LOGIN優奈と和人は理解していた。あれは単なる脅し文句なんかじゃない。瑛司は、本気で言ったことを実行する人間だ。二人は、瑛司から答えも解決策も得られないと悟り、すぐに会社を後にした。車を走らせ、急いで病院へ戻る。このことを一刻も早く敬一郎に伝えなければならない。典子へ折り返しの電話をしたのは、病院へ向かう車の中だった。通話が繋がった瞬間、優奈の鼓動はさらに激しくなる。電話の向こうから聞こえてきたのは、かすれて懇願するような典子の声だった。「優奈......ずっと電話待ってたのよ。いったいどういうことなの?絶対にバレないって言ってたじゃない。これからどうすればいいの......?」優奈の喉はひどく重かった。やっとのことで言葉を絞り出す。「おばさん......この件、私も今知ったばかりなんです......わ、私も、どうしたらいいか分からなくて......」電話の向こうがしばらく静かになる。そのあと、小さなすすり泣きが聞こえた。「じゃ、じゃあ......敬一郎さんは?あの人は何て言ってるの?」優奈は目を閉じた。病院で敬一郎が口にした言葉を思い出す。――もう瑠々の件には関わりたくない。優奈自身にも、もうどうすることもできなかった。完全に行き詰まっていた。目が熱くなり、涙がぽろぽろと零れ落ちる。雫が手のひらにぽたぽたと落ちた。彼女は太腿の布地を強く掴み、震える喉から無理やり声を押し出す。「ごめんなさい、おばさん......本当に、ごめんなさい......」典子の声が不安に揺れる。「それ、どういう意味......?何があったの?」優奈はもうその声を聞いていられなかった。慌てて通話を切り、顔を背けて手の甲で涙を拭う。隣の和人が黙ったままティッシュを差し出した。優奈はそれを受け取り、顔を埋める。涙も鼻水も、白い紙に滲んでぐしゃぐしゃになった。病院へ戻ると、優奈は必死に気持ちを整えた。頬を軽く叩き、なるべく平静を装う。それでも目元も鼻先も赤く染まったままだった。病室では、敬一郎がまだ目を覚ましていた。濁った瞳で、重たげに窓の外を見つめている。澄江は俯き、力なく椅子に座っていた。近づいてくる足音に気づき、二人が顔を上げる。そこにいたのは、目
受付は本当は、「松木社長も今は手一杯で、面会する時間なんてないはずです」と言いたかった。だが優奈はそんな言葉を聞こうともせず、和人の腕を掴んだまま足早に進み、すでにエレベーターの前まで駆けていた。受付は仕方なく、秘書室へ電話を入れて優奈が来ていることを伝えようとする。ところが振り返る前に、優奈の目の前でエレベーターの扉が開いた。スーツに包まれた長い脚が、一歩外へ踏み出す。その姿を見た瞬間、優奈の表情が固まった。次の瞬間には、瞳に大きな安堵と頼もしさが溢れる。「お兄ちゃん、やっと会いに来てくれた......」瑛司はエレベーターから降り、視線を落とした。その目が、青ざめた優奈の顔に向けられる。声音は淡々としていた。「帰れ」優奈は、祖父の看病をしに戻れという意味だと思い込み、その言葉を気にも留めなかった。彼女は瑛司の腕を掴む。まるで最後の支えであり、最後の命綱を掴むように。「お兄ちゃん、外はもう大変なことになってるの!みんなこの件を知ってるし、グループの株価もストップ安になっちゃった......!早く何とかしないと。できればメディアを抑えて、悪い記事とか動画とか全部揉み消して、これ以上広まらないように――」瑛司の後ろに立っていた安莉が、複雑な眼差しで彼女を見ていた。優奈は気づかないまま、必死にまくし立てる。「おじいちゃんに見張ってこいって言われたけど、何を見張ればいいのか分からなくて......」「もう見張る必要はない」瑛司の声は低く、少しかすれていた。優奈はおそるおそる彼を見る。「......え?」瑛司は視線を落とし、彼女が掴んでいた自分の腕から、その手を静かに外した。「じいさんの言いたいことは分かってる。お前が来ても意味はない。それに、俺がやりたかったことは、もう終わったって、帰って伝えろ」優奈には何一つ理解できなかった。手の中が空っぽになったようで、心までぽっかり穴が開いたように苦しい。彼女はまた瑛司の腕を掴もうとする。「どういうこと......?全然分かんないよ......」だが瑛司は腕を引き、わずかに彼女の手を避けた。空を掴んだ優奈は、茫然としたまま顔を上げる。瑛司は低い声で繰り返した。「もう帰れ」優奈の目が赤くなる。「なんで?
