INICIAR SESIÓN「結衣、いい子にしてなかったから……ママ、結衣のこと嫌いになっちゃったの?」
その涙に、さすがの絵里香も言葉を失う。気まずげに視線を逸らし、小さく舌打ちをした後、「……そんなこと、言ってないでしょ」と呟いて寝室へ逃げるように消えていった。
胸の奥が激しく痛む。俺は結衣の小さな体を強く抱きしめた。
「違うよ。結衣は世界一のいい子だ。パパがずっと一緒にいるから、安心して眠りなさい」
俺は結衣の小さな背中を優しくさすり続けた。
しゃくりあげる声はやがて規則正しい寝息へと変わり、泣き疲れた娘の身体からすっと力が抜ける。
その小さな身体を抱き上げてベッドへ運び、毛布を掛けた。
明日、あの女が少しでも母親としての務めを果たすなら、胸の中で刻んだ九十九回のカウントは白紙に戻してやる。それが結衣から母親を奪わないための、俺からの最後の譲歩だ。
——これが最後のチャンスだ。次はない。
◇
翌朝。
キッチンから漂う微かな匂いで、俺は目を覚ました。
リビングへ向かうと、テーブルにはトーストと卵料理が並んでいる。絵里香がエプロン姿で立ち、コーヒーを淹れていた。
何年ぶりかも分からない光景だ。起きてきた結衣も、目を丸くして喜んでいる。
あの女の中にも、まだ家族を省みる心が残っていたのか。俺が微かな安堵を覚えた、その時だった。
テーブルに置かれた絵里香のスマートフォンが鳴り響いた。
画面を見た瞬間、絵里香の表情がわずかに緩んだ。
——画面を見なくても分かる。どうせ樹だろう。
絵里香は俺たちから視線を逸らし、一度は通話を切った。しかし数秒後、再び着信音が鳴り響く。
仕方がないという素振りを見せ、彼女は通話ボタンをタップした。
「どうしたの? え、先方の社長がへそを曲げた? わかった、すぐに向かうわ」
通話を切るなり、絵里香はエプロンを外し、慌ただしくクローゼットへ向かった。
絵里香は深刻そうに言ったが、静かなリビングには、電話越しに甘える樹の『早く顔が見たいです』という声がはっきりと漏れ聞こえていた。
「ママ、おでかけするの? 一緒にごはん、たべるって……」
コートを羽織る絵里香の裾を、結衣が小さな手で必死に掴む。
だが、絵里香は躊躇なくその手を振り払った。
「ごめんなさい結衣。ママの会社がピンチなの。ママが稼がないと、この家は生きていけないのよ」
見え透いた三文芝居だ。
間男の身勝手な戯言を「会社のピンチ」とすり替え、自らの不貞を正当化して俺を貶める。
愛娘の懇願すらも見捨て、玄関へ向かうその背中を見た瞬間——俺の胸の中で、最後に残っていた細い糸が完全に断ち切られた。
「結衣、パパがママをお見送りしてくるから、少し待っていなさい」
俺は泣きじゃくる結衣の頭を撫でてリビングに残し、玄関へと向かう絵里香の背中を追った。
パンプスを履き、ドアノブに手をかけた彼女の背中へ、もはや一片の容赦も残っていない、凄みのある低い声で告げる。
「そのドアを開けたら、俺たちは終わりだ」
その言葉に、絵里香はピタリと足を止めた。
振り返ろうとする彼女へ、俺は追い打ちをかけるように言い放つ。
「今日中に離婚届を置いて出て行け」
絵里香は鼻で笑い、心底呆れたという顔で俺を振り返った。
「は……? 何を馬鹿なこと言ってるの。私の稼ぎに縋っている分際で、私と別れるって? 本当に救いようのない男ね。樹くんのおかげで大型契約が決まりそうなの。彼は本当に頼りになるわ。あなたも少しは、彼を見習ったらどうなの?」
彼女は嘲笑い、乱暴にドアを閉めて出て行った。
バタン、という重い音がマンションに響き渡る。
百回目——
ついに条件は満たされた。
リビングに戻り、泣きすがる結衣を抱きしめる。
「パパは少し外で用事を済ませてくる。お利口に、お留守番できるか?」
そう言い含めると、俺は部屋を後にし、マンションに隣接する人気のない裏通りへと歩を進めた。
冷たい朝の空気を肺に吸い込み、深く息を吐き出す。
一分後。
通りに、漆黒の高級車が三台、滑るようにして停まった。
ドアが開き、高級スーツに身を包んだ十人の男たちが一斉に降り立つ。彼らは俺の前に隙のない動きで整列し、深く、そして完璧な角度で頭を下げた。
「若様。お帰りなさいませ」
