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第4話 魔獣番の国②

Penulis: 一十一
last update Tanggal publikasi: 2026-07-11 14:26:10

案内された先は、施設のさらに奥だった。

歓迎のために整えられていた応接室を出ると、空気はがらりと変わった。石造りの廊下はひんやりとしていて、壁には魔導灯が等間隔に灯っている。

薬草を煎じたような匂い。

消毒液の鋭い匂い。

その奥に、獣の体温を含んだ重い気配が混じっていた。

遠くで、金属が軋む音がする。

ルシアの胸の奥が、小さく震えた。

怖くないわけではない。

けれど、足は止まらなかった。

「ここから先は、危険個体を収容する隔離棟よ」

前を歩くマグダレナ・オフィウスが、振り返らずに言った。

「治療と保護のための施設だけれど、ここにいる子たちは傷つき、病み、追いつめられている。だから、近づく者を敵と見ることもあるわ」

「……はい」

「はっきり言うわ。噛まれたら痛いじゃ済まない」

ルシアは思わず喉を鳴らした。

隣を歩いていたアルベルトが、少しだけ苦笑する。

「マグダレナは脅しているわけではないよ」

「脅しているわ」

「……正直で助かるね」

「怖いと知った上で近づく方が、結果的に生き残るの」

マグダレナは淡々と言い切った。

その言葉は物騒だったが、不思議と信頼できた。

この人は危険を隠さない。だからこそ、必要なところまでは案内する。

扉を二つ抜けると、広い収容区画に出た。

天井は高く、壁面には厚い魔導硝子が嵌め込まれている。その向こうに、白い影が見えた。

ルシアは息を呑む。

ペガサスだった。

絵物語や図鑑でしか見たことがない。

白銀に近い毛並み。背から伸びる大きな翼。長い首と、しなやかな脚。神殿の壁画に描かれるような、清らかで美しい魔獣。

けれど今、その姿は痛々しかった。

翼の羽は乱れ、ところどころ艶を失っている。床に置かれた餌桶にはほとんど手がつけられていない。水桶も減りが浅い。ペガサスは立ったまま、何度も前脚を踏み替えていた。

眠れず、横にもなれず、ただそこに立ち尽くしているように見える。

金具が鳴ると、白い翼がびくりと震えた。

ペガサスは首を上げ、こちらを睨むように耳を伏せる。澄んでいるはずの瞳は濁り、荒い息が白く漏れていた。

「航空迎撃部隊所属のペガサスよ」

マグダレナが静かに説明を始める。

「本来は非常に優秀な子だった。反応が速く、騎手との意思疎通も安定していて、国境付近の迎撃任務で何度も成果を上げている」

「迎撃任務……」

「野生魔獣の群れを、人里へ近づく前に散らす任務だ。討伐より誘導と威嚇が中心になる」

アルベルトが補足した。

「最近、その出動回数が増えている。山岳地帯から押し出された魔獣が、低地へ流れてきているんだ」

テレジア側の開拓政策。

その言葉が、ルシアの中で重く沈んだ。

森を切り開き、街道を広げ、鉱山を増やす。

その陰で、棲み処を失った魔獣たちが移動する。

その移動先で、フランキスの魔獣たちが迎撃に出る。

ルシアは、檻の向こうのペガサスを見つめた。

この子も、その余波を受けているのだ。

「それが、今は」

マグダレナの声が少し低くなる。

「三日前から食欲が落ちた。昨夜はほとんど眠れていない。装具や金具の音に過敏に反応して、近づく者を拒む。外傷はない。翼も脚も折れていない。治癒術師にも見てもらったけれど、傷も呪いも瘴気も確認されなかった」

