夜明け前、薄い灰が空を染めはじめたころ、私たちを乗せた馬車は荒れ地を軋ませて進んだ。
車窓の向こう、黒曜と灰の石で積まれた巨大な砦が、夜の名残を抱えたまま立っている。尖塔は雲の裾を裂き、門は眠らない獣の口のように沈黙していた。 「人間がここに入るのは──百年ぶりだ」 御者台の横を並走していた黒衣の男が言った。角は短く削れている。副官だろう。 彼は私に視線を向けず、前だけを見て続ける。 「陛下、これは危険です。人間は“呪いの触媒”だ」 「俺が決めた。従え」 ノクスの一言で、空気が硬くなる。 副官は唇を噛み、わずかに頭を垂れた。 門が開く。重い鎖の響きが、胸骨に鈍く伝わる。 馬車が石畳に乗ると、音が低く変わった。城内は、音まで抑制された世界だった。 ◇ 黒の城は静寂と規律に支配されていた。 廊下の壁には細い刻線で文様が編まれ、所々に黒い針が打たれている。呪い封じの陣だ。 すれ違う魔族たちは私を見ると、ほんの半歩、空気だけを引く。近づきすぎない、けれど逃げもしない。訓練された距離。 「ここで待て」 ノクスが示したのは、窓の少ない応接の間だった。 テーブルと椅子が一つずつ。寝具はない。食事の気配もない。 「……わかりました」 彼は頷きもしないで去った。扉の前に副官が一人、黙って立つ。 夜明けの名残が壁に貼りつき、室内の影だけが長生きしている。 体を丸めて椅子に座る。瞼を閉じ、呼吸を静かに整える。 祈ろうとして──気づいた。 「……神の声が、消えてる」 ここには、本当に何も届かない。 代わりに聞こえるのは、壁の文様の向こうでうずく痛みの音だった。 冷え。重さ。切れない糸の軋み。 私は額に手を当て、声にならない言葉で「聞く」ことに集中した。 誰のものかもわからない痛みが、夜の底からかすかに揺れている。 ◇ 翌朝。 城門前に民が集まった。腕に包帯を巻いた者、角に裂傷のある者、子を背負った母。 低いざわめきが、胸元で燻る火のように広がっていく。 「人間を庇うなど裏切りだ」 「呪いがまた広がる」 「聖女だと? 笑わせるな」 副官が一歩前に出る。灰を含んだ声は、どこか丁寧で、どこか砂を噛んでいた。 「陛下のご決断に異はありません。ただ──この女が“聖女”だという証は?」 庇うように見せて、逃げ場を消す言い方。 私は一度だけ呼吸を整え、群衆を見る。 「証はありません」 「ならば——」という囁きがいくつも立つ前に、続ける。 「ただ、痛みを見たままに祈ることだけはできます」 その時だった。人垣の向こうで、鎧が石畳に当たる音がした。 若い兵が膝をつき、喉を押さえてうめく。左肩から胸にかけて、黒い斑が花のように広がっていく。 「やめろ、人間に触らせるな!」 誰かが叫ぶ。けれど足は止まらなかった。 私は兵の前に膝をつき、彼の目の高さに視線を合わせる。 「痛い?」 「……大丈夫じゃ、ないです」震える声が、子どもみたいに素直だった。 「少しだけ、温かいものを置きます。深くは触れません」 指先を斑からわずかに離してかざす。 息を合わせる。脈を聞く。皮膚下の冷えを、音のように感じる。 胸元のペンダントが微かに熱を返す。 光が走る。 不安定だ。夜の代わりに朝の風が渦を作り、光を揉む。 境界が泡立つみたいに、祈りが暴れかけ── 「下がれ」 ノクスの声が落ちた。 彼の左手から漆黒の糸がほどけ、私の光に並ぶように流れ込む。 ぶつけ合うのではなく、輪郭を縫うように。 破壊が支え、祈りが締める。二つの力が噛み合い、暴れる光が静まった。 兵の肩から、熱がゆっくり引いていく。 息が戻る音が、群衆のざわめきをひとつずつ消していく。 私は手を下ろし、深く息を吐いた。 ノクスが一歩、私の前へ出る。その背が、風の前に壁を作る。 誰も言葉を発せなかった。 