登入「一人で帰れる?」「大丈夫。タクシー呼んでくれたでしょ?」「そうだけど」「翼さんは仕事に戻らないと。さっき、電話鳴ってたじゃない」トゥルルルルルル……タイミングよく桐生のスマートフォンが鳴った。「もしもし、芹沢。その案件か……ああ、すぐ戻る」どうやら電話の相手は秘書の芹沢のようだ。桐生は電話を切ると私と向き合った。「知英ちゃん、俺、戻らないと」「うん、仕事頑張って。私は料理作って待ってるから」「ありがとう。楽しみにしてる。マンションに着いたら連絡して」「分かった。行ってらっしゃい」私は会社に戻ろうとしない桐生の背中を優しく押した。私だって、桐生と一緒に居たい。だけど、桐生は会社の副社長だ。そんなことばかりは言っていられない。私は、颯爽と歩く桐生の背中を見送った。______________________マンションの前でタクシーを降りた私は、そのまま近くのスーパーへ向かった。スーパーは歩いて5分くらいの所にあった。そこは、外観もオシャレな高級志向のスーパーだった。私は買い物かごを持ち、店内に入った。珍しい野菜やフルーツが並んでおり、私は目を輝かせた。調味料の種類も豊富だ。じっくり店内を周りたい衝動を抑え、私は必要な食材を次から次へとかごに入れた。買い物を終えた私は、足早にマンションへと歩いた。歩いていると、背後に気配を感じた。怖くなり私は振り返った。しかし、そこには誰も居なかった。やはり、私の気の所為だったのだろうか?いや、違う。誰かにあとをつけられている。私はもう一度振り返った。そこには黒いキャップを被った男が居た。私は恐怖で手を震わせながら、鞄からスマートフォンを取りだし、桐生に電話をかけた。トゥルルルルルル……出て。お願い。私は心で叫んだ。「もしもし」「つけられてる」「どうした?」「誰かにつけられてる」「今、どこにいる?」私の会話を理解した桐生の声色が変わった。「マンションの近くのスーパーの帰り」「近くに酒屋あるだろ?」桐生に言われた酒屋を私は探した。すると、すぐ先にその店はあった。「あった」「そこ入って。オーナーと知り合いだから僕から話すよ」「ありがとう」「怪我はない?」「大丈夫」「良かった……そこで待ってて。すぐ迎えにいく」「でも仕事が……」「今は自分のことだけ考えて。僕のことはいいから
私と桐生は、会社近くのホテルのレストランに来ていた。案内された窓際の席に、私は桐生と向かい合って座った。まるで、初めて桐生と食事をした時のような光景に私は懐かしさを覚えた。あの日からまだ数日しか経っていないことが信じられない。「知英ちゃんと初めて食事をした時のこと思い出すなぁ」「翼さんも?実は私も思い出してた。まさか、またこうして翼さんと食事をしているなんてあの時は思わなかった」「僕はあの時も、知英ちゃんのことをまた誘おうと思ってたよ」 桐生は私の目を見て真っ直ぐ言った。桐生は自分の気持ちを正直に伝えてくれる。信じていた人達に裏切られた私にとって、桐生の嘘偽りない誠実さは何にも変え難い安心感を私に与えてくれる。「それで、知英ちゃん。一目惚れって信じる?」桐生は、あの時と同じ質問を私に投げかけた。もう二度と恋なんかしないと思ってた。誰も好きにならないと思ってた。だから、あの時の私は桐生の言葉を信じなかった。でも今は違う。「信じたいと思う」「そうか、良かった」ちょうどその時、桐生が注文してくれた料理が運ばれてきた。メインは肉料理だ。前菜も色鮮やかで、見ているだけで美味しいことが分かった。「翼さんって、素敵なお店たくさん知ってるね」「仕事柄、会食に行く機会も多いからね」桐生の言葉を聞いてふと思った。舌の肥えた桐生の口に、私の手料理は合うのだろうか?「あの……」「ん?どうした?口に合わなかった?」「ううん、料理はとっても美味しいのだけど……」桐生は私が次の言葉を発するのを待っててくれた。私は意を決して、桐生に不安をぶつけてみた。「翼さんはいつも一流のご飯食べてるでしょ?」「うん、まぁ」「私の作る料理でいいのかな?って」「その事を心配してたの?」「はい……」すると、桐生はゆっくりと口を開いた。それは私の知らない桐生の一面だった。「僕の家庭は両親共に仕事人間で、子供の頃は、ほとんど一人で食事をしてたんだ。僕は家庭の味を知らずに育った。だから、知英ちゃんが温かいご飯を作ってくれて、それを一緒に食べられたら僕はそれだけで幸せなんだ」「そうだったんだ。うん、分かった。これからは私が翼さんと一緒に食事する。約束する。だからもう寂しくないよ」「……」桐生が無言で私を見つめた。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。子ども扱いをした
