Masuk案内された先は、施設のさらに奥だった。
歓迎のために整えられていた応接室を出ると、空気はがらりと変わった。石造りの廊下はひんやりとしていて、壁には魔導灯が等間隔に灯っている。 薬草を煎じたような匂い。 消毒液の鋭い匂い。 その奥に、獣の体温を含んだ重い気配が混じっていた。 遠くで、金属が軋む音がする。 ルシアの胸の奥が、小さく震えた。 怖くないわけではない。 けれど、足は止まらなかった。 「ここから先は、危険個体を収容する隔離棟よ」 前を歩くマグダレナ・オフィウスが、振り返らずに言った。 「治療と保護のための施設だけれど、ここにいる子たちは傷つき、病み、追いつめられている。だから、近づく者を敵と見ることもあるわ」 「……はい」 「はっきり言うわ。噛まれたら痛いじゃ済まない」 ルシアは思わず喉を鳴らした。 隣を歩いていたアルベルトが、少しだけ苦笑する。 「マグダレナは脅しているわけではないよ」 「脅しているわ」 「……正直で助かるね」 「怖いと知った上で近づく方が、結果的に生き残るの」 マグダレナは淡々と言い切った。 その言葉は物騒だったが、不思議と信頼できた。 この人は危険を隠さない。だからこそ、必要なところまでは案内する。 扉を二つ抜けると、広い収容区画に出た。 天井は高く、壁面には厚い魔導硝子が嵌め込まれている。その向こうに、白い影が見えた。 ルシアは息を呑む。 ペガサスだった。 絵物語や図鑑でしか見たことがない。 白銀に近い毛並み。背から伸びる大きな翼。長い首と、しなやかな脚。神殿の壁画に描かれるような、清らかで美しい魔獣。 けれど今、その姿は痛々しかった。 翼の羽は乱れ、ところどころ艶を失っている。床に置かれた餌桶にはほとんど手がつけられていない。水桶も減りが浅い。ペガサスは立ったまま、何度も前脚を踏み替えていた。 眠れず、横にもなれず、ただそこに立ち尽くしているように見える。 金具が鳴ると、白い翼がびくりと震えた。 ペガサスは首を上げ、こちらを睨むように耳を伏せる。澄んでいるはずの瞳は濁り、荒い息が白く漏れていた。 「航空迎撃部隊所属のペガサスよ」 マグダレナが静かに説明を始める。 「本来は非常に優秀な子だった。反応が速く、騎手との意思疎通も安定していて、国境付近の迎撃任務で何度も成果を上げている」 「迎撃任務……」 「野生魔獣の群れを、人里へ近づく前に散らす任務だ。討伐より誘導と威嚇が中心になる」 アルベルトが補足した。 「最近、その出動回数が増えている。山岳地帯から押し出された魔獣が、低地へ流れてきているんだ」 テレジア側の開拓政策。 その言葉が、ルシアの中で重く沈んだ。 森を切り開き、街道を広げ、鉱山を増やす。 その陰で、棲み処を失った魔獣たちが移動する。 その移動先で、フランキスの魔獣たちが迎撃に出る。 ルシアは、檻の向こうのペガサスを見つめた。 この子も、その余波を受けているのだ。 「それが、今は」 マグダレナの声が少し低くなる。 「三日前から食欲が落ちた。昨夜はほとんど眠れていない。装具や金具の音に過敏に反応して、近づく者を拒む。外傷はない。翼も脚も折れていない。治癒術師にも見てもらったけれど、傷も呪いも瘴気も確認されなかった」 彼女は短く息を吐く。 「それでも、よくならない」 近くにいた研究員の青年が、記録板を抱えたまま口を挟んだ。 「治癒術で異常なし、鎮静も一時的。食べない、寝ない、暴れる。正直、現場はお手上げです」 言い方は少しぶっきらぼうだったが、疲れが滲んでいた。 マグダレナが彼を見る。 「ノーマン。愚痴は短く、記録は長く」 「はい、施設長。愚痴は以上です」 研究員ノーマンはすぐに口を閉じた。 ルシアは一瞬だけ目を瞬いた。 