リヴァーテ伯爵家とサルマンデ侯爵家との間では、私とセリード様との婚約の話が進められていた。
まだ正式に決まってはいない訳ではあるが、その一環としてセリード様がこちらの屋敷を訪問することになった。それは端的に言ってしまえば、彼という人間を見極めるためのものだ。お父様はイルルグ様のようなことがないようにするために、セリード様と実際に会って会話を交わすことにしたのだ。
もちろん、そこで人の本質を丸ごと見抜くなんてことはできないだろう。ただそれでもお父様は、あの件を受けてそうするべきだと判断したらしい。ちなみに私の方も、後でサルマンデ侯爵家の屋敷を訪ねることになっている。
私も私で、見極めてもらわなければならないのだ。サルマンデ侯爵家の面々とは顔見知りではあるものの、それでもやはり少々不安ではある。「ふう……」
「セリード様、大丈夫ですか?」 「ああ、大丈夫だ。しかし、疲れるものだな。挨拶というのは……いや、こういったことはあなたにも言うべきではないか」 「いえ、遠慮なさらないでください」訪ねて来たセリード様は、お父様とお母様、それから妹のルナーシャとも挨拶を交わした。
その挨拶を彼はそつなくこなした――そう思っていたが、二人きりになった途端ため息をつき始めた。今回の挨拶によって、かなり疲弊しているようだ。それは当然と言えば当然なのかもしれない。私にとってサルマンデ侯爵家の人々は、友人の家族ということもあってある程度の親しみもある。だが、セリード様にとって妹の友人の家族など関係性が遠い。その不安や緊張は、私が想像している以上のものだったのだろう。
「本当にお疲れ様です、セリード様」
「ありがとう。俺の挨拶はどうだっただろうか。何か無礼があったらと、不安なのだが……」 「とても安心できる挨拶でしたよ?」 「安心か……」 「ああ、別に他意などはありません」セリード様の不安に対して、私はつい元婚約者のことを思い出していた。
イルルグ様の挨拶は、結果的に滅茶苦茶なものであったといえる。正直な所、妹同伴ではない時点で私はかなり安心していたくらいだ。 しかそれは、セリード様に失礼であるだろう。あんなのと比べられるなんて、あり得ないことなのだから。「あなたも色々と苦労した訳だな……」
「苦労……という程ではありません。結果として、婚約破棄されたというだけですからね。その補填はしてもらいましたし、こうしてセリード様と婚約することができそうです」 「……ラナーシャ嬢は強いな。やはりあなたは尊敬に値する人だ。改めてそう思う」 「セリード様……」セリード様の言葉に、私は少し面食らっていた。
別に私は、特別なことをした訳ではない。ただ単に、そうなっているというだけだ。流れに身を任せているというだけともいえる。 それは別に、褒められるようなことではないだろう。だから私は、苦笑いを返すことしかできない。ともあれ結果として、セリード様の挨拶は成功だったといえるだろう。
お父様も表面上はまだ疑っているものの、今回の婚約を好意的に捉えている節がある。これなら特に問題はないかもしれない。「出せー! ここから出せ!」 「私を誰だと思っているのですか! このウルーナを、こんな所に閉じ込めておくなんて、なんという愚かなことをっ!」 牢屋の中から、二人の声が響き渡ってきた。 それに見張りの兵士は、辟易とする。その声は何度も聞こえてきており、いくら注意しても収まらないからだ。「どうしてこんなことに……」 「……元はと言えば、お兄様のせいではありませんか」 「何?」 「お兄様が婚約破棄なんてしなければ、こんなことにはならなかったのです! 何が妹のためですか! 本当に私のことを思っているなら、あんなことをしなければ良かったのに!」 「な、なんだと……僕が婚約破棄したのはお前のだめだぞ? お前が言ったから僕は……くそっ! どうして僕は婚約破棄なんかしたんだ? こんなことになるくらいなら、そんなことは……」 牢屋の中で、二人は言い争いを始めていた。 それに兵士は、ゆっくりと息を吐く。二人に呆れていたのである。「恩着せがましいことを言わないでください! 