Share

第6話

Author: 炭酸水が大好きな美少女
遥は、花梨のいかにも寛大そうな言葉を聞いて、胃がむかむかとして、ただ気持ちが悪くなった。

彼女は思い切り皮肉っぽい笑みを浮かべた。「花梨、勘違いしないで。別に彼に会いに来たわけじゃないわ。あなたにとっては宝物でも、私にとっては無価値な男よ」

花梨は怜司の下着を握りしめたまま、隣の邸宅へと遠ざかっていく遥の背中を見つめていた。

花梨は歯をギリギリと鳴らし、手の中の下着をくしゃくしゃに握りつぶした。

自分の男であることを周囲に誇示するその姿は、端から見れば何とも滑稽で哀れなものだった。

花梨は悔しくて、こっそりと遥のあとをつけた。

そして、遥が怜司の親友、駿の家に入っていくのを見届けた。

その光景に、花梨は口元に笑みを浮かべた。すばやくスマホを取り出し、画面をタップして、パシャッと遥が駿の家に入る写真を撮った。

ほどなくして、怜司が莉奈を抱いて帰ってきた。

あらかじめ準備をしていた花梨は、ぼんやりしたふりをして、手には怜司の下着をしっかり握っていた。

怜司はひと目で花梨の手の中のものに気づき、不機嫌そうに眉をひそめて、問い詰めるような口調で言った。

「俺の下着がどうしてそっちに?」

花梨は目を伏せ、柔らかな声に少しの切なさを滲ませた。

「この前怜司がここで酔っ払って、置いていったのよ。ずっと預かってたの」

実際は、怜司が酔っているすきに、花梨がこっそり隠しておいたのだ。

そう言って、花梨はずっと隣の棟のほうを見ていた。何か言いたそうに、視線を泳がせている。

怜司は花梨の様子がおかしいのに気づき、その視線の先を追った。あそこは駿の住まいではないか。

駿は怜司の親友であり、病院の院長でもあり、そして、怜司の家庭医でもある。鈴木家は代々、藤井家専属の医者を務めてきたのだ。

だから当然、怜司の家の隣に住んでいる。

「体のどこか具合でも悪いのか?さっきから駿の家ばかり見ているが」

彼女はわざと落ち着かない様子を装い、両手で無意識に服の裾をつまみながら、口ごもって、言いたくても言えないといった素振りを見せた。

「その……あまり言いたくないんだけど、遥に関することだから」

遥?

それが、遥とどう関係あるんだ?

怜司はそれを聞いて、不機嫌そうに眉を上げ、声が少し冷たくなった。

「あいつ、駿のところに行ったのか?」

彼は歯を食いしばり、ゆっくりと吐き捨てるように言った。

はっきりした答えは得ていなくても、彼の顔色はもうあきらかに暗くなっていた。

もしかすると遥がまた何か企んでいるのかもしれない。怜司のまわりの空気まで冷え込んでいった。

花梨は唇を噛みしめ、口を開いた。

「そうなの、さっき遥が……駿さんの家に入っていくのを見たの。何をしに行ったのか、わからないけど」

はっきりした答えを得て、怜司の顔色は一瞬で真っ青になった。

頭の中に、以前、遥が離婚したいと言っていたことがよみがえった。

あのときは、いつもの手だと思っていた。わざと突き放して、自分の気を引こうとしているのだと。

だが今となっては、遥は本当に他の男のところへ行ったのだ。しかも、自分の親友のところへ。

そのとき怜司が、6年前に遥が薬を盛って自分のベッドに入ってきた場面を思い出し、周りの温度が氷点まで下がった。

この女、まさかあのときの下劣な手を、もう一度使うつもりなのか?