緊張した場面のはずなのに、少しだけ空気が動いた。 アルベルトが続ける。 「差はあるが、似たような不調を起こしている個体は他にもいる。飛行後に極端に食が細るもの。眠れず荒れるもの。装具を拒むもの。だが、この子がもっとも重い」 ルシアは黙ってペガサスを見つめた。 美しい。 けれど、その美しさの奥で、何かが崩れかけている。 ペガサスがまた低く唸った。 威嚇の形をしている。けれど、その声の底にあるものは怒りではなかった。 苦しいのだ。 そう思った瞬間、ルシアの碧い瞳が、静かに金色へ変わった。 世界の輪郭が、一段深く沈む。 ペガサスの白い体の奥に、淡い光の筋が浮かび上がった。血の流れではない。骨の形でもない。生き物の中を巡る熱と、疲労と、痛みの流れ。 それらが、細い糸のように重なり合って見える。 健康な場所は、澄んだ光を帯びていた。 けれど腹の奥だけが、濁っている。 胃のあたりに、黒ずんだ琥珀色の滲みが沈んでいた。そこから焼けつくような痛みがじくじくと広がり、喉から腹へ降りる流れが途中で乱れている。 胸の奥には、眠れない焦燥が細い棘のように刺さっていた。 ルシアは無意識に息を浅くした。 見えすぎる。 乾いた保存飼料の匂い。 空腹のまま待たされた長い時間。 飛行のたび、腹の奥が締めつけられる感覚。 硬い石床の上で眠れない夜。 背に乗った騎士の緊張。 革帯と金具が擦れる音。 出撃前の張りつめた空気。 戻っても、すぐには楽にならない体。 断片が、光と匂いと痛みになって流れ込んでくる。 ルシアは思わず片手で胸元を押さえた。 「ルシア?」 マグダレナの声が近くで聞こえる。 ルシアは目を逸らさなかった。 逸らせば、この子の苦しみまで見失ってしまう気がした。 「……この子は、怒っているんじゃありません」 声は小さかった。 けれど、隔離棟の空気の中ではっきり響いた。 「ずっと、内側が痛いんです。食べたくても食べられないくらいに。眠れないのも、そのせいだと思います」 ノーマンが眉をひそめる。 「内側? 治癒術師は異常なしと判断しました。外傷も呪いもない」 「傷ではありません」 ルシアは静かに首を振った。 「たぶん、腹の奥です。胃が荒れています。空腹の時間が長くて、その上に刺激の強い餌と飛行の負担が重なっている。装具を嫌がっているのも、装具そのものが嫌いなのではなく、飛ぶ前後の痛みと結びついているからだと思います」 「……その眼で、そこまで?」 ノーマンの声には、疑いより驚きが混じっていた。 ルシアは答えず、ペガサスの腹の奥に見える濁りを追った。 この子は、命令を拒みたいのではない。 飛びたくないのでもない。 ただ、飛ぶたびに痛むのだ。 食べようとしても痛み、眠ろうとしても痛む。だから、世界の全部が敵のように見えている。 「そんなことまで分かるのか」 アルベルトが低く呟いた。 その声に責める響きはない。 驚きと、抑えた興味が混じっていた。 ルシアは、ペガサスから目を離さないまま答える。 「全部ではありません。けれど、目星はつきました」 この眼が映すのは、どこがどう苦しいかまでだ。 なぜそうなったのか、本当にそうなのかは、記録と照らして確かめるしかない。見えたものを鵜呑みにすれば、きっと間違える。 マグダレナの表情がわずかに変わる。 「治療できる?」 「すぐに治るとは言えません。ただ、今すぐ悪化させているものは減らせます」 ルシアは一歩、檻に近づいた。 ペガサスが警戒して翼を揺らす。 金具が小さく鳴った瞬間、また腹の奥の濁りが強く震えた。 「強い保存飼料は、今はやめた方がいいです。あと、鎮静を重ねるのも少し待ってください。体が重くなって、余計に苦しくなっています」 「では何を使うの?」 「胃を守る薬草と、刺激を抑える煎じ薬。