そう考えた瞬間、安莉の胸に、急激な悔しさが込み上げた。両脇に垂らした手をぎゅっと握りしめ、どこか意地を張るような声で問いかける。「社長......関水社長は、あなたにとってそれほど大切な存在なんですか?」松木グループの名誉や、暴落していく株価よりも。窓の外から差し込む淡い光が、床まで届くガラス越しに無口な男の身体を照らしていた。光が当たっているはずなのに、男の輪郭はむしろいっそう深く鋭く際立ち、その瞳と固く結ばれた唇には、なおさら重たい沈黙が宿っている。安莉は息を潜めたまま、彼の返答を待った。視線は真っ直ぐ、瑛司の双眸を見つめている。瑛司はまず目を細めた。黒い瞳の奥に鋭い光が走り、空気がわずかに張り詰める。「それは君には関係ない。余計な詮索はせず、自分の仕事をこなせ」声音は淡々としていたが、そこに込められた叱責の色は誰にでも分かるものだった。見えない平手打ちを食らったような感覚だった。羞恥が足元から這い上がってくる。安莉の顔色がさっと白くなり、握った両手にはさらに力が入る。爪が手に食い込むほどだった。瑛司は彼女を一瞥した。その視線の中で、ふと彼女の出自を思い出したのか、眉間の鋭さが少しだけ和らぐ。「今後、仕事に関係ないことは聞くな。昔の件があるから、君は安心してグループに残っていればいい。それ以上は考えるな」その一言で、彼が自分の考えをすべて見抜いていたことが明白になった。まだ口にすらしていない想いを、先に拒絶されたのだ。安莉の顔に怯えと羞恥が浮かぶ。彼女は歯を食いしばり、小さく答えた。「......分かりました」「下がっていい」ドアを閉めたあと、安莉は俯いたまま立ち尽くした。諦めきれない思いと焦燥が胸の奥から湧き上がってくる。本当に、瑛司の言う通り、このまま諦めるべきなのだろうか。彼女は山奥の観光地で働くサービス係の娘だった。シングルマザーの母は彼女に大きな期待を寄せていた。山を出て、一流都市の名門大学へ進学したのも、人生を変え、上へ這い上がるため。幼い頃のほんの一度の善意によって、一気に人生を変えられる道を掴めるはずだった。なのに、その「道」本人に拒絶された。安莉は目を伏せたまま、暗い感情を瞳の奥に沈める。何度か深呼吸したその時、秘
しかも明彦の件など、松木家にとっては所詮ただの醜聞に過ぎない。うまく隠し通して外部に知られなければ、松木家が本当に打撃を受けるはずがないではないか。せいぜい、瑛司が蒼空に騙され、彼女の肩を持っているという程度の話だ。松木家にとって、それくらい大した問題ではない。どうして「松木家は自分の身を守るので精一杯」などという話になるのか。優奈も同じ疑問を口にした。問いかけた相手は敬一郎だ。たとえ瑠々を助けられなくても、松木家まで巻き込まれるわけがないでしょう、と。敬一郎は目を閉じたまま、低い声で言った。「最近、瑛司を見張っておけ......いや、今すぐだ。あいつが何かしでかさないようにな」そう言われれば言われるほど、優奈の胸の不安は強くなる。「それは、どうして?」「いいから行け」言い終えると、胸を押さえながら激しく咳き込む。優奈は慌てて駆け寄った。「おじいちゃん......!」しばらくして呼吸を整えると、敬一郎は声を押し殺すようにして呟いた。「瑛司は......あいつは、松木家全員に蒼空へ頭を下げさせるつもりだ......」優奈の手が震えた。「そんな......」敬一郎は目を閉じ、彼女の手を払いのける。「だから早く行け。全員で会社へ行って瑛司を見張れ。何か動きがあったら、すぐ他の役員にも連絡するんだ。絶対に奴を止めないと。馬鹿な真似をさせるな」優奈はなお問い詰めようとした。だが、激しく脈打つ鼓動のせいで、じっとしてなどいられなかった。何かしなければ、この状況は変えられない気がした。彼女は不安げに和人を見た。相手もまた、彼女と同じように途方に暮れている。優奈は唇を噛んだ。敬一郎がここまで言うからには、きっと理由がある。彼女はすぐに和人の手を掴んだ。「わかった」そして澄江へ向き直る。「お母さんはここでおじいちゃんを見てて。何かあったら電話して」そう言い残し、優奈は和人を引っ張るようにして病室を飛び出した。澄江は、まだ動揺の冷めない顔で敬一郎を見る。敬一郎の顔色は土気色で、これまで見たこともないほど老いと衰えが滲んでいた。若い頃、意のままに人を動かし、権勢を振るっていたこの人物が、本当に老いたのだと、澄江は初めて実感した。「......間に合え
