ログイン黒の城の、円卓の間。
黒曜の卓に、鎖の紋が円を描く。椅子は八。空気は金属の匂い。 ノクスは最奥に立ち、私は出入口に近い席に座った。 角の太い将軍、黒布の魔導師、顔に刻線を持つ祭司、そして副官アシュル。 彼の声は、砂を噛んだような低音だった。 「陛下。確認いたします。人間を城に入れ、評議へ同席させるのですか」 「俺が招いた」 「“聖女”を庇うことが、我らの救いになると?」祭司が割って入る。細い指が、喉元の護符を撫でた。 私は立ち上がる。 「庇われているつもりはありません。ただ——」 アシュルが被せる。 「彼女の光は、呪いを刺激する可能性があります。昨日も——」 ノクスが卓を指で一度叩いた。 「静まれ」 音が空気を整列させる。 私は口を閉じ、視線だけでノクスを見た。彼は私を見ない。全員を見ていた。 「結論は急がない。事実を見る」 祭司が唇を尖らせる。 「事実など、神の言葉ひとつで足りる」 アシュルは目を伏せた。 「……確かに、昨日“痛み”は和らいだ。だが均衡が崩れる兆しも、私は見た」 ノクスは短く告げた。 「ならば——見に行くぞ」 その瞬間、扉が開いて兵が駆け込む。息が荒い。 「報告! 地下採掘層で崩落、負傷者多数! 影が燃えています!」 円卓の空気が、ひと呼吸で変わった。 魔導師が顔色を失う。 「影炎だ……。光を持つ者しか封じられぬ」 全員の視線が、私に刺さる。 ノクスだけが、真っ直ぐに言った。 「……行けるか」 「はい」 アシュルが一歩、前に出た。 「私が護衛します。——陛下は城を」 「俺も行く」 言い切る声に誰も逆らえない。 私たちは階段へ向かった。鎖の紋が、背後で静かにほどける音を立てた。 ◇ 地下層は息が重い。 壁を走る赤黒い紋が、脈のように蠢き、その間を黒い炎が這い回っていた。炎なのに、明るくない。触れた石が、内側から灰に固まる。 「退け! 天井が落ちる!」 叫びが反響し、その声さえ、影に吸い込まれて小さくなる。 私は崩れた梁のそばに膝をつき、倒れた兵の顔を覗き込む。 唇が紫。肩から石化がせり上がって、胸に迫っている。 「痛い?」 「……冷たいです」 「大丈夫。今は、“温かい”を置く」 指先を石化から一寸だけ離し、息を合わせる。 脈。皮膚下の冷え。影炎のざわめき。 胸のペンダントが、服の上からでも熱を返す。 光が、出る。 細い糸。私はそれを無理に太らせない。押し返すのではなく、撫でる。 影が泡立つ。炎が私の光に牙を立てる。 天井の石が鳴った。 ノクスが前へ出る。左手の包帯の奥で、黒が低く唸る。 「支える」 破壊の力が、梁の崩れる力だけを噛み砕いて止めた。 「そこは持たせる。お前は、目の前だけをやれ」 「はい」 光と黒が並び、互いの輪郭を縫う。 影炎が逃げ場を失い、奥へ退く。 「まだ奥に二名!」アシュルの低音が飛ぶ。「通路の先——」 「開ける」 ノクスが指先で空を切ると、崩落の石が粉になり、道が一本通る。 私は駆け、倒れている若い鉱夫の手を取り、脈を探る。 影炎が私の腕に噛みついた。 白い痛みが、指から肘へ走る。 「っ——」 止めない。押し潰そうとする光を、私は自分の中でほどく。 “強くしない”。“届くぶんだけ”。 影がしおれていく。鉱夫の胸が、かすかに上がった。 ほっとする間もなく、別の悲鳴。 「こっちだ!」 アシュルが支える。私はもう一人に光を落とす。 その瞬間、掌が焼ける匂いがした。 白く、焼け痕。皮膚が音を失う。 膝が落ちる。視界が一度だけ、灰色に遠のく。 「無茶をするな」 肩が支えられた。ノクスの腕が背に回る。 胸の奥で、黒が静かに鳴っている。 「放っておけませんでした」 声が掠れる。 ノクスは短く息を吐いた。 「……わかっている」 崩落は止まった。影炎は、壁の向こうへ退いた。 救い出された兵が、震える指で額に触れ、低く礼を言う。 私は頷こうとして、左手を庇った。焼けた白が、手袋の内側で脈を打つ。 