それから、水に混ぜられるくらい薄い整腸薬が必要です。いきなり食べさせようとしないで、まず水を飲めるようにしたいです」 言葉にするほど、頭の中で処置の順番が組み上がっていく。 これは奇跡ではない。 見えたものを、薬と食事と環境に置き換えるだけだ。 ルシアは振り返った。 「この施設に、白灯草と月露草、それから甘樹脂はありますか。胃の痛みを和らげる調整薬があれば、それも少量だけ使いたいです」 空気が止まった。 こんなに早く。 その驚きが、誰かの口から出るより先に、室内へ広がっていく。 マグダレナが最初に動いた。 「ノーマン」 「薬材庫ですね」 「白灯草、月露草、甘樹脂。胃の調整薬も。数字で在庫を持ってきて」 「了解。愚痴なし、全力です」 ノーマンは記録板を抱え直し、足早に駆け出した。 別の職員も、必要なものを書きつけていく。 ルシアはようやく、そっと息を吐いた。 金色に染まった視界の端が、じわりと白く滲む。 見続けるほど、目の奥が熱を持つ。 けれど今はまだ、閉じるわけにはいかなかった。 ペガサスは相変わらず警戒している。 それでも、先ほどよりほんのわずか、耳の伏せ方が弱まったように見えた。 その時、アルベルトが静かに歩み寄ってきた。 マグダレナたちが薬材の確認に動いている分、周囲の音がわずかに遠のく。聞こえるのは、ペガサスの荒い息と、ルシア自身の鼓動だけだった。 アルベルトは、ルシアの顔をまっすぐに見た。 「不躾で申し訳ない」 穏やかな声だった。 けれど、そこには王族らしい鋭さがあった。 「その眼は……普通の眼ではないね?」――テレジア王国、王城。 セシリアは、薬務室の机に広げられた記録を見つめていた。 ルシアが残していった調合記録。 新しく薬剤師たちが作った補食の配合表。 そして、ここ数日の移動用魔獣の体調記録。 並べれば、違いははっきりしていた。 同じ材料。 同じ分量。 同じ形。 けれど、結果が違う。 ルシアの補食を食べていた時、長距離移動後の魔獣たちは翌朝には食欲を戻していた。 水も飲み、腹を壊す個体も少なかった。 だが、今は違う。 食べる。歩く。けれど、戻りが遅い。 目に見える傷はない。 呪いもない。瘴気もない。 それでも、確かに弱っている。 セシリアは懐の手紙に触れかけて、指を止めた。 読み返せば、また姉の優しさに甘えてしまう気がした。今見るべきものは、机の上の記録だ。 「……お姉様は、ここで何を見つけたの」 小さく呟く。 机の端には、古い記録帳が置かれている。 ルシアの筆跡だった。 ――湿気の多い日は、乾燥薬草を半量に。 ――胃の弱い個体には蜂蜜を足さない。 ――長距離移動後、すぐに濃い補食を与えないこと。まず水。 ――よく食べる個体ほど、食後の様子を見る。食欲は健康の証とは限らない。 細かい。 あまりに細かい。 けれど、その細かさのひとつひとつが、今のセシリアには痛いほど分かった。 調合法だけではない。 姉は、【魔獣】を見ていた。 食べ方を見て、水の飲み方を見て、眠る前の姿勢まで見ていた。 だから効いていたのだ。 薬が特別だったからではない。 その子に合わせて、薬を変えていたから。 部屋の扉が開き、教会騎士が入ってきた。 セシリアの護衛を務める青年騎士だった。名はレオン。あの日、ルシアを欠陥聖女と呼んでしまった騎士でもある。 今の彼は、以前よりずっと慎重な顔をしていた。 「セシリア様。厩舎の子ですが、先ほどまた食べ残しました」 「水は?」 「飲みます。ですが、飲んだあとに首を下げます」 「補食は」 「半分ほどです」 セシリアは目を伏せた。 ルシアなら、きっとその動作を見逃さなかった。 食べ残した量だけでなく、なぜ食べ残したのかを考えただろう。 「聖眼で診ます」 「はい」 ◇ 厩舎