瑛司がここへ来たのは、敬一郎の容体が少しでも良くなったか確認するためだけだった。先ほど主治医から、敬一郎に命の別状はないと聞かされている。二、三言だけ話して帰るつもりだった。瑛司は片手をポケットに入れたまま、淡々と言った。「前にも言ったはずだ。たとえ俺じゃなくても、彼女はいずれ辿り着いていた」敬一郎は荒い呼吸を繰り返した。「......だから、証拠を彼女に渡したのか?」「会社の仕事があるので、用がないなら失礼する」そう言って背を向けた瞬間、敬一郎は怒りに任せて手を振り上げ、ベッドサイドの物を片っ端から床へ叩き落とした。ガシャガシャと激しい音を立て、破片が辺りに散らばる。「この馬鹿者が!松木家はいつかあの女に潰される......あの時、認めるべきじゃなかった......!」言っているのは、あの夜のことだった。敬一郎は最終的に折れ、瑛司が蒼空を松木家へ連れて来ることを認めた。孫嫁として受け入れると口にした夜だ。瑛司は静かで黒い瞳で彼を見つめ、ふっと笑った。「じいさんが認めなくても、彼女を連れて帰るつもりだった。だがそれ以前に、俺が望んでも、彼女はきっと松木家に戻らないのだろう」ずっと、蒼空の方が松木家へ戻ることを拒んでいた。主導権は、最初から最後まで彼女の手にある。その言葉を口にした瞬間、瑛司の脳裏に、あの澄んだ瞳がよぎった。再会して以来、彼女は彼を見るたび、その綺麗な目に拒絶と警戒を宿していた。今も変わらない。もともと表情の薄い顔だったが、その目を思い出したせいか、口元の線がさらにわずかに下がった。敬一郎の目尻の皺がぴくりと動く。「だから何だ。松木家の人間を相手に、あの女の肩を持つのか!」瑛司は質問には答えなかった。「借りたものは、返さなければならないんだ」敬一郎は歯を食いしばった。「お前......!」瑛司は澄江へ視線を向けた。「明彦さんは何も知らなかったわけじゃない。あの口座が何のためのものか理解していたし、じいさんとも取引して利益を得ていた。無実ではない」澄江の顔色は真っ白になった。瑛司も敬一郎も明言こそしていない。だが断片的な言葉だけで、真実は十分に理解できた。次の瞬間、彼女は力を失ったように椅子へ崩れ落ちた。優奈と和人は、完全に
病室には泣き声が絶えず響いていた。敬一郎は低く咳き込み、その声はさらに掠れていく。「......瑛司が、何かしたのか?」涙で目を潤ませていた優奈は、その言葉に一瞬呆けた。「それ、お兄ちゃんと何の関係があるの?」敬一郎は身体を起こそうともがき、優奈と和人が慌てて支える。「気をつけて」まだ座りきる前に、敬一郎は和人の腕を掴み、掠れた声で問い詰めた。「早く話せ......いったい何があった」澄江が前へ出て、涙を拭いながら俯く。「お父さん......明彦が警察に連れて行かれました」敬一郎の瞳が震え、目尻の皺までも揺れたように見えた。声はさらに重く、低くなる。「......理由は?」澄江は敬一郎の視線を受け、胸が震えた。だが覚悟を決めたように口を開く。「お父さん......本当は理由なんて分かってるんじゃないですか?」彼女は思い切るように続けた。「久米川瑠々の件です。誰かが証拠を提出して、診断書の偽造疑惑が立証されました。しかも、明彦名義の海外口座から、瑠々の主治医へ多額の送金がされていたんです。