怜司は何も言わず、身をひるがえして、怒りに任せて駿の家へと向かった。

一方、花梨は莉奈を抱いたまま、口元に笑みを浮かべ、手で莉奈の目を覆った。

「莉奈、いい子だから、見ちゃダメよ。遥さんは、いけないことをしてるの」

怜司はドアを蹴り開けた。

部屋の中では、遥がちょうど楽譜を見ていて、突然の出来事にびっくりした。

遥がふり向くと、怒りに満ちた顔の怜司がいて、なんだか訳がわからなかった。

「どうして来たの?」

怜司は大股で遥の前まで歩いてきて、怒りのあまり笑い出した。「何をしに来ただと?お前、恥ってものがないのか?俺の親友の家にまで来て、こいつを誘惑するとはな!

またあのときと同じ手を使うつもりだろう?」

誘惑する、同じ手、その言葉が、見えないナイフのように、もう一度遥を突き刺した。

胸が締め付けられた。「怜司、私は仕事の依頼を受けに来たの。これは私の仕事よ!」

怜司はふんと鼻で笑い、信じられないという様子で近づくと、遥を抱き寄せ、腰を強くつかんだ。

「仕事?」

怜司はその言葉をくり返し、顔色をますます険しくした。

「どうした、しばらく抱いてやらなかったから、我慢できずに『仕事』を取りに来たのか?」

あまりに辛辣な言葉に、遥は思わず怜司を平手打ちし、必死でその腕からのがれようともがいた。

「出ていって。私は楽譜を届けに来たの。私はそっちみたいに汚れてなんかない」

怜司に、自分を疑う資格などあるのか?

花梨と、いちゃいちゃして、さぞ楽しかったでしょうに。

「俺が汚れてるんだと?遥、口を開く前によく考えたほうがいいぞ。俺は……」

そのとき、遥の依頼主、つまり、駿が前に出てきた。

駿は怜司に言った。「怜司、誤解だよ。遥さんは、本当に楽譜を届けに来たんだ」

その言葉に怜司は動きを止めた。以前とても忙しくて、駿に頼んで、ちょっと名の知れた作曲家を探してもらったのを思い出したのだ。

駿は、有名な作曲家はみんな忙しい、高額な報酬を積まないとなかなか引き受けてもらえないと言っていたはずだ。

怜司は、相手に心から莉奈のために曲を書いてほしかった。莉奈がもう病の苦しみから解放されたことを、祝うために。

つまり、駿が見つけた作曲家というのが、遥だったというのか?

遥は呼吸を整えながら、彼らの会話を聞いていた。

薫が最初に依頼のテーマを伝えてきたときの言葉を思い出した。

一つの考えが頭をよぎった。遥は立っていられないほどで、声を震わせて口を開いた。

「鈴木先生、演奏会は、病気の女の子の退院を祝うためだって言ってましたよね。その女の子の名前は、なんていうんですか?」

そもそも遥がこの依頼を受けたのは、身につまされたからだった。希のことを思いながら作った曲なのだ。

どうか希も、これからは病の苦しみを受けずにすむようにと。

「白川莉奈というんです」

駿はとっくに遥に気づいていた。だが、余計な口出しはしないという主義でいたのだ。

ことがここまで来て、駿もこの中で起きている行き違いを察した。

遥は莉奈の名前を聞いて、一瞬、何を言えばいいのかわからず、ぽかんとしてしまった。

彼女は自分の耳が信じられなかった。怜司は莉奈のために、こんなにも前もってお祝いの曲を用意していたなんて。

これが花梨の子供への扱い。それにひきかえ、希は……

死ぬ間際にすら、怜司に会えなかったのに。

「鈴木先生、ごめんなさい。この依頼、やっぱりお受けできません」

遥は声を詰まらせ、そう言うと楽譜を引っこめようとした。だが、それを怜司がすばやく手で止めた。

「遥、いい加減にしろ。違約金がいくらになるか、わかってるだろうな」

遥は鼻で笑った。「怜司、私は違約金を払ってでも、この楽譜は渡さない。そっちは莉奈ちゃんのためにお祝いを準備しているのに、希は?希は、あなたに忘れられて、無視されて当然だったの?」