沈黙は恐怖の形であり、同時に、見たものを否定できないという印でもあった。 ◇ 事件のあと、私は執務室に呼ばれた。 黒い机と地図。窓は高く、光は薄い。 ノクスは立ったまま、私を見た。 「あの力、制御できていないな」 「はい。でも、放っておけませんでした」 短い沈黙。彼は机に置かれた手袋を取り、左手にはめ直す。包帯の上からさらに布で覆うように。 「あの民は、お前の祈りを恐れている」 「あなたは?」 赤い瞳が、わずかに揺れた。 長くはなかったが、確かに空白があった。 「……俺も、少しだけ恐れた」 胸の奥で何かが鳴った。恐れを認めた王の声は、不思議と温度を持っていた。 「でも」私は言う。「恐れは、拒む理由にはならないはずです」 ノクスは目をそらし、窓の外の尖塔を見た。 ややあって、肩が一度だけ、呼吸と一緒に緩む。 「下がれ」 促されて扉へ向かう。 把手に手をかけたとき、背中に低い声が落ちた。 「……だが同時に、惹かれた」 手の中の金属が冷たくなった。 振り向かないまま、小さく頷いて部屋を出る。 廊下の文様が、さっきより少し柔らかく見えた。 ◇ 夜。 城の塔の上は風が強く、月は薄い雲のベールをまとっていた。 私は胸の前で手を組み、目を閉じる。神の気配はやはり届かない。 ならば、月と風に。ここに住む痛みに。 「この地に届かなくても、誰かの痛みが少しでも和らぎますように」 声は小さく、けれど確かに空へ溶けた。 光は出ない。祈りは、ただ静かに広がる気配として塔の石を撫でた。 下の回廊。 ノクスが立っているのが見えた。こちらを見ているというより、風の行き先を見ているような目つきで。 彼の左腕の石が、月光を受けてわずかに色を帯びる。 光ではない。温度でもない。 それでも、たしかに何かが動いた。胸の奥で呼吸が反響したのかもしれない。 ノクスが呟く。 「祈りは届かない場所でも、心は……まだ動くのか」 私は目を開け、月を見た。 風が髪を揺らし、黒い塔の上に薄い白が降りる。 遠くで、規律の鐘が一度だけ鳴った。 誰も気づかないほど小さく、けれど確かに。 ――黒の城で、初めて“白の光”が灯った。黒の城の、円卓の間。黒曜の卓に、鎖の紋が円を描く。椅子は八。空気は金属の匂い。ノクスは最奥に立ち、私は出入口に近い席に座った。角の太い将軍、黒布の魔導師、顔に刻線を持つ祭司、そして副官アシュル。彼の声は、砂を噛んだような低音だった。「陛下。確認いたします。人間を城に入れ、評議へ同席させるのですか」「俺が招いた」「“聖女”を庇うことが、我らの救いになると?」祭司が割って入る。細い指が、喉元の護符を撫でた。私は立ち上がる。「庇われているつもりはありません。ただ——」アシュルが被せる。「彼女の光は、呪いを刺激する可能性があります。昨日も——」ノクスが卓を指で一度叩いた。「静まれ」音が空気を整列させる。私は口を閉じ、視線だけでノクスを見た。彼は私を見ない。全員を見ていた。「結論は急がない。事実を見る」祭司が唇を尖らせる。「事実など、神の言葉ひとつで足りる」アシュルは目を伏せた。「……確かに、昨日“痛み”は和らいだ。だが均衡が崩れる兆しも、私は見た」ノクスは短く告げた。「ならば——見に行くぞ」その瞬間、扉が開いて兵が駆け込む。息が荒い。「報告! 地下採掘層で崩落、負傷者多数! 影が燃えています!」円卓の空気が、ひと呼吸で変わった。魔導師が顔色を失う。「影炎だ……。光を持つ者しか封じられぬ」全員の視線が、私に刺さる。ノクスだけが、真っ直ぐに言った。「……行けるか」「はい」アシュルが一歩、前に出た。「私が護衛します。——陛下は城を」「俺も行く」言い切る声に誰も逆らえない。私たちは階段へ向かった。鎖の紋が、背後で静かにほどける音を立てた。◇地下層は息が重い。