ヴァルミア王国へ向かう馬車は、フランキスの街道を南西へ進んでいた。 窓の外に広がる景色は、少しずつ変わっていく。 王都近郊の整えられた道を抜けると、緩やかな丘陵が続き、やがて遠くに青灰色の山並みが見え始めた。 あの山の向こうが、ヴァルミア。 ワイバーンの国。 ルシアは膝の上に開いた資料へ目を落とした。 昨夜から何度も読み返した記録だ。 ――山岳待機、七時間。 ――夜間気温、著しく低下。 ――翌朝、緊急出撃。 ――帰還後、右翼を下げ、飛行不能。 ――翼膜裂傷、治癒術にて閉鎖。 ――三日後、再発。 文字だけなら、ただの報告書だ。 けれど今のルシアには、その裏にあるものが気になって仕方がなかった。 冷えた岩場。 湿った風。 動けないまま待たされる体。 重い肉餌。 温まらない翼。 それでも命令で空へ上がるワイバーン。 まだ見てもいないのに、苦しみの輪郭だけが紙面の向こうで揺れている気がした。 「酔った?」 向かい側からマグダレナが声をかける。 白衣ではなく、今日は移動用の濃紺の外套を羽織っている。いつもの軍服めいた服装と相まって、医療施設長というより前線指揮官のようだった。 「いえ、大丈夫です」 「ならいいわ。顔が険しいから、資料に噛まれたのかと思った」 隣に座っていたノーマンが、記録板を抱えたまま真顔で頷いた。 「資料は噛みます。特に急ぎで集められた資料は、誤字と抜けで精神をガブリと……あ、施設長の視線が痛いのでここまでにしておきます」 「賢明ね」 「生存判断です」 ルシアは思わず目を瞬いた。 そのやり取りを見ていたアルベルトが、低く笑う。 今回はアルベルトも同行している。 フランキス第一王子として、同盟国ヴァルミアとの調整役を担うためだという。 「緊張しすぎなくていい。ヴァルミア側も、こちらを責めるために呼んだわけではない」 「はい」 「ただし、かなり焦ってはいるだろうね。山岳国にとって、ワイバーンは空の足だ。飛べない個体が増えれば、砦も村も孤立する」 ルシアは資料を閉じた。 「……ペガサスより、生活への影響が大きいのですか」 「地形によるわ」 マグダレナが答える。 「フランキスではペガサスもヒッポグリフもドレイクも使う。で
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。 その日の午後、ルシアは飼料庫にいた。 机の上には、乾燥薬草、砕いた穀類、甘樹脂、塩分を含む鉱石粉、水に溶けやすい整腸薬が並んでいる。 白い迎撃ペガサス用。 灰色の伝令ペガサス、リューネ用。 輸送用ヒッポグリフ用。 同じ飛行魔獣でも、必要なものは違う。 ルシアは小さな匙で薬草を量りながら、記録板に数字を書き込んでいた。 「白灯草、二匙。月露草、半匙。甘樹脂は……少しだけ」 「少しだけ、という単位は正式記録に向きません」 隣でノーマンが即座に言った。 ルシアは手を止める。 「では、四分の一匙で」 「よろしいです。記録係が泣かずに済みます」 「ノーマン様は、記録係なのですか?」 「研究員です。ですが最近、紙に埋もれる係になりました」 ノーマンは真顔で言った。 「魔獣の命と引き換えなら、紙の山くらい受け入れます。ただし、誤字は許しません」 ルシアは思わず笑いそうになった。 その時、飼料庫の扉が勢いよく開いた。 「ルシア」 入ってきたのはマグダレナだった。 いつもの白衣。肩で切り揃えた金髪。 表情は落ち着いている。けれど、目の奥が少し鋭い。 何かあったのだと、ルシアはすぐに察した。 「はい」 マグダレナは扉を押さえたまま、まっすぐにルシアを見た。 「会議室へ。ヴァルミアから報告が届いたわ」 「ヴァルミア……」 聞き慣れない国名に、ルシアは瞬きをする。 ノーマンが記録板を抱え直した。 