Masukやがて尚南は向きを変え、自分のスポーツカーへ戻る。運転席に転がっていた赤いベルベットの箱を拾い上げ、車内の収納へ無造作に入れた。それからタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。「あの女性記者は、俺の部屋に潜り込んで取材していた。何を撮ったかなんて、どうでもいい。俺の目の前まで死にに来た奴には、楽に終わらせてやる。尚南副社長、いい知らせを待っていますよ。俺たちの協力関係は、これからますます強固になるでしょう。あなたの実力に俺の助力が加われば、椎名グループも椎名家も、いずれすべてあなた一人のものになる。これからはこちらも、尚南副社長を大いに頼りにさせてもらいますよ」風牙の不気味な言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。境界地帯の泥沼は、一度足を踏み入れたら最後、もう二度と引き返せない。尚南はタバコを深く二度吸い込み、吸い殻を乱暴に揉み消した。それからエンジンをかけ、スポーツカーを走らせる。夜が更け、あたりが静まり返った頃、車は自宅の地下ガレージへ滑り込んだ。待機していた秘書がすぐに近づき、車のドアを開ける。尚南は車から降りた。「最近、莉奈のそばにいる、廷治と一緒に動いているあのボディーガードの素性を調べろ」「承知いたしました」秘書は尚南の歩調に合わせてついてくる。「尚南副社長。今日の夕方、グループ内の全幹部宛てに人事処分の通知が一斉送信されました。会長室直々の通達です」尚南の足が、ピタリと止まった。承也は今、椎名グループの会長兼代表執行役だ。だが承也は、普段なら処分の細かな手続きにまでいちいち口を出さない。それが会長室から直接通達されたという。しかも、人事処分の通知が全幹部に回るというのは、たいてい処分対象が上層部の人間である場合だ。「誰が処分された」秘書の表情は重い。「田村健吾(たむら けんご)、松井義明(まつい よしあき)、それから……」秘書が口にした名前は、役職こそ高くないものの、いずれも尚南の息のかかった人間ばかりだった。尚南は完全に足を止めた。前方のガラス壁に、尚南の陰った横顔が映っている。「処分対象には、俺も入っているのか」「はい」「昼間、椎名社長が系列病院へ向かわれた際、エレベーターに閉じ込められる事故がありました。それで会長の逆鱗に触れたようです。調査
莉奈の顔から、すっと温度が消えた。言い返そうとした瞬間、尚南の切迫した顔を見て、莉奈の胸に冷たい予感が芽生えた。「私が誰を敵に回したか、知っているの?」風牙のことは、省之介でさえ知らないはずだ。もし尚南までその名を知っているのなら、尚南こそが椎名家の中で風牙と内通している人間である可能性が高い。尚南がいかに厄介で横暴な男かは、莉奈も痛いほど知っている。けれど、椎名家には代々守られてきた絶対の掟がある。禁制品に手を出してはならない。裏社会の秩序を乱すような犯罪に関わってはならない。どれほど尚南が手に負えない人間だとしても、莉奈は彼に一線を越えるような真似だけはしてほしくなかった。自分の思い過ごしであってほしい。あの椎名家に、マフィアと通じるような人間などいるはずがないと思いたかった。尚南は冷たい風を受けながら、莉奈の白黒のはっきりした瞳を見つめていた。薄い黒のカシミヤセーターが、尚南の引き締まった上半身をぴたりと包んでいる。激しく上下していた胸は、少しずつ落ち着いていった。尚南は乱暴に顔をこすった。血の気の引いた顔に、赤い指の跡がいくつも残る。尚南は自嘲するように短く笑った。「何だよ。俺に助けてほしいのか?これだけのボディーガードをつけてるってことは、相手は相当面倒な奴なんだろ。俺が助けてやってもいい。前にも言ったよな。俺のところへ来い。そうすれば、俺はお前のために全部賭けてやる」またそれだ。莉奈は、この男を蹴り飛ばしたい衝動をどうにか押し殺した。声には苛立ちがにじむ。「結局、何を言いに来たのよ」尚南はポケットから、赤いベルベットの小さな箱を取り出した。いかにも高価そうな作りの箱を、莉奈へ差し出す。「今日は俺の誕生日だ。君へのプレゼント」つまり、わざわざ贈り物を持って現れたらしい。いつからだっただろうか。尚南は自分の誕生日になるたび、決まって莉奈へ贈り物を持ってくるようになった。莉奈が尚南の誕生日など覚えていないというのに。本当は、日付を忘れているわけではない。ただ、子どもの頃から尚南には大小さまざまなことで絡まれてきた。莉奈は今でも尚南を素直に受け入れる気になれなかった。だから尚南からの贈り物も、一度だって受け取ったことがない。「いらない」莉奈はきっぱりと断っ
