LOGIN――テレジア王国、同じ頃。
セシリアは、移動用の馬型魔獣の背に揺られながら、何度目か分からないため息を飲み込んだ。 朝からずっと移動している。 神殿での祈祷。 貴族家への挨拶。 教会関係者との面会。 正式な聖女となってから、セシリアの予定は隙間なく埋められていた。誰もが丁寧に接し、誰もが祝福の言葉をくれる。 けれど、その中にルシアの名前だけがなかった。 「お父様は、やはり教えてくださいませんでした」 ぽつりと呟くと、横を進んでいた教会騎士がこちらを見た。 「ルシア様のことですか」 「はい。オスカー様にも尋ねました。でも、必要ないことだと」 手綱を握る指に、少しだけ力が入る。 ルシアはどこへ行ったのか。 誰といるのか。 ちゃんと休めているのか。 そればかりが頭から離れない。 セシリアは、自分が乗っている馬型魔獣の首筋をそっと撫でた。栗色の毛並みはよく手入れされていて、朝からずっと走り続けているにもかかわらず、足取りはまだ軽い。 「この子、朝からずっと移動していますのに、とても元気ですね」 「ああ、それはこれのおかげでしょう」 教会騎士は鞍に括りつけた鞄から、小さな紙包みを取り出した。 中には、乾いた菓子のような補食が入っている。穀物と薬草を固めたものらしく、ほんのり甘い匂いと、青い草の香りがした。 「長距離移動用の補食です。最近、教会騎士団でも使われるようになりました。腹を壊しにくく、疲れも残りにくい。移動用魔獣には評判がいいですよ」 セシリアは、その紙包みを見つめた。 胸の奥が、少し痛んだ。 「……それを作ったのは、お姉様です」 「ルシア様が、ですか?」 騎士の声には、素直な驚きがあった。 「ええ。最初は、宮廷の魔獣舎で使うための試作品でした。移動用の魔獣が長く歩いても胃を痛めにくいように。食べやすく、でも薬が強すぎないように、と。何度も配合を変えていました」 セシリアは、馬型魔獣のたてがみを指で梳いた。 「難しい薬草の栽培方法を見つけたのも、お姉様です。人に使うには弱すぎる薬草でも、魔獣の餌に混ぜるにはちょうどいいものがある、と言って。水の量も、日当たりも、土の混ぜ方も、毎日細かく記録していました」 騎士は、手元の補食へ視線を落とす。 「ですが……失礼ながら、なぜそこまで気にかけるのです」 セシリアは顔を上げた。 騎士は、悪意があって言ったわけではないのだろう。 ただ、本当に分からないという顔をしていた。 「聖眼を持たぬ欠陥聖女だと、伺っています。セシリア様とは、役割が違うのではありませんか」 その言葉を聞いた瞬間、セシリアの中で何かが弾けた。 「違います」 静かな声だった。 けれど、騎士はすぐに背筋を正した。 「お姉様を、そんなふうに呼ばないでください」 「……申し訳ありません」 「私の聖眼は、傷を癒やせます。呪いも祓えます」 セシリアは、自分の銀色の瞳にそっと触れた。 聖女の証。 誰もが褒め、誰もが求める眼。 でも、それだけだ。 「けれど私には、壊れてしまう前の痛みは見えません。声にできない苦しみも、どこから悪くなっていくのかも、分からない」 思い出す。 薬草園で、葉の色を見て水の量を変えていたルシア。 魔獣舎で、誰も気づかなかった食欲の落ち方に気づいていたルシア。 ただの気まぐれだと笑われた魔獣の変化を、何日もかけて記録していたルシア。 「お姉様の目は、もっと早く、もっと深いところを見ていました」 騎士は黙って聞いていた。 「壊れてしまう前に。取り返しがつかなくなる前に。誰より先に苦しみを見つけていたのは、お姉様です」 セシリアは、手の中の手綱を握り直した。 「だから、放っておいていいはずがないでしょう」 騎士は、もう何も言わなかった。 ただ、手にした補食をもう一度見下ろしている。 