「戻る。医務へ」 ノクスの声が、崩れた石より重かった。 ◇ 夜。 医務室の灯は低く、乾いた薬草の匂いがする。 包帯を巻かれた手が、布の上に置かれている。 私は眠り、呼吸は浅い。 ノクスは椅子に座り、黙って見ていた。 包帯の白が、彼の左手の黒と向かい合う。 扉が開く。副官アシュル。姿勢は正しく、視線は低い。 「……陛下。やはり人間は危うい。彼女の光は、呪いの均衡を乱す」 「だが救った」 「それが、“この地を壊す”火種になるとしたら」 沈黙。 ノクスは自分の左手を上げ、包帯の上から石を指先で押す。 固いはずのそれが、ほんのわずか、抵抗をやめた気がした。 「……今日、俺の石は進まなかった」 アシュルの瞳が揺れる。 「まさか、彼女の——」 「わからん。だが事実だ」 アシュルは目を閉じ、長く息を吐いた。 「陛下の命に従います。ただ、監視は続けさせてください」 「やれ。目を逸らすな」 「はっ」 アシュルが出て行く。 静けさが戻る。ノクスは椅子を少し引き寄せ、包帯にかざした自分の手を下ろした。 「無茶は、するな」 眠る私に向けた声は、火の残りに似て、短く低かった。 ◇ 夜明け。 医務室の窓は、城の小庭に向いている。 私は上半身を起こし、手の痛みに目を細めた。 外で、子どもの泣き声。 小さな魔族の少女が、石になった鳥を抱えて座り込んでいる。 指で撫でても、石の羽は冷たく硬い。 私は窓辺に立ち、そっと手を合わせた。 神の声はやはり、届かない。 けれど——ここにいる誰かの痛みだけは、聞こえる。 「少しだけでいい」 指先に、光が集まる。 ほんの、ひと筋。 窓越しに落とす。鳥の胸に、点のように触れる。 かすかに。 羽が一枚、動いた。 少女が息を呑む。 「……動いた」 私は痛む手を押さえ、小さく笑った。 「まだ……届く」 背後の扉の影から、ノクスが黙って見ていた。 彼は低く呟く。 「この国に、何百年ぶりかの“希望”が生まれたのかもしれない」 私は振り向かない。窓の向こうの朝と、少女の顔を見ていた。 痛みは消えない。けれど、歩ける。 ――祈りの代償は、痛みではなく、歩き出す力だった。東の線の海は、近づくと平らじゃなかった。薄い粉の上に、もっと薄い線が寝ている。風は低くて、靴の縁だけを撫でていく。耳の遠くで、二打。少し間。もう一打。「ここだよ」先に立っていた案内役が、一歩だけ前に出た。年は読めない。声は小さく、よく通る。「ここは沈む。重いと、沈む」私は喉の奥で息を一度そろえた。ノクスは指を軽く握り直す。第二関節が、まだ遅い。アシュルは私とノクスの視線が交差しない位置に立って、肩の角度を確かめた。「全部は置かないで。少しだけでいい」案内役が振り返らずに言う。声が白い面で弾んで、すぐ消えた。「呼ばれないほう……そこだけ置くね」私が言うと、案内役はうなずいた気配だけ残した。「肩の分、離す。形は残す」ノクスは短く。アシュルは半歩、砂の上で位置を作る。「先に、場所。目は……合わさないで」私は衣の内側から空白札を出す。押し葉をずらして重ねた。ぴったりにはしない。角は揃えない。白い面の上に、札の影が薄く落ちた。「息、置くね」胸の前でひと息。「ただいま」の高さをほんの少し添える。家の癖だけ。耳の奥の小さな鳴りが、沈んでいく。ノクスは札の角を二度、軽く触れた。叩かない。跡だけを置く。触れた指がわずかに止まり、遅れて戻る。「……行ける」アシュルは先に足場を作った。半歩外して、視線を斜めに落とす。肩を揃えない。白い面は、音を吸う。私たちは並ばないで歩く。一人ぶんの距離を空ける。足の下で粉が薄く沈み、残った形が細い線に変わった。二打。間。もう一打。風の音は一定で、灯袋が胸の高さで小さく揺れる。「渡ってるよ。戻るから、怖がらないで」案内役の声は近くないのに、近い響き方だった。足元の下、白い層のさらに下で、呼びかけの気配がにじむ。名の最初の音だけが、喉の奥で揺れる。私は口を閉じた。呼ばない。アシュルが私の肩の角を半歩だけずらす。視線を落として、交差を避ける。ノクスは灯袋の紐を一度だけ下げた。張りを落とす。角には触れない。指は揉まない。遅れはあるけれど、落ち着いて戻る。「……軽い?」アシュルが小さく言う。「うん。今は」私の足跡は、細い線に置き換わる。沈まない。跡が薄いのに、消えない。風が通ると、線は少しだけ光の向きを変えた。白い面の中央
