LOGIN美月はスマートフォンをゆっくりとテーブルへ置いた。
画面は暗くなっているのに、佐々木の言葉だけが頭の中に残っている。
しばらく、誰も口を開かなかった。
部屋にはエアコンの静かな音だけが響いている。
「……終わりました」
ようやく美月が顔を上げる。
「お疲れさまでした」
蒼真は穏やかに言った。
その一言だけで、張りつめていた気持ちが少し和らぐ。
美月は小さく息を吐いた。
「会社の方は、とても丁寧な方でした」
電話でのやり取りを思い返しながら、ゆっくりと言葉をつないでいく。
「退職の手続きで連絡が取れなくて、緊急連絡先だった私に電話をくださったそうです」
蒼真は黙って耳を傾けている。
急かすことも、口を挟むこともなかった。
「それで……」
美月は少しためらった。
「拓也さ
翌朝。 藤崎法律事務所に、拓也からメールが届いた。『美月と一度だけ直接話をさせてください』 それだけではなかった。『離婚についてきちんと話したいです』『裁判になる前に、夫婦二人で話すべきだと思います』『第三者がいる場所でも構いません』『十分でもいいです』 藤崎は内容を確認し、美月へ連絡した。『ご主人から、直接話したいという申し出が来ています』「……嫌です」 美月は即答した。『第三者が同席する形でも構わないとのことですが』「会いたくありません」『分かりました』 藤崎の声は変わらない。『では、そのように回答します』「お願いします」 電話を切ったあと、美月はしばらくスマートフォンを見つめていた。 五回目の調停で、訴訟の話が出た。 拓也もそれを聞いたはずだ。 だから急に焦り始めたのだろう。 けれど。「話すことなんて、もうない……」 離婚したい。 戻らない。 直接会いたくない。 何度も伝えている。 会えば違う答えになると思っているのは、拓也だけだった。 ◇ 昼休み。 拓也のもとへ藤崎から返答が届いた。『奥様は、直接お会いしてお話しすることを希望されていません』「……」 拓也は画面を見つめた。 また同じ答えだった。 だが、今回は引けなかった。『十分だけでも駄目ですか』 送信する。 しばらくして返ってきた。『時間の長短にかかわらず、現時点で奥様は直接の面会を希望されていません』 拓也はすぐに返信した。『藤崎先生も同席してく
五回目の調停の日。 美月はいつものように藤崎と家庭裁判所を訪れていた。 これまでと違っていたのは、調停室で告げられた言葉だった。「これまで双方からお話を伺ってきましたが、現時点では離婚について合意できる見込みが立っていません」 美月は静かに頷いた。 拓也は離婚しない。 美月は離婚する。 何度確認しても、そこだけは変わらなかった。「今後も合意の見込みがない場合には、調停を不成立として終了することも考えられます」「……はい」 覚悟していた言葉だった。 それでも、胸が少しだけ緊張する。「朝倉さんとしては、現在も離婚を希望されているということでよろしいですか?」「はい」 美月は迷わず答えた。「離婚したいです」「分かりました」 調停委員が記録する。「仮に今回の調停で合意に至らなかった場合についても、弁護士の先生とご相談されていますか?」「はい」 美月は藤崎を見る。 藤崎が頷いた。「その場合は、離婚訴訟も含めて今後の手続きを検討する予定です」 口に出されると、急に現実味が増した。 裁判。 そこまでしてでも離婚する。 以前の自分なら、怖くなっていたかもしれない。 けれど。「お願いします」 美月はそう答えた。 ◇ 入れ替わりで、拓也が調停室へ入った。「よろしくお願いします」 いつものように頭を下げる。 仕事にも慣れてきた。 美月の家にも行っていない。 病院にも行っていない。 九条の会社にも、あの日以来行っていない。 自分はちゃんとやっている。「ご主人のお気持ちについて、改めて確認させてください」「はい」「現在も離婚には応じ
拓也は検索結果を何度も読み返していた。『出生届 父親 同意』『子供の名前 父親 反対』『別居中 出生届』 だが、期待していたような答えはなかなか出てこない。「……なんだよ」 父親の許可がなければ名前を決められない。 そんな説明を探していた。 けれど、見つからない。 拓也は役所へ電話を掛けた。『はい、戸籍担当です』「あの、出生届について聞きたいんですけど」『はい』「妻と別居してるんですけど、もうすぐ子供が生まれるんです」『はい』「子供の名前って、夫婦二人の同意が必要ですよね?」 電話の向こうで少し間があった。『出生届には、お子さんのお名前を記載して届け出ていただきます』「それは分かってます。父親が同意してない名前でも受理されるんですか?」『届出人や記載内容など、必要な要件を満たしているかを確認して受理することになります』「じゃあ、俺が知らない名前でも?」『ご夫婦間でどのようにお名前を決められたかを、窓口で確認する手続きではございません』 拓也は黙った。「……妻が一人で出すこともできるんですか?」『出生届の届出人については法律上定められておりますが、ご夫婦が必ず一緒に窓口へ来ていただく必要はございません』「そうですか」 電話を切る。 しばらく、スマートフォンを見つめた。「勝手に決められるじゃん」 納得できなかった。 自分の子供なのに。 名前すら知らないまま、生まれるかもしれない。 けれど。 役所へ怒っても仕方がない。 藤崎に言っても、美月が相談したくないと言えば終わる。「だったら……」 拓也はメモを開いた。
