登入婚約者の浮気現場を目撃したその夜―― 橘美月(たちばな みづき)は迷うことなく婚約破棄を宣言した。 だが、失恋の傷を抱えた彼女の前に現れたのは、元婚約者の親友であり、帝都を支配する財閥御曹司・神崎蓮(かんざき れん)。 「俺と結婚しないか?」 一年十億円。 二年間の契約結婚。 ただし条件はひとつ―― 「俺に惚れるな」。 破格の条件に惹かれ、勢いで契約結婚を受け入れた姜曦。 しかし、冷酷無情と噂される蓮は、なぜか彼女だけには甘すぎる。 実は彼には誰にも言えない秘密があった――。 裏切られた令嬢と、彼女を密かに想い続けていた財閥御曹司。 これは、運命のように始まった契約結婚が、本物の愛へと変わっていく物語。
查看更多第1話 あいつ、獣かよ
「瑛士さま……あたし、あなたのこと、だぁいすき…」
甘ったるい声が、骨まで震わせる。
「どれくらい? こう……それとも、こうやって……」
かすれた低音に、女の頬はさらに紅潮した。
……
「ノクターンのゴールドVIPルーム。見たいものが見られるわよ」
橘美月(たちばな みづき)の指先は白くなっていた。スマホをどれほど強く握りしめているか、一目瞭然だった。
漆黒の瞳の奥で、暗い流れが渦を巻いている。金色の扉を、彼女は丸一分間見つめ続けていた。
目を閉じて、開く。すべての感情が消え去り、絶世の美貌が冷たさに包まれた。
彼女が足を振り上げて蹴り飛ばすと、重厚な扉は一瞬で蹴り開けられた。
薄暗く退廃的な部屋の中でも、彼女の視界は遮られない。目に入ったのは、いわゆる婚約者なる男が、体にぴったりと溶け込むようになまめかしい女を抱きしめ、夢中で口づけを交わす姿だった。
あまりにも目を覆いたくなる光景だった。
これだけ大きな物音にも、二人はまったく気づかない。いかに没頭していたかがうかがえた。
本来なら怒りに震えるはずの美月だったが、彼女の心は奇妙なほど静まり返っていた。
美月は無言で、この現実版アダルトビデオの生中継を眺め、口元にゆっくりと嘲笑の弧を描いた。
いくら熱演されても、タダで見続ける気にはなれなかった。文字通り、目が汚れる。
彼女はゆっくりと歩み寄り、手近なローテーブルから酒瓶をつかむと、そのまま頭めがけて振り下ろした。
ガシャン──
陶酔しきっていた二人の頭から酒が降り注ぎ、砕けたガラス片が四方に飛び散った。
「きゃあああああっ……!」
長く尾を引く悲鳴が、鼓膜を突き破らんばかりに響き渡った。
「どこのクソ野郎だ、死にてえのか……!」
殴られて目の前がチカチカする桐生瑛士(きりゅう えいじ)は怒り狂った──が、振り返りざま、半分陰った顔ですら目を奪われるほど美しいその顔を見た瞬間、
一瞬で取り乱し、慌てて腕の中の女を突き飛ばした。
立ち上がると、服とズボンがずり落ちた。慌てふためいて適当に身につける。
「……美月、話を聞いてくれ……」
美月の手を掴もうとした。
しかしズボンをきちんと締めていなかったため、立ち上がった途端にまた落ちてしまい、仕方なく手を引っ込める。
顔は青くなったり赤くなったり。
「美月、見たままじゃないんだ、説明させてくれ……」
美月は腕を組んで、一歩後退した。
二人の距離を開ける。
「ふん。瑛士、ホテルも取らずに、そんなに待てなかったわけ?」
目には嘲りの色がありありと浮かんでいた。
瑛士の顔は赤くなったり青ざめたり。彼は慌てふためいた。
「美月、家に帰ってちゃんと説明するから……」
美月は目の前の男が生臭くてたまらず、これ以上自分の鼻を虐めるのはやめにした。
そして無表情で言い放った。
「瑛士、あんたとは終わりよ。婚約は破棄する。そうそう、クズ男とゲス女、どうぞ永遠にロックオンしてくれて結構よ」
そう言い捨てると、彼女はそのまま外へ向かった。
瑛士は彼女が去ろうとするのを見るなり、思わず手を伸ばした。
だが、美月がその汚い手で触れられるのを許すはずがない。
美月はその場で振り返りざま、蹴りを放った。テコンドー黒帯の脚力は、常人に耐えられるものではない。
瑛士はまともに蹴り飛ばされ、起き上がれなくなった。
「きゃっ! 瑛士さま……大丈夫!? しっかりして……!」
真由が悲鳴をあげ、這うようにして駆け寄った。
美月は冷ややかに鼻で笑い、そのまま真っ直ぐ外へ歩き出した。
入口に着くなり、大勢の男たちに行く手を阻まれた。
美月はその若い道楽者たちを見渡した。瑛士の悪友連中に違いなかった。
田辺翔太(たなべ しょうた)が自分の鼻をさすった。
「あー……その、何も見てねえから……」
そして、底知れぬ黒い瞳に見つめられ、彼は黙って道を譲った。
他の連中も同じだった。全身から怒りの炎を放つ女など、とても敵に回せない。
美月は彼らを冷たく一瞥し、その間をすり抜けて外へ出た。
誰もが無意識に、しなやかに揺れる肢体を見つめ、こっそりと唾を飲み込んだ。こんな爆発的なスタイルに耐えられる男がいるのか。
清純と妖艶を兼ね備えた絶世の美貌を思い浮かべれば、まさに骨の髄まで溶かす美女だった。
瑛士のあの獣が、よりによって浮気するとは到底信じられなかった。