丘の上に出た。灯袋は低くて、青い空の下で小さく揺れた。風が一度、肌を撫でていく。耳の遠くで、二打。少し間。もう一打。少し硬い。「……風、変わったね」私が言うと、ノクスが空の縁を見た。「黒のほうから。少し、焦げてる」アシュルが肩を落として、息を測る。「戻る?」私は首を横に振る。「戻らないで……渡す。ここから」耳の奥の小さな鳴りが、いったん上がって、呼吸で落ちた。土は乾いて、指で触れると冷たかった。丘の陰に回る。石の上に、作業の場所をつくる。私は土の丸を二重に描いた。外の丸は待つ場所。内の丸は渡す場所。灯袋の下に、空白札を三枚、並べた。一枚にだけ、押し葉をそっと添える。「息はここに置いて、風で送るね」ノクスが頷く。糸場で集めたほどけ紐の切れ端を、二本。札に軽く重ねた。「芯は文章にしない。手順だけ、跡で」アシュルは灯袋と札の距離を半歩ずつ動かした。視線が交差しない角度を探す。「目が合わない角度、これでいい」灯袋が弱く灯り、札の上に光が広がる。日差しがやわらいで、影が少し伸びた。丘の表へ戻ると、風の向きが変わっていた。煤の匂いが細く混じって、すぐ薄れた。二打。間。二打。一瞬だけ危ない高さに寄った。土の丸の外で、若い行商が立ち止まる。口が勝手に、名の最初の音を拾いそうになる。「——ミっ……」私は掌を上げた。「名前は呼ばないで。先に、息を」アシュルが行商の肩の向きを半歩ずらす。「ここ、半歩。肩、こっち見ないで」ノクスは札に触れず、灯袋の紐だけをつまむ。「張り、落とす」第二関節が遅れて戻る。短く息を落とす。音は二打。間。一打。いつもの幅に戻る。行商は胸の前で、ひと息。それで、ほどけた。喉の硬さが少しやわらぐ。丘の背へ、軽い足音。ラグネスが獣道から現れた。息は乱れていない。肩が開いて、目は低い位置から全体を見る。「線は交わるほど影が濃くなる。往復が増えるほど、薄まるよ」私は小さくうなずく。「……往復、増やす」ノクスが短く答える。「壊しに戻らない。守り方だけ、返す」アシュルが白紙札を一枚、指先で示す。「白紙、ひとつ足して。視線、こちらへ向けないで」ラグネスは押し葉をもう一枚出して、空白札に“ずれて”重ねる。ぴったり合わせない。灯
峠を下りきる前に、路地が細く枝分かれした。頭の上に、薄い糸の網がかかっている。灯袋は低く、肩の高さで揺れる。風が入ってくるたび、糸がかすかに震えた。耳の遠くで、短い二打。少し間。もう一打。詰まりを知らせる合図みたいに、静かに響く。足元の土に、小さな丸が描かれている。靴先でなぞっていた子どもが、顔を上げた。「ここ、丸だよ」「線、こっちから行ける」「ありがとう」私は笑って、丸を踏まないようにまたいだ。「見ていくだけにするね」ノクスが空を見上げる。「過密だ」アシュルは息を浅くしたまま、肩だけ落とす。「音が詰まってる」通りの角に、帳面師の屋台があった。古い机と、厚い帳。角はすり減り、紐に小さな結び目がいくつも残っている。削り木が一本、布の上で転がった。「名は重い」帳面師は、机の角を二度だけ指で叩いた。「値もつく。申し送りなら割引するけど、今日は混んでるからね」「重いのは……先に置いてから、でいい?」私が息を合わせる。帳面師は眉を上げる。「置くのは息。刻むのは回数。で、名は?」私は短く間を置いた。「“いつもの呼び方”で、返せるなら」彼は答えず、指で帳の角をまた二度叩いた。了解でも、保留でもある音。向かいの露店から、小さな騒ぎが移ってきた。少女が薬草の“借り”を返しに来ていて、付き添いの祖父が一緒だ。