セシリアは前を向いた。 姉がどこにいるのか、まだ分からない。 けれど、姉が残していったものは、確かにここにある。 この子が元気に歩いていること。 騎士たちが当たり前のように使っている補食。 それらは全部、ルシアが誰にも見向きもされない場所で積み上げてきた仕事だった。 ◇ ――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。 「その眼は……普通の眼ではないね?」 アルベルトの問いに、ルシアはすぐに答えられなかった。 隔離棟の空気は冷えている。 檻の向こうでは、ペガサスが荒い息を漏らしていた。白い翼がわずかに震えるたび、金具が小さく鳴る。 ルシアの目は、まだ金色のままだった。 普通の眼ではない。 その言葉に、昔の記憶が胸の奥で静かに揺れた。 父と母が、まだ生きていた頃。 幼いルシアは、自分だけが見ているものをうまく言葉にできなかった。 葉の奥に沈む黒ずみ。 魔獣の腹の中に溜まった重い色。 熱の流れが乱れている場所。 誰にも見えないものが、自分には見えていた。 ルシアは、少しだけ目を伏せる。 「昔から、人には見えないものが見えていました」 声は小さかった。 けれど、逃げるようには言わなかった。 「見えないもの?」 アルベルトが静かに聞き返す。 責める声ではない。 確かめる声だった。 「はい。どこが悪いのかが、色みたいに見えるんです。重いところ、濁っているところ、痛みが溜まっているところが」 ルシアは、檻の向こうにいるペガサスを見た。 「時々、その子が何を食べて、どこを歩いて、どんなふうに苦しんだのかまで、断片みたいに流れ込むことがあります」 「過去まで見るのか」 「全部ではありません。はっきりした記憶ではなくて、匂いや痛みや、体に残った跡のようなものです」 ペガサスの腹の奥には、まだ濁った色が沈んでいる。 水を飲むことすら痛みと結びついてしまった、こわばった色。 「でも、それだけです。見えたからって、治るわけじゃありません。見えたあと、どうすればいいのかは、自分で考えるしかないんです」 ルシアは、そこで一度言葉を切った。 「それに、見えたものが必ず正しいとも限りません。確かめずに動けば、間違えます。だから私は、見えたことをそのまま信じないようにしています」 アルベルトは少し黙ったあと、さらに問いを重ねた。 「家族は、その眼のことを?」 ルシアは、ほんのわずかに指先を握った。 「父と母は、知っていました」 「ご両親が」 「はい。これは聖眼ではない。人に知られれば、魔眼と呼ばれるかもしれないから、むやみに使ってはいけないと教えられました」 声に怒りはなかった。 父と母は、恐れていたのではない。 おそらく、守ろうとしてくれていた。 聖眼ではない、正体の分からない力。 それを人前で使えば、幼いルシアがどんな目で見られるか分からない。だから隠せと言ったのだろう。 「伯父たちは?」 「知りません。たぶん、知ろうともしませんでした」 ルシアは静かに続けた。 「あの家で必要だったのは、聖眼かどうかだけでしたから」 アルベルトの表情が、わずかに変わった。 「では、今その眼のことを知っているのは」 「妹だけは、少し」 ルシアの声が、少しだけ柔らかくなる。 「セシリアは、私が何かを見ていることに気づいていました。何が見えているのかまでは、きっと分かっていません。でも……私が何かを見つけようとしていることだけは、いつも見ていてくれました」 そこで、薬材庫へ向かおうとしていたマグダレナが足を止めた。 「十分よ」 きっぱりした声だった。 「治せるかどうかは、ここから考えればいい。見えなければ、そこへ辿り着けないんだから」 ルシアは思わずマグダレナを見た。 