そう言いながら、遥は目を赤くして、涙を目にためた。

希が亡くなった時の光景が、次々と脳裏に浮かんでくる。あれほど恋しがっていた父親は、目に入れても痛くないほど可愛がっているもう一人の娘のために、お祝いの演奏会を用意していたのだ。

駿はその光景を見て、困ったようにため息をついた。

「遥さん、怜司も莉奈ちゃんを喜ばせたい一心なんですから。ほら、この違約金だって、かなりの額でしょう。どんなことだって、ちゃんと話し合えば解決できるじゃないですか」

「鈴木先生、お気持ちはありがとうございます。でも、これはもう決めたことなんです。楽譜は、渡せません」

この曲を書いていたとき、頭にあったのは希のことばかりだった。それなのに今、希はもう二度と帰ってこない。

それなのに、この楽譜を莉奈に渡すなんて、遥にはできなかった。

誰でもいい、莉奈にだけは渡せない。

怜司はあきらかに苛立ちを見せ、口調が冷たくなった。

「遥、いい加減にしろ!違約金が払えるとでも思ってるのか?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔   第261話

    ほどなくして、莉奈が病院に運び込まれた。小さな顔を真っ赤にして、苦しそうに咳き込み続けている。全身に赤い発疹が広がっていて、見るからに痛々しかった。駿はすぐに莉奈の治療に取りかかった。だが診察を進めるうちに、駿は眉間に深いしわを寄せた。どこか腑に落ちないものを感じたのだ。症状からすると、アレルギー反応のようだった。それなのに、最近口にしたものや、接触したものを調べても、原因となるアレルゲンは特定できなかった。誰かが意図的にアレルゲンに触れさせているのではないか。おそらくは、花梨が。しかし、検査結果をくまなく調べても、決定的な証拠は何ひとつ出てこなかった。あくまで推測にすぎない。ただ、これまで莉奈が体調を崩したり、何らかの異変が起きたりしたのは、怜司が花梨を冷たくあしらった直後だった。一度なら偶然かもしれない。だが毎回となれば、故意ではないかと疑わざるを得なかった。とはいえ、確たる証拠もないまま、病み上がりの怜司に報告するわけにはいかなかった。それからの10日間、遥は甲斐甲斐しく怜司の看病をした。朝は温かいお粥を用意し、ひと匙ずつ口に運んでやる。昼間は時間どおりに傷の手当てをしながら、退屈しないよう話し相手になる。夜もベッドのそばに付き添い、怜司がわずかでも寝返りを打とうとすれば、すぐに起きて様子を確かめた。遥の献身的な看病のおかげで、怜司の身体は日に日に回復し、命の危機も脱した。窓から差し込む陽射しが、病室をやわらかく照らしている。だいぶ顔色のよくなった怜司を見ながら、遥はそろそろ本当の気持ちを打ち明ける頃合いだと思った。自分にも、無駄にできる時間はない。彼とここで馴れ合っている暇はないのだ。「怜司。この10日間看病してたのは、あなたを許したからでも、もう一度あなたを好きになったからでもないわ」そこでいったん言葉を切り、遥は続けた。「ただ、死なせたくなかっただけ。あなたがこんな目に遭ったのは、私にも原因があるから。でも、もう命の危険はないでしょう。だから、これでお別れよ」頭を殴られたような衝撃に、怜司は言葉を失った。顔に浮かんでいた笑みが消え、血の気が引いた。信じられないという表情に変わる。「遥……冗談だろ。この10日間、ずっとそばにいてくれたのも、全部嘘だったとでも言うのか」か