帳の利率の結びが増えて、返しきれない。「おい、ミ——」祖父の口が名の最初の音だけ上がる。私は掌を上げた。「名前は呼ばないで」「先に、ここで息を」少女は胸の前で、ひと息。指が少し震える。露店の店主が帳を開いたまま、冷たい声で言う。「利率は利率だよ」「回数が足りないなら、締まるだけ」二打。間。糸が肩先でこすれて、ひとすじだけ高い音になった。「ここで、待とう」私は足元にしゃがみ、土の丸を描いた。線を丁寧に閉じて、立ち上がる。「呼ばずに置いてね」女の人が小銭を握りしめたまま、立ち尽くす。指先の冷たさが、まだ残っている。アシュルが少女と店主の間に入る。肩の角度を見て、視線の通りを確かめる。足先で石を軽く押して、二人の位置を半歩ずらした。「ここ、半歩」「肩をこっちに」「目は、合わないで」「……こう?」少女は言われたとおりに動く。アシュルは視線を外し、呼吸だけ合わせた
上りは細くて、灯袋が等間に揺れていた。押し葉の乾いた匂いが、風に混ざる。耳の遠くで、短い二打。少し間。もう一打。詰まりを告げて、待てという合図みたいだった。「……この匂い」「風上。峠だ」ノクスは立ち止まらない。私は歩幅を合わせる。道端に小さな土の丸がひとつ。「ここで待て」とだけ書いた印に見えた。峠の手前、道標の石に背を預けて、アシュルがいた。肩は力が抜けていて、視線だけが上がる。「まだ……呼ばずに、やってるか」「うん。待って、抱いて、返す」ノクスは顎で前を示す。「詰まり、前」短い沈黙。呼吸がそろう。三人で、一つ分だけ息が深くなった。踊り場に出ると、行商の小さな競りが立っていた。若者の手首から、細い線が一本、商人の帳面へ伸びている。線は名の端を掴むたび、きゅっと硬くなる。「名を一つ。支払いなら、すぐ」商人は穏やかな声だった。付き添いの女が小銭を握りしめ、呼びかけの形まで口が動く。私は掌を上げる。「呼ばないで……先に、息を」女は私を見て、ぎゅっと小銭を握り直した。ためらいの音が、掌の中で小さく鳴る。後ろにいた男が、焦った声で名前の最初の音だけ漏らす。線が擦れて、若者が肩をすくめた。ノクスが短く言う。「線が、擦れてる」二打。間。空気が固くなる。私は足元にしゃがみ、指で土の丸を描いた。線を丁寧に閉じて、立ち上がる。「ここで、待とう。……呼ばずに置いて」胸の前で、ひと息。私が最初に置く。女も続く。周りの何人かが、同じ高さで息を合わせた。灯袋が薄く灯る。息の明るさが、峠の風でほどけた。「“いつもの呼び方”で、ここに置くね」私は目を閉じて、家の癖だけをそっと置く。戸口での小さな咳払い。茶碗を棚に戻す音。「行ってくる」の高さ。真名じゃない。触れるだけ。ノクスは商人の帳の角へ指を伸ばした。黒が細く集まる。広げない。つまむ。締めたまま、ほどく。「芯だけ。形は残す」値札の結びが、音もなくゆるむ。紙は破れない。張っていた重さが、一つぶん抜ける。ノクスは指を握り直す。第二関節が遅れて戻った。アシュルが若者の横に立つ。肩の角度を見て、視線の通りを確認する。足先で石を軽く押し、若者と商人の位置を半歩ずらした。「ここ、半歩」二人の視線が交差しない角度になる。線の張力が
灯袋の帯が細くなって、風の指先みたいに峡間の口を指した。入口の足元に、土で描かれた小さな丸。誰かが「ここから」と置いていった合図だと思う。「灯、こっちを……指してる」「細いな。詰まらないうちに」ノクスは立ち止まらず、洞の中へ視線を滑らせた。中は冷えていて、音が遅れて返る。棚が縦に並び、紐で束ねられた薄紙の束が積んである。紙は乾いて、匂いは弱い。息を一つ。埃がゆっくり上がって、同じ速さで戻った。受付に、年配の管理人がいた。名は名乗らない。机の上には空白札が積まれていて、角に細い刻みの線が入っている。押し葉の薄い香りが、どこかから流れてきた。「ここは名を書かない。