「嫌でしたか?」「嫌じゃないですけど……高くないですか?」「今日は私が誘いましたので」「そういう問題かなあ」 席へ案内されながら、美月は周囲を見回した。 派手すぎる店ではないが、明らかに普段自分が入るような場所ではない。「もしかして、九条さん……じゃなかった」 美月は言い直す。「蒼真さんにとっては、これが普通のデートなんですか?」「分かりません」「分からない?」「こういうつもりで女性を誘った経験が、あまりありませんので」「……え?」 美月は蒼真を見る。「そうなんですか?」「意外ですか?」「ちょっと」 御曹司で、会社のトップで、見た目だって悪くない。 女性に困るようには到底見えなかった。「お付き合いした人がいなかったってことですか?」「いないわけではありません。ただ、ずいぶん前です」「へえ……」 聞いておいて、妙に安心した自分に気づく。 美月は慌ててメニューへ視線を落とした。 ◇ 食事が始まれば、緊張はすぐに消えた。「これ、おいしいです」「よかったです」「でも次は私がお店決めますからね」「はい」「もっと安いところになりますよ」「構いません」「ラーメンとかでも?」「好きです」「じゃあ本当にラーメンにしますよ」「楽しみにしています」 本気なのか分からなくて、美月は笑った。
翌朝。 目を覚ました美月は、枕元のスマートフォンを手に取った。 いつものように時間を確認し、通知を見る。 蒼真からメッセージが届いていた。『おはようございます』 たったそれだけ。 今までも何度も届いたことのある言葉なのに、美月は画面を見たまま止まった。「……彼氏から、おはようって来てる」 声に出した途端、恥ずかしくなった。 昨日、蒼真に好きだと伝えた。 蒼真も好きだと言ってくれた。 そして二人は、付き合うことになった。 つまり――。「九条さん、彼氏なんだ……」 改めて考えると、急に現実味が増してくる。 ◇『おはようございます』 いつもなら、それだけ返して終わる。 けれど今日は少し迷った。『昨日はありがとうございました』 違う。 これでは仕事の連絡みたいだ。 消す。『昨日、嬉しかったです』 これも恥ずかしい。 消す。 結局、『おはようございます。今日もお仕事ですか?』 と送った。 数分後、返事が来る。『はい。朝倉さんもですか?』『今日はお休みです』『ゆっくり休んでください』「……普通だ」 美月は思わず笑った。 付き合ったからといって、翌朝から急に何かが変わるわけではないらしい。 それが少し安心するような、物足りないような、不思議な気分だった。 ◇ 昼前、母がやって来た。「今日、仕事休みでしょう?」「うん」「じゃあ買い物行ってくるから、その間見てて」「私の子なんだから、それ普通だからね?」
次に会った時、昨日の話の続きをする。 そう自分から言ったくせに、いざその日が近づくと、美月は落ち着かなかった。 蒼真とは何度も二人で出かけている。 今さら会うだけで緊張するような相手ではなかったはずなのに、今日は朝から何度も鏡を見て、服まで着替え直した。「……これじゃ、本当にデートみたい」 口にした瞬間、さらに恥ずかしくなる。 いや、今日はたぶん、それでいい。 少なくとも美月にとっては、ただ遊びに行くだけの日ではなかった。 ◇ 待ち合わせ場所へ着くと、蒼真は先に来ていた。「お待たせしました」「いえ、私も今来たところです」「それ、前にも聞きました」「今日は本当です」「今日は?」 美月が笑うと、蒼真も少し笑った。 それだけで緊張が和らぐ。「今日はどこに行きますか?」「朝倉さんが以前気になっているとおっしゃっていた店を予約しました」「えっ、覚えてたんですか?」「はい」「……ほんと、そういうところですよね」「何がでしょう」「あとで教えます」 今日は言える気がした。 ◇ 食事を終えてから、二人は近くを歩いた。 まだ帰るには早い。 美月は何度も話を切り出そうとして、そのたびに別の話をしてしまった。「今日、どうされました?」 とうとう蒼真に聞かれた。「何がですか?」「何かお話があるのでは?」「……覚えてたんですね」「もちろんです」 昨日の話の続きをしたい。 そう送ったのは自分だ。「ちょっと座りません?」 美月は近くにあったベンチを指した。 ◇