白衣を着た金髪の施設長は、少しも気味悪がっていなかった。 恐れる様子もない。 ただ、現場で必要な情報を得た人間の顔をしている。 アルベルトもまた、静かに頷いた。 「少なくとも、この国ではその眼を不吉とは呼ばない」 その言葉が、ルシアの胸にゆっくり沈んだ。 「苦しみを見抜けるなら、それは価値だ」 価値。 その言葉を、自分の眼に向けられたのは初めてだった。 ルシアはすぐには何も言えなかった。 嬉しいのか、戸惑っているのか、自分でも分からない。ただ、胸の奥に置きっぱなしだった小さな石が、少しだけ温度を持ったような気がした。 「……ありがとうございます」 ようやく、それだけを言った。 ノーマンが薬材庫から戻ってきたのは、その直後だった。 「白灯草、月露草、甘樹脂、全部あります。胃の調整薬も二種。あと、在庫表に誤字が三つありました」 マグダレナが眉を上げる。 「最後の報告は今いらない」 「了解。愚痴なし、誤字も後回しです」 ノーマンは紙束を抱え直した。 緊張しきっていた空気が、ほんのわずか動いた。 けれど、立ち止まっている時間はなかった。 金色が深まるほど、目の奥がじくじくと熱を持つ。 見えすぎる時ほど、この眼は持ち主にも容赦がない。 ルシアは短く息を吸い、ペガサスへ向き直った。 「まず、今の飼料はやめてください」 マグダレナが即座に頷く。 「聞こえたわね。今の餌桶は下げて」 「はい!」 職員が動く。 ペガサスがびくりと翼を震わせた。 「金具の音を立てないでください。あと、檻の前に立つ人数を減らしてください。この子、音と視線で余計に張りつめています」 「三人下がって」 マグダレナの指示で、職員たちがすぐに距離を取る。 それだけで、隔離室の空気が少し変わった。 張り詰めた糸が、ほんのわずかに緩む。 「白灯草を多めに、月露草は少しだけ。甘樹脂は香りが強いので、本当に薄くしてください」 ルシアは手早く指示を出した。 「飲み水に混ぜます。薬の匂いが強いと嫌がると思うので、最初はほとんど分からないくらいに。無理に飲ませないでください。鼻先を近づけられれば、それで十分です」 ノーマンが少し戸惑ったように瞬く。 「それだけでよいのですか」 「最初はそれだけです」 ルシアは頷いた。 「この子は、食べることも飲むことも、痛みと結びついています。無理に入れたら、余計に嫌がります」 「なるほど。無理に入れない。研究員としては地味で不安ですが、胃には優しい」 「ノーマン」 「はい、黙って煎じます」 ノーマンはすぐに作業台へ向かった。 ペガサスは檻の奥で、荒く息をしている。 美しい白い首が上下するたび、腹の奥の濁りも微かに揺れた。 「装具は近づけないでください。布も、革帯も、金具のついたものは今は避けてください」 「飛行前の記憶と結びついているからか」 アルベルトが言う。 「はい。装具を見るだけで、痛みを思い出しています」 アルベルトの表情が少しだけ険しくなった。 騎士にとって装具は任務の準備だ。 けれど今のペガサスにとっては、痛みの前触れなのだ。 ほどなくして、薄く煎じた薬草水が運ばれてきた。 透明に近い淡い琥珀色。 匂いはほとんどない。けれどルシアには、白灯草の柔らかな苦みと、月露草の冷たさがわずかに分かった。 職員が水桶を入れ替えようとした瞬間、ペガサスが首を大きく振った。 翼が広がる。 空気が鳴る。 職員が思わず身を引いた。 「下がってください」 ルシアは言った。 その声が自分のものとは思えないほど、静かだった。 「私が置きます」 「ルシア」 マグダレナの声には制止の響きがあった。 「危険よ」 「近づきすぎません」 「その返答、危険な人間がよく言うやつよ」 思わず、ルシアは少しだけ目を瞬いた。 