香織は幼いころ体験した出来事を夢で見た。母が庭仕事から戻り、汗に濡れた姿で抱きしめてきたときのことだ。「香織、これが土の匂いよ」そう笑う母の匂い――汗と土、生々しい臭気。いつもの気品のある香水とは違い、香織は怖くなって逃げ出した。香織は目を覚ます。あの匂いが今は“小太り”の臭気と重なり、胸をざわつかせる……。子供の頃、母の汗が怖かった。気品ある匂いのメッキを剥がす錆のような、厄介な存在だと感じるようになった。以来、他人の体から漂う汗や土の臭気を出来るだけ遠ざけるようになった気がする。鏡の前で、いつものように香織は身支度を整える。首筋にフローラルの香水を一滴垂らし、深呼吸する。甘い花の香りが彼女を包み、昨夜の混乱と、夢で見たかつての恐怖を薄れさせようとした。だが“小太り”の匂いの記憶は依然として鮮明で、もう彼に近づかないという決意を揺らがせていた。彼女は唇をギュッと結び、学園へと向かった。教室に着くと、香織はいつも通り友人達と談笑し、高貴な雰囲気を漂わせた。しかし視線は、無意識に教室の隅にいる“小太り”へと流れていた。彼はいつものように汗ばんだ制服を着崩し、教科書を広げている。香織は目を逸らし、心の中で呟いた。(下品な存在……)その瞬間、風が彼の匂いを運んできた。汗と土の混ざった臭気。彼女の鼻腔が反応し、心臓が一瞬速まる。「どうしたの、香織?」親友の彩花が怪訝そうに尋ねる。「え……あ、ごめんなさい……今朝、ちょっと寝坊しちゃって、ご飯も慌てて食べたものだから、少しお腹が苦しくて……」「へぇ、藤堂さんも寝坊するのね」他の友人達も少し意外そうな顔だ。香織は彼女達に詫びながら席を立ち、逃げ込むようにトイレに向かった。もちろん本当に苦しかったわけではない。感じたのは嫌悪感だ。だが、それだけで済まない何かがあった。“小太り”の匂いが、彼女の体に刻まれた証のように、記憶と感覚を呼び覚ますのだ。トイレの個室に入り、便座に腰掛けてスカートを下ろす。そのときショーツからムワッと蒸れたような匂いが漂ってきて、香織は顔を歪めた。(嘘でしょ……濡れてる。漏らし……いや違う、感じちゃったってこと……? 朝から、しかも学校で⁉︎)こういうときに替えのショーツを持ってきていないなんて、最悪だ。トイレットペーパーを長めに巻き取り、ショーツを拭く。生理の時期ではないが、ナプキンを持ってきていたのは不幸中の幸いだった。今日は一日、付けて過ごすしかない。これほど自分も下品な人間だったのだろうか。罪悪感と嫌悪感が押し寄せる。性的なことに興味が湧いたり、体が過敏になってしまうのは思春期だから仕方ないという話も聞いたことがある。が、自分の体があんな“小太り”の体臭までも性の対象として受け止めてしまっているなんて、認めたくない。ただ少なくとも、もうアレを完全に意識の外に遠ざけることは無理だと香織は悟った。昼休み、香織は庭園で過ごすのをやめ、校舎の窓から運動場を覗いていた。“小太り”が仲間と走り回る姿が目に入る。「拓海ー! いくぞー!」仲間が“小太り”に向かってボールを蹴る。下の名は“拓海”で、フルネームは“柳井拓海”だったかと、香織は今更になって思い出す。ただ、それがなんだというのだ。“小太り”でも“柳井拓海”でも関係ないはずなのに、彼の名が香織の心の中で何度もリフレインされ、刻み込まれる。嫌な相手の名前ほどしっかり記憶してしまう自分が恨めしい。目を細め、香織は観察し始める。“小太り”――柳井拓海は、パスされたボールを取り逃し、よろけて転んでいた。「何やってんだよ拓海! そんなだからずっとレギュラーになれねえんだよ!」仲間が転んだ拓海の背中を蹴る。彼は慌てて立ち上がり、仲間に詫びながらボールを追いかけていった。彼の汗に濡れた髪が風に揺れ、制服が体に張り付く。運動神経はあまり良くなさそうだが、背筋を伸ばして駆けていく様子から、真剣さや必死さのようなものは伝わってくる。そして汗が滴る首筋、動くたびに漂うであろう匂い――それらが、香織の視線を釘付けにした。