何が私のためですか!」 「ふざけるな! 全部お前のせいだ! お前の責任だ!」 「……てめぇら! うるさいんだよ!」 兵士が呆れていると、別の牢屋から怒号が飛んだ。 それは、他の囚人の声である。二人の言い争いによって安寧の時を邪魔されて、かなり怒りを覚えているようだ。 そこで兵士は気付いた。二人は貴族だったと聞いている。そういった権力者に対して、囚人達の中には激しい恨みを抱いている者もいる。 そういった者達から、二人はこれから厳しい接し方をされるかもしれない。そう思ったのだ。 ただ彼は、そのことをすぐに気にしないことにした。自分が助ける義理があるという訳でも、ないと思ったからだ。 それから兵士は、いつも通り仕事を続けることにしたのだった。 END
私とセリード様との婚約は、なんとも呆気なく決まることになった。 彼と誓い合った後に意気揚々と戻っていったお父様から、彼に決めたいと言われた時は、予想していたものの拍子抜けたくらいだ。 サルマンデ侯爵家の方も、特に反対意見はなかったらしい。夫人や娘も認めているということもあって、侯爵は予定されていた私の方の訪問も待たずに決定を下したそうだ。 という訳で、私がサルマンデ侯爵家に赴いたのは、婚約が決まってからの挨拶ということになった。顔見知りということもあって、挨拶は終始和やかな雰囲気で終わったと思う。「それで、あれから二人がどうなったのだろうか?」 「ああ、はい。一応は聞いてはいます。どうやら捕まったみたいで……」 「捕まった?」 「どうやら盗みを働いていたらしく……」 挨拶が終わった後、私はセリード様と二人きりで話していた。 そこで話題に出たのは、イルルグ様とウルーナ嬢のことである。あれから二人がどうなったのか、彼も気にしていたらしい。 私――というかリヴァーテ伯爵家はエーヴァン伯爵家と繋がりがある。補償のあれこれのついで、あちらの家が仕入れた二人の顛末なども聞いているのだ。 二人はあれから、どうやら憲兵に拘束されたらしい。リヴァーテ伯爵家の屋敷に来るまでの間に、色々と悪事を働いていたらしい。「盗みか……生きるためには仕方なかったということだろうか」 「そうかもしれません。とはいえ、彼らは別に無一文で放り出された訳でもないそうです。お金をもらっておきながら、それも無駄にしたらしく……」 「……なるほど」 私の言葉に、セリード様はため息をついた。 恐らく、あの二人のどうしようもなさに呆れているのだろう。 ただ彼は、そこで少し表情を変えた。こちらの目を真っ直ぐに見てくるその様に、私は少し背筋を伸ばして体勢を整える。「あの二人のことはなんとも愚かであるとは思うが、俺達もああならないとは限らない。そのことは常に留意しておくべきことだな」 「私達があの二人のようになる、そんなことがあるのでしょうか?」 「聞いた話から考えると、あの二人にはそれぞれに対する愛情があったのだろう。それはきっと正しい形ではなかった。妄信的な愛は危険だ。我々はそのような状態に、陥らないようにするべきだろう」 セリード様は、あんな二人からでも学びを
「セリード様、庇っていただきありがとうございます」 「……ああいや、すまなかったな。ずっとあなたを後ろに控えさせてしまって」 「いえ、心強かったです」 イルルグ様とウルーナ嬢が立ち去ったのを見届けた後、私はセリード様にお礼を言った。 彼は最後まで、二人から私を庇ってくれていた。その背中は頼もしいものだったとしか言いようがない。「あなたもあの二人に言いたいことはあっただろうに……」 「それは全て、セリード様が言ってくださいましたから」 「そうか……何せよ、あなたを守れて良かった」 振り返ったセリード様は、私の肩に手を置いてきた。彼は本当に、安心しきった顔をしている。 きっと彼は、私のことをとても大切にしてくれているのだ。正式な婚約が決まっていないとはいえ、婚約者候補を守りたい。騎士を志望していた彼には、そんな思いがあるのだろう。「ふふっ……」 「……ラナーシャ嬢? どうしたのだ?」 私はそっとセリード様の方に倒れこんだ。