LOGIN数秒後、映像は徐々に鮮明になった。そこは質素なピアノ室で、ひと目で安物とわかるピアノが置かれ、隣には素朴で穏やかな雰囲気の女性が座っている。ごく普通の小花柄ワンピースに、髪は半分だけまとめられ、うつむき加減で、こめかみには数束の髪がかかっていた。「先生、もう始まっていいですよ」映像から、まだ幼さの残る無邪気な声が聞こえる。画面の女性は口を開かず、おそらく撮影者が話しているのだろう。その声に、会場の多くの人がどこか聞き覚えを覚えた。皆が思い出そうとしていると、再びその声が響く。「早く早く、先生も恥ずかしがらないで!こんなに素敵な曲なんだから、ちゃんと記録しなきゃ!」人々はゆっくりと蒼空へ視線を向け、はっとした表情を浮かべる。映像の声と今の蒼空の声がほとんど同じ――つまり撮影者は蒼空本人!映像の女性は横顔で小さく微笑み、困ったように眉を下げながらも口調は穏やかだった。「はいはい、わかったよ」「ちょちょちょちょっと待ってください!」女性が弾き始めようとしたその時、後方から手がぬっと伸びてきて、彼女と同じように多くの観客も「ん?」という顔になる。「時間と場所を記録しなきゃ!」女性は呆れたように頭を振って笑った。それからその声は軽く咳払いし、こう宣言する。「みなさんこんにちは!今、みなさんの前にいるのは、未来きっと国内外に名を轟かせるピアニスト、天満菫さんです!現在の時間は日本時間で2021年6月......27日の午前......10時5......53分!これから天満菫さんが、自作のピアノ曲『渇望』を演奏しまーす!それではみなさん、大ピアニストの作品を聞いてください!」そう言い終えるや、声はトーンを落とし、せかすように囁く。「先生、早く始めてください!」女性は諦め半分の笑みを浮かべ、両手を上げ、細く長い指先を鍵盤に落とした。あの聞き覚えのある旋律が流れ出す。だが、会場の人々は映像の演奏をまともには聴いていなかった。映像の女性が「天満菫」と紹介された瞬間、全員が衝撃を受け、そのまま硬直する。あの女性が、天満菫?どうしてこの人が天満菫?瑠々は昔、それが自分の芸名だったと言っていたはずでは?同姓同名なのか、それとも......観客たちは困惑と疑念に満ちた目
瑠々は手のひらをぎゅっと握りしめ、表情はあくまで淡々としたまま、唇の端にかすかな笑みを浮かべていた。こういう時こそ、冷静さを失わないことが大事だ。冷静でいられれば勝てるし、蒼空の思うつぼにもならない。瑠々の視線は舞台に釘付けになっていたが、ふと舞台の隅に止まった。その目が一瞬揺らぎ、暗い光が閃くと、ゆっくりとうつむいた。「どうした」瑛司がふいに身を寄せ、低い声で耳元に囁いた。その声は落ち着いていて、優しさが滲んでいる。瑠々の心臓が小さく跳ね、彼を見上げながらやわらかく微笑んだ。「ううん、なんでもない」瑛司の漆黒の瞳は、やや暗がりの観客席の中でいっそう深く沈み込んで見えた。端正すぎる顔立ちに見惚れ、瑠々の頬は熱を帯びる。「なに?」「この曲......君と少し関わりがあると思って」瑠々は一瞬動きを止めた。もし記憶が正しければ、この曲を蒼空が弾いたのを瑛司が耳にしたのは、学園祭の時ただ一度きり。しかも二つの曲は非常に似ており、正式にピアノを学んだことがない者なら区別は難しいはずだ。それを彼は覚えていた。瑛司は、彼女の胸の内を見抜いたように低く続けた。「瑠々のことは、全部覚えているから」瑠々は呆然と彼を見つめ、胸が大きく揺れ動いた。思わず彼の腕に手を回し、柔らかく囁く。「私がなんとかするから、心配しないで」「わかった。けど、もし無理なら俺を頼れ。そばにいるから」瑠々の心はさらにほぐれ、彼を見つめる目に親愛が滲む。「うん、ありがとう」やがてピアノの音色が終盤に差しかかり、瑠々は舞台へと顔を向けた。視線には淡い感情しか残っていない。――この人がそばにいてくれるなら、何も怖くない。蒼空は鮮やかな音の連なりで一曲を締めくくり、両手を完全に鍵盤から離すと、舞台下のスタッフに目配せを送った。スタッフはOKのサインを返す。蒼空はピアノ椅子から立ち上がり、真っ先に視線を観客席中央の最前列へと向けた。久米川瑠々。瑠々は肩の力を抜いた笑みを浮かべる。それは全く重荷を感じさせない笑顔だった。蒼空も微笑み、マイクを手に取る。同時に、背後の大画面に彼女が用意していた映像が流れ始めた。「皆さんもお気づきでしょう。私が演奏したのは『恋』ではなく、『渇望』。天