壁を走る赤黒い紋が、脈のように蠢き、その間を黒い炎が這い回っていた。炎なのに、明るくない。触れた石が、内側から灰に固まる。「退け! 天井が落ちる!」叫びが反響し、その声さえ、影に吸い込まれて小さくなる。私は崩れた梁のそばに膝をつき、倒れた兵の顔を覗き込む。唇が紫。肩から石化がせり上がって、胸に迫っている。「痛い?」「……冷たいです」「大丈夫。今は、“温かい”を置く」指先を石化から一寸だけ離し、息を合わせる。脈。皮膚下の冷え。影炎のざわめき。胸のペンダントが、服の上からでも熱を返す。光が、出る。細い糸。私はそれを無理に太らせない
夜明け前、薄い灰が空を染めはじめたころ、私たちを乗せた馬車は荒れ地を軋ませて進んだ。車窓の向こう、黒曜と灰の石で積まれた巨大な砦が、夜の名残を抱えたまま立っている。尖塔は雲の裾を裂き、門は眠らない獣の口のように沈黙していた。「人間がここに入るのは──百年ぶりだ」御者台の横を並走していた黒衣の男が言った。角は短く削れている。副官だろう。彼は私に視線を向けず、前だけを見て続ける。「陛下、これは危険です。人間は“呪いの触媒”だ」「俺が決めた。従え」ノクスの一言で、空気が硬くなる。副官は唇を噛み、わずかに頭を垂れた。門が開く。重い鎖の響きが、胸骨に鈍く伝わる。馬車が石畳に乗ると、音が低く変わった。城内は、音まで抑制された世界だった。◇黒の城は静寂と規律に支配されていた。廊下の壁には細い刻線で文様が編まれ、所々に黒い針が打たれている。呪い封じの陣だ。すれ違う魔族たちは私を見ると、ほんの半歩、空気だけを引く。近づきすぎない、けれど逃げもしない。訓練された距離。「ここで待て」ノクスが示したのは、窓の少ない応接の間だった。テーブルと椅子が一つずつ。寝具はない。食事の気配もない。「……わかりました」彼は頷きもしないで去った。扉の前に副官が一人、黙って立つ。夜明けの名残が壁に貼りつき、室内の影だけが長生きしている。体を丸めて椅子に座る。瞼を閉じ、呼吸を静かに整える。祈ろうとして──気づいた。「……神の声が、消えてる」ここには、本当に何も届かない。代わりに聞こえるのは、壁の文様の向こうでうずく痛みの音だった。冷え。重さ。切れない糸の軋み。私は額に手を当て、声にならない言葉で「聞く」ことに集中した。誰のものかもわからない痛みが、夜の底からかすかに揺れている。◇翌朝。城門前に民が集まった。腕に包帯を巻いた者、角に裂傷のある者、子を背負った母。低いざわめきが、胸元で燻る火のように広がっていく。「人間を庇うなど裏切りだ」「呪いがまた広がる」「聖女だと? 笑わせるな」副官が一歩前に出る。灰を含んだ声は、どこか丁寧で、どこか砂を噛んでいた。「陛下のご決断に異はありません。ただ──この女が“聖女”だという証は?」庇うように見せて、逃げ場を消す言い方。私は一度だけ呼吸を整え、群衆を見る。「証はありません」「ならば——」と
風が、灰を巻き上げた。黒い空に赤い月。崩れた尖塔が、夜の地平へ爪を立てている。私は焦げた大地に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。喉が乾いて、肺に入る空気がざらつく。肌に刺さるのは風と……微かに混じる魔の粒。「祈るのか?」低い声。黒いマントの青年が、私を見下ろしていた。赤い瞳は火ではなく、冷えた鉄の色。「この地に、神はいないぞ」「……それでも、誰かの痛みがあるなら」自分でも驚くほど、声は静かだった。青年は眉をわずかに動かしただけで、足取りも姿勢も崩さない。彼の左手には包帯。包帯の下、石のような硬質が月光に一瞬だけ覗いた。「名は」「リシア・エルヴェイン」「そうか」青年は短く応じ、周囲に視線を走らせる。刹那、夜の裂け目から影が二つ滑り出た。