一条本社ビル、地下の保護施設。面会室前の廊下。 絵里香が完全に崩れ落ちたのを見届けたあの時、凜は少し前、俺への目配せで、面談室を後にしていた。 今日、結衣は俺に会うため上階で待っていたはずだ。凜はその足で結衣のもとへ向かい、次の一手を確かめていた。母親に会いたいかどうか、幼い本人の意思を—— 面談室を出た俺の前に凜が結衣の手を引いて立っていた。結衣は少し緊張した面持ちで、俺の姿を見つけると小さく駆け寄ってくる。「兄さん、結衣ちゃん本人に確認は取りました。……『会ってみたい』と、自分から言い出しました」 絵里香を許す気は、欠片ほども残っていない。だが、母親に会うかどうかを結衣自身に選ばせもせず、俺の判断だけで一方的に断ち切ってしまえば、いつかこの子は「本当は会いたかったのに」と、未練を抱え続けることになりかねない。結衣自身の目であの女の本性を確かめさせておく——それが、この先ずっとあの女の影に振り回されないための一番確実な免疫になる。 凜の言葉に頷き、俺は結衣の前にしゃがみ込んだ。「怖くなったら、いつでもやめていい。パパがすぐ隣にいるからな」 結衣は小さく頷き、俺の手をぎゅっと握り返してきた。その小さな手のひらの温もりだけが、この施設の中で唯一まともな感覚だった。 面会室は分厚い透明なガラスで二つに仕切られている。連行された絵里香が、向こう側の椅子に座らされていた。ガラス越しにこちらを見た瞬間、絵里香の表情が驚愕から歓喜へと一変する。「結衣……! 結衣、来てくれたのね……!」 絵里香が椅子を跳ね除けるように立ち上がり、ガラスに駆け寄った。だがその勢いに、結衣の身体がびくりと竦む。 小さな指が俺のスラックスの生地をきつく握りしめた。結衣はガラスの向こうの女を、探るような目でじっと見つめる。数秒の沈黙の後、結衣はゆっくりと顔を背け、俺の脚の後ろに隠れるように身体を寄せた。「……ママじゃない。知らない人」 か細いが、はっきりとした声だった。 その一言に、絵里香の顔から表情がごっそりと抜け落ちる。「な……何言ってるの、結衣。ママよ、ママでしょう……!」 絵里香はガラスに両手を叩きつけた。乾いた音が面会室に何度も響き渡る。「結衣、こっちを見て! お願い、ママを見て……!」 結衣は顔を背けたまま、俺の脚から離れようとしなかった。 ガラス
一条本社ビル、地下の保護施設。面談室。 これ以上、ここに留まる理由はない。書類を残し、俺は踵を返した。だがその背に、絵里香の声が縋りつくように飛んできた。「待って……! 待ってよ、隼人さん」 俺は扉の前で足を止めた。振り返ると、床にへたり込んだ絵里香が涙と鼻水で汚れた顔のまま、こちらを睨むように見上げている。「あなたが、最初から一条家の後継者だって言ってくれていたら、私は裏切らなかった。あなたが全部隠してたから、こんなことになったのよ」「何だと」「そうよ。無職の主夫のふりなんてしてなければ、私が樹くんに惹かれることもなかった。全部、あなたが最初から正体を隠していたのが悪いのよ」 自分の罪の重さを最後の最後で他人に押し付ける。これまで積み上げてきた身勝手さの、これが集大成だった。壁際で聞いていた凜が、あまりの言い草に絶句し、思わず声を漏らす。「これを本気で言っているとしたら、末期ですね」 凜の呟きが耳に届いているはずなのに、絵里香はなおも俺だけを見据え、必死に言葉を継いだ。「そうでしょう? 最初から言ってくれれば、私だって、あなたを選んでいたはずなのに」 俺の中で、これまで意識して抑え込んできた何かが輪郭を露わにする。数年分の記憶が一気に喉元までせり上がってきた。「後継者、か」 低く漏らした声に絵里香がびくりと肩を震わせた。俺はゆっくりと絵里香の前まで戻り、膝を折って視線の高さを合わせる。至近距離で見る彼女の目には、もう反論を組み立てる余裕すら残っていなかった。「お前が裏切ったのは、俺という一条家の後継者じゃない」「えっ?」「苦しい時期を一緒に過ごした夫と、お前の帰りを待っていた娘だ。お前が結衣の誕生日に何をしたかは、一生消えない傷として残る」 絵里香の顔から抗弁の言葉が消えていく。「五歳の結衣が、お前のために描いた似顔絵を胸に抱いて待っていた夜を覚えているか? 生クリームのケーキが、ひび割れて乾いていくのを俺は一人で見ていたんだ」「や……やめて」「お前は電話の向こうで笑っていたな。『子供の誕生日なんて毎年ある』と。あの日、俺は何度も自分に言い聞かせたよ。お前は不器用なだけで、家族への愛情は残っているはずだと。だが、お前が本当に選ぶべきだったものが何なのか——今さら思い出したところで、もう遅い」 絵里香の口から、言葉にならな