(これはただの好奇心よ。あんな下等なものに何があるのか、理解したいだけ)香織は自分に言い聞かせるが、胸の奥で疼く感覚が、それを単なる言い訳に変えていく。「ごめん、次は必ず取るよ!」そう言い、拓海が蹴り返すと、ボールは弧を描いてスッと仲間の足元に収まる。香織はてっきり、パスもミスするものだと思っていたので意外だった。「お、いたいた! 藤堂!」ふと、自分を呼ぶ声に振り返ると、教室に入ってきた三人の男子生徒が香織を見ていた。よそのクラスの連中だ。一人はサッカー部のエースで、確か瀬野健斗とかいう名だった。あとのニ人の名前は知らないが、廊下ですれ違うので顔だけは覚えがある。知った顔ではあったものの、香織は顔をしかめた。わざわざ他所のクラスから来て軽薄に声をかけてきたことより、彼らの体から、何やら異質な匂いを嗅ぎ取ったからだ。「なんだよ、おっかない顔して。やっぱお嬢様に話しかけるにはアポが必要だったか?」ヘラヘラと笑う瀬野に不快感を示しながらも、できるだけ早く立ち去って欲しくて、香織は言葉を返した。「別にアポなんて要らないけど……何の用?」「へへ、最近テレビでもサッカー盛り上がってきてるだろ? そろそろお前も興味出てきたんじゃないか?」瀬野の意味不明なセリフに、香織はますます不機嫌になる。どうしてテレビで話題だからと、相手に興味を押し付けるような言い方ができてしまうのか。「おいおい、お嬢様が困ってるじゃねぇか……ごめんな、単刀直入に言うとさ、俺らのサッカー部、夏に区営のグラウンドで大きな試合に出るんだけど、応援に来てくれねーかなって思ってよ」別の男子がフォローを入れるが、ますますわからない。私が、なぜサッカーの応援なんかに?「どうしても負けられねえ試合だからよ、学園のお嬢様が応援に来てくれたってなると、チームの士気も上がるからさ。礼はなんでもするよ。ハーゲンダッツ? アマギフ? 好きなもの言ってくれ」「バカ、お嬢様がそんなで釣れるかよ。スパリゾートの招待券でどうだ? うちの親父が株主でさ」男子らの言葉に、香織は不快感を露わにする。「興味がないものに、何を出されたって行くわけがないでしょう? 安く見ないで頂戴」腕を組んで睨みつけると、男子らは少したじろいだ。困った顔で頭を搔き始める彼らに、香織は先ほど嗅いだ異質な匂いを指摘する。「それよりあなた達……この匂い、もしかしてタバコ? 他にもシンナーみたいな匂いがするけど……もしかして、そういうのに手を出してるの? 気のせいだといいけど、もしやってるなら部活どころじゃないわよ。即退学だけど、いいの?」「……はぁ!? お、お前、何で……」「や、やってるわけねーだろ! 勝手なことを……! 変な疑いかけやがって……いくらお嬢様でも許さねーぞ!」怒鳴り出す三人に、教室中の視線が集まる。それに気づいて、彼らは慌ててクラスから出ていった。「チクショー、偉そうにしやがって! 覚えてろよ!」いかにも小悪党のような捨て台詞を残し、去っていく三人。香織の近くにいた彩花が、心配そうに声をかけた。「香織……大丈夫? 何よあいつら……」「気にしないで。たまに来るのよ、ああいう連中が」ハァ、とため息をつきながら言う香織に、彩花は感心した。「慣れたものだったのね……でも、さっきの本当? タバコ、シンナーって……」その問いに、うなずく香織。「本当よ。香水か何か使って誤魔化そうとしてたみたいだけど、確かに感じたの」香織が匂いに敏感であることを、彩花もよく知っている。「それ、問題なんじゃ……先生達に報告した方がいいんじゃない?」だが、香織は首を横に振った。「決定的証拠がなきゃ訴えられないわ。それに……去年もタバコ騒ぎがあったの、覚えてるでしょ?」「あ、あの香織がお手柄だったやつ?」「お手柄なんて、そんな立派なもんじゃなかったわ。運動部の部室が並んでる周辺で匂いがするって訴えに出たけど、それだけじゃ証拠にならないからって、私が自ら調査する羽目になったのよ」苦々しい表情を浮かべながら、香織は続ける。