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そのひと言で、小百合の心はすっかりほだされた。蒼空の口調は静かだったが、そこには堪えた悔しさが滲んでいた。小百合はそっと手を伸ばし、蒼空の手に重ねて、穏やかに言う。「話してごらん。私が蒼空の味方よ」その言葉は軽く響いたが、重みは山よりも大きい。もし小百合が蒼空の話を信じるなら、それはすなわち瑠々の側に立たないということ。瑠々の側に立たないというのは、瑛司に逆らうということでもある。まして瑛司は、この件はここで終わらせたい、とはっきり言っている。彼の資産も、影響力も、その手腕も、誰もが知っている。そして瑠々に注ぐ愛の深さも、周知の事実だ。小百合の言葉は、瑛司の意向を無視するに等しかった。もし彼が本気で追及してきたなら、小百合も無傷では済まないだろう。それだけに、この「私が蒼空の味方」という言葉は、あまりにも重かった。蒼空の胸の奥が、強く震えた。かすれた声がこぼれる。「庄崎先生......」喉を鳴らして息をのみ、乾いた唇をそっと舐める。少し緊張していた。前の人生でも、彼女は瑠々の盗作を告発したことがある。だがその頃には、瑠々はすでに世界に名を知られるピアニストになっていた。高校も卒業できなかった自分の言葉を信じてくれる人などおらず、まして瑠々を疑ったり、敵に回してくれる人などいるはずもなかった。何度も声を上げ、それでも届かず、やがて諦めた。忘れるようにしてきた。けれど小百合の言葉が、胸の奥に小さな希望を灯した。蒼空は静かに口を開く。「天満菫は私の先生です。私をこの道に導いてくれた、本物の先生。久米川瑠々の別名なんかじゃありません。彼女は生身の人間で、生涯ピアノ一筋で生きてきて、演奏の腕前もすごくて、作る曲も本当に素晴らしかった。でも、どれだけ頑張っても有名になれなかった。名が出なかったから......彼女は追い詰められたんです」小百合の視線がわずかに止まる。蒼空は続ける。「先生は自殺しました。亡くなる前に、自分で作曲したピアノ曲『渇望』を残しました。2021年6月26日に完成させて、私が皆に見せた動画は6月27日に撮ったものです。先生は28日に自ら命を絶ちました」小百合の眉間にしわが寄る。蒼空は言う。「先生の『渇望』と久米川の『恋』、先生ならすぐに
「ただし、この件はここまでにする」蒼空の目がきゅっと細まった。瑛司の言う「この件」とは、彼女が瑠々の盗作を暴いたあの騒動に他ならない。その言葉で、周囲の人間はようやく理解した。瑛司の対応は、すべて瑠々を守るため。他の女との区別をはっきりつけ、先回りして火種を摘み、愛する女が傷つかないよう計算している――まさに理想的な男だと。瑠々の瞳は柔らかくなり、甘く軽やかな声で言った。「瑛司、ありがとう」蒼空は鼻で笑った。「結構です。このステージはシーサイドの主催側が組んだんだから、賠償するのもあっち。松木社長の出る幕じゃありません」そして瑛司に視線を向け、はっきりと言った。「それとこの件について、私は絶対に引き下がりませんから」その声には、揺るぎない確信が宿っていた。瑛司の漆黒の瞳が一瞬で沈み、重く彼女を見据える。その一言で、また場の空気が凍りつく。沈黙を破ったのは、やはり小百合だった。「やめなさい。この件は主催側の責任。これ以上揉めないで。蒼空の足の怪我については、主催が全て対応する。補償もきちんと行うから」主催側を代表する立場の言葉に、誰も異を唱えない。「それから、決勝の順位についてだけど――」選手も観客も、一斉に耳を澄ませた。「蒼空と瑠々の件で、順位はまだ確定していない。今は蒼空の処置が先。今夜、私と他の審査員、それに主催側で最終結果を話し合う。明日の朝に発表するから、今日は待機してちょうだい。この件についても調査して、はっきりさせる。以上。異議がある人は?」誰も何も言わなかった。「救急車来たぞ!」入口から声が上がり、警備員たちが医師と看護師、ストレッチャーを伴って駆け込んでくる。複数の医師と看護師が蒼空を囲み、彼女はできる限り協力して担架に乗せられた。足首は一度も動かしていない。「はい、慎重に。足首は骨折してる、絶対に動かさないで」「気をつけて、ゆっくり」病院。骨を整復する手術が終わると、蒼空は主催側が用意した個室の病室に入院した。足首に打たれた麻酔が切れ始め、痛みがじわじわと浮かび上がってくる。彼女は天井から器具で吊られたギプスの右足首を見つめ、眉をひそめながらその痛みを噛みしめた。小百合がリンゴの皮を剥き、彼女の手に押し込んだ。