「同盟国ですね。南西の山岳国家。ワイバーン運用が多い」 「ノーマン、説明は歩きながら」 「はい。歩く資料係になります」 マグダレナはすでに廊下へ出ていた。 ルシアは慌てて手を拭き、記録板と筆を持って後を追った。 ◇ 会議室には、アルベルトがいた。 机の上には数通の封書と、広げられた地図。 フランキスの南西に、険しい山脈を抱く国が描かれている。 ヴァルミア王国。 ルシアは地図の上に並ぶ山の記号を見つめた。 フランキスとは違う。 平原より山が多い。 街道は谷間を縫うように伸び、国境付近には砦の印がいくつもある。 「来たね」 アルベルトが顔を上げた。 いつもの穏やかな声だったが、机の上の書類
――テレジア王国、王都。 ルシアが屋敷を去ってから、七日が過ぎていた。 セシリアの毎日は、相変わらず忙しかった。 朝は神殿で祈りを捧げ、昼には貴族家の訪問を受け、午後には王城へ呼ばれる。夕刻には教会関係者との面会が入り、夜には聖女として覚えるべき儀礼や記録に目を通す。 誰もが、セシリアを丁寧に扱った。 銀の聖眼を持つ、正統な聖女。 傷を癒やし、呪いを祓う、アージェント家の誇り。 そう呼ばれるたび、胸がかすかに冷えた。 誇り。 その言葉の隣に、本当ならもう一人いるはずだった人の名前を、誰も口にしない。 ルシアの部屋に残されていた手紙は、今もセシリアの懐に入っている。 何度も読み返したせいで、封の折り目は少し柔らかくなっていた。 紙の端には、セシリアの指が無意識に触れた跡が残っている。 短い手紙だった。 けれど、その短さが余計に苦しかった。 姉は、何も責めなかった。 何も求めなかった。 ただ、セシリアを祝福して、去っていった。 それが、ずっと胸に引っかかっている。 「セシリア様」 呼びかけられて、セシリアは顔を上げた。 王城の裏手にある魔獣厩舎。 そこには、貴族や教会関係者の移動に使われる馬型魔獣たちが並んでいる。 今日は、神殿騎士団の移動用魔獣の一頭が体調を崩したと聞き、セシリアが呼ばれていた。 銀の聖眼を持つ者なら、傷や呪いの有無をすぐに見分けられる。 そう言われて。 「この子です」 教会騎士が手綱を引き、栗色の馬型魔獣を示した。 以前、セシリアが乗ったことのある子だった。 ルシアの補食を食べて、朝から走っても元気だった、あの子だ。 けれど今は、耳が伏せ気味で、首も低い。脚に大きな傷はない。だが、どこか覇気がなかった。 「昨日から食が細く、今朝もあまり食べませんでした。歩けはしますが、長く走らせると息が乱れます」 「怪我は?」 「ありません。少なくとも見える範囲では」 セシリアはそっと魔獣の額に触れた。 銀の聖眼が、静かに光を帯びる。 見えるのは、表面の傷。 流れ込む瘴気。 呪いの痕跡。 骨や筋を裂くような損傷。 けれど、どこにもそれはなかった。 傷はない。 呪いもない。 瘴気もない。 なら、聖眼で
五日後。 劇的に治った魔獣は、まだ一頭もいなかった。 迎撃部隊の白いペガサスは、まだ長く飛べない。 伝令部隊のリューネも、まだ任務復帰には遠い。 輸送用のヒッポグリフたちも、脚や翼の疲労を完全に抜けたわけではない。 それでも、王立魔獣医療・保護施設の朝は、五日前とは確かに違っていた。 檻を叩く音が減った。 水桶の前で迷う時間が短くなった。 夜間の記録に、「浅い眠り」ではなく「短時間だが深く眠った」という文字が増えた。 奇跡ではない。 快癒でもない。 けれど、悪化の速度は確かに落ち始めていた。「今の状態を言うわ」 記録室の中央で、マグダレナが紙束を机に置いた。「治ってはいない。でも、崩れ続ける流れは止まりかけている」 ノーマンが横から記録板を掲げる。「水分摂取量、重症三頭のうち二頭で微増。