  • 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔   第260話

    遥がこれからのことに思いを巡らせていると、病室のドアが開いた。入ってきたのは花梨だった。完璧にメイクをしているのに、目元だけは赤く潤んでいて、思わず守ってやりたくなるような雰囲気を漂わせている。「怜司、怪我をしたって聞いて。心配でひと晩中眠れなかったの」花梨はベッドのそばまで来ると、涙声でそう言った。そこで遥の姿に気づき、一瞬動きを止める。その目に嫉妬の色がよぎったが、すぐに可憐な笑みを貼りつけた。花梨の姿を認めた途端、怜司の表情が冷たくなった。無意識のうちに眉間にしわが寄る。以前、花梨の虚言に踊らされたせいで、遥をさらに危険な目に遭わせるところだった。そのことを思い出すと、今の彼女にはどうしても不信感が拭えなかった。「お前、何をしに来た」温度のない、凍りついた声だった。花梨は彼の態度に傷ついたように、身体を小さく震わせた。「莉奈がまた具合を悪くして、ずっとパパに会いたいって泣いてるの。私じゃどうしようもなくて、それで仕方なく……」そう言いながら、涙も出ていない目元を指先でぬぐってみせる。怜司の表情が、わずかにやわらいだ。莉奈には何の罪もない。「莉奈を連れてこい。治療は病院に手配させる」花梨は一歩前に出て、怜司に触れようと手を伸ばした。だが、怜司はさりげなくそれをかわした。「怜司がいないあいだ、私ひとりで莉奈の面倒を見て、本当に大変だったのよ。あなたが怪我をしたって聞いて、胸が張り裂けそうで……」花梨は悲劇のヒロインにでもなったつもりで、自分がどれほどつらかったかを延々と並べ立てはじめた。遥はそばに立ったまま、その「お芝居」を黙って眺めていた。だが、とうとうこらえきれず、思わずぱちぱちと拍手してしまった。――この人が、以前の私の敵だったの?記憶をなくしてから、花梨の「健気なヒロイン」ぶりを目の当たりにするのはこれが初めてだった。正直なところ、白々しいにもほどがある。以前の自分がこの女とどう渡り合っていたのかはわからない。けれど、こうなった以上、まずは彼女に少し思い知らせてやろう。遥は怜司にぴたりと寄り添い、とびきり優しいまなざしで彼を見つめた。「ねえ怜司、私、この人嫌い。それに、この人がいたら怜司がゆっくり休めないでしょ」まさかここまであからさまに言われるとは思っていなかった

  • 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔   第259話

    それを聞くと、駿は少し表情をゆるめ、眼鏡の位置を直した。「目を覚ましたということは、状態がよくなってきている証拠です。それに今の反応からすると、あいつは無意識のうちに、遥さんを強く頼りにしているようです。できるだけ安心させて、気持ちを落ち着かせてやってください。興奮しすぎると、身体にまた負担がかかりますから」そう言ってカルテを閉じると、駿は遥と一緒に病室へ向かった。病室では、怜司がベッドに横たわったまま、じっと戸口を見つめていた。顔色は相変わらず青白く、唇にも血の気がない。遥と駿の姿が戸口に現れた瞬間、その目に光が宿った。けれど、すぐにどこか不安げな色が浮かぶ。遥はベッドのそばへ行って腰を下ろし、眉間に寄ったしわをそっと指でのばした。「怜司、嘘じゃないよ。夢なんかじゃない。私、本当にここにいるから」怜司の視線が、遥と駿のあいだを行ったり来たりする。その声は震えていた。「遥……本当に、遥なのか」「うん、私よ」遥は彼の手を握り、自分の頬に押し当てた。体温を、ここにいることを、確かに感じてもらえるように。「ほら、鈴木先生もいるでしょ。全部本当のことよ」怜司の目に涙がにじんだ。喉仏が上下し、不意に声を詰まらせる。「遥、すまなかった。あのとき守ってやれなくて……靖也のせいで、あんな目に遭わせて。今回も、真相を確かめようとして心配をかけたな」遥の目元がうっすらと赤くなり、小さく首を横に振った。「そんなこと言わないで。私のためにここまでしてくれて、命まで懸けてくれたのに、責めたりなんかしないよ」そうは言ったものの、心の底では、彼を許すつもりなどなかった。ただ、今は彼の命がかかっている。そう言うしかなかったのだ。駿がベッドのそばに来て、怜司の診察を始めた。手を動かしながら口を開く。「怜司、君はまだかなり弱ってるんだ。あんまり興奮するなよ。目が覚めたんなら、おとなしくしてろ」けれど怜司は聞こえていないかのように、遥だけを見つめ続けていた。「遥、俺は今までお前をひどく傷つけてきた。たとえ記憶をなくしても、あのつらい過去をなかったことにしていいはずがない。ずっと考えてたんだ。もっと早く俺が靖也の企みに気づいていれば、遥があんな苦しみを味わうこともなかったのにって」遥は胸を痛めたように彼を見つめ、目

