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「心、君の気持ちは十分伝わったよ。俺たち付き合おう」
目の前の端正な男が、困ったように眉を下げて苦笑しつつそう告げる。 その言葉を聞いた瞬間、私の目にはぶわっと涙が溢れ、視界が歪んだ。 「こ、心!?どうしたんだ、泣かないでくれ」 「だって、嬉しくって…瞬、本当に私と付き合ってくれるの?嘘じゃないの?」 「嘘なんか言うもんか。俺も、心が好きだよ」 ああ、嘘みたいだ。 今までどれだけの間、瞬を追いかけ、告白してきただろう。 いつも瞬からは告白を断られてきた。 それなのに、今は私を優しく抱きしめ、好きだと口にしてくれる。 瞬の瞳には、私が確かに映っている。 瞬の瞳には、確かに私を愛おしく思う感情が見て取れた。 「嘘みたいだわ…、本当に嘘みたい…やっと私、瞬の彼女になれたの?」 「そうだ。心は俺の大切な彼女だよ」 その日、私…加納心(かのう こころ)と、清水瞬(しみず しゅん)はしっかりと抱きしめ合い、お付き合いを始めた。 付き合い始めて2年。 その2年間はとても順調だった。 瞬はいつも私を気にかけ、優しくしてくれて2人の間には笑顔が絶えなかった。 順調に付き合いを続け、ある日のデートで素敵なレストランで食事を楽しんでいた時。 瞬はいつもと違い、どこか緊張した面持ちをしていた。 調子でも悪いのだろうか、と心配したのも束の間。 なんと瞬は私へのプロポーズを用意してくれていたのだ。 「心。俺は君とこれからもずっと一緒にいたい。結婚しよう」 「瞬…!もちろんよ、よろしくお願いします!」 レストランでのプロポーズ。 私たちの周りには、沢山のお客さんが集まり、拍手で祝福してくれた。 感動して泣き出す私を瞬が優しく抱きしめ、そっと唇にキスを落としてくれた。 それなのに。 「すまない、心。麗奈が呼んでるから行くよ」 「…分かった」 「…何だその顔は?嫌そうな顔をするな。麗奈は今、帰国したばかりで大変なんだ」 「何も言ってないわ…行ってらっしゃい」 瞬はふん、と鼻を鳴らして私をひと睨みした後、冷たく背を向けて部屋を出て行ってしまう。 苛立ち混じりに力任せに閉められた扉の音が大きく響き、私は一人、広い部屋にぽつりと残された。 今日は付き合って5年の、記念日だった。 テーブルの上には瞬の好物が沢山用意され、所狭しと並べられていた。 瞬はそれを一口も食べる事はせず、会社から帰るなり急いで麗奈のもとへ行ってしまった。 沢山の料理が並べられたテーブルの向こう、二人で撮った写真が写真立てに飾られ、楽しげに笑っていた。 もう、あの写真の中のように笑う瞬を、私はしばらく見ていない。私と滝川さんは、昼食を摂り終わりそのまま会社に戻った。 会社に着くなり、社内はざわざわと騒がしく、沢山の人が私と滝川さん──いえ、私を見てこそこそと隣の人と話している。 「──何だ?」 滝川さんも社内の違和感に眉を顰め、沢山の人の視線を不愉快そうにしていた。 人から見られる、と言う事に慣れている滝川さんでさえ、何かがおかしいと感じる雰囲気。 人の視線が、刺さるように痛く感じてしまい、私は無意識の内に後ずさった。 これは。 人の、悪意や失望。嘲笑に満ちた視線だ。 「な、に……」 どうしてこんな目を向けられるのか分からなかった。 朝は、皆普通に挨拶をして、笑顔で迎えてくれたのに。 それなのに、今はどうだろうか。 朝の雰囲気がガラリと変わり、私に向けられる視線は悪意や憎悪に満ち溢れている。 「加納さ──」 「社長……!」 滝川さんが私に声をかけようとした瞬間、1人の女性社員が滝川さんに向かって声を上げ、駆け寄ってきた。 確か、彼女は広報室の室長、だと紹介された覚えがある。 そんな彼女が、顔色を真っ青にして滝川さんに顔を向けるが、隣に私の姿を認めると気まずそうに私から視線を逸らした。 「どうした?一体何の騒ぎだ?休憩は終わっているだろう?どうして社員が業務に就いていない?」 滝川さんの言葉に、室長の女性は社用スマホを取り出し、ある画面を滝川さんに見せた。 「社長……社内チャットに、……その、加納秘書の変な噂が書き込まれていて……」 「加納さんの?見せてくれ」 滝川さんは顔色を変え、室長のスマホをさっと受け取る。