早速、私はワンピースに着替えた。私の為に仕立てられたと言っても過言ではないくらい、そのワンピースは私にピッタリだった。「桐生さんはセンスもいいな」私は姿鏡に映った自分を見つめた。折角、こんなにも素敵なワンピースをプレゼントしてもらったのだから、私も最高に可愛い姿で桐生に会いに行きたい。まずはメイクだ。今朝、簡単に済ませたが、もう少し目を大きく見せたい。私は化粧ポーチからつけまつ毛を取りだし、丁寧に接着した。そして、アイシャドウは、普段よりも色味が少し派手めのものを選んだ。仕上げに滅多に塗らない︎︎︎︎リップグロスを唇に塗った。次に、私はヘアセットに取り掛かった。洗面台の棚を開けると、ヘアアイロンが収納されていた。こんなにも必死にオシャレをするのは、いつぶりだろう。しかも、好きな人に可愛い自分を見て欲しいからという理由で。私は長い髪を少しずつ巻いていった。予想通り、このワンピースには巻き髪が合った。私はヘアセットを終えると、もう一度、姿鏡の前に立った。何か物足りない。そして私は気づいた。「確か、鞄に入れたはず。……あった!」私は鞄からネックレスを一本取り出した。シンプルなゴールドのチェーンに、アマゾナイトという淡いブルーの天然石をあしらったこのネックレスは、私が初めてデザインした記念すべきジュエリーでもある。アマゾナイトは、『希望の石』とも呼ばれ、当時の私は、夢に向かって頑張っている人への贈り物というメッセージを込めた。私は大事な瞬間には、いつもこのネックレスを身につけていた。全ての支度が終わり、私はスマートフォンの時刻を確認した。いつの間にか、10時半を回っていた。もうすぐ迎えが来る頃だ。緊張しているのだろうか?なんだか無性に喉が渇く。私はキッチンのウォーターサーバーでコップ一杯分の水を注いだ。そして私はその水を一気飲みした。私はもう一度、鏡の前に立った。今できる精一杯の私になったつもりだ。「よし、行こう」前を向くのだ。私はアマゾナイトの石を右手で握り締めた。ちょうどその時、インターホーンが鳴った。「はい」 「芹沢です。桜井様をお迎えにあがりました」 「ありがとうございます。今、行きます」 私はインターホーンでの会話を終えると、急いで芹沢の元へ向かった。「お待たせしてしまってすみません」 「いえ、お気にな
「知英ちゃん、今日のお昼って時間ある?」「あるけど、どうしたの?」「お昼一緒に食べようか?」「もしかして、翼さん。私が居なくて寂しいの?」「うん」私は冗談のつもりで言ったのだが、桐生が真顔で答えたことで、私の方があたふたしてしまった。いつもの桐生とのギャップが堪らない。「ずっと一緒に居たい」「翼さん/仕事遅れちゃうよ//」「まだ大丈夫だよ」「でも……/芹沢さん8時に来るよ?」「そうだった。名残惜しいけど、仕事行かないと」桐生は私を抱き締めていた腕を解いた。桐生の温もりが離れてしまい、私は寂しさを感じた。「行ってらっしゃい。またお昼に」「11時頃、マンションに迎えにくるから」「ありがとう」 「それじゃあ、行ってくるね。またあとで」桐生は私の額にそっとキスをし、微笑んだ。______________________マンションに一人になった私は、リビングのソファーに寝転んだ。ソファーがふかふかで、このまま眠ってしまいそうだ。こんなにも快適な暮らしをしていいのだろうか?桐生は私の心も身体も甘やかし、満たしていく。このままでは、桐生なしでは生きられなくなってしまいそうだ。「あ、そうだった……」私は大変なことに気づいた。今日、桐生とランチをする約束をしているが、着ていく服がない。今、着ている桐生から借りた部屋着を着ていくわけにはいかない。となると、昨日、着ていた白色のワンピースになるのだが、びっしょりと汗をかいているため、洗濯せずに着るのは避けたい。私は最善策を見出せず頭を抱えた。ピンポーンその時、オートロックのチャイムが鳴った。私はモニターを確認し、通話ボタンを押した。「はい」「桜井知英様宛のお荷物を、お届けにあがりました」私宛?なんだろうか?私は解錠ボタンを押した。それから数分後、私は無事に荷物を受け取った。宛名には、確かに私の名前が書いてあった。そして送り主は桐生だった。私は箱に貼られている梱包用のテープを丁寧に剥がし、箱を開けた。「青色のワンピースだ、バッグもある。いつの間に……」箱の中には、涼しげな青色のワンピースが入っていた。その色味はまさに私好みだった。「このワンピースなら白い靴とも合いそう」まさか、私が今日のランチに着ていく服がないことを見越して、桐生が用意してくれたのだろうか?そこまで尽くしてくれ