それを彼はしっかりとその胸で受け止めてくれる。 それで私は、やっとわかった。心の中のもやもやが、なんだったのかということを。「セリード様、私はあなたに心惹かれています」 「……何?」 「サルマンデ侯爵家の屋敷での一件、それから今回のこと、それでよくわかりました。セリード様はとても頼りになる人だと。私を守ってくれて、幸せにしてくれる人……もう私はあなた以外の婚約者など考えられません」 私はセリード様に、自身の思いを打ち明けた。 それはなんというか、けじめのようなものだった。彼との婚約が決まるにせよ決まらないにせよ、それを抱えておくことは良くないと思ったのである。「……それは俺とて同じことだ」 「セリード様、それは……」 「あなたは尊敬できる人だ。それはずっと昔からそう思っていた。あなたの凛と毅然とした態度は美しい。実際に接していく内に、その気持ちは高まっていた。あなたを守りたいと、俺は今心からそう思っている」 セリード様は、私の体を抱きしめてくれた。 私もそれに応える。どうやら私達の思いは、一緒だったようだ。それがなんだか、とても嬉しかった。「……この婚約は、必ず成立させるとしよう。父上には俺から頼み込んでおく。母上やソティアは味方してくれることだろう。それなら恐らく、問題はないはずだ」 「そ
「……お前達は勝手だな」 「うん?」 「……どなたですか?」 「俺が何者であるかなど、それ程重要なことではない。そんなことよりも重要なのは、お前達のことだ」 セリード様は、イルルグ様とウルーナ嬢に対して少し荒々しい口調で言葉をかけていた。 その口調からは、彼の怒りが伝わってくる。それは私としては、嬉しいことだ。この場において、味方がいてくれることの心強さはやはり大きい。「お前達は恥知らずだ。身から出た錆をラナーシャ嬢に押し付けて、自らの非を省みないその様はなんともみっともないとしか言いようがない」 「な、なんだと?」 「あなた、何様のつもりですか? いきなり口を挟んで意味のわからないことを言って!」 イルルグ様とウルーナ嬢は、セリード様の素性にまったく気付いていないようだった。 身なりを見れば、身分くらいはわかるはずだろう。それなのにどうしてそこまで強気に出られるのかは、正直よくわからない。 いやもしかしたら、二人は既にそういったことを冷静に考えられない状態なのだろうか。よく見てみると目も据わっているような気がするし、既に限界ぎりぎりなのかもしれない。 もっともそれは、私にとっては関係がないことである。散々迷惑をかけられた私は、二人に対して同情する気持ちなんて当然わいてこない。今の二人は、ただの無礼な客でしかない。「俺が何者であるかなど、どうでもいいことだと言っているだろう。問題は、お前達のことだ。これ以上騒ぎ立てるというなら、こちらにも考えがある」 「な、何を……!」 セリード様の言葉に対して、イルルグ様は言い返そうとした。 しかし彼は言葉を紡ぐことはなかった。それはセリード様が手を上げて、憲兵が現れたからだろう。 今の二人は、リヴァーテ伯爵家の屋敷の前で騒ぐ暴徒の類だ。事情を話せば、あるいは話さなくても憲兵は拘束してくれるだろう。「ウルーナ! 逃げるぞ!」 「え、ええ……!」 それを悟ったのか、イルルグ様とウルーナ嬢は一目散に逃げ出した。 流石の彼らも、そのことがわからない程に落ちぶれてはいなかったということだろうか。 しかし、彼らに行くあてなどはないかもしれない。私を頼ってきたくらいであるし、そもそも行ける範囲に限界がある。もしかしたらあのまま、本当に路頭に迷うかもしれない。 とはいえ、結局の所それ