  • 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔   第258話

    かつての遥は、あのつらい記憶に耐えきれず、記憶を消去する手術を受けた。けれど今なら、過去の出来事を第三者のような目で振り返ることができる。実際に経験したときほどの痛みを味わうことはないだろう。少なくとも、あのときほど苦しむことはないはずだ。「ええ。あいつは……遥さんのために、死にかけたんです。でも、遥さんを責めるつもりはありません」駿は屋上で静かにそう言って、まっすぐ遥を見た。「ただ、遥さんには、自分の気持ちにちゃんと向き合ってほしいんです」その言葉に、遥は沈黙した。――自分の気持ちに向き合う。怜司のことなんて好きじゃない。そのはずなのに、気づけばまた惹かれてしまっている。結局、私はあの人を好きになることから逃れられないのだろうか。「しばらくは、私が看病します」遥は静かにそう告げた。駿の言葉に正面から答えたわけではない。それでも駿は、そのひと言を聞いて深く安堵した。怜司が命を取りとめたのは、奇跡と言ってもいいほどだった。だからこそ、遥にはどうしても怜司のそばにいてもらわなければならない。そうでなければ、再び生きる気力を失ってしまうかもしれないのだから。それからの日々、遥は毎日怜司の看病を続けた。「今日はお体を拭きますね」看護師がワゴンを押して入ってきて、必要な清拭用品を並べた。「鈴木先生が、そろそろ半流動食を始めてもいいって。経鼻栄養チューブも、午後に交換しますね」遥はうなずき、タオルを固く絞った。布団の端をめくると、幾重にも巻かれていた包帯は大半が外され、赤黒い打撲の痕や、まだ生々しい傷痕があらわになっていた。タオルで鎖骨のあたりを拭いたとき、怜司のまつげが小さく震えた。この半月、こうしたかすかな反応はたびたびあった。けれど、何度か一瞬目を開けることはあっても、意識がはっきり戻ることはなかった。遥はいつの間にか、手を動かす合間に彼の眉間のしわを確かめるようになっていた。そこにしわが寄るのは、痛いという合図なのだ。遥の手からタオルが滑り落ち、洗面器に跳ねた水が袖口を濡らした。看護師が出ていくと、遥は何かに引き寄せられるように身をかがめた。ふたりの距離が、ぐっと近くなる。「……そこまでする価値、あるの?」吐息が彼の肌にかかるほど近かった。「あなたのことを忘れた女のために」

