LOGIN直人はすぐには言い返さなかった。ただ手で目元を覆い、肩が小さく震えた。直人が私の前で泣くのは、これで二度目だ。一度目は、私たちの結婚式だった。直人が振り向き、ウェディングドレス姿の私がゆっくり歩いていくのを見た瞬間、目尻から涙がこぼれた。私は慰めもしないし、返事を強要もしない。ただ黙って待った。しばらくして、直人は手を下ろした。目は赤く腫れていた。直人はまっすぐ私を見て、掠れた声を喉の奥から押し出した。「……本当に、戻れないのか?」私は答えなかった。沈黙だけが、そこにあった。直人は立ち上がり、私の前に膝をついた。両手を包むように握り、額を、私の手の甲にそっと押し当てる。低い声だった。まるで、何かに縋るみたいに。「もう一度だけ……チャンスをくれ。頼む。もう一度だけでいい」胸の奥がきしむように痛んだ。それを必死に無視して、私は平静を装った。「もし、娘のことで不安なら約束する。父親としての権利を奪ったりしない。娘は、二人で育てよう」直人は、はっとしたように顔を上げた。その鋭い視線に、一瞬、息が詰まった。「違う、俺はただお前と一緒にいたいだけだ。愛してる。離婚なんてしたくない、ずっと一緒にいたい!」最後の言葉は、声を張り上げるようになっていた。直人は、もともと甘い言葉を口にする人じゃない。寄り添う夜に、気持ちが溢れたときだけ、ぽつりと零す程度だった。そんな直人が、今は乱暴なほど真っ直ぐに、愛をぶつけてくる。その必死さが、痛々しかった。胸が、ぎゅっと締めつけられる。直人は、本来こんなふうになる人じゃない。「直人……相手が他の誰かだったら、許せたかもしれない。でも、あなたと紗耶だから無理なの。一番愛して、一番信じてきた二人だよ。こんな決断、簡単にできると思う?私だって……こんなふうに、手放したかったわけじゃない。でも、あなたたちを見るたびに、私の知らないところで、曖昧な関係のまま距離を詰めて、私を外して、気持ちを通わせて、私の誕生日の日に、私の目を盗んで二人きりで過ごしていたことが、頭から離れない」視界が、涙で滲んだ。押さえ込んでいた悲しみが、また、静かに戻ってきた。「どれだけ取り繕っても、変わってしまったものは、もう隠せない。あなたが私の顔色をうかがい続けるのも嫌だし、私が
「ピッ、ピッ、ピッ……」冷たい機械音に叩き起こされた。まぶたを押し上げると、頭上には眩しい無影灯があった。視界の向こうには、手術用の緑色のドレープ。下半身の感覚はなく、目を閉じると、冷たい器具が腹の奥へ入り込んでくるのだけが伝わってきた。どれくらい経ったのかもわからない。ただ、お腹の内側が押し広げられるような、耐えがたい感覚だけが続いた。やがて、医師と看護師の声が重なった。「出ました!」ストレッチャーで手術室を出ると、母と直人が、ほとんど同時に駆け寄ってきた。母は私の顔を見るなり、ぽろりと涙をこぼした。「よく頑張ったね、汐里」直人は何も言わなかった。ただ、真っ赤に充血した目に、痛いほどの心配が滲んでいた。看護師はすぐに私を病室へ運びながら、不安にならないよう、穏やかな声で説明してくれた。「赤ちゃんは早産ですが、状態は安定しています。しばらく保育器で様子を見ますね。問題がなければ、あとで娘さんに会えますよ」私は小さくうなずいて礼を言い、母も看護師の手を取って、何度も頭を下げていた。でもその感謝は、生まれたばかりの命よりも、自分の娘へと強く向けられていた。意識はまだはっきりせず、看護師が出ていくと、私はまた、眠りに引きずり込まれた。次に目を覚ましたとき、外はもう暗くなっていた。病室にいたのは母だけで、私のそばに腰を下ろしていた。私は反射的に部屋の中を探すように視線を走らせ、次の瞬間、はっとして目を伏せた。それでも、母は見逃さなかった。「外に出してきたよ。今は、廊下で座ってる」私は後ろめたさから顔を背け、聞こえなかったふりをした。温かい手が伸びてきて、頬にかかった髪を、そっと耳にかけてくれる。「汐里。もし、まだ手放せないと思うなら……もう一度、ちゃんと考えてみなさい」私は母を見て、そんな言葉が出てくることに、少し驚いた。そのやさしい眼差しに、強張っていた体が、少しずつほどけていく。「この数年、直人があなたにどう向き合ってきたか、母さんはちゃんと見てきた。今回のことは、あの子が悪い。でも、許すかどうかは、あなたが決めていいの。どんな結論でも、母さんは、あなたの味方だよ」その瞬間、涙が一気にあふれた。母は、私の迷いも、怯えも、ちゃんとわかっていた。裏切りは、受け入れられない