アルベルトが横で小さく笑う。 「マグダレナ、心配しているならそう言えばいい」 「心配しているから危険と言っているの」 マグダレナはきっぱり言った。 ルシアは水桶を受け取り、小さく頭を下げた。 「大丈夫です。無理はしません」 怖い。 怖くないわけがない。 ペガサスは美しいが、大きい。翼を一度打ちつけるだけで、人間など簡単に弾き飛ばされるだろう。 それでも、ルシアの足は止まらなかった。 檻の入口ぎりぎりで膝をつき、音を立てないように水桶を置く。 ペガサスが睨む。 ルシアは目を合わせすぎないように、少しだけ視線を下げた。 「大丈夫」 自分に言っているのか、ペガサスに言っているのか分からなかった。 「無理に飲まなくていいです。匂いだけでいいから」 ペガサスはしばらく動かなかった。 隔離室の中で、誰も声を出さない。 アルベルトも、マグダレナも、ノーマンも、飼育員も、ただ見守っていた。 やがて、ペガサスの鼻先がほんの少し動いた。 水桶へ近づく。 すぐに離れる。 また、近づく。 ルシアは息を止めた。 水面がかすかに揺れる。 ペガサスは長く鼻先を迷わせたあと、ようやく口を寄せた。 ほんの一口。 小さな、水の音がした。 その場にいた誰もが、聞き逃さなかった。 ノーマンが、信じられないものを見るように呟く。 「……三日ぶりです」 その声は、いつもの軽さを失っていた。 ルシアは胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。 治ったわけではない。 まだ始まったばかりだ。 それでも確かに、届いた。――テレジア王国、王城。 セシリアは、薬務室の机に広げられた記録を見つめていた。 ルシアが残していった調合記録。 新しく薬剤師たちが作った補食の配合表。 そして、ここ数日の移動用魔獣の体調記録。 並べれば、違いははっきりしていた。 同じ材料。 同じ分量。 同じ形。 けれど、結果が違う。 ルシアの補食を食べていた時、長距離移動後の魔獣たちは翌朝には食欲を戻していた。 水も飲み、腹を壊す個体も少なかった。 だが、今は違う。 食べる。歩く。けれど、戻りが遅い。 目に見える傷はない。 呪いもない。瘴気もない。 それでも、確かに弱っている。 セシリアは懐の手紙に触れかけて、指を止めた。 読み返せば、また姉の優しさに甘えてしまう気がした。今見るべきものは、机の上の記録だ。 「……お姉様は、ここで何を見つけたの」 小さく呟く。 机の端には、古い記録帳が置かれている。 ルシアの筆跡だった。 ――湿気の多い日は、乾燥薬草を半量に。 ――胃の弱い個体には蜂蜜を足さない。 ――長距離移動後、すぐに濃い補食を与えないこと。まず水。 ――よく食べる個体ほど、食後の様子を見る。食欲は健康の証とは限らない。 細かい。 あまりに細かい。 けれど、その細かさのひとつひとつが、今のセシリアには痛いほど分かった。 調合法だけではない。 姉は、【魔獣】を見ていた。 食べ方を見て、水の飲み方を見て、眠る前の姿勢まで見ていた。 だから効いていたのだ。 薬が特別だったからではない。 その子に合わせて、薬を変えていたから。 部屋の扉が開き、教会騎士が入ってきた。 セシリアの護衛を務める青年騎士だった。名はレオン。あの日、ルシアを欠陥聖女と呼んでしまった騎士でもある。 今の彼は、以前よりずっと慎重な顔をしていた。 「セシリア様。厩舎の子ですが、先ほどまた食べ残しました」 「水は?」 「飲みます。ですが、飲んだあとに首を下げます」 「補食は」 「半分ほどです」 セシリアは目を伏せた。 ルシアなら、きっとその動作を見逃さなかった。 食べ残した量だけでなく、なぜ食べ残したのかを考えただろう。 「聖眼で診ます」 「はい」 ◇ 厩舎