私はベッドでこの数日間の出来事を振り返った。幸せの絶頂にいた私が、信じていた者たちの裏切りにより、一瞬で絶望の淵に突き落とされたあの日。生きる意味さえ分からなくなり、夜の街を彷徨った。その夜、偶然、桐生と出会った。初対面の私に対して、「恋人のフリをしろ」と無理難題を要求してきた桐生に、初めは嫌悪感すら抱いた。けれど、桐生の人柄に触れるうちに、私は彼を知りたいと思うようになった。愛だの恋だのは、もう懲り懲りだったはずなのに。桐生は私自身を見てくれた。そして、真っ直ぐに想いを伝えてくれた。私はスマートフォンの画像フォルダを開いた。このフォルダには、私と優一の8年間の思い出がつまっている。一番最後に撮った写真は、優一から婚約指輪を受け取った時だった。そこには、幸せそうに笑う私が居た。この時に戻れたのなら……なんて、私は微塵も思わなかった。数年前から始まっていた優一の暴力。あの頃は、私への愛情だと思い込んでいた。だけど今なら分かる。それは支配であって、愛なんかじゃない。私は桐生に出会って目が覚めたのだ。私は躊躇うことなく、優一との写真を一括消去した。私はふと思い立ち、ベッドから起き上がるとテーブルに置いてあるスケッチブックを手に取った。ページを捲ると、優一に見せようとしていた結婚指輪のデザイン案があった。私はそのページをスケッチブックから切り離した。それは、今の私に最も必要の無いものだ。なぜなら、二度と優一の元へは戻らないから。だからこうしよう。決別の意味を込めて、私はスケッチブックを破り捨てた。一連の作業を終えた私は、極度の疲労感に襲われた。知らず知らずのうちに、気を張っていたのかもしれない。私は翌朝のアラームをセットする気力もなく、そのまま深い眠りについた。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「今、何時!?」私は飛び起きた。そして、枕元に置いてあるスマートフォンの時間を確認した。「6:00か……」私は、そのままベッドから起き上がった。確か、桐生の秘書の芹沢が8時に迎えにくると言っていたはず。私は身支度を素早く済ませ、リビングに向かった。「よし、作ろう」桐生が起きてくる前に、私は朝食を作ることにした。とは言うものの、この家のキッチンには最低限の食材しかない。キッチンのカウンターに置いてある食パンと、冷蔵庫に入っていた食材を使い私はサンドイッ
「知英ちゃん、先に休んでいいよ?」桐生に言われ、スマートフォンの時計を確認すると、いつの間にか日付が変わっていた。「翼さんは?」「僕は、もう少しだけ仕事してから寝るよ」桐生は鞄の中からタブレットPCを取り出した。仕事の邪魔はしたくない。私は画面を真剣に見ている桐生の横顔をこっそり見つめた。相変わらず、桐生は目鼻立ちがはっきりしており、部屋着で過ごしているにも関わらず、そのイケメンぶりを隠せていない。「知英ちゃん」「はい」「僕の顔に何かついてる?」「え……/」「さっきからずっと僕の顔を見てるから」「ごめんなさい。仕事の邪魔してた」「気にしないで」私は立ち上がろうとした。すると、桐生が私の右腕を掴んだ。「もう少しここに居て」桐生の上目遣いは、想像を超えた破壊力だった。桐生の大きな瞳が私を見つめていた。私は頷くことしか出来なかった。「知英ちゃんもコーヒー飲む?」「それなら私がコーヒー淹れるよ。翼さんは仕事してて?」「ありがとう」「キッチン借りるね」私は桐生の家のキッチンに初めて足を踏み入れた。桐生が外食ばかりだと言っていた通り、キッチンは、使われた形跡がほぼなく、綺麗なままだった。私はキッチンのカウンターに設置されているコーヒーメーカーにカップをセットした。そして、抽出ボタンを押した。ボタンひとつで本格的なコーヒーを自宅で楽しめるとはなんて贅沢なのだろう。すると、そこへ桐生がやってきた。「いい香り」「翼さん、私が持っていくのに」「知英ちゃんが楽しそうだったから見に来た」「えっ、私、顔に出てる?」「うん。そんなにコーヒー好き?」「はい。とっても」「それなら飲みたいコーヒー教えて。注文しとくから」「いいの?」「もちろん」「ありがとう、翼さん」「どういたしまして」そうこうしてるうちに、コーヒーが出来上がった。桐生はブラックコーヒーを一口飲んだ。私は砂糖をスプーン一杯分入れた。これから桐生にコーヒーを淹れる時は、ブラックコーヒーが良さそうだ。私はまたひとつ桐生のことを知った。______________________「終わったー」「お疲れ様」桐生はタブレットPCを閉じると、ソファーでジュエリーのデザインを考えている私の手元を覗き込んだ。「デザイン案?」「そう。来月、社内コンペがあるから」「ネックレス