一条本社ビル、地下の保護施設。面談室。 資産凍結手続きの最終確認——そのためだけに俺はここへ足を運んだ。用件はそれだけのはずだった。 扉が開いた瞬間、椅子に座らされていた絵里香が弾かれたように顔を上げる。かつて人前で見せていた完璧な化粧や隙のない身なりは、今の彼女には見る影もない。頬はこけ、髪は乱れ、数日前までビジネスクイーンと持てはやされていた面影は、どこにも残っていなかった。「隼人さん……!」 絵里香は椅子から崩れ落ちるように床に膝をつき、そのまま俺の足元へ縋りついてきた。「お願い、聞いて。私、間違ってた。全部あなたの言う通りだった。……もう一度、やり直させて。家族に戻して」 床に額を擦りつけんばかりの姿勢で絵里香は涙声を張り上げた。俺は表情を変えないまま、書類の束を机に置く。 同席していた凜が、冷ややかな一瞥を絵里香に向けた。「兄さん、彼女は反省や後悔はしていません。頼れる資産をすべて失った今、残された最後の担保として、兄さんに乗り換えようとしているだけです」 凜の指摘に絵里香の肩がびくりと震える。図星を突かれた反応だ。「そんな……違う、私は本当に……」「違わない」 俺は言葉を挟んだ。「お前が今すがっているのは俺じゃない。俺の肩書きと俺の財産だ。今までと、何一つ変わっていない」 絵里香は俺の手を両手で掴もうと腕を伸ばしてきたが、俺はその手が触れる前に一歩下がり、机の陰へ引いた。彼女の指先が虚しく宙を掻く。「違う……信じて。私、あなたの隣にいた頃が一番幸せだったの。あの時に戻りたいだけなのよ」 白々しい言葉が俺の耳を素通りしていく。 数年前、俺が無職の主夫だった時分、彼女はその俺を蔑み、罵り続けていた。生活費すら渡さず、結衣の前でさえ「甲斐性なし」と嘲笑っていた口が、今さら、どの面下げて幸せだったと語るのか。 俺が黙って見返すだけで答えないでいると、絵里香は表情を変え、別の切り口を試みてきた。「……聞いて。結衣のためよ。あの子にはやっぱり、ちゃんとした両親が必要でしょう? 結衣のためを思うなら、私たち、もう一度家族としてやり直すべきじゃない?」 絵里香は縋る腕に力を込め、必死に論点をすり替えようとする。これまで散々踏みにじってきた娘の名前を、今になって己の延命の道具に使う——その浅ましさに、俺の中で何かが冷たく凝固して
一条本社ビル、地下の保護施設。 黒幕の名を口にしかけて凍りついた樹は、あの一言以来、貝のように口を閉ざし続けていた。恐怖に支配された男から無理に言葉を引き出そうとすれば、かえって沈黙を固くするだけだ。俺はひとまず矛先を変えることにした。「絵里香のいる部屋へ行って、樹の取り調べ音声を聞かせてやれ。俺はモニター室から繋ぐ」 俺の指示を聞き、凜が険しい表情のまま頷いた。「兄さん、本当にあの女に聞かせるんですか。あれを聞いて壊れない人間はいないと思いますが」「壊れてもらわなければ困る。樹に守られる価値など、あの女には最初からない——それを自分の耳で理解させてやる」 結衣の誕生日を平気で踏みにじったあの女に、これ以上の温情をかける理由はどこにもない。俺はモニター室へ足を向けた。 隔離房のモニター越しに絵里香の姿が映し出される。壁にもたれ、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。かつて祝賀パーティーのステージで人々の視線を独占していた女の面影は、もうどこにもない。「絵里香、お前に聞かせたいものがある」 俺の声に絵里香がのろのろと顔を上げた。「……何よ。今さら私を笑いに来たの」「笑いに来たわけじゃない。お前が今も信じているものを壊しに来ただけだ」 凜がタブレットを操作し、取り調べの録音を再生する。感情の抜け落ちた樹の声が、狭い房に響き渡った。『絵里香? ああ、五人目の駒だよ。