ヴァルミア王国へ向かう馬車は、フランキスの街道を南西へ進んでいた。 窓の外に広がる景色は、少しずつ変わっていく。 王都近郊の整えられた道を抜けると、緩やかな丘陵が続き、やがて遠くに青灰色の山並みが見え始めた。 あの山の向こうが、ヴァルミア。 ワイバーンの国。 ルシアは膝の上に開いた資料へ目を落とした。 昨夜から何度も読み返した記録だ。 ――山岳待機、七時間。 ――夜間気温、著しく低下。 ――翌朝、緊急出撃。 ――帰還後、右翼を下げ、飛行不能。 ――翼膜裂傷、治癒術にて閉鎖。 ――三日後、再発。 文字だけなら、ただの報告書だ。 けれど今のルシアには、その裏にあるものが気になって仕方がなかった。 冷えた岩場。 湿った風。 動けないまま待たされる体。 重い肉餌。 温まらない翼。 それでも命令で空へ上がるワイバーン。 まだ見てもいないのに、苦しみの輪郭だけが紙面の向こうで揺れている気がした。 「酔った?」 向かい側からマグダレナが声をかける。 白衣ではなく、今日は移動用の濃紺の外套を羽織っている。いつもの軍服めいた服装と相まって、医療施設長というより前線指揮官のようだった。 「いえ、大丈夫です」 「ならいいわ。顔が険しいから、資料に噛まれたのかと思った」 隣に座っていたノーマンが、記録板を抱えたまま真顔で頷いた。 「資料は噛みます。特に急ぎで集められた資料は、誤字と抜けで精神をガブリと……あ、施設長の視線が痛いのでここまでにしておきます」 「賢明ね」 「生存判断です」 ルシアは思わず目を瞬いた。 そのやり取りを見ていたアルベルトが、低く笑う。 今回はアルベルトも同行している。 フランキス第一王子として、同盟国ヴァルミアとの調整役を担うためだという。 「緊張しすぎなくていい。ヴァルミア側も、こちらを責めるために呼んだわけではない」 「はい」 「ただし、かなり焦ってはいるだろうね。山岳国にとって、ワイバーンは空の足だ。飛べない個体が増えれば、砦も村も孤立する」 ルシアは資料を閉じた。 「……ペガサスより、生活への影響が大きいのですか」 「地形によるわ」 マグダレナが答える。 「フランキスではペガサスもヒッポグリフもドレイクも使う。で
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。 その日の午後、ルシアは飼料庫にいた。 机の上には、乾燥薬草、砕いた穀類、甘樹脂、塩分を含む鉱石粉、水に溶けやすい整腸薬が並んでいる。 白い迎撃ペガサス用。 灰色の伝令ペガサス、リューネ用。 輸送用ヒッポグリフ用。 同じ飛行魔獣でも、必要なものは違う。 ルシアは小さな匙で薬草を量りながら、記録板に数字を書き込んでいた。 「白灯草、二匙。月露草、半匙。甘樹脂は……少しだけ」 「少しだけ、という単位は正式記録に向きません」 隣でノーマンが即座に言った。 ルシアは手を止める。 「では、四分の一匙で」 「よろしいです。記録係が泣かずに済みます」 「ノーマン様は、記録係なのですか?」 「研究員です。ですが最近、紙に埋もれる係になりました」 ノーマンは真顔で言った。 「魔獣の命と引き換えなら、紙の山くらい受け入れます。ただし、誤字は許しません」 ルシアは思わず笑いそうになった。 その時、飼料庫の扉が勢いよく開いた。 「ルシア」 入ってきたのはマグダレナだった。 いつもの白衣。肩で切り揃えた金髪。 表情は落ち着いている。けれど、目の奥が少し鋭い。 何かあったのだと、ルシアはすぐに察した。 「はい」 マグダレナは扉を押さえたまま、まっすぐにルシアを見た。 「会議室へ。ヴァルミアから報告が届いたわ」 「ヴァルミア……」 聞き慣れない国名に、ルシアは瞬きをする。 