疑問の形をしていても、私の声は断定だった。直人と一緒に五年もいた。私だって、わかっている。直人は口を開きかけ、私の目を見たまま、反論の言葉を失った。私は小さく笑って、呆然としている紗耶へ視線を移す。「片方だけの意思で起きることじゃない。直人がその気じゃなかったら、あなたが踏み込める余地なんて、最初からなかったはず」二人の顔に、同時に居場所を失った色が浮かんだ。私の一言で、二人が苦しみ、互いを責める。その光景を見て、胸の奥がざらついた。痛快で、同じくらい悲しかった。傷つけながら、私は私自身も削っている。母の手を握りしめ、そこから少しでも、力と勇気を分けてもらおうとした。「離婚は、考え抜いた末の結論よ。二人が一緒になりたいなら、それでもいい。でも、手続きが終わってからにして」直人は私の前に立ち、揺らがない声で言った。「離婚はしない。俺が一緒にいたいのは、お前だけだ。全部、俺が悪い。残りの人生で償う。汐里……もう一回だけ、チャンスをくれ」今この瞬間の直人が、本気なのはわかる。選ばれたのは、私だ。それでも、嬉しいとも、感動したとも思えなかった。本当なら、ずっと私が望んでいた結末のはずなのに。不安で壊れそうな夜、私はみじめに、心の中で何度も願っていた。最後に選ばれるのが私なら、全部見ないふりをして、馬鹿になってもいい、と。けれど、あの二枚の写真が、無理に作り上げていた寛容さを、一気に打ち砕いた。抱きしめるだけでも、手をつなぐだけでも、私の中では、もう越えている。信頼は、一瞬で崩れた。どれだけ謝られても、どれだけ埋め合わせをされても、元には戻らない。「直人……私たち、もう戻れない。もう、あなたを信じられない。無理に一緒にいても、私は疑って、怯えて、自分で自分を追い詰めるだけ」直人は目を赤くして、歯を食いしばりながら言った。「もう二度と、紗耶には会わない。それでも、駄目か?」私は答えず、直人の背後に立つ紗耶を見た。紗耶は、涙で顔を濡らし、両手を強く握りしめていた。私まで彼女の痛みをなぞっているみたいで、胸の奥が、重く締めつけられた。紗耶は私の視線を受け止め、苦しさも、罪悪感も、怯えも、恥も、すべてを、その目に浮かべていた。「汐里……全部、私が悪い。自分のものじゃないのに欲し
「おばさん、聞いてください……」紗耶が立ち上がり、言い訳しようとした、その瞬間だった。――パチン。乾いた音が病室に響いた。母が大股で歩み寄り、迷いもなく、平手で紗耶の頬を打った。「紗耶……どうして汐里に、こんなひどいことができるの?!」母の叱責を浴びた途端、紗耶の瞳から再び涙が溢れ出し、喉が詰まったように言葉を失った。「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……全部、私が悪いです……!」母は興奮したまま、胸を大きく上下させていた。下ろした手の先まで、かすかに震えている。「紗耶、大学のとき、誰があなたを助けた?自分のお小遣いを削って、あなたの生活まで支えてたのは誰?家族に大事にされてないって泣いてたあなたを、身内みたいに迎えたのは、誰だった?それなのに……どうして、こんなことができるの!」矢継ぎ早に投げつけられる言葉に、紗耶は立っているのがやっとだった。紗耶は、「ごめん」を繰り返す。けれど、その三文字は、あまりにも軽く響いた。母の目も赤くなり、次の瞬間、私は強く抱きしめられた。たぶん、さっきまでに泣き尽くしてしまったのだと思う。今の私は、感覚の抜け落ちた人形みたいだった。私は無表情のまま、慰めの言葉ひとつ、口にできなかった。そのとき、直人が病室に入ってきた。手には、私の抱き枕を抱えている。腫れ上がった紗耶の頬を目にした瞬間、直人の表情に、わずかな動揺が走った。そして、そのまま足を止め、彼女の前に立つ。物音に気づいた母が振り返り、抑えていた怒りが、また燃え上がった。「直人。汐里の前で、まだその子と目配せするつもり?」直人は眉をひそめる。「お母さん、そんな言い方はやめてください。俺と紗耶は、あなたが想像しているような関係じゃない」私は冷めた目でそのやり取りを見ながら、反射みたいに思ってしまった。――紗耶のこと、心配してるの?「本人が、もう認めてるのよ。それでも、まだ何もなかったふりをするの?」直人は、信じられないものを見るように、ゆっくりと紗耶へ視線を向けた。母の言葉には、わざと曖昧さが残されている。それでも私は、訂正する気になれなかった。意地悪だとわかっていても、二人がどうやって、この場をやり過ごすのか、見ていたかった。「……俺たちは……」直人が、戸惑ったまま口