息の回数だけ記す」「書かないで……覚えておく、から」言うと、管理人は小さくうなずいて、木札の角を指で叩いた。刻みが一つ増える。言葉の代わりに、回数だけが残る。管理人は札の角を二度叩いてから渡す。ここでは、それが「了解」らしい。ノクスは棚の紐を指で確かめた。強く引かない。ただ、固さを確かめる程度に。「固い結びが多い」「最近、預けと返しが重なってね。ここでは“借り風”“返し風”を棚で分けるけど、束を古いまま持ってくる人もいる」管理人が目だけで奥の棚を示した。古い束が一つ、他よりも沈んで見えた。短い音が洞の奥で鳴った。鈴はないのに、鳴った。合図のように一打だけ。管理人が眉を寄せる。「ここ数日、ここだけ重い」ノクスは束の前でしゃがみ、結び目を覗き込む。「痛んでるのは“線”。芯は……結び目」私は束に手を置いた。紙の乾きが手のひらに移る。左目の奥で、黒い環が薄く光って、耳の内側で小さく鳴った。無理はしない。呼ばない。先に、いる。「呼ばないで、待つね」受付の脇から、記録係の少年がのぞいた。手にした空白札の角には、刻みが中途半端に入っている。爪でその刻みの溝をそっとなぞる癖がある。「返せない風、ここにつかえてて……」「わかった。ここで、待とう」私は洞の中央、床の土の上に指で丸を描いた。線を丁寧に閉じる。丸は大きくない。誰でも入れるくらい。男が一人、喉の奥で名前を呼びかけた。最初の音だけ。私は手のひらを上げる。「呼ばないで……ここに置こう。先に」音はそこで止まり、息に変わった。「名前は呼ばない。ここに息だけ置いて……待とう」管理人が最初に胸の前でひと息。少年も続く。あとから来
朝の道は、点でできていた。灯袋が一つずつ吊られて、消えない薄い明かりが続いている。風が通ると、袋の布が少しふくらんで、道の先を指した。その先に、市があった。声は大きくない。押し合う気配もない。屋台が肩を寄せて、ものより息を並べていた。「風、見ていく? 軽いのも、重いのも」最初に声をかけてきたのは、名乗らない露店主だった。手は古く、目はよく休んでいるようで、よく見ている目だった。背後の棚には、小さな瓶に入った風、折り畳んだ布、紙の札、空の灯袋。「……重いのは、誰かのだよね」「預かり物さ。返せるなら、なおいい」ノクスが棚を一通り見て、袋の縁に触れた。布の厚みを確かめるみたいに、指先だけ。「壊れやすい?」「呼ばれていないうちは、軽い。息が入ると、灯る」露店主はそれ以上は言わなかった。言わない部分が、ここでは手順になっている。市は、名で呼ばれていなかった。土の上に、子どもたちが印を描いていた。丸、三本線、点。目印はそれで足りるらしい。「ここ、まる。あっちは三本線。井戸は点」一人の子が、指先に土をつけたまま案内してくれる。丸の中に入り、三本線の先で立ち止まり、点の前で小さくうなずく。「迷わないね」「うん。名前は、あと」ノクスはうなずくだけで、印の線が乾くのを見ていた。屋台の陰から、若い母親が出てきた。手の中で小銭が鳴る。握りすぎて温度が移っているような音。「少しでいいの。声の端っこだけ」頬の下の影は、寝ていない夜の色だった。小銭の上に汗が光っている。「……買うより、返すほうが」リシアの言葉は静かで、途中で息を置く。露店主が首を傾ける。「返すには、手順がいる」母親は顔を上げた。覚悟よりも、迷いのほうが濃かった。「手順、なら」遠くで、ひとつ短い音が鳴った。鈴は見当たらないのに、鳴った。空気が合図を送る。市の真ん中に立つ柱の上で、布がわずかに巻き戻る。風が詰まっている。人の息と、預かりの風が、同じ場所に折り重なっている。ノクスが柱を見た。「風が詰まる。……芯が痛い」露店主が眉を寄せる。「芯?」「縛り目だけ、抜く」言葉と一緒に、ノクスの指先に黒が集まった。広げるのではなく、細く絞った。切るためではなく、結び目をつまむための形。「待って。先に……呼ばないで、抱く」リシアが母親の前にしゃがみ、視線を合わせる。母親は息を飲ん