ノーマンが記録板を抱え直した。 「同盟国ですね。南西の山岳国家。ワイバーン運用が多い」 「ノーマン、説明は歩きながら」 「はい。歩く資料係になります」 マグダレナはすでに廊下へ出ていた。 ルシアは慌てて手を拭き、記録板と筆を持って後を追った。 ◇ 会議室には、アルベルトがいた。 机の上には数通の封書と、広げられた地図。 フランキスの南西に、険しい山脈を抱く国が描かれている。 ヴァルミア王国。 ルシアは地図の上に並ぶ山の記号を見つめた。 フランキスとは違う。 平原より山が多い。 街道は谷間を縫うように伸び、国境付近には砦の印がいくつもある。 「来たね」 アルベルトが顔を上げた。 いつもの穏やかな声だったが、机の上の書類
――テレジア王国、王都。 ルシアが屋敷を去ってから、七日が過ぎていた。 セシリアの毎日は、相変わらず忙しかった。 朝は神殿で祈りを捧げ、昼には貴族家の訪問を受け、午後には王城へ呼ばれる。夕刻には教会関係者との面会が入り、夜には聖女として覚えるべき儀礼や記録に目を通す。 誰もが、セシリアを丁寧に扱った。 銀の聖眼を持つ、正統な聖女。 傷を癒やし、呪いを祓う、アージェント家の誇り。 そう呼ばれるたび、胸がかすかに冷えた。 誇り。 その言葉の隣に、本当ならもう一人いるはずだった人の名前を、誰も口にしない。 ルシアの部屋に残されていた手紙は、今もセシリアの懐に入っている。 何度も読み返したせいで、封の折り目は少し柔らかくなっていた。 紙の端には、セシリアの指が無意識に触れた跡が残っている。 短い手紙だった。 けれど、その短さが余計に苦しかった。 姉は、何も責めなかった。 何も求めなかった。 ただ、セシリアを祝福して、去っていった。 それが、ずっと胸に引っかかっている。 「セシリア様」 呼びかけられて、セシリアは顔を上げた。 王城の裏手にある魔獣厩舎。 そこには、貴族や教会関係者の移動に使われる馬型魔獣たちが並んでいる。 今日は、神殿騎士団の移動用魔獣の一頭が体調を崩したと聞き、セシリアが呼ばれていた。 銀の聖眼を持つ者なら、傷や呪いの有無をすぐに見分けられる。 そう言われて。 「この子です」 教会騎士が手綱を引き、栗色の馬型魔獣を示した。 以前、セシリアが乗ったことのある子だった。 ルシアの補食を食べて、朝から走っても元気だった、あの子だ。 けれど今は、耳が伏せ気味で、首も低い。脚に大きな傷はない。だが、どこか覇気がなかった。 「昨日から食が細く、今朝もあまり食べませんでした。歩けはしますが、長く走らせると息が乱れます」 「怪我は?」 「ありません。少なくとも見える範囲では」 セシリアはそっと魔獣の額に触れた。 銀の聖眼が、静かに光を帯びる。 見えるのは、表面の傷。 流れ込む瘴気。 呪いの痕跡。 骨や筋を裂くような損傷。 けれど、どこにもそれはなかった。 傷はない。 呪いもない。 瘴気もない。 なら、聖眼で
五日後。 劇的に治った魔獣は、まだ一頭もいなかった。 迎撃部隊の白いペガサスは、まだ長く飛べない。 伝令部隊のリューネも、まだ任務復帰には遠い。 輸送用のヒッポグリフたちも、脚や翼の疲労を完全に抜けたわけではない。 それでも、王立魔獣医療・保護施設の朝は、五日前とは確かに違っていた。 檻を叩く音が減った。 水桶の前で迷う時間が短くなった。 夜間の記録に、「浅い眠り」ではなく「短時間だが深く眠った」という文字が増えた。 奇跡ではない。 快癒でもない。 けれど、悪化の速度は確かに落ち始めていた。「今の状態を言うわ」 記録室の中央で、マグダレナが紙束を机に置いた。「治ってはいない。でも、崩れ続ける流れは止まりかけている」 ノーマンが横から記録板を掲げる。「水分摂取量、重症三頭のうち二頭で微増。