母は理由を急かして聞かず、私が感情を吐き出しきるまで黙って待っていた。泣き声が止まって、ようやく母は私をそっと離した。「どうしたの、汐里……直人に何かされたの?」母の顔を見た途端、言葉が喉の奥で絡まって、どう切り出せばいいのかわからなくなった。怖くなった。きっと母は、全部私のせいだと言う。そんな気がしてならなかった。気が利かなくて、優しくもなくて、直人を、そこまで追い込んだのは私だって。今の私は、少し触れただけで簡単にひびが入ってしまいそうだった。何気ない一言でさえ、今の私には、受け止めきれなかった。母はしばらく待ってくれたのに、私の口からは、何も出てこなかった。私は後ろめたさに視線を逸らし、小さく俯いた。叱られるのを覚悟して、目を閉じる。それでも、母は私を責めなかった。「汐里、お腹すいてない?ずいぶん痩せたね……何か食べるもの、用意してこようか」私は、思わず顔を上げた。聞き間違いじゃないかと思った。母は、少し困ったように笑って、私の頬をつまんだ。その目の奥には、痛いほどの心配が滲んでいた。「話したくないなら、無理に言わなくていい。母さんは、いつだって味方だから」鼻の奥が、つんとした。舌先を噛んで、こぼれそうになる涙を押し戻す。「……お母さん、豚の角煮が食べたい」母は小さくうなずいて、私の体を支えながら、そっと横にしてくれた。「少し寝なさい。起きるころには、ちゃんと持って帰ってくるから」冷たい水に沈められていたみたいな胸に、その瞬間だけ、あたたかいものが流れ込んだ。私は目を閉じ、渦巻く思考に蓋をするようにして、そのまま眠りに落ちた。目を覚ますと、外はもう暗かった。ベッドの脇に、細い影が腰を下ろしている。母だと思って目を凝らす。そこにいたのは、紗耶だった。紗耶の目は赤く腫れ、泣いた跡が、はっきりと残っている。「……どうして来たの?」「直人に聞いた。入院したって……」それきり、私たちは黙り込んだ。相手の目を見ることさえ、怖かった。紗耶は罪悪感に縛られ、私は恐怖に縫いとめられて、どちらも、身動きが取れなかった。紗耶は、私のいちばんの親友で、同時に、いちばん失いたくなかった人だった。重たい沈黙が部屋を満たし、先に口を開いたのは、声を震わせた紗耶だった。
直人は頬の半分を腫らし、口の端が裂けて血がにじんでいた。けれど、その目に怒りはなく、あるのは怯えと罪悪感だけだった。「汐里、そんな大したことじゃない。誓うよ。俺たち、一線は越えてない!」直人は首を横に振りながら、必死に否定した。私は小さく笑って、こぼれそうになる涙を堪えた。「直人……体を重ねたら、それだけが一線じゃない。私の親友を抱きしめながら、指を絡めて、同じ部屋で一晩過ごした。それだけで、十分越えてる」涙は勝手に溢れてきて、胸の奥を、また引き裂かれた。私の涙を見た直人は、さらに取り乱した。大股で近づいて抱きしめようとする。私は力いっぱい押し返した。「近づかないで!」腹の奥がきりきりと痛んだ。それでも弱さは見せたくなくて、歯を食いしばり、喉まで上がってきた声を押し戻す。「気持ち悪い。二度と、近づかないで!」吐き捨てるような言葉に、直人は目を真っ赤にして、顔を歪めた。「ごめん……本当に、ごめん。でも汐里、離婚はしたくない。俺たちには赤ちゃんもいる。もう一度だけ、チャンスをくれないか?」罪悪感と怯えに塗りつぶされたその顔を見ていると、胸の奥を、鈍い刃で何度も削られるみたいだった。腹の痛みが一気に強まり、脚から力が抜けて、床に叩きつけられるように膝をつく。直人は顔色を失い、私が拒んでも構わず乱暴に抱き上げ、病院へ連れていった。診察が終わると、その場で入院が決まった。医師は横に立つ直人に、ちらりと厳しい視線を向けた。「……ご主人ですか?」直人は唇をきゅっと結び、短くうなずく。「妊婦さんが強いストレスを受けると、コルチゾールが上がって、胎動も不安定になります。それに、痩せすぎです。栄養状態がよくありません」医師は私を見てから、もう一度、直人を見る。何か言いかけて、結局、それ以上は口にしなかった。「情緒はできるだけ安定させてください。母体にも、胎児にも、かなり負担がかかっています」最後にそう念を押され、気持ちを落ち着けて、きちんと食事を取るよう指示された。――私のせいで。この子が十分な栄養を受け取れず、発育に影響が出るかもしれない。そう思った途端、胸がきゅっと締めつけられた。申し訳なさでいっぱいになって、涙が止まらず、自分がひどく嫌になった。直人はベッドの脇