主治医への贈賄の疑いがあるとして、連行されました」敬一郎は息を詰まらせ、危うく呼吸が止まりかけた。和人の腕を握りしめ、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻す。澄江もそれ以上はすぐに口を開けなかった。やがて敬一郎の呼吸が整うと、澄江は一気に問いかける。「お父さん、教えてください。明彦はこれまで一度も瑠々の件に関わっていません。それなのにどうして......海外口座が彼の名義なんですか?」彼女は飲み込んだ言葉があった。――瑠々のために動いていたのはお父さんだったはずなのに、どうして明彦なんですか?敬一郎ほどの人物が、その含みを理解できないはずがない。優奈と和人も、不安と焦りを滲ませた目で彼を見つめていた。その視線には、もはや「問い質す」という文字が浮かんでいるようだった。敬一郎は再び胸が詰まる感覚に襲われる。何度も深呼吸を繰り返し、白くなった唇を震わせた。「......瑛司を呼べ」優奈の不安はさらに強くなる。「え、お兄ちゃんなら今会社に――」敬一郎は重々しく遮った。「いいから呼べ。今すぐだ!」優奈には分からなかった。だが澄江は、その瞬間に敬一
蒼空のやり取りに、小百合はくぐもった笑いを漏らしながら言った。「はいはい、年齢で言えば、蒼空はもうすぐ二十四でしょ。そろそろ彼氏がいてもおかしくない頃よ。恥ずかしがることないわ。それに遥樹くん、なかなかいい子じゃない。顔もいいし」遥樹は胸を張ってうなずく。「そうなんですよ。庄崎先生、ぜひ蒼空に言ってあげてくださいよ、僕をちゃんと大事にするようにって。僕、人生で初めて彼女できたんです」小百合は眉を上げる。「初恋?」遥樹は即答する。「そうです。生まれてから、一度も恋愛したことない。蒼空が初めてなんです。そう見えませんか?」「確かに意外ね」小百合は笑みを含んだ目で
蒼空は、テーブルの上にあったすべての料理を一気に食べ終わった後、口を拭き、鮮やかな口紅を塗り直した。「ごちそうさま。もう会社に行かなきゃ」遥樹はナプキンを彼女に渡しながら、笑いながら言った。「今日は週末じゃないのに、会社に何か用事があるのか?」蒼空は軽く口をすぼめ、肩を叩きながら言った。「ゲームが新しくリリースされたばかりだから、バグが出たんだろうね」蒼空はそう言いながら、目を遥樹にじっと向けた。遥樹は笑って、冗談めかして言った。「関水様がバグを見逃した?すごいな、そのバグ」蒼空は彼を睨んだ。「私の言いたいこと、わかってるでしょ?」遥樹は手をパチンと
ここは自分の部屋だ。ただ、ベッドで横になっていたわけではない。背もたれに寄りかかる形で眠っていた。片脚はベッドに乗せ、もう片方は床につけたまま、頭は壁に傾けたまま一晩中姿勢を変えずにいたせいで、首が痛むのだ。しばらくぼんやりし、ようやく意識がはっきりしてくる。視線を落とすと、布団の中でまだ眠っている瑠々がいた。内側に伸ばしていた腕は瑠々に抱かれたまま布団に埋もれている。彼はそっと腕を動かし、抜こうと試みた。数時間前、どれだけ言い聞かせても瑠々は手を離さず、「そばにいて」と強く求めた。一晩駆け回って疲れ切っていた彼は、それ以上抵抗する気にもなれず、そのままこの
蒼空は瑠々のスカートの裾を見つめ、しばらくのあいだぼんやりとしていた。数分経ってようやく我に返る。瑛司と瑠々の姿はもうなく、病室の扉は静かに閉じられていた。まるで誰も来なかったかのように。瑠々が身につけていたそのワンピースは、前の人生で蒼空がずっと欲しいと思っていたものだった。カートに入れて、もう少ししたら瑛司の秘書に買ってもらおうと考えていた。だが、思い通りにはいかなかった。すべてはあまりにも突然に変わってしまったのだ。あのとき欲しかったワンピースを、今では瑠々が身に着けている。そして、彼女が心の底に何年も秘めてきたその男は、今では瑠々と腹の中に子を宿して