睡眠記録、伝令部隊の軽症個体五頭中三頭で改善傾向。食欲は…… まあ、まだ渋いです。魔獣も人間も胃が痛い時は機嫌が悪い」「余計な一言は?」「反省中です」「よろしい」 淡々としたやり取りに、会議室の空気が少しだけ緩んだ。 ルシアは記録を一枚ずつ見比べていた。 水を飲んだ量。 餌に口をつけた回数。 翼の震えが出た時間。 装具を見た時の反応。 夜に体を横たえられたかどうか。 どれも小さな数字だ。 テレジアの宮廷なら、たぶん笑われていた。 そんなものを数えて何になる、と。 けれど今、この小さな数字の積み重ねが、命を処分から一歩遠ざけている。「白いペガサスは?」 マグダレナが尋ねる。 ルシアは該当する記録を引き寄せた。「まだ胃の痛みは残っています。ですが、水を飲んだあとに首を振る回数が減りました。餌も、昨日はようやく口をつけました。一口だけですが」「一口」 ノーマンが小さく拳を握る。「地味に嬉しいですね」「地味ですが、大きいです」 ルシアは真面目に頷いた。「この子にとっては、食べてもすぐ痛くならないという経験を積み直している段階です。急に量を増やすと、また食べることが痛みと結びついてしまいます」「なら、一口で勝ちか」「昨日のところは。今朝はこれから診ます」「記録します。一口、勝ち」「ノーマン」「正式記録には書きません」 マグダレナに睨まれ、ノーマンは素早く言い直した。 その時、マグダレナが紙束をめ
「この国のやり方そのものが、魔獣たちを少しずつ追い詰めています」 ルシアの言葉が落ちたあと、記録室にはしばらく誰の声もなかった。 責めるつもりで言ったわけではない。 けれど、言葉にした瞬間、その重さが部屋の中へ広がっていくのが分かった。 ベルンは固い顔で配合表を見つめていた。 ノーマンは記録板を抱えたまま、珍しく何も言わない。 マグダレナは腕を組み、地図と報告書を交互に見下ろしている。 最初に口を開いたのは、アルベルトだった。「ルシア殿。確認したい」 その声は穏やかだった。 けれど、王族として何かを決めようとしている声でもあった。「飛翔用標準配合を止めれば、すぐに魔獣たちは回復するのか」「いいえ」 ルシアは首を振った。「すぐには難しいと思います。胃を痛めている子には、まず負担を減らす必要があります。眠れていない子には、休ませ方を変える必要があります。食べ物を変えるだけでは足りません」「なら、何から変えるべきだ」 問われて、ルシアは一度だけ目を閉じた。 昨日見たペガサスの苦しみが、胸の奥によみがえる。 焼けつく胃の痛み。 空腹のまま張りつめていた待機時間。 装具の音と結びついた恐怖。 水を飲むことすらためらうほどの不快感。「まず、重症の子には飛翔用標準配合を止めてください。少なくとも、今のまま与え続けるのは危険です」 ルシアは配合表の横に、白紙を引き寄せた。「胃を守る薬草を混ぜた柔らかい餌に切り替えます。量は少しずつ。水には薄い整腸薬を。香りが強いものは避けてください。興奮を高める香草も、今は抜いた方がいいです」「飛行任務は?」 アルベルトが問う。「飛行前の長い絶食は見直すべきです。空腹のまま待機させる時間を減らしてください。任務後はすぐに装具を外し、水分と補助薬を入れて、静かな場所で休ませる必要があります」 ベルンが低く唸った。「だが、飛行前に腹を満たせば、体が重くなる。事故につながる。昔からそう教えられてきた」「満たす必要はありません」 ルシアは静かに答えた。「腹を空にしすぎないだけです。飛ぶために軽くすることと、痛むほど空腹にすることは違います」 ベルンは、返す言葉を探すように唇を結んだ。 マグダレナが机を指で軽く叩いた。その手が、報告書の束の上で止まる。「施設内の重症個体で試験する」「施