睡眠記録、伝令部隊の軽症個体五頭中三頭で改善傾向。食欲は…… まあ、まだ渋いです。魔獣も人間も胃が痛い時は機嫌が悪い」「余計な一言は?」「反省中です」「よろしい」 淡々としたやり取りに、会議室の空気が少しだけ緩んだ。 ルシアは記録を一枚ずつ見比べていた。 水を飲んだ量。 餌に口をつけた回数。 翼の震えが出た時間。 装具を見た時の反応。 夜に体を横たえられたかどうか。 どれも小さな数字だ。 テレジアの宮廷なら、たぶん笑われていた。 そんなものを数えて何になる、と。 けれど今、この小さな数字の積み重ねが、命を処分から一歩遠ざけている。「白いペガサスは?」 マグダレナが尋ねる。 ルシアは該当する記録を引き寄せた。「まだ胃の痛みは残っています。ですが、水を飲んだあとに首を振る回数が減りました。餌も、昨日はようやく口をつけました。一口だけですが」「一口」 ノーマンが小さく拳を握る。「地味に嬉しいですね」「地味ですが、大きいです」 ルシアは真面目に頷いた。「この子にとっては、食べてもすぐ痛くならないという経験を積み直している段階です。急に量を増やすと、また食べることが痛みと結びついてしまいます」「なら、一口で勝ちか」「昨日のところは。今朝はこれから診ます」「記録します。一口、勝ち」「ノーマン」「正式記録には書きません」 マグダレナに睨まれ、ノーマンは素早く言い直した。 その時、マグダレナが紙束をめ
「この国のやり方そのものが、魔獣たちを少しずつ追い詰めています」 ルシアの言葉が落ちたあと、記録室にはしばらく誰の声もなかった。 責めるつもりで言ったわけではない。 けれど、言葉にした瞬間、その重さが部屋の中へ広がっていくのが分かった。 ベルンは固い顔で配合表を見つめていた。 ノーマンは記録板を抱えたまま、珍しく何も言わない。 マグダレナは腕を組み、地図と報告書を交互に見下ろしている。 最初に口を開いたのは、アルベルトだった。「ルシア殿。確認したい」 その声は穏やかだった。 けれど、王族として何かを決めようとしている声でもあった。「飛翔用標準配合を止めれば、すぐに魔獣たちは回復するのか」「いいえ」 ルシアは首を振った。「すぐには難しいと思います。胃を痛めている子には、まず負担を減らす必要があります。眠れていない子には、休ませ方を変える必要があります。食べ物を変えるだけでは足りません」「なら、何から変えるべきだ」 問われて、ルシアは一度だけ目を閉じた。 昨日見たペガサスの苦しみが、胸の奥によみがえる。 焼けつく胃の痛み。 空腹のまま張りつめていた待機時間。 装具の音と結びついた恐怖。 水を飲むことすらためらうほどの不快感。「まず、重症の子には飛翔用標準配合を止めてください。少なくとも、今のまま与え続けるのは危険です」 ルシアは配合表の横に、白紙を引き寄せた。「胃を守る薬草を混ぜた柔らかい餌に切り替えます。量は少しずつ。水には薄い整腸薬を。香りが強いものは避けてください。興奮を高める香草も、今は抜いた方がいいです」「飛行任務は?」 アルベルトが問う。「飛行前の長い絶食は見直すべきです。空腹のまま待機させる時間を減らしてください。任務後はすぐに装具を外し、水分と補助薬を入れて、静かな場所で休ませる必要があります」 ベルンが低く唸った。「だが、飛行前に腹を満たせば、体が重くなる。事故につながる。昔からそう教えられてきた」「満たす必要はありません」 ルシアは静かに答えた。「腹を空にしすぎないだけです。飛ぶために軽くすることと、痛むほど空腹にすることは違います」 ベルンは、返す言葉を探すように唇を結んだ。 マグダレナが机を指で軽く叩いた。その手が、報告書の束の上で止まる。「施設内の重症個体で試験する」「施