私自身も、どうしてこんなに麗奈に恨まれているのか分からない。 滝川さんの言う通り、これじゃあただの行き過ぎた逆恨みだと思う。 もう私は麗奈とも、清水瞬とも関わりたくないのに。 離れてもこうして麗奈が私に何かをしようとしているのが本当に意味が分からなかった。 「もう、関わりたくないのに……」 私がついぽろりと零してしまうと、隣に座っていた滝川さんが私を元気付けるように肩をぽん、と叩いた。 「もしかしたら、柳麗奈は加納さんの動向を探っているだけで、清水さんに接触しないかどうかを見張っているだけかもしれない」 (行動は不気味で、底知れぬ不安は拭えないが……それを加納さんにわざわざ伝える必要はない、よな…) 私は滝川さんの温かい気遣いが有難くて、彼にお礼を伝えようと顔を上げた。 私が口を開く前に、再び隣から声が聞こえた。 「分かったわよ。しっかり見張っておくし、あんたが言ってた通りにやるわよ。……ちゃんと振り込んでおいてよ?」 「──っ?」 私も、滝川さんもお互い顔を見合わせる。 振り込むって…。 それに、麗奈に何かをやれ、と言われた? 一体麗奈は、隣の個室にいる彼女に何をやれ、と言うのだろうか──。 不安がむくむくと膨れ上がってきて、つい無意識に両手をきゅっと握った。 そんな私の手に、滝川さんの大きくて温かい手のひらが重なり、安心させるように強く握ってくれる。 「加納さんは、常に俺と一緒に行動するんだから、大丈夫。何かあっても俺が守るから不安にならないで」 「滝川さん……。ありがとうございます」 「うん」 しっかり私の目を見て、滝川さんが真剣な表情でそう言ってくれる。 その気持ちが有難くて。 でも少し擽ったくて。 私は滝川さんの目を見返してお礼を伝える。 すると、滝川さんは強く頷いてくれた。 ちょうどその時、私たちの個室の部屋の扉がノックされて、店員が注文した食事を持ってきてくれた。 滝川さんは注文品を受け取り、私の隣から真向かいの席に戻る。 「加納さん。少し連絡したい事があるから、先に食べてて」 「わかりました、お先に失礼しますね」 滝川さんに断り、私は頼んだお昼ご飯に先に箸をつけさせてもらう。 運ばれてきたご飯は、とても美味しそうで。 私
私と滝川さんは、お互い驚いて顔を見合わせる。 「加納」と言う苗字に「社長」と言う単語。 まるで、私と滝川さんの事を話しているような、妙な確信。 滝川さんは、私に向かって自分の唇に人差し指を縦に当てた。 「静かに」と言う合図だ。 私はこくり、と頷いて耳をそばだてる。 隣の個室からは、良く通る声が尚も届いてきた。 「──そうそう!得意そうな顔してたわ!何であんな女が社長の専属秘書になんかなるのよ。きっと汚い手を使ったんだと思うわ、あんたの言う通り」 女性の声が続く。 専属秘書、と言う単語まで出てきて、やっぱり女性の話す「加納」は私を指しているのだと分かった。 ──分かっては、いた。 いきなり、滝川さんの専属秘書として雇われれば、そう言う事を考えてしまう人だっているだろう、とは思っていた。 滝川グループで働く社員は多い。 それに、滝川さんは素敵な人だ。彼に憧れを持っている女性社員だって多いだろう。 憧れじゃなく、本当に滝川さんに好意を寄せている人だっているはず。 その人からしたら、突然ぽっと出の女が、彼の専属秘書に就いた。 そう思われても仕方ない──。 ならば、認めてもらうには、しっかり真面目に仕事をして、認めてもらえばいい。 私がそう考えたのと同時、女性の声は思ってもいなかった人物の名前を口にした。 「ねえ、麗奈。でも本当にどうしてあの加納って女は社長の専属秘書になれたのかしら?周りの社員たちも馬鹿みたいにお似合いだ、とか、社長にも春が、とか噂話してるのよ?ほんとにムカつくったらありゃしないわ!」 「──っ!?」 私は、女性の口から「麗奈」と言う言葉が出てきて、驚きで声が出てしまいそうになっ
それから、私たちはいくつかのブランド店を回り、全て回りきった頃には、お昼過ぎになっていた。 「しまった。ごめん加納さん、もうこんな時間だ。お腹が減っただろう?どこか近くの店に入ろう」 ふ、と滝川さんが時計に目を落とし、驚いたような表情を浮かべる。 滝川さんに言われて初めて、大分時間が過ぎている事に気付いた私は、慌てて周辺のお店を探す。 「す、すみません滝川さん!私がスケジュール管理をしなくてはいけないのに…!待ってくださいね、すぐにお店を調べます」 「いや、俺も迂闊だった。この近くに和食料理が美味しい店があるんだ、そこに行かないか?」 「わかりました、そのお店で大丈夫です」 私の返答を聞き、滝川さんは頷いたあと和食料理店に案内してくれた。 滝川さんが案内してくれたのは、こじんまりとした、一見するとお店だとは分からない造りになっている和食料理店だった。 お店に入る扉を開けた滝川さんが、振り向いて私に向かって手を差し出してくれる。 「ここは店に入ってすぐ地下に降りる階段があるんだ。怪我も治ったばかりだし、無理はしないでくれ」 滝川さんの気遣いが有難くて、私は笑顔でお礼を伝え、滝川さんが差し出してくれた手のひらに自分の手を乗せた。 「ありがとうございます、滝川さん」 「どういたしまして。足元気をつけてくれ」 滝川さんに手を握られながら階段を降りて行くと、開けた内装が視界に入る。 入口は和食料理店だと分かりにくいけど、中に入ってみると店内は広く、とても綺麗な作り。 明るすぎず、暗すぎずちょうどいい塩梅の照明がゆったりとした優しげな空間を作り出している。 私たちに気付いた店員が席に案内してくれた。 席は一席ずつ、個室のような作りになっていて、