金づるが太かったから、少し長く飼っただけだ』「……嘘よ」 絵里香の唇が震えた。「こんなの切り貼りした音声に決まってる。樹くんは私だけを本当に愛してくれてた……!」「それなら、これも切り貼りだと言うのか」 凜がタブレットの画面を切り替える。四人の女性の顔写真が並んだ。アパレル、美容クリニック、飲食チェーン、輸入雑貨——いずれも野心的な女性経営者だ。積み上げてきた経歴、そして成り上がろうとした野心の形が絵里香自身と恐ろしいほど重なり合っている。「過去七年間、樹はまったく同じ手口で、まったく同じ立場の女を渡り歩いてきた。お前はその五人目に過ぎない。特別でもなんでもない、ただの獲物だ」 絵里香の顔から表情が抜け落ちていく。震える指先が写真の一枚——自分と瓜二つの経歴を持つ女の顔に触れた。「私は……特別だって……頂点に立てる女だって、そう言ってくれた……」「あいつが興味を持
一条本社ビル、地下三階の尋問室。 窓一つない灰色の壁に、蛍光灯の白い光が容赦なく降り注ぐ。パイプ椅子に座らされた宝生樹は、両手首を拘束された姿でうつむいていた。かつて絵里香の隣で振りまいていた完璧な営業スマイルも、寸分の乱れも許さなかった身だしなみも、今はどこにも見当たらない。皺だらけのシャツの袖口から覗く指先だけが、不自然なほど白く乾いていた。数日前まで、この男は自らを頂点に立った勝者だと信じ切っていたというのに…… 換気扇の低い唸りだけが響く部屋で、俺は資料の束を机に置いた。母を奪った黒幕へ至る糸口が、この男の口の中にある。そう思うだけで、腹の底に押し殺してきた怒りが再び頭をもたげた。結衣にこれ以上、汚れた大人の事情を背負わせるつもりはない。この男から先の名前を引き出せば、この長い戦いにも終止符が打てる。「宝生樹。あなたの経歴書を、一枚残らず読ませてもらいました」 凜がタブレットを操作し、四人の女性経営者の顔写真を次々と映し出す。「アパレル、美容クリニック、飲食チェーン、輸入雑貨——あなたが食い潰してきた会社の数だけ、被害者がいます。戸籍の偽装、資格の捏造、資金洗浄のルート。四人分の被害届と裏帳簿、一枚残らず揃っています」 樹の口元に、まだ薄笑いが張り付いている。「……証言なんて、いくらでもでっち上げられる。俺は、ただ女に好かれただけの男だ。運が良かっただけだ」「それなら、これも偶然というのか」 俺は録音データを再生した。震える女性の声が狭い室内に響く。『あの人に近づかれてから、半年で会社の資産は空っぽになりました。私はもう、二度と人を信じられなくなりました』 その一言が終わるより早く、樹の喉仏が大きく上下した。取り繕っていた余裕の色が、頬から音もなく引いていく。それでも樹は肩をすくめ、乾いた笑いを絞り出そうとした。「……女の恨み言一つで、俺を裁けるとでも? そんなもの証拠と呼べる代物じゃない」「お前を拾って育てた清掃屋は、もう洗いざらい吐いている。詐欺の手口、戸籍の偽装の技術、絵里香を落とすための台本まですべてな」 俺は身を乗り出し、樹の目を正面から射抜いた。「お前は黒川商会に預けられ、詐欺の手口を徹底的に叩き込まれた。それは誰の指示なんだ。答えろ」「……知らない。俺は、何も知らない」「それなら、お前が姿を消す前に持ち出そう
一条本社ビル、執務室。 凜がタブレットの資料を広げながら、俺の前に座った。その表情には、これまでの調査で見せてきたどの顔とも違う、確信めいた鋭さが浮かんでいる。「兄さん、樹の過去の経歴を、もう一段階深く掘り下げました。……結果、想像以上に根の深い話が出てきました」「聞かせてくれ」 窓の外には、Xデーの喧騒が嘘のように静まり返った京都の街並みが広がっていた。黒川、白鷺銀行——大きな駒を次々と仕留めてきたが、樹という男の底が、まだ完全には見えていない。その予感が俺の中でずっと、くすぶり続けていた。「樹が絵里香に近づいたのは、決して偶然ではありません。過去七年間で、少なくとも四人の女性経営者に、まったく同じ手口で接近している痕跡が見つかりました」 タブレットに映し出されたのは、四人の女性の顔写真と、それぞれが経営していた企業の概要だった。アパレルブランド、美容クリニック、飲食チェーン、そして輸入雑貨の卸業——いずれも、創業者が野心的な女性経営者であるという共通点がある。