「実際、柔道部の部室で見つかったわけだけど……もし証拠不十分で冤罪になって、逆にこっちが訴えられたらどうしようって、内心ヒヤヒヤしたわ」「そうだったんだ……でも、だったら今のやつも訴えられたりしない?」「それはないでしょう。クロなら自首しにいくようなもんだし。仮にシロだったとしても、私は“気のせいだといいけど”って、ちゃんと付け加えておいたもの」「アハハッ、そっか! 抜かりないわね」「ウフフ、でしょ? それに私が動かなくても、ああいう生徒は自然とどこかでボロを出すわ。そのときは本職の風紀委員が取り締まればいい。私の出る幕じゃないわ」そして、心の中だけで香織はこう付け足した。(それより今は、柳井拓海の観察の方が優先事項よ)
“香りとは檻である”かの詩人がその言葉を呟いたとき、そこにはどんな思いが込められていたのか。もう抜け出せない絶望感からか、あるいは自我を失くすほどの甘美な悦びに酔いしれてか。香りは時として人の心を捕らえる。そして一度囚われると、決して逃れることはできない――鍵を手に入れさえしなければ。果たして詩人は、その先の人生で鍵を得ることはできたのだろうか。春の始まり。2DKの簡素な集合住宅の一室で、情事にふける若い男女の声が響く。若い――と言っても、20代半ば。8年の年月を経て、成熟した大人の体となった、香織と拓海だった。長年スポーツに勤しんでいた拓海の体はすっかり引き締まり、盛り上がった筋肉にぷつぷつと汗が浮き上がっている。一方、香織の体は女性らしい丸みを帯び、柔らかで形の良い乳房も熟れた果実のような膨らみとなっていた。拓海が、香織のポツッと硬くなった乳首にキスをすると、彼女は「ひゃうっ……」と可愛らしい声を上げてのけ反る。その反応に興奮したのか、拓海はますます情熱的に香織の乳首を吸い上げる。「拓海……もうっ、相変わらず赤ちゃんみたいなことする……」「へへ、男の本能ってやつかな。目の前にあると、吸いたくてたまらなくなる」「私達に赤ちゃんができても、同じことするつもりなの?」そ
夏の日差しを浴びながら、香織は彩花と再び観客席に座っていた。しかし学園のグラウンドではない。より広く、青々とした芝生が広がる区営のグラウンドだった。学園のサッカー部が最も注力していた、「夏の試合」が今から始まろうとしていた。春の終わりのあの日、退学した瀬野らから誘われた時は、まったく行く気にもなれなかったこの試合。まさか自ら望んで観戦することになろうとは、香織自身も思ってもみなかった。いまフィールドに堂々と立つのは、例の試合結果からレギュラーに選ばれた拓海だ。そして彩花が応援していた新入部員もレギュラー入りし、今は拓海の味方として隣で肩を並べていた。香織は彼の汗と土の匂いを想像し、心で祈った。試合開始のホイッスルが鳴り、拓海は動き出す。相手チームは強豪で、序盤から圧倒的な攻勢を仕掛けてきた。拓海の動きにはまだぎこちなさが残り、ボールを奪われるたびに観客席からため息が漏れる。(拓海、頑張って……!)祈るように、香織は心の中で叫んだ。試合の開始前、コーチは拓海にこう戦略を伝えていた。「相手は前線が強い。拓海、お前は中盤で守備を固めつつ、隙を見たら一気に前へ出ろ。チームの逆転はタイミングが命だ」観客には圧されているように見えたが、拓海はほぼコーチの指示通り中盤で守備に徹し、相手の猛攻を食い止めていた。
