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黒の城と白の祈り

作者: 吟色
last update 最終更新日: 2025-10-10 17:17:22

夜明け前、薄い灰が空を染めはじめたころ、私たちを乗せた馬車は荒れ地を軋ませて進んだ。

車窓の向こう、黒曜と灰の石で積まれた巨大な砦が、夜の名残を抱えたまま立っている。尖塔は雲の裾を裂き、門は眠らない獣の口のように沈黙していた。

「人間がここに入るのは──百年ぶりだ」

御者台の横を並走していた黒衣の男が言った。角は短く削れている。副官だろう。

彼は私に視線を向けず、前だけを見て続ける。

「陛下、これは危険です。人間は“呪いの触媒”だ」

「俺が決めた。従え」

ノクスの一言で、空気が硬くなる。

副官は唇を噛み、わずかに頭を垂れた。

門が開く。重い鎖の響きが、胸骨に鈍く伝わる。

馬車が石畳に乗ると、音が低く変わった。城内は、音まで抑制された世界だった。

黒の城は静寂と規律に支配されていた。

廊下の壁には細い刻線で文様が編まれ、所々に黒い針が打たれている。呪い封じの陣だ。

すれ違う魔族たちは私を見ると、ほんの半歩、空気だけを引く。近づきすぎない、けれど逃げもしない。訓練された距離。

「ここで待て」

ノクスが示したのは、窓の少ない応接の間だった。

テーブルと椅子が一つずつ。寝具はない。食事の気配もない。

「……わかりました」

彼は頷きもしないで去った。扉の前に副官が一人、黙って立つ。

夜明けの名残が壁に貼りつき、室内の影だけが長生きしている。

体を丸めて椅子に座る。瞼を閉じ、呼吸を静かに整える。

祈ろうとして──気づいた。

「……神の声が、消えてる」

ここには、本当に何も届かない。

代わりに聞こえるのは、壁の文様の向こうでうずく痛みの音だった。

冷え。重さ。切れない糸の軋み。

私は額に手を当て、声にならない言葉で「聞く」ことに集中した。

誰のものかもわからない痛みが、夜の底からかすかに揺れている。

翌朝。

城門前に民が集まった。腕に包帯を巻いた者、角に裂傷のある者、子を背負った母。

低いざわめきが、胸元で燻る火のように広がっていく。

「人間を庇うなど裏切りだ」

「呪いがまた広がる」

「聖女だと? 笑わせるな」

副官が一歩前に出る。灰を含んだ声は、どこか丁寧で、どこか砂を噛んでいた。

「陛下のご決断に異はありません。ただ──この女が“聖女”だという証は?」

庇うように見せて、逃げ場を消す言い方。

私は一度だけ呼吸を整え、群衆を見る。

「証はありません」

「ならば——」という囁きがいくつも立つ前に、続ける。

「ただ、痛みを見たままに祈ることだけはできます」

その時だった。人垣の向こうで、鎧が石畳に当たる音がした。

若い兵が膝をつき、喉を押さえてうめく。左肩から胸にかけて、黒い斑が花のように広がっていく。

「やめろ、人間に触らせるな!」

誰かが叫ぶ。けれど足は止まらなかった。

私は兵の前に膝をつき、彼の目の高さに視線を合わせる。

「痛い?」

「……大丈夫じゃ、ないです」震える声が、子どもみたいに素直だった。

「少しだけ、温かいものを置きます。深くは触れません」

指先を斑からわずかに離してかざす。

息を合わせる。脈を聞く。皮膚下の冷えを、音のように感じる。

胸元のペンダントが微かに熱を返す。

光が走る。

不安定だ。夜の代わりに朝の風が渦を作り、光を揉む。

境界が泡立つみたいに、祈りが暴れかけ──

「下がれ」

ノクスの声が落ちた。

彼の左手から漆黒の糸がほどけ、私の光に並ぶように流れ込む。

ぶつけ合うのではなく、輪郭を縫うように。

破壊が支え、祈りが締める。二つの力が噛み合い、暴れる光が静まった。

兵の肩から、熱がゆっくり引いていく。

息が戻る音が、群衆のざわめきをひとつずつ消していく。

私は手を下ろし、深く息を吐いた。

ノクスが一歩、私の前へ出る。その背が、風の前に壁を作る。

誰も言葉を発せなかった。

沈黙は恐怖の形であり、同時に、見たものを否定できないという印でもあった。

事件のあと、私は執務室に呼ばれた。

黒い机と地図。窓は高く、光は薄い。

ノクスは立ったまま、私を見た。

「あの力、制御できていないな」

「はい。でも、放っておけませんでした」

短い沈黙。彼は机に置かれた手袋を取り、左手にはめ直す。包帯の上からさらに布で覆うように。

「あの民は、お前の祈りを恐れている」

「あなたは?」

赤い瞳が、わずかに揺れた。

長くはなかったが、確かに空白があった。

「……俺も、少しだけ恐れた」

胸の奥で何かが鳴った。恐れを認めた王の声は、不思議と温度を持っていた。

「でも」私は言う。「恐れは、拒む理由にはならないはずです」

ノクスは目をそらし、窓の外の尖塔を見た。

ややあって、肩が一度だけ、呼吸と一緒に緩む。

「下がれ」

促されて扉へ向かう。

把手に手をかけたとき、背中に低い声が落ちた。

「……だが同時に、惹かれた」

手の中の金属が冷たくなった。

振り向かないまま、小さく頷いて部屋を出る。

廊下の文様が、さっきより少し柔らかく見えた。

夜。

城の塔の上は風が強く、月は薄い雲のベールをまとっていた。

私は胸の前で手を組み、目を閉じる。神の気配はやはり届かない。

ならば、月と風に。ここに住む痛みに。

「この地に届かなくても、誰かの痛みが少しでも和らぎますように」

声は小さく、けれど確かに空へ溶けた。

光は出ない。祈りは、ただ静かに広がる気配として塔の石を撫でた。

下の回廊。

ノクスが立っているのが見えた。こちらを見ているというより、風の行き先を見ているような目つきで。

彼の左腕の石が、月光を受けてわずかに色を帯びる。

光ではない。温度でもない。

それでも、たしかに何かが動いた。胸の奥で呼吸が反響したのかもしれない。

ノクスが呟く。

「祈りは届かない場所でも、心は……まだ動くのか」

私は目を開け、月を見た。

風が髪を揺らし、黒い塔の上に薄い白が降りる。

遠くで、規律の鐘が一度だけ鳴った。

誰も気づかないほど小さく、けれど確かに。

――黒の城で、初めて“白の光”が灯った。

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