「丁度良い所にいた……ラナーシャ嬢、あなたに話したいことがあるんだ」 「……」 衣服をボロボロにして、髭を生やしたイルルグ様はなんだか年老いて見える。 ただその声色は、以前とそれ程変わっていない。多少掠れているが、それでもそれがイルルグ様のものだとはわかった。「この姿を見てわかる通り、僕もウルーナも色々と苦労している。それが何故だか、あなたにはわかるだろうか?」 「……それはあなた方がエーヴァン伯爵家を追放されたからでしょう?」 「その通りだ。父上は非道にも僕達を追放した。お陰でここに来るまで随分と苦労したんだ。路頭に迷ってしまっているんだ。この僕達が……」 突然やって来て、身の上を話すイルルグ様は、はっきりと言って不快であった。 もう少し立場を弁えることはできないのだろうか。話すにしても、もう少し色々と順序というものがあるはずだ。私はまだ、話に応じると口にしてもいないといのに。 どうやら彼の傲慢で身勝手な部分は、変わっていないらしい。この段階において、まだ自分と私が対等だと思っているなんて、なんとも思い上がったものの考え方だ。「そこで僕達は、あなたに助けてもらいたいと思っている」 「……なんですって?」 「こうして僕達が路頭に迷うことになった原因は、そもそもあなたとの婚約にある。それをどうか自覚してもらいたい。あなたの不出来が、僕達を陥れたのだから」 私は呆れて、ものが言えなくなっていた。 イルルグ様は、自分達の行為を棚に上げている。その上で私に助けてもらおうというのだ。 それはいくらなんでも、勝手すぎるのではないだろうか。私の心の中では、ふつふつと怒りが湧き上がっていた。「私はあなたにチャンスを与えているんです」 「……は?」 「以前あなたは一度失敗しました。しかし今は、やり直すことができる。私達を助けてくれるというなら、私もあなたのことを認めてあげましょう。以前のことは水に流して差し上げます」 イルルグ様に続いて、ウルーナ嬢も身勝手な言葉を投げかけてきた。 その言葉の数々に、私はゆっくりとため息をつく。この二人はどうしようもないくらい、ふざけた者達であるらしい。 そんなことを言われて、私が助けると本当に思っているのだろうか。私はそう思いながら、二人を睨みつけていた。 ただ私はそこで気付いた。私以上に鋭
私は、セリード様を見送るために屋敷の外の門まで来ていた。 挨拶が終わってから、彼はこのリヴァーテ伯爵家の屋敷で一泊した。 昨晩は当然おもてなしが行われた訳だが、それがセリード様にとって楽しいことだったかどうかは微妙な所である。きっと緊張したことだろう。 とはいえ、家族とセリード様の関係性は深まったといえる。両親も妹も、この人ならば大丈夫だと思ってくれたのではなかろうか。「セリード様? どうかされましたか?」 「いや……」 門の前にある馬車から視線を外すセリード様に、私は思わず問いかけていた。 彼はなんというか、遠くを見つめている。それは何か不安などがあるということだろうか。 それなら心配だ。そんな風に私が思っていると、セリード様の体が前に来た。それはまるで、私を庇うかのような動作だ。「セリード様?」 「ラナーシャ嬢、なんだか嫌な気配がする。あなたは下がっておいた方が良さそうだ」 「気配? そんなものがわかるのですか?」 「これでも騎士志望だったからな。そういったものには敏感だ」 「それは頼もしいですね……うん? あれは……」 周囲を警戒するセリード様に対して、少し浮かれて照れていた私はすぐに気を引き締めることになった。 それは門の外側から何者かがこちらに向かっていることに気付いたからだ。セリード様は、一早くそれを悟っていたらしい。 それをまたすごいことだと思いながらも、私は向かってきている二人組の正体に気付いた。あれは恐らく、イルルグ様とウルーナ嬢だ。「あれはイルルグ様とウルーナ嬢です」 「……あれがか?」 「ええ、随分と変わっていますが、そうでしょう。正式にはまだ発表されていませんが、あの二人はエーヴァン公爵家から追放されています」 「なるほど、どうやら厳しい道中を歩んできたと見える」 ボロボロになった二人は、凡そ貴族とは思えない格好だった。 追い出された後に、散々な目に合ったということだろうか。別に同情するつもりはないが、なんとも悲惨なものである。「……やっと着いたか」 「はあ、これでやっと……」 イルルグ様とウルーナ嬢は、門の前まで辿り着いてため息をついた。 それから彼らは、私の方に視線を向けてくる。目を丸めて驚いている所を見ると、流石にここで私を出くわすとは思っていなかったということだろ