「弾いてるのは瑠々の『恋』じゃなく、天満菫の「渇望」だって?でもあれも瑠々の作品でしょ?」「あの人、正気失った?また同じことするわけ?一回痛い目見ても懲りてないんだな。天満菫って久米川瑠々の別名だって散々言われてたのに、ほんとしつこい!」「きっと嫉妬だよ。久米川が優勝しそうだからって、自分が面白くないから他人の足引っ張るとか最低!」小百合は「天満菫」という名前を聞いた瞬間、鋭く反応し、驚きが混じった表情で眉をひそめた。警備がいたおかげで、観客たちのざわめきはすぐに封じられ、それ以上の話は聞き取れない。天満菫――どこかで耳にした覚えがある。そう思いながら、小百合は無意識に左後方の瑠々へと視線を向ける。たった一瞥で、小百合の疑念はさらに深まった。瑠々はいつも通り落ち着きと柔らかさを装ってはいるものの、目の奥と表情の端に、緊張と怯えがはっきり浮かんでいる。舞台から目を離さず、小百合からの視線にも気づかず、全身が張り詰めているようで、不安と恐怖を隠しきれていない。小百合は今度は瑠々の隣にいる瑛司を見る。彼の表情も決して穏やかとは言えない。蒼空をじっと見据えるその瞳は暗く深く、何を思っているのか読み取れない。そもそも彼は、たとえ目の前で山が崩れても顔色ひとつ変えないタイプだ。感情を表情から読み解くのはほぼ不可能。小百合が瑠々を注視していると、不意に隣の審査員に腕を小突かれた。「庄崎先生、面白くなってきましたよ」様子から内情を知っていると察して、小百合はすぐに問い返す。「どういう意味?何か知ってる?」その審査員は、含み笑いを浮かべて答える。「知らないんですか?今、関水蒼空が弾いてるのは久米川瑠々の『恋』じゃなくて、天満菫の『渇望』なんです。ほら、昔、彼女が高校の創立記念祭で......」その審査員の口から、高校の創立記念祭で起きた一連の出来事――蒼空が瑠々の盗作を告発し、逆に公開で否定された経緯まで、全てを聞かされた小百合は、衝撃で息を呑んだ。思わず舞台の蒼空を見つめる。盗作云々はさておき、彼女の演奏は完璧だった。舞台上部の照明から降り注ぐトップライトが、彼女の周囲に他人を寄せつけないような小さな世界を作り出している。グリーンのフリンジドレスをまとったその姿は、白い肌をいっそ
瑛司は低く答えた。「わかった。手配は秘書にさせるから、瑠々は心配しなくていい」瑠々は唇をきゅっと結んで微笑む。「ありがとう、瑛司」その様子を見ていた小百合は、眉を寄せてうつむき、どこか惜しむような表情を浮かべた。シーサイド・ピアノコンクールの決勝では、例年「創作性」が重視される。ゆえに決勝の採点基準は予選・準決勝とは異なり、独自の作曲による演奏が全体の5%を占めている。割合としては高くないものの、総合評価や順位に確実に影響する数字だ。そのため、他の出場者たちは皆、自作の曲を選んでいる。ただ一人、蒼空だけが、自分の作った曲ではないピアノ曲を選んでいた。しかも、それは瑠々の作品。つまり、その5%の得点は最初から捨てているも同然だ。よほど圧倒的な演奏をしない限り、他の優秀な出場者たちと戦うのは難しい。蒼空と瑠々の微妙な関係を思い返しながら、小百合は頭を抱えたくなる。会場に来ている観客の大半は瑠々のファン。どうか怒りで場を荒らさないように――と祈るしかなかった。そう考えた矢先、背後の観客席から急に声が大きくなる。「今すぐ降りろ!」「退場!退場!退場!」小百合の胸が一気に冷え、振り返って声を上げた観客を確認する。幸い、以前の兼井の件で学んでいたおかげか、警備隊はすぐに異変に気づき駆け寄った。まるで守護神のように観客席の脇に立ち、険しい表情で騒ぎを起こした者たちを睨みつける。「静粛に。これ以上進行を妨げるなら、即刻退場してもらう」騒いだ数名は青ざめた顔でしぶしぶ口を閉じ、不満げに腕を組んで警備員をにらみ返す。警備の対応が早かったおかげで、今回の騒ぎは蒼空には届かなかった。彼女は演奏に没頭し、指先で鍵盤を跳ねさせている。やがて、聞いていた誰もが、ただならぬ違和感に気づき始めた。小百合は眉根を寄せる。――違う。これは「恋」じゃない。蒼空の奏でる曲は「恋」に極めて似ているものの、細部に違いがあり、その違いが曲全体の流れをまるで別物にしていた。一方はうねるように移ろい、もう一方は突然昂り、またふっと長く余韻を引く。些細な違いなのに、効果は圧倒的。小百合の中にひとつの確信が生まれる。今の蒼空の演奏レベルは、瑠々の「恋」を大きく凌駕している。比べること自体