香織と拓海は、直に肌と肌を重ねながら、舌と舌を絡めあいながら、強く求めあった。あの体育館の裏で、瀬野から無理矢理唇を奪われ、口腔を犯されたときとは全然違う。激しいだけでなく、優しさが込もった求め合うキス。どれほど長く重なっていただろうか。やがて唇を離し、互いに見つめ合う。「香織……この先に進んでもいい? 初めてで、うまくできるかわからないけど……」彼の真面目な言葉に、再び香織は頬を赤らめながら、こくんと頷く。だがその時、拓海が動きを止め、慌てたように呟いた。「待てよ……僕、アレ持ってない。まずいよね?」香織が目を上げると、拓海が困った顔でこちらを見ている。彼女がキョトンとする中、彼は「何か……ないかな」と言いながら物置の隅を見回す。ふと、古い棚の埃っぽい角に拓海は目を留めた。そこには、誰かが捨てたらしい未開封のゴムのパッケージが転がっていた。それを拾い上げ、驚いた声を上げる。「何だこれ……こんなとこに置いてあるなんて……一体、誰が?」香織も顔を赤らめながら呟く。「誰かが……使わなかったのかしら。でも、封が切れてないなら……」
テスト試合の前日、香織は図書室で彩花と話していた。彩花は頬を染め、興奮気味に切り出した。「香織、聞いて! サッカー部の新入部員に、めっちゃかっこいい子がいるの! 明日のテスト試合、絶対応援したいんだけど……一人じゃ恥ずかしくて。ね、付き合ってよ!」香織の心臓がドキンと鳴った。拓海も出る試合だ――彼の試練を近くで見たいが、内緒の恋愛は守らねば。香織は微笑み、彩花の熱意に押される形で答えた。「ふふ、そこまで言うなら付き合うわ。応援、楽しそうね」彩花が目を輝かせ、抱きつく。「やった! 香織と一緒なら、絶対楽しいよ!」香織自身も心の中では楽しみすぎて叫び出したい衝動に駆られながら、努めて冷静なお嬢様を装った。試合当日、香織は彩花と共に観客席に座った。夏の陽射しがグラウンドを照らし、拓海の姿が遠くに見える。彼は緊張した顔でフィールドに立ち、補欠ゆえの不慣れな動きが目立つ。「やっぱりあの新入部員、かっこいい!」彩花がそう興奮して叫ぶ中、香織は拓海の匂いを想像し、心で応援した。試合は拓海のチームが劣勢だった。ライバルの新入部員がドリブルで突破し、ゴールをキメる。守備で追われるばかりの拓海に
数日後、香織は庭園のベンチで拓海を待っていた。夏の陽射しが薔薇の香りを濃くし、彼女の胸は微かな緊張で高鳴っていた。テスト試合を目前に控え、拓海が日に日に押しつぶされそうになっていることを、香織も感じ取っていた。(拓海の頑張りを、ただ待つだけじゃ足りない。私が彼を支えなきゃ……)拓海が現れた。汗で濡れた体操服が小太りな体に貼り付き、疲れ切った顔に無理やり笑みを浮かべている。香織を見つけ、ベンチに腰を下ろした。「香織……今日もこうして会えて、嬉しいよ……」“嬉しい”と言いながらも、彼の声は力なく、汗と土の匂いが濃密に漂う。香織は水筒を差し出し、穏やかに尋ねた。「練習、きつかったでしょ? テスト試合、近づいてるものね」拓海は苦笑し、俯いた。「うん……コーチに『今のお前じゃ無理だ』って言われてさ。ライバル連中も僕のことバカにして……僕、ほんとにレギュラーなんてなれるのかな……」彼の弱音と、匂い――汗と土、疲れ果てて決意が揺らぐようなニュアンス――が、彼女の心を揺さぶる。言葉だけでは足りない。もっと近くで、彼を支えたい。「拓海……ちょっと、こっちに来て」香織は立ち上がり、拓海の手を引い
「彩花、私……恋人が出来ちゃった」ある日の昼休み、学園のカフェスペースの隅で、二人だけで昼食を取っている最中だった。香織の突然の告白に彩花は目を丸くし、持っていたサンドイッチをポロリと床に落とす。「あーっ! 最後に残しておいたタマゴサンドが……!」「わ、大丈夫!?」「うぅっ……埃まみれ……大丈夫じゃないよ! もったいない……」恨みがましい目で彩花は香織を見る。落としたのは自分なのに、香織のせいだとでも言いたげだ。「まさか……今日二人でご飯行こうって言ったのも、それを言うためだったの?」「いや、そういうわけ……でも、あるのかな……」たどたどしく答えながら、「あ、お詫びにこれ食べる?」と言って、弁当箱の中のふっくらとした卵焼きを箸で彩花に差し出す香織。「食べるっ」と言い、彩花は直接食いついた。まるで池に撒かれたエサを頬張るコイのように。「ん~、おいしい! 香織の家の卵焼き、最高~!」「良かった。実は今朝、自分で焼いてみたの」「へぇ、メイドさんが作ってくれたんじゃないんだ!」