彼女は短く息を吐く。

「それでも、よくならない」

近くにいた研究員の青年が、記録板を抱えたまま口を挟んだ。

「治癒術で異常なし、鎮静も一時的。食べない、寝ない、暴れる。正直、現場はお手上げです」

言い方は少しぶっきらぼうだったが、疲れが滲んでいた。

マグダレナが彼を見る。

「ノーマン。愚痴は短く、記録は長く」

「はい、施設長。愚痴は以上です」

研究員ノーマンはすぐに口を閉じた。

ルシアは一瞬だけ目を瞬いた。

緊張した場面のはずなのに、少しだけ空気が動いた。

アルベルトが続ける。

「差はあるが、似たような不調を起こしている個体は他にもいる。飛行後に極端に食が細るもの。眠れず荒れるもの。装具を拒むもの。だが、この子がもっとも重い」

ルシアは黙ってペガサスを見つめた。

美しい。

けれど、その美しさの奥で、何かが崩れかけている。

ペガサスがまた低く唸った。

威嚇の形をしている。けれど、その声の底にあるものは怒りではなかった。

苦しいのだ。

そう思った瞬間、ルシアの碧い瞳が、静かに金色へ変わった。

世界の輪郭が、一段深く沈む。

ペガサスの白い体の奥に、淡い光の筋が浮かび上がった。血の流れではない。骨の形でもない。生き物の中を巡る熱と、疲労と、痛みの流れ。

それらが、細い糸のように重なり合って見える。

健康な場所は、澄んだ光を帯びていた。

けれど腹の奥だけが、濁っている。

胃のあたりに、黒ずんだ琥珀色の滲みが沈んでいた。そこから焼けつくような痛みがじくじくと広がり、喉から腹へ降りる流れが途中で乱れている。

胸の奥には、眠れない焦燥が細い棘のように刺さっていた。

ルシアは無意識に息を浅くした。

見えすぎる。

乾いた保存飼料の匂い。

空腹のまま待たされた長い時間。

飛行のたび、腹の奥が締めつけられる感覚。

硬い石床の上で眠れない夜。

背に乗った騎士の緊張。

革帯と金具が擦れる音。

出撃前の張りつめた空気。

戻っても、すぐには楽にならない体。

断片が、光と匂いと痛みになって流れ込んでくる。

ルシアは思わず片手で胸元を押さえた。

「ルシア?」

マグダレナの声が近くで聞こえる。

ルシアは目を逸らさなかった。

逸らせば、この子の苦しみまで見失ってしまう気がした。

「……この子は、怒っているんじゃありません」

声は小さかった。

けれど、隔離棟の空気の中ではっきり響いた。

「ずっと、内側が痛いんです。食べたくても食べられないくらいに。眠れないのも、そのせいだと思います」

ノーマンが眉をひそめる。

「内側? 治癒術師は異常なしと判断しました。外傷も呪いもない」

「傷ではありません」

ルシアは静かに首を振った。

「たぶん、腹の奥です。胃が荒れています。空腹の時間が長くて、その上に刺激の強い餌と飛行の負担が重なっている。装具を嫌がっているのも、装具そのものが嫌いなのではなく、飛ぶ前後の痛みと結びついているからだと思います」

「……その眼で、そこまで?」

ノーマンの声には、疑いより驚きが混じっていた。

ルシアは答えず、ペガサスの腹の奥に見える濁りを追った。

この子は、命令を拒みたいのではない。

飛びたくないのでもない。

ただ、飛ぶたびに痛むのだ。

食べようとしても痛み、眠ろうとしても痛む。だから、世界の全部が敵のように見えている。

「そんなことまで分かるのか」

アルベルトが低く呟いた。

その声に責める響きはない。

驚きと、抑えた興味が混じっていた。

ルシアは、ペガサスから目を離さないまま答える。

「全部ではありません。けれど、目星はつきました」

この眼が映すのは、どこがどう苦しいかまでだ。

なぜそうなったのか、本当にそうなのかは、記録と照らして確かめるしかない。見えたものを鵜呑みにすれば、きっと間違える。

マグダレナの表情がわずかに変わる。

「治療できる?」

「すぐに治るとは言えません。ただ、今すぐ悪化させているものは減らせます」

ルシアは一歩、檻に近づいた。

ペガサスが警戒して翼を揺らす。

金具が小さく鳴った瞬間、また腹の奥の濁りが強く震えた。

「強い保存飼料は、今はやめた方がいいです。あと、鎮静を重ねるのも少し待ってください。体が重くなって、余計に苦しくなっています」

「では何を使うの?」

「胃を守る薬草と、刺激を抑える煎じ薬。それから、水に混ぜられるくらい薄い整腸薬が必要です。いきなり食べさせようとしないで、まず水を飲めるようにしたいです」

言葉にするほど、頭の中で処置の順番が組み上がっていく。

これは奇跡ではない。

見えたものを、薬と食事と環境に置き換えるだけだ。

ルシアは振り返った。

「この施設に、白灯草と月露草、それから甘樹脂はありますか。胃の痛みを和らげる調整薬があれば、それも少量だけ使いたいです」

空気が止まった。

こんなに早く。

その驚きが、誰かの口から出るより先に、室内へ広がっていく。

マグダレナが最初に動いた。

「ノーマン」

「薬材庫ですね」

「白灯草、月露草、甘樹脂。胃の調整薬も。数字で在庫を持ってきて」

「了解。愚痴なし、全力です」

ノーマンは記録板を抱え直し、足早に駆け出した。

別の職員も、必要なものを書きつけていく。

ルシアはようやく、そっと息を吐いた。

金色に染まった視界の端が、じわりと白く滲む。

見続けるほど、目の奥が熱を持つ。

けれど今はまだ、閉じるわけにはいかなかった。

ペガサスは相変わらず警戒している。

それでも、先ほどよりほんのわずか、耳の伏せ方が弱まったように見えた。

その時、アルベルトが静かに歩み寄ってきた。

マグダレナたちが薬材の確認に動いている分、周囲の音がわずかに遠のく。聞こえるのは、ペガサスの荒い息と、ルシア自身の鼓動だけだった。

アルベルトは、ルシアの顔をまっすぐに見た。

「不躾で申し訳ない」

穏やかな声だった。

けれど、そこには王族らしい鋭さがあった。

「その眼は……普通の眼ではないね?」

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