◇ 社長室にやってきた私と滝川さんは、始業時間になると秘書課へと向かった。 滝川さんが秘書課に顔を出すと、フロアにいた人達が一斉に視線を向けてきて、私は滝川さんの後ろでびくり、と体を跳ねさせた。 けど、見慣れた持田さんと間宮さんの姿もフロアにはあって、私はほっと胸を撫で下ろす。 やっぱり、見知った人がいるととても安心する。 滝川さんが皆の注目を浴びつつ、私の事を秘書課に配属されている人達へ紹介した。 「先日、既に人事から通達があったと思うが、彼女が今日から新しく私の専属秘書として秘書課に配属された、加納さん」 「至らぬ点で多々ご迷惑をおかけすると思います、どうぞよろしくお願いいたします」 滝川さんが私を紹介してくれたあと、すぐに頭を下げて秘書課の方々に挨拶をした。 すると、フロアにいた人達はみんな私を暖かく迎え入れてくれて、自然と笑顔が浮かぶ。 そんな私を、隣にいた滝川さんは優しく見つめたあと、言葉を続けた。 「彼女は通常業務からは外れる。それと、持田さんと間宮は暫く副社長の補佐に回るため、私への連絡事項は2人ではなく、加納さんへ送ってくれ」 そこまで滝川さんは伝えると、私の紹介も終わったため、社長室に戻る。 私はもう一度秘書課の方々に頭を下げたあと、滝川さんを追った。 「加納さん。君の端末を渡しておく。俺宛の連絡事項は加納さん宛にくる。CCで俺も入ってはいるけど、正直メールが多すぎて全てに目を通せない。重要そうな連絡だけ俺に共有してもらってもいい?」 「分かりました」 「緊急案件は俺にも連絡は来るから、そこまで気負わなくて大丈夫。少しずつ慣れてくれればいいから」 私が緊張しながらタブレットを受け取ったのが分かったのだろう。 滝川さんは安心させるように柔らかな笑みを浮かべながら私にそう言ってくれた。 滝川さんの優しい気遣いがとても有難くて、私がお礼を伝えると、滝川さんも嬉しそうに笑った。 「じゃあ、これから都内のブランド店を回ろうか。その後、昼食を摂って社に戻る流れでいい?」 「勿論です、滝川さん。よろしくお願いします」 「ああ。じゃあ、行こうか」 滝川さんの運転する車に乗り、私たちは都内のブランド店へ向かった。 滝川さんが姿を見せるなり、そのブランド店の責任者が現れ
男性社員の方の挨拶が終わったあと。 私たちの周りにはエントランスにいた社員の方たちが集まってきて、口々に挨拶をされる。 男性社員も、女性社員も皆、新参者の私に対してとても好意的に挨拶をしてくれて、私はほっと安堵した。 滝川さんの専属秘書、なんて肩書きをこの会社に入社すらしていなかった私に与えられて、会社に勤めている人達に反感を持たれてしまったら、と考えていたのだけどそれは杞憂に終わった。 皆、礼儀正しく、私をとても歓迎してくれている様子で、私も自然と笑顔になる。 暫くエントランスで話を続けていたけど、始業の時間が近付き、滝川さんの一声で周囲に集まっていた社員の人達は「また」と言いながら素早く自分の部署に向かって行った。 「き、緊張しました……!」 あっという間に人がいなくなり、私はそれまで張り詰めていた緊張がふっと解けて息を吐き出す。 私の隣にいた滝川さんは、楽しげに口端を持ち上げて得意気に告げた。 「だから言っただろう?問題ない、って」 自信たっぷり、といった様子の滝川さん。 社長室に向かうためにエレベーターへ向かいつつ、私はじとりとした目で滝川さんに向かって話しかけた。 「さっきの男性社員の方、私の事を新しい秘書だって知ってましたね。……もしかして、既に社内には共有済なんですか?」 「まあ……それは、事前に」 「も、もう……!どうやってご挨拶しよう、とか、どうやって先輩達と親しくなろう、とか沢山悩んでいたんですよ!先に知らせていたなら教えてください!」 「ふはっ、すまない。加納さんが陸と凛に夢中になってたから、仕事の話はあとでいいかな、と思ってて。つい話し忘れてしまったんだ」 ごめんね?と首を傾げて、悪びれもなくそう言う滝川さんに、私は隣にいる滝川さんの肩を軽く叩く。