いずれの企業も、樹が去った後、数ヶ月と経たずに経営破綻に追い込まれていた。「手口はすべて同じです。経営基盤が固まりきっていない会社に恋愛感情で入り込み、資金繰りの相談役として経営の中枢に食い込む。そこから融資詐欺や資金洗浄の器として会社を利用し尽くし、最後には食い潰して姿を消す——樹は黒川グループが飼っていた『使い捨ての実行役』だったんです」 いずれの被害者も、事業拡大の野心はあっても経営や資金繰りの経験が浅い。そこに付け入る隙を見出し、恋愛感情という最も防ぎようのない手段で懐に入り込む——樹の手口は、まるで精密に磨き上げられた狩猟の技術だった。 俺は資料を捲る手を止めた。絵里香もまた、その使い捨ての駒の一つに過ぎなかったという事実に奇妙な感慨すら覚える。同時に、これほど精巧な手口を一朝一夕で身につけられるはずがないという確信も俺の中で強くなっていった。誰かが、この男を一から仕込み、送り出してきたのだから、当然だ。「被害者への接触は」「一人、応じてくれました。三年前、樹に会社を乗っ取られかけたアパレルブランドの元経営者です。長年、証言することへの恐怖から沈黙を続けてきたようですが、今回、一条が本気で樹を追い詰めていると知り、ようやく重い口を開いてくれました」 凜が音声データを再生
漆黒の高級セダンは、一条財閥が京都に所有する最高級ホテルの地下専用エントランスへと滑り込んだ。 一般客が決して立ち入ることのできない最上階のペントハウス。そこが今日からの俺たちの新しい家であり、同時に反撃の拠点となる安全な要塞だった。「わぁ……お部屋、すっごくひろいね!」 ふかふかの絨毯を踏みしめて結衣は目を丸くして、はしゃいでいる。昨夜のケーキの一件や、今朝の絵里香との冷え切った遣り取りで傷ついていた小さな心も、非日常的な空間のせいか少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。「結衣、疲れただろう。今日はゆっくり休むといい」「うんっ!」 嬉しそうにソファへ飛び込む結衣の姿に目を細めて
冷たい雨がアスファルトを叩く音を背に、俺は自宅マンションの重い扉を開けた。 玄関は薄暗く、静まり返っている。濡れたコートを脱ぎ捨て、リビングの照明をつけると、そこには目を背けたくなるような現実が待っていた。 テーブルの中央に置かれたバースデーケーキ。六本のロウソクは火を灯されることもなく、生クリームは完全に乾ききって、ひび割れている。傍らには、結衣が一生懸命に描いた『ママの似顔絵』が、主役の帰りを待ちわびたまま、ぽつんと残されていた。 表面上は平静を保っていたつもりだったが、内面はすでに決定的に壊れかけている。 俺はソファに深く沈み込み、両手で顔を覆った。 過去の記憶が薄暗いリビ
俺の言葉に絵里香は鼻で笑い、周囲の経営者たちへ聞こえるほど大きな溜息をついた。「何を見間違えたのか知らないけれど、大袈裟に騒がないで。誤解よ、誤解。海外のビジネスシーンでは、これくらい当たり前の親愛の情だわ。本当に器の小さい男ね、あなたって人は」 絵里香は血相を変えるどころか、軽蔑を隠そうともせずに言い放った。「自分の無知を棚に上げて、大事な祝賀会の席で醜態を晒すなんて。恥ずかしいから、もう口を開かないで」 そこへ、横に立っていた樹が一歩前に出た。顔に張り付いた完璧な営業スマイルは、その奥の嘲笑を隠そうともしていない。「旦那様、あまり絵里香さんを困らせないでください。彼女は今、我
夜八時。リビングのテーブルには、結衣の名前が書かれたバースデーケーキと、不格好なリボンが結ばれた小さな箱が置かれていた。「パパ……ママ、まだお仕事終わらないの?」 五歳になる娘の結衣が、画用紙に描いた『ママへの似顔絵』を胸に抱きしめたまま、泣き出しそうな顔で俺を見上げている。 今日は結衣がずっと楽しみにしていた大切な誕生日だ。俺は娘の頭を優しく撫でると、スマートフォンを取り出して、妻である絵里香に電話をかけた。 数回のコールの後、苛立ちを含んだ声が耳に届く。『何? 今、ホテルで重要な祝賀パーティーをしているの。用がないなら電話してこないで』「今日は結衣の誕生日だ。ケーキを買って