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第三話

Author: ひなた翠
last update Last Updated: 2026-01-16 12:25:58

◆十六歳・キス未遂

 十六歳の初夏、エドワールが一ヶ月ぶりに屋敷を訪ねてきた。

 長期の出張から戻ったばかりで、日焼けした肌が健康的な色をしていた。いつもより少し疲れた様子だったが、私を見ると僅かに表情が緩んだ。

 応接室に通され、メイドがお茶を運んでくる。紅茶の香りが部屋に広がり、窓から入る風がレースのカーテンを揺らしていた。

「北方の視察は大変だったでしょう」

 私は紅茶を注ぎながら尋ねた。エドワールは窓の外を見つめ、静かに答えた。

「ああ、雪解けの時期で道が悪かった。馬車が何度も泥濘にはまってね」

 淡々と語る声。いつもの落ち着いた口調だ。

 私は彼の顔を見つめた。銀青色の瞳が窓の光を反射し、透き通って見える。

(いつ見ても、エドワール様は格好いい)

「お疲れ様でした。お怪我はありませんでしたか?」

「大丈夫だ。心配してくれたのか?」

 エドワールが私を見つめてくれる。視線が絡み合い、心臓が跳ねた。

「婚約者ですから……」

 私は頬が熱くなるのを感じた。エドワールの視線が優しく、少しだけ驚いたような色を含んでいたように感じる。

「ありがとう。怪我はしなかったよ」

 囁くような声で答えてくれ、エドワールが懐から小さな箱を取り出した。

「土産だ。受け取ってくれるか」

 差し出された箱を受け取る。指先が触れ、温かさが伝わってきた。

 箱を開けると、繊細な細工の施された銀のブローチが入っていた。小さな薔薇の形をしていて、中央に淡いピンクの宝石が嵌め込まれている。

「綺麗……」

 息を呑んだ。今までもらった贈り物の中で、一番大人びた品だった。子ども向けの可愛らしい物ではなく、女性が身につける装飾品。

(嬉しい)

「君に似合うと思って選んだ」

 エドワールの声が近くで聞こえた。顔を上げると、いつの間にか距離が縮まっていた。ソファに並んで座る私たちの間には、ほんの僅かな空間しかなかった。エドワールの吐息が頬にかかる。

「ありがとう、ございます」

 声が震えた。心臓が早鐘を打ち、全身が熱くなっていく。エドワールの瞳が私を見つめている。銀青色の深い色。吸い込まれそうになる。

「レティシア」

 名前を呼ばれた。低く、掠れた声。今まで聞いたことのない艶のある声色でエドワールの手が私の頬に触れる。大きく、温かい指先が優しく肌を撫で、髪に触れる。

「……エドワール様」

 もう少しで唇が触れそうな距離。エドワールの顔が近づいてくる。瞳が僅かに伏せられ、長い睫毛が影を作っている。

(――キス、してもらえるのかしら)

 鼓動が激しくなり、息が止まりそうになった。胸が高鳴り、期待で胸が膨らむ。目を閉じかけた瞬間——

 エドワールが身を引いた。

 手が離れ、温かさが消える。目を開けると、エドワールは顔を背けていた。肩が僅かに震え、拳を強く握りしめている。

「……すまない。そういうつもりでは……」

 低い声が響いた。

 謝罪。拒絶。突き放された。

(キス、してもらえなかった……)

 胸に冷たいものが流れ込んできた。氷のような冷たさが全身を駆け巡り、息が詰まる。何か言わなければと思ったが、声が出なかった。

 喉が締め付けられ、言葉が喉の奥で引っかかる。

「申し訳ないが、今日はもう……失礼しよう」

 エドワールが席を立つと、応接室を出て行ってしまった。

(そんなにキスが嫌でしたか?)

 ブローチを握りしめたまま、私は涙が溢れた。

(私はこんなに……好きなのに)

 私は自室に戻ると、扉を閉めた。鍵をかけ、ベッドに倒れ込む。柔らかい感触が身体を受け止めた。枕に顔を埋め、声を殺して泣いた。涙が溢れ、止まらない。枕が濡れていくのが分かった。

(私は愛されていない――)

 優しさは嘘。婚約者だから気遣ってくれていただけ。

 贈り物も、訪問も、婚約者だから仕方なくしていたのだ。

 私を女性として見ていない。触れることさえ嫌なのだ。あんなに近づいたのに、キスしそうになったのに、途中で我に返って謝られた。

 胸が痛い。息をするのも苦しく、心臓が締め付けられるようだった。

 私の愛は一方通行だ。

 手の中のブローチが冷たく感じた。

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