ほどなくして、莉奈は壇将から返信を受け取った。【待っていろ】莉奈は椎名邸で、まず千鶴の話し相手をした。千鶴が眠ったあとは、将軍と何度かフリスビーで遊んだ。気づけば、もう午後三時を過ぎている。それでも壇将はまだ来ない。けれど莉奈は、壇将が約束を守る人だと知っていた。待っていろと言った以上、適当にごまかすような真似はしないはずだ。莉奈が将軍の頭を抱えながら陽だまりに座り、ずっと静かだったスマホを両手で見つめていると、ようやく壇将からメッセージが届いた。【出てこい】莉奈は将軍を放すと、すぐに椎名邸を飛び出した。遠くに角張った大型SUVが停まっているのが見えた。車から降りてきたのは、黒いキャップとマスクで顔を隠した、背の高い男だ。廷治が早足で二人のそばへ駆け寄ってくる。「Jさん、向井さんをどこへ連れていくつもりですか?」車のドア脇に立っていた壇将は、無言のままスマホを廷治の目の前へ差し出した。【口を出すな】圧倒的な威圧感を前に、廷治は壇将が莉奈を車に乗せるのを黙って見ているしかなかった。しかも同行さえ許されない。廷治は一人、冷たい風の中に取り残された。今、電話口から聞こえてくる廷治の泣きそうな声に、莉奈はなだめるように答えた。「もうすぐフィットネスクラブに戻るから、心配しないで」夜、壇将は莉奈を車でマンションまで送り届けた。廷治とほかのボディーガードたちも、別の車で後ろからついてきている。壇将の車が莉奈のマンションの敷地へ入ろうとした、その時だった。突然、別の方向から一台のスポーツカーが猛スピードで走ってきた。その車はエントランスの入り口を塞ぐように乱暴に停まり、進路を遮った。入り口の警備室にいた警備員が、窓から顔を出した。ぶつぶつ文句を言いながら出てこようとしたが、スポーツカーが威嚇するようにクラクションを鳴らした途端、驚いて室内に引っ込んでしまった。車の窓が下がる。そこから現れたのは、莉奈の見覚えのある顔だった。同時に、莉奈のスマホが鳴る。莉奈が画面をスワイプして電話に出ると、尚南の感情の読めない声が耳に届いた。「奈奈、車を降りてくれ。話がある」「せっかく電話してきたんだから、このまま話せばいいじゃない」莉奈は、尚南の横暴でもったいぶった態度にうんざりしていた。
射撃場には、銃声が絶え間なく響いていた。莉奈は緊張した顔で銃を構える。パン、と乾いた音が鳴り、ようやく一発の弾が正面の標的に当たった。「どうですか?」莉奈は興奮したまま、後ろに立つ壇将を振り返った。口元が大きく弧を描いている。十発目で、ようやく的に当たっただけだ。しかも、一番外側の一点圏の線にかすっただけだった。それでも莉奈は、まるで自分が偉業を成し遂げたかのような顔をしている。褒め言葉を待っているのも、隠しようがない。壇将は目を伏せ、わずかに頷いた。壇将がスマホを取り出し、文字を打とうとする。莉奈はそれを見て、胸の中でまた少し嬉しくなった。壇将のような無愛想なトレーナーから褒め言葉をもらうのは、きっと簡単ではない。とはいえ、壇将はもともと口数が少ない。せいぜい【悪くない】くらいの評価だろう。だが次の瞬間、壇将はスマホの画面を莉奈の前に差し出した。【ひどい】莉奈は固まった。以前、壇将が莉奈の身のこなしを試したあとに下した評価と、まったく同じだった。莉奈の瞳に浮かんでいた喜びが、一瞬で凍りつく。やがて、諦めたように頷いた。「はいはい、分かりました。もう言わないでください。また努力で補えってことですよね」莉奈は子どもの頃から、何でも一度で覚えられるほど器用だったわけではない。けれど、ひどいと言われるほどできなかったこともない。ひどいと言われたのは、これで二度目だ。しかも、同じ相手に。もしかして自分は、世間で言う、頭は回るのに体がついてこない人間なのだろうか。そう考えると、承也は本当に神様に特別扱いされている。頭も身体も、どちらも常人離れしているのだから。莉奈は深く息を吸い、人生そのものを疑うような顔で、目の前の銃を取り直した。背を向けた莉奈は、壇将が吸い込まれそうな瞳で莉奈の背中をじっと見つめていたことに気づかなかった。莉奈が銃を握り、人差し指を引き金にかけた瞬間、壇将が一歩前へ出た。壇将は、構えが低すぎて不安定な莉奈の手を背後から取る。タクティカルグローブ越しに、迷いのない動きで莉奈の人差し指の先を押し込んだ。パン!耳をつんざく銃声が響く。莉奈は、標的のど真ん中に開いた黒い穴を呆然と見つめた。十点。「壇将さん!」莉奈は振り返り、信じられないという顔で壇将