瑠々は顔の横にかかる髪を耳にかけ、九死に一生を得たような、楚々とした姿を作りながら、柔らかな声で言った。「本当は蒼空を掴もうとしたの。でも手を放すのが早すぎて、間に合わなかったの」彼女は細い眉を寄せ、瑛司の傍に退き、その腕に自らの手を回し、低い声で続けた。「私のせいね。引っ張って連れて行けなかったから」その言葉に、人々の表情が揺れ、蒼空を見る目も変わった。つまり、蒼空が瑠々に手を差し伸べたのは、ただの芝居だったのか?瑠々は顔を瑛司に向け、瞳に羞じらいと愛情を湛えながら微笑んだ。「瑛司も、駆けつけて私を引っ張ってくれたけれど、蒼空に気づかなかったの」人混みの中で、誰かが鼻で笑った。「ほらな、蒼空は芝居をしていただけだ」蒼空は天井を仰ぎ、唇まで蒼白になりながら淡々と口を開いた。「つまり、私が見せかけのために二度もあなたを必死に掴みに行き、二度も振り払われ、鉄枠に押し潰されて骨折したと?」彼女は自嘲気味に笑った。「そんな代償を払う芝居なんて、馬鹿げてます。それなら最初からその場に立ったまま、久米川さんのファンと一緒に『逃げて』と叫べばよかったんじゃないですか」瑠々とそのファンたちの顔色が同時に強張った。それでも瑠々は強靭な精神力で微笑みを崩さなかった。「これは誤解よ。私は決して......」ファンの一人が苛立たしげに眉をひそめ、低く呟いた。「私たちを皮肉ってるの?」蒼空は目を閉じ、脚の痛みを必死に堪えながら声を安定させた。「監視カメラがなければ、私は何を言っても言い訳にしか聞こえないでしょうね」彼女は続けた。「そうでしょう、久米川さん?監視映像には、私が最初にあなたを掴んだ時、あなたが私の手を振り払った場面が映っているはずです」瑠々は口を開きかけ、困惑と無垢を装った瞳で答えた。「違うの、あの時私は混乱していたから、つい――」小百合の鋭い視線が、蒼空と瑠々の間を何度も往復した。四十を過ぎた彼女にとって、長年の経験で異常を見抜けないはずがなかった。小百合の声は厳しかった。「もういい。ここに群がらないで。病人に十分な空間を与えなさい」その言葉に人々は少しずつ外側へ退いた。蒼空は痛みに目を閉じ、脚の苦しみは時間と共に増すばかりだった。動くこともできず、ただ脚
会場に響き渡る悲鳴は次第に大きくなっていったが、蒼空の耳には遠くかすれて届くだけで、まるで厚い結界を隔てた向こう側の出来事のように曖昧だった。彼女の視線の先では、瑠々が瑛司の腰に両腕を強く回し、顔を彼の胸に深く埋めている。瑛司は彼女の肩と腰をしっかり抱き締め、そのまま体を翻して転がり落ち、鉄枠が直撃する範囲から完全に抜け出した。すべてがスローモーションのように遅くなり、蒼空には自分の荒い息遣いと激しい鼓動が鮮明に聞こえた。あまりにも曖昧で、心の奥に走った痛みすらはっきりと感じ取れなかった。頭を上げてはいないのに、落ちてくる鉄枠の気配が分かる。その瞬間、全身に警鐘が鳴り響き、歯を食いしばって、彼女は瑛司と瑠々とは逆の方向へ身を投げた。閃光のような一瞬、蒼空の脳裏に蘇ったのは――瑠々が見せたあの笑み。わざとらしい後退。舞台の端に何度も足を取られ、落ちそうになりながらも踏みとどまった姿。そして二度も彼女の手を振り払った動作。......瑠々は、わざとだった。鉄枠が落ちる刹那、会場を震わせる轟音が炸裂した。ドンッ!観客席から幾重もの悲鳴が押し寄せてくる。蒼空の顔は瞬く間に血の気を失い、足首を襲った鋭い痛みが全身を突き抜け、力が抜けて地面に崩れ落ちた。歯を食いしばり、額に滲む冷や汗。「っ......!」息を何度も呑み込み、どうにか上体を起こして自分の足首を見下ろす。予想通り、逃げ切れなかった鉄枠が直撃していた。足首は不自然に曲がり、紫色に腫れ上がっている。骨折は明らかで、身動きなど取れるはずもない。彼女は必死に脚にある布を握り締め、呼吸を整えて痛みをやり過ごそうとするしかなかった。だが鉄枠の重みは消えず、痛みは容赦なく押し寄せてくる。視線の先、鉄枠の反対側では、瑛司が慎重に瑠々を起こし、肩を抱いて支えていた。あの鋭い眼差しに、薄い柔らかさと焦燥が混じり、何度も低く問いかけている。瑠々は髪と服が少し乱れただけで、無傷だった。瑛司にしっかり守られ、かすり傷ひとつない。彼女は安堵の笑みを浮かべ、生き延びた喜びに震えながら瑛司の胸に飛び込み、彼の腰に腕を絡めた。瑛司は彼女の耳元に低く言葉を落とす。慰めているのは聞かずとも分かった。蒼空は目を閉じ、再び襲ってく