十数秒後、旋律が整い、誰もが聞き覚えのあるフレーズが流れ出すと、審査員も選手も観客もわずかに表情を変えた。他の選手たちは目を疑うような色を宿しながら、恐る恐る瑠々の様子をうかがう。瑠々は最前列の中央に座っており、他の者たちには彼女の後ろ姿しか見えなかった。本番前に選曲が公表されることはなく、これが初めて蒼空の選んだ曲を知る瞬間だった。彼女が奏でているのは――瑠々の「恋」そのもの。蒼空がどうして瑠々の作曲したピアノ曲を弾いているのか。この二人は仲が悪いはずではなかったか。それを目の前で演奏するなんて......蒼空が音に没入する姿を舞台上で見ながら、人々の表情は複雑に揺れた。審査員や選手は一応試合中ということもあり顔を引き締めていたが、瑠々のファンたちは遠慮なく小声で罵り始める。「図々しいにも程があるよ。うちの瑠々の曲に触れるなんて、そんな資格あると思ってんの?」「瑠々の曲は誰でも弾いていいものじゃない。さっさと降りろ、恥さらし!」「瑠々は絶対に傷ついてるはず。やっと完成させた曲を汚されたんだから」「自分じゃ作れないから、瑠々の曲を盗んだんでしょ。目だけは利くのね」「大丈夫、関水程度が『恋』を弾いたところで、瑠々の足元にも及ばないわ」「前に関水、この曲は盗作だって言ってなかった?今自分で弾いてるなんて、恥知らずもいいところ」耳に届いた馴染みの調べに、瑠々の笑みが一瞬止まり、目の奥が陰を帯びる。ピアノの前に座る蒼空を見つめ、胸の内に疑念が芽生えた。――これは「恋」?曲は始まったばかりで、確かに「恋」の痕跡ははっきりと感じ取れる。けれど......瑠々は膝の上の布をきつく握りしめた。この場で分かっているのは、自分と蒼空だけ。もう一つの可能性があることを。それは、天満菫の「渇望」。あの時、蒼空は毅然と自分の盗作を暴き立てた。その彼女が、どうして再びこの曲を弾くのか。瑠々の視線が固まる。まさか、蒼空はまた同じ過ちを繰り返すつもり?あの学園祭の時のように。息が詰まり、心臓が早鐘を打つ。蒼空の静かで落ち着いた横顔を見つめながら、瑠々は必死に自分の疑いを打ち消した。――違う。そんなはずない。ここはシーサイド・ピアノコンクール。国内最高峰、世界に名を響か
待っていると、ほどなくして瑠々が青いバラの花束を抱えて入ってきた。予選や準決勝の時とは違い、他の選手たちは彼女に駆け寄って祝福することもなく、まるで存在しないかのように無表情で、視線を向けようともしなかった。瑠々は気にする様子もなく、顔いっぱいに自信と誇りに満ちた笑みを浮かべ、ハイヒールの音を響かせながら堂々と歩く。その音は静まり返った控室でひときわ鮮明に響いたが、彼女は一切遠慮しなかった。蒼空は、瑠々がコツ、コツと歩み寄り、自分の目の前に立つのを静かに見つめていた。蒼空が黙っていると、瑠々は口角を上げ、柔らかくも誇らしげに言った。「蒼空、見てたよ。拍手してくれてありがとう」蒼空は淡々と答える。「どういたしまして」瑠々はふっと笑みを洩らし、眉を上げて声を変えた。「でも、蒼空に拍手を送る時間はないかも。これから瑛司と出かけるから」そう言って、恥じらうような表情を浮かべる。「分かるでしょ」彼女は控室を見回し、含みのある笑みを浮かべた。「妊娠してるの。ここは人が多すぎて息苦しいから、瑛司が心配して隣の部屋を取ってくれたの。だから、その時はもうここにいないわ」そう言って腕の花束に視線を落とし、香りを嗅ぎながら満ち足りた誇らしげな瞳を向ける。「瑛司がくれた花よ。九十九本もあるんだって。本当に綺麗」彼女はその中から一輪を抜き取り、蒼空の前に差し出した。「はい、どうぞ。私の幸運を分けてあげる」蒼空は彼女の一方的な言葉を黙って見つめ、手を伸ばそうとはしなかった。ちらりと花に視線をやると、それは九十九本の中でひときわ小ぶりな一輪だった。蒼空は唇を引き上げる。「結構です。もし本当に運を吸い取ってしまったら、久米川さんが怒るでしょうから」瑠々の目が一瞬止まり、すぐに鼻で笑うと、その花を強引に蒼空の膝の上に投げ落とした。「持ってなさい。瑛司からの花だけじゃなく、ファンからもたくさんもらってるんだから。私は花に困らないけど、蒼空は一輪もないでしょ。可哀想だから一つ分けてあげるだけ」蒼空は沈黙のまま見つめ返す。瑠々が踵を返そうとした瞬間、蒼空は手を払って膝の上の青いバラを床に落とした。「いえ、お気持ちだけで十分です」わざとらしく声を上げる。「あら、落としてしまった。久米川さん、ご