角を持つ魔族の兵が、膝をつく。「陛下、その者は人間です。間者の可能性が高い。処分を」「間者ではありません」私は首を振る。「ここに来たのは……意図せず」兵は舌打ちし、私の胸元のペンダントを睨む。その時、ペンダントが微かに脈を打った。蒼い粒が、夜気の底で塵のように揺れる。兵ののどが鳴った。「光だ……! この空で?」青年――彼は、ゆっくりと私へ歩を進める。赤い瞳が、私の胸元から顔へ移る。「この空で、まだ光を放つとはな」「偶然です。私も、よくわかっていません」答えた瞬間、膝が笑った。指先が痺れる。視界の周縁が暗くなる。「っ……」体が前へ折れた。地面が近い――はずだったのに、硬いものに背が支えられる。「立てるなら立て。立てないなら、休め」短い言葉。青年の腕が、私の肩を支えていた。力は強いのに、乱暴ではない。兵が慌てて進み出る。「陛下、危険です!」「下がれ」青年の一言で、夜が従う。兵は悔しさと畏れを混ぜた顔で一歩退いた。◇廃れた砦の残骸に、屋根だけが残る一角があった。そこまで歩く間、彼は必要以上のことを言わない。ただ、私が躓けば支え、息が上がると歩を緩めた。「水」欠けた陶器の器が差し出される。手が震えたが、器は落ちない。飲む前に、私は頭を下げた。「ありがとうございます」「人間を助けたわけじゃない」「それでも、助かりました」青年はほんの少しだけ目を細め、口の端だけが動いた。微笑と呼ぶには鋭い、しかし侮蔑ではない線。「……名は、先ほど聞いた。リシアと言ったな」「
──鐘が三度、冷たく鳴った。石の円形法廷。白大理石の壇上に、王太子の椅子。半円の観客席には貴族と神官、そして見物の民。私は中央の円環に立たされ、両手を鎖で束ねられていた。手枷には封印の刻印。胸元の聖紋ペンダントだけが、かすかに体温を返す。「聖女リシア・エルヴェイン」王太子レオンは、唇だけで笑った。「お前の“祝福”は偽物だったと証明された」ざわめきが、石壁にさざめく波みたいに走る。神官が進み出て、金の香炉を振った。薄い煙。聖句。私の足元の円環が鈍く光る――はずだった。光は、出ない。「ご覧のとおりだ」レオンは肩をすくめる。「加護は消えた。無能が、聖女の名を騙っていたのだ」「……そう言い切るのですか、殿下」声が自分のものじゃないみたいに乾いていた。香の甘さが、氷みたいな空気をすべって喉を冷やす。観客席の金具が微かに軋む。衣擦れ。息を呑む音。それらが天蓋に集まって、ゆっくり渦を巻いた。目を閉じる。まぶたの裏に、別の光が立ち上がる。夏至の昼。村の広場。火傷した少年の手を、私は布で包み、光を落とした。「痛いのは、ここまで」少年の母は、声を出さずに泣いた。隣の老人が、麦の束を差し出す。風鈴。洗濯物。白い布が陽を弾く。――祈りは届く。誰のものでもない空に。今、私は鎖に繋がれている。同じ空の下で、光は封じられている。「……あの光は、もう届かないのね」それでも、胸の奥の灯は消えていない。ペンダントは、昔と同じ温度で指先に触れた。「民よ、耳を貸せ!」壇上の大司教ハインリヒが、白蛇の杖を掲げる。「異端は秩序を蝕む。裏切り者の聖女には、相応の断罪が必要だ!」「裏切り者!」「恥を知れ!」観客席の陰から、罵声が降る。「……彼女、本当に?」「神殿が言うのだ。間違いない」そんなひそひそ声も混じった。重い空気の隙間に、わずかな人の息が流れ込む。私は目を閉じる。封印が、祝福の流路を細く締め上げている。わかっている。これは、結論のために用意された儀式だ。それでも。――祈りをやめる理由にはならない。「紹介しよう」レオンが、隣の女の手を取った。「これが真の聖女、セレナ・ヴァルリスだ。お前のような無能では、国を救えぬ」セレナは完璧な微笑で私を見下ろす。「お気の毒ですわ、リシアさま。祝福は、選ばれた器にのみ宿るのだと、