九月に入り、美月の腹は目立つようになっていた。 カフェでの仕事は、今も短時間だけ続けている。「美月ちゃん、今日はここまで~」「まだ二時間ですよ?」「二時間働いたから終わりなの!」 店長にエプロンを取り上げられ、美月は笑った。「分かりました」「次の健診いつ?」「来週です」「じゃあ先生にちゃんと聞いてきなさいよ。そろそろ仕事もいつまでにするか決めなきゃ」「はい」 着替えを済ませ、店を出る。 今日も蒼真の車が待っていた。「お疲れさまでした」「ありがとうございます」 助手席へ乗ると、美月はシートベルトを締める。「店長に、そろそろいつまで働くか決めろって言われました」「そうですか」「できれば、もう少し続けたいんですけど」「先生と相談してください」「はい」 それだけの会話だった。 けれど、美月にはそれが心地よかった。 こうしろとも。 やめろとも。 蒼真は勝手に決めない。 ◇ 次の健診で、美月は仕事について医師に相談した。「今のところ経過に問題はありません。ただ、出産が近づけば体調も変わりやすくなります」「はい」「無理をせず、いつでも休めるようにしておいてください」「分かりました」 診察のあと、入院についても改めて確認する。 拓也から問い合わせがあった場合。 突然来院した場合。 退院する時。 病院側にも、これまでの経緯は共有されていた。「ご主人には、こちらから入院の有無などをお伝えすることはありません」「ありがとうございます」「何か状況が変わった場合は、またお知らせください」「はい」 美月は頭を下げた。
拓也は、昼休みに法律事務所へ電話を掛けた。『はい、神田法律事務所です』「朝倉拓也です。藤崎先生お願いします」 しばらくして、藤崎に繋がる。『お電話代わりました』「あの、子供のことで聞きたいんですけど」『はい』「生まれたら、俺にも会わせてもらえますよね?」 藤崎はすぐには答えなかった。『奥様は現在、出産時の立ち会いや入院中の面会を希望されていません』「入院中じゃなくて、その後です」『出産後のお子さんとの関わりについては、必要に応じて別途協議することになります』「面会交流ってありますよね?」『あります』 拓也の顔が明るくなる。「じゃあ、会えるんですよね?」『面会交流という制度があることと、ご希望どおりの時期や方法で会えることは同じではありません』「でも父親ですよ、俺」『お子さんが生まれた後の状況や、お子さんの利益、安全面なども含めて考えることになります』「美月が嫌だって言ったら、ずっと会えないんですか?」『今の段階で将来の具体的な方法を決めることはできません』 拓也は眉を寄せた。「じゃあ、生まれたら連絡してください」『出産に関する情報を、ご本人の同意なくこちらからお伝えすることはできません』「またそれですか」 声に苛立ちが混じる。「俺の子なのに、生まれたことまで教えてもらえないんですか?」『現時点で、奥様からご主人へ出産の連絡をするというご希望は伺っていません』「でも戸籍見れば分かりますから」『戸籍については、必要であれば役所へご確認ください』 藤崎の声は変わらなかった。 拓也は少し黙る。「……分かりました」 電話を切った。 やっぱり藤崎も、美月の味方だ。 けれど今回は、それほど腹は立
次の健診の日。 美月は診察を終えたあと、病院の職員と改めて話をすることになった。「以前ご相談いただいた件ですが、ご主人からその後こちらへの問い合わせはありません」「はい」「ただ、出産が近づいてきましたので、入院時の対応についても確認しておきましょう」 美月は頷いた。「お願いします」「ご主人には、入院していることも伝えないでほしいということでよろしいですか?」「はい。病院にも来てほしくありません」「分かりました。院内でも共有しておきます」 以前、拓也は実際に病院まで来ている。 その記録も残っていた。「もしご主人が来院された場合も、朝倉さんの許可なく入院の有無や病室をお伝えすることはありません」「ありがとうございます」 そこまで聞いて、美月はようやく息を吐いた。 出産の日まで、拓也のことを考えたくはない。 けれど、何も準備しない方が怖かった。「それから……退院した後なんですけど」「はい」「赤ちゃんと一緒に、今いるところへ戻る予定です」 言葉にしてみると、不思議な感じがした。 あの部屋へ戻る。 拓也の待つ家ではない。 今、自分が暮らしている場所へ。「退院時に心配なことがあれば、その点も事前にご相談ください」「分かりました」 病院を出ると、今日も蒼真が待っていた。「お疲れさまでした」「ありがとうございます」 車に乗り込んでから、美月は今日話したことを簡単に伝えた。「退院の時も、念のため気をつけた方がいいみたいです」「分かりました」「でも、拓也は最近病院には来てないそうです」「そうですか」「警察に言われたことは守ってるみたいで」 美月は窓の外を見る。「このまま何もなければいい