  • 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔   第257話

    モニターの電子音が、静かな病室にやけに大きく響いていた。遥はベッド脇の椅子に座り、看護師が怜司の背中の血のにじんだ包帯を交換するのを見守っていた。看護師が怜司の身体を横向きに支え、最後のガーゼを外した瞬間、遥は思わず顔をそむけた。縦横に走る傷口は、見ているだけでつらかった。「終わりましたよ」看護師がそっと声をかける。「少し休まれてはいかがですか。隣の病室が空いていますので」遥は首を横に振り、鼻から栄養チューブを入れられた怜司の青白い顔に目を落とした。あの夜からの3日間、彼は一度も目を開けていなかった。ときおりかすかに震えるまつげだけが、彼がまだ生きていることを示していた。「鈴木先生から伝えるように言われたんですが」看護師はドアの前で振り返った。「お祖母様は峠を越えられました。今は12階の循環器内科にいらっしゃいます」「ありがとう……ございます」遥の声はかすれていた。ドアが閉まり、病室は静まり返った。いつの間にか、窓の外の雨はやんでいた。遥は何かに引き寄せられるように手を伸ばし、怜司の頬に触れる寸前で止めると、代わりにサイドテーブルに置かれた湿らせた綿棒を手に取った。「ほんと、あなたって」乾いてひび割れた唇を、そっと湿らせていく。「どうしようもないばかね」そのとき、怜司が突然、綿棒を軽くくわえた。驚いた遥は、危うくコップをひっくり返しそうになる。いつの間にか、怜司がうっすらと目を開けていた。その目は涙の膜でぼんやりと潤んでいたが、そこにははっきりと遥の姿が映っていた。「……遥」かすれた息のような声が漏れた。遥は勢いよく立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、鋭い音を立てる。ナースコールを押さなければ。すぐに駿に知らせなければ。頭ではそうわかっているのに、足が根を張ったように動かない。その場に立ちすくんだまま、遥は怜司が苦しそうに手を持ち上げるのを見ていた。点滴の針の痕がいくつも残る手が震えながら動き、最後に病衣の2番目のボタンのところで止まった。「何してるの!?動かないで」ようやく声が出た。遥は駆け寄って、その手首を押さえる。手のひらの下で感じる脈は弱々しく、燃えるように熱い。肌と肌が触れ合った瞬間、怜司が激しく咳き込み、口元から鮮やかな赤い血がにじんだ。「先生

  • 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔   第256話

    力の抜けた手から、ハンカチがするりと床へ滑り落ちた。貴子はそれに気づくこともなく、ただ呆然と前を見つめていた。そして激しく咳き込み、胸をかきむしるように押さえた。遥がとっさに駆け寄って震える身体を支えると、触れた肌はぞっとするほど冷たかった。「薬……ポケットに……」遥がポケットを探ると、ニトログリセリンの錠剤が見つかった。すぐにその錠剤を貴子の舌の下に入れると、顔を上げ、駿に向かって叫んだ。「早く循環器内科の先生を呼んでください!」駿はすぐに医療スタッフを呼び、貴子の状態を確認し始めた。「いいの……それより先に、怜司を……」貴子は遥の手首を強くつかんだ。驚くほどの力だった。「あの子……今夜は、もたないかもしれない……」薄暗い病室で、モニターの赤いランプが点滅していた。戸口に立った遥は、ベッドの上の男が誰なのか、一瞬わからなかった。全身にいくつものチューブがつながれていた。酸素マスクの下で、怜司の唇は紫がかっていた。何より痛々しかったのは、シーツの端からのぞく包帯だった。何重にも巻かれたガーゼに、絶えず血がにじみ出ている。「遥さんの声は、ちゃんと聞こえてるはずです」点滴の滴下速度を調整しながら、駿が低い声で言った。「まだ深い昏睡状態ですが、遥さんの声を録音したものを流すと、反応が見られることがあるんです」遥はゆっくりとベッドに近づいた。モニターの心拍数が、急に45から68へ上がり、またゆっくりと下がっていく。遥は思わず手を伸ばしかけた。けれど、怜司の指先に触れる寸前で止まった。指先にはパルスオキシメーターが挟まれ、血の気の失せた白い肌の下に、青紫の血管がくっきりと浮いていた。「何でもいいから、声をかけてあげてください!」駿が急に声を荒らげた。「こいつのこと、恨んでるんでしょう?死にかけてる今、罵りの言葉のひとつでもぶつけてやらないんですか!」窓の外で、雷鳴がとどろいた。そのとき遥は、怜司の固く閉じた目尻から、ひとすじの涙が伝い落ちるのを見た。「怜司」ようやく、遥は口を開いた。ささやくような声だった。「約束したでしょ。生きて償うって」モニターの心拍数が大きく変動した。駿が駆け寄り、瞳孔の反応を確かめて声を上げる。「意識が戻りかけてる!そのまま話しか

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status