第286話 うちの娘を見下してるってわけ?とはいえ、胸の内に溜まった不満を吐き出してしまえば、気分がすっきりするのも確かだった。雨子も、昨日から抱えていた鬱憤をようやく晴らすことができた。二人はすっかり落ち着きを取り戻していた。「そういえば、兄さんと茜の件だけど……まだ会わせるつもりなの?」雨子は冷笑した。「もちろんよ。あとで志織に電話して、明日会う約束を取りつけるわ」「兄さんがそんな話、素直に聞くと思う?」詩には、兄が大人しく母の言うことに従うとは思えなかった。ところが、雨子は自信たっぷりに答えた。「承諾するわよ」詩は言葉を失った。……本当?あの兄が茜とお見合いするなんて、どうしても想像がつかない。詩は慎重に尋ねた。「どうして承諾するの?」雨子は得意げに笑った。「結婚する気がないなら、決まるまで毎週十回お見合いをさせるって言ってやったのよ」「それに、結婚すれば美月にはもうちょっかいを出さないし、これからあの女に会っても、にこやかに接すると約束してくれたわ」詩は目を丸くした。……なるほど、そういうことだったのか。「じゃあ、これから本当に美月に愛想よくするつもりなの?」
第285話 腹の虫が収まらない一方、桐生詩が帰宅したのは、翌日の昼だった。ここ数日、彼女は友人たちと一緒に海へ出かけ、遊び回っていたのだ。リビングのソファに座っている雨子の姿を見つけると、詩は思わず声を上げた。「ただいま!」だが、娘が帰ってきたというのに、雨子はさほど嬉しそうでもなかった。ちらりと一瞥しただけで、そっけなく答えた。「おかえり」詩は、雨子が不機嫌なのをすぐに察した。「どうしたの? 誰かにそんなに腹を立ててるの?」雨子はひどく不機嫌だった。何しろ、昨日の出来事で腹が立ったまま、まだ腹の虫が収まっていなかったのだ。「何でもないわ」それ以上、話すつもりはないという態度だった。詩はそんな雨子の隣に腰を下ろした。――今、帰ってきたばかりなのだから、母さんを怒らせるようなことをしたはずがない。母さんが一番かわいがっているのは兄さんだ。兄さんに腹を立てるなんて、まずありえない。となると……詩は目をくるりと動かし、探るように尋ねた。「昨日、気に入らなかったの?」――兄さんが三枝茜とお見合いする話は、母さんから聞いていた。昨日は自分が家にいなかったから、母さんに付き添えなかった。もしかして、会ってみたら何か気に入らないことでもあったのだろうか……
第284話 よりによって、こんなところで正直、美月はこれまで、こんなふうに大切に見送られたことなどなかった。家族全員がそろって空港まで見送りに来てくれるなんて。父が亡くなって以来、彼女は実の母にさえ疎まれ続けてきた。学費すら出してもらえなかったのだから、母親らしい気遣いや愛情を注いでもらえるはずもなかった。雅は相変わらず、あれこれと念を押していた。「着いたらすぐに電話するのよ。それから、もし蓮のやつが迎えに来るのに遅れたりしたら、それもちゃんと電話してちょうだい。あとで母さんがきつく叱ってやるから」清子も心配そうに、何度も繰り返し言い聞かせた。美月の胸は、じんわりと温かくなった。「分かりました。飛行機を降りたら、すぐに電源を入れて電話しますね。それに、ファーストクラスですから、少し眠っていれば、目が覚める頃には着いていると思います」頃合いを見計らい、源一郎が口を開いた。「さあ、そろそろ保安検査が始まる時間だ。もう美月を行かせてやりなさい」二人とも名残惜しくて仕方がなかったが、さすがに搭乗に遅れるわけにはいかない。「美月ちゃん、じゃあ、行ってらっしゃい」美月はうなずいた。「はい。皆さんも、もう帰ってくださいね」雅は少しでも長く美月と一緒にいたいようだった。「急がなくても大丈夫よ。保安検査場に入るまで、私たちはここで見送っているから」美月はそれ以上何も言わず、三人に手を振って別れを告げると、保安検査場へと向かった…&
第283話 自家用ジェットで送らせましょう蓮は、今日は本当にいいこと続きだと思っていた。――まず、美月が自分のところへ来てくれること。そしてもう一つは、瑛士がまたお見合いをすることだ。どちらも、この上なく喜ばしいことだ。「あいつらのことは本人たちに任せておけばいい。俺たちが口を出すことじゃない。そうだ、明日はそんなにたくさん荷物を持ってこなくていいぞ。こっちに来てから買えばいい。何でも揃うからな。荷物は少ないほうが楽だろ? 必要なものは全部、俺が用意しておくよ」――買えば済む話だ。できることなら、世界中のいいものを全部、彼女の目の前に並べてやりたい。ビデオ通話を終えると、蓮はさっそくデパートへ買い物に出かけた。美月はもともと、荷物をたくさん持っていくつもりはなかった。――お金に困っているわけでもないし、足りないものがあれば、向こうで買えばいい。「そういえば、いつ帰ってくる予定なの? こっちの予定も立てたいから」「半月くらいはどうだ? そうすれば、何日か多く遊べるだろ」蓮はすでに、どこへ遊びに行こうかと計画を立て始めていた。美月は少し考えてから答えた。「半月は長すぎるわ。十日にしましょう」――十日じゃ短すぎるだろ。だが、今ここで彼女に逆らうわけにもいかない。せっかく来てくれる気になったのに、また行きたくないと言い出されたら困る。どうせ、こっちに来てからでも説得する機会はある。まずは何と
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