エレベーターの中で、莉奈は偶然見てしまった。承也のコートのポケットに、自分の記者証が半分見え隠れしていたのだ。承也が美月の声に気を取られていた隙に、莉奈は確かに記者証を抜き取った。承也がまったく気づいていなかったことも、莉奈には確信がある。それなのに、自分のポケットへ入れたはずの記者証が、どうして跡形もなく消えているのか。「向井さん、何をお探しですか?」廷治が莉奈のそばについて歩きながら尋ねた。莉奈は、すべてを諦めたような顔になった。考えるまでもない。また承也にすり取られたのだ。もういい。もともと再交付してもらうつもりだった。エレベーターの中でたまたま見つけたから、取り返せると思っただけだ。「何でもない。行こう」眼科の診察室の前。承也はポケットから、瑠璃色の報道記者証を取り出した。口元が、ごくわずかに上がる。承也は毎月、眼科で目の経過を診てもらっている。検査を終えた医師が尋ねた。「最近、目を酷使するような残業が続いていらっしゃいますか?」承也は淡々と頷いた。「ああ」「前にも申し上げましたが、もう少し目を休ませてください。充血して赤みが出る程度ならまだ軽いほうですが、戻られたら目を使う時間を意識して減らしてください。まだ回復の途中ですから、カラーコンタクトのようなものはできるだけ避けたほうがいいんです。もっとも、椎名社長は普段そういうものをお使いにならないので……」「使った」承也の平坦な声が、医師の言葉を遮った。医師は一瞬、固まった。「色のついたコンタクトを使った」医師はまた固まった。数秒遅れて、深く息を吸う。喉元まで出かかったツッコミを、必死に飲み込んだ。――色のついたコンタクト。それって、つまりカラーコンタクトじゃないか。おそらく椎名社長は、本当に「カラーコンタクト」という名称を知らない。知っていたなら、わざわざ「色のついたコンタクト」などとは言わないはずだ。医師が驚いたのは、呼び方だけではない。そもそも、椎名社長がなぜカラーコンタクトなど使ったのか。「どうしてカラーコンタクトをお使いになったんですか。椎名社長の目は、長時間の装用には向いていません」そばに立っていた悠斗は、静かに覚えた。色のついたコンタクトは、カラーコンタクトと言うらしい。
作業員がエレベーターの扉をこじ開けた。莉奈は承也の腕の中から、もぞもぞと頭だけを出した。顔を上げて、ようやく状況が分かった。莉奈と承也は、階と階の間に挟まって停止していたのだ。開いた扉の隙間は狭く、大人一人がようやく通り抜けられる程度しかない。開口部の向こうには、作業員、悠斗、それから三十二階のエレベーター前で悠斗に止められていた廷治がいる。廷治はどうやら、悠斗の制止を振り切れなかったらしい。そのほかにも、車椅子に座る美月、車椅子を押す世話係の女性、省之介、慌てて駆けつけた病院幹部たちがいた。ちょっとした人だかりができている。省之介は、莉奈が無事でいるのを見て、胸の奥で張り詰めていたものがようやく緩んだ。本当は、省之介も分かっていたのだ。承也がそばについている限り、莉奈に万が一のことは起きないだろうと。一方、美月は莉奈を守るように抱え込んでいる承也を見て、目を赤く腫らしていた。声には切迫した響きがある。「承也、早く上がってきて!」一昨日、介護施設で負傷した来賓たちは、それぞれVIP病室へ移されている。けれど、この階に入っているのは莉奈の同僚二人だけだった。今朝、世話係の女性は、莉奈が同僚の病室へ入っていくのを自分の目で見ている。だから美月は、承也が病室を出る時、世話係の女性にあとを追わせた。美月は、承也と莉奈を会わせたくなかったのだ。けれど、恐れていることほど現実になってしまうものだ。世話係の女性は戻ってきて、美月に告げた。承也と莉奈が、一緒にエレベーターへ乗った、と。しかも、二人きりだ。美月はすぐに世話係の女性に支えられ、車椅子へ乗った。まさか病室を出たところで、二人の乗ったエレベーターが故障したと聞かされるとは思わなかった。扉が開いたというのに、承也はまだ莉奈を腕の中に抱き込んでいる。承也の腕の中で、莉奈が冷たく笑った。「ほら。あなたの大事な幼なじみ、本当に気が気じゃないみたいよ。あとでたっぷり慰めてあげれば?」外からは見えない位置で、莉奈の腰を抱く承也の手に強い力がこもった。かすれた低い声が、莉奈の耳元にだけ落ちる。「これ以上無駄口を叩くなら、ここに置いていくぞ」「怖くないわ。私には廷治も省之介さんもいるし……んっ!」言い終える前に、承也の大きな手が莉奈の口