「三つ目に。たとえ本当に行き詰まって、盗作を装って話題作りをしたかったとしても、元の曲をそのまま自分の名義にして出したほうが、よっぽど手っ取り早いでしょう?わざわざ似つかない別の曲を苦労して作るなんて、非効率すぎると思いませんか」蒼空の声はますます冷静になる。「率直に言わせてもらうけど、その言い訳は論理がガタガタで筋も通ってないし、聞いていて無理がありすぎる。私からすれば、久米川さんが天満菫の名誉回復を持ち出すのはただの建前で、本音は盗作のほうなんじゃないですか?さっきの説明、全部久米川さんが盗作したことへの言い逃れにしか聞こえない」一気に言われて、瑠々の顔色はみるみるうちに青ざめていく。後退りするように数歩下がり、怯えと不安が入り混じった眼差しを向けてくる。その足元を見た蒼空は、眉をひそめた。瑠々はもともと舞台の端に立っており、これ以上下がれば舞台端の金属フレームにぶつかるし、一メートルはある高さから落ちる危険すらある。瑠々は眉をわずかに寄せ、いかにも儚げな表情で小さくつぶやいた。「ごめんなさい......あのときは慌てすぎて、何も考えられなくて......」蒼空は瑠々の退く足元を見てさらに顔をしかめる。もう少しで舞台裏の鉄枠にぶつかりそうだ。思わず手を伸ばした。「ちょっとま──」客席にいる小百合が、さらに厳しい声を飛ばす。「もうやめなさい。決勝の舞台でふざけていい場面じゃない!」瑠々の顔は血の気が引き、勢いよく後ずさった拍子に右肩を舞台脇の鉄枠にぶつけた。左足が宙に浮き、体のバランスを一気に崩す。低く悲鳴を上げ、そのまま一メートルの高さから倒れ落ちそうになる。だが右肩が鉄枠にかかっていたおかげで、辛うじて落下せずに済んだ。蒼空は瞳孔をぎゅっと縮め、素早く駆け寄って瑠々へ手を伸ばす。パシン!蒼空の目が細くなる。瑠々がその手を払ったのだ。それと同時に。ギシ、ギシ......と機械が軋むような微かな音が、蒼空の耳に入り込んでくる。ハッとして顔を上げると、瑠々の頭上にある鉄枠が、ぐらつくように緩みはじめ、今にも崩れ落ちそうに傾いていた。もし落ちれば、真下にいる瑠々を直撃する。鉄枠の重量と高さを考えれば、直撃した人間など間違いなく即死だ。蒼空は一瞬も迷わず、
背後のスクリーンでは映像が流れ続けていた。映像の中で天満菫が弾いているピアノ曲は、蒼空が演奏した曲と一音一句違わず、完璧に重なっている。客席がどよめいた。瑠々が自ら盗作を認めたこと。瑠々は天満菫本人ではなく、天満菫という人物は実在していたということ。一気に飛び込んできた情報が強烈すぎて、審査員も観客も呆然とし、誰ひとり言葉を発せなかった。「準備は万全だったみたいですね」蒼空は、自分の声が妙に落ち着いていることに気づく。胸の奥に燻る怒りを押し殺しながら続けた。「彼女のことを調べたからこそ、そんなに詳しいでしょ」瑠々の目尻から、透明な涙が一粒落ちる。どこか懐かしむように、そして諦めを含んだ笑みを浮かべ、涙を指先で拭ってから穏やかに口元を上げた。「蒼空が私に誤解してるのは無理もないわ。でも、分かってほしい。あなたが菫のためにそこまで動いてたなんて、本当に知らなかった。もし知ってたら、きっと私もこんなやり方はしなかった」そう言って、ふっと自嘲気味に笑う。「こんなふうに盗作を暴かれて、恥を晒すことにもならなかったでしょうね。でも結果としては悪くなかった。少なくとも、たくさんの人が天満菫の名前を知った。彼女が遺した最後の曲も。きっと、それも彼女の望んでいたことよ。蒼空がそこまで彼女を大事に思ってたなんて、私も嬉しいよ」蒼空は白黒くっきりした瞳を細め、鼻で小さく笑った。「芝居は上手だけど、理由には無理がある」映像が終わった瞬間、会場には張り詰めた静寂が落ちた。沈黙。小百合が眉をひそめ、厳しい声を飛ばす。「あなたたち、何をしているの。今は大会の最中。私語の場じゃないわ」瑠々は素早くマイクを取った。「庄崎先生、審査員の先生方、それから観客の皆さん、少しだけ私と蒼空に時間をください。はっきりお話しします。ご覧の通り、私は天満菫本人ではありません。私が作った『恋』は、菫の『渇望』を確かに盗用したものです。天満菫は私の友人で、才能も技術もずば抜けていました。でも、生きているうちに名が知られることはありませんでした。私は彼女の願いを叶えたかった。だから菫の名前を借りて『恋』を発表し、盗作という形で話題を作った。いつか『渇望』を世に出したかったから。彼女が私の過去の別名だったなんて嘘をついた
