LOGIN「綾乃、これはきっと、天罰なんだ。芽衣に肝臓を提供しなかった罰、夫としても父親としても失格だった罰だ。もう、代償は十分に払っただろ? だから、せめて、そばにいてくれないか。今になって、あの時の君の気持ち……やっと分かった。君にも芽衣にも申し訳ない。僕は、本当に最低な人間だ……綾乃……本当に許してくれ!何だってするから」嘉人はそう言いながら、自分の頬を何度も叩いた。私はただ冷ややかに彼を見つめ、淡々と言い放つ。「嘉人。離婚協議書にサインして、私の人生から完全に消えて。そうしたら、許してあげるわ」嘉人は呆然と私を見た。私は感情を映さないまま、静かに視線を返す。「あの人に、恋をしたんだな。毎日、君のために料理を作ってくれる男に」私ははっきりと頷いた。十分ほどの沈黙の末、嘉人は完全に折れた。肩を落とし、力なく呟く。「分かった。そういうことだな」嘉人は協議書にサインし、私の人生から姿を消した。次に嘉人と美乃梨の姿を目にしたのは、法廷だった。私は傍聴席に座り、嘉人は原告席にいた。弁護士の説明によって、ようやく事件の全貌が明らかになる。美乃梨は嘉人の腎臓を狙い、酒に睡眠薬を混ぜて彼を昏倒させ、あらかじめ手配していた医師に腎臓を摘出させたのだ。彼女はその腎臓を持ってY市へ飛び、天美に移植した。警察が美乃梨を逮捕した時には、すでに手術は完了しており、嘉人の腎臓は取り戻せなかった。嘉人は屈辱と怒りに震え、美乃梨に必ず報いを受けさせると誓った。だが法廷で、美乃梨は嘲るように笑った。嘉人を「腰抜け」「卑怯者」だと罵り、提供同意書にサインしておきながら、土壇場で逃げた男だと言い放つ。核心を突かれた嘉人は、明らかに動揺し、慌てて私の方を向いた。「違う、僕は、芽衣に肝臓を提供するために、そうしただけだ」嘉人の怯えた様子を見ていると、胸の奥に、言葉にできない皮肉さを感じた。美乃梨は嘲るように笑って問いかけた。「嘉人さん、嘘ってね、言い続けると自分でも信じちゃうのよ?あなた、言ってたじゃない。芽衣は金食い虫で、あなたの肝臓を使う価値なんてないって。だから私たちと一緒に、世界旅行に行ったんでしょう?芽衣が死んだら、綾乃さんにもう一人、男の子を産ませればいいって。あなたって、本当に価値観が腐ってる。命が惜
「嘉人さん、探すの大変だったよ」美乃梨が嘉人に向かって飛びついたが、彼は素早く立ち上がり、かわしてしまった。美乃梨は空振りをしてしまう。嘉人は指を突きつけ、怒鳴りつける。「また来たのか……言っただろう、天美に腎臓を提供するつもりはないって!お前のせいで、綾乃は僕のもとを去り、芽衣は死んだんだ。それなのに天美を助けてほしいって?夢でも見てろ!」そして嘉人は美乃梨を地面に押さえつけ、容赦なく殴りつけた。私は普段なら、男が女を殴るのを見ると耐えられない。でも、相手が美乃梨なら、見て見ぬふりもできる。よく考えたら、やはり心の底で許せず、警察に通報してしまった。証拠不十分で、翔は無罪で釈放されたが、嘉人は故意傷害で十五日間拘束された。この件で、私は翔に対する印象を改め、少しずつ彼の好意を受け入れてみようと思った。しばらく一緒に過ごすうち、私と翔の距離は急速に縮まっていった。好奇心から、なぜずっと自分を追いかけてきたのか、私は翔に尋ねてみた。翔は真剣な眼差しで私を見つめ、その理由を語り始めた。そうして初めて、私は知ったのだ。彼こそ、幼いころずっと私の後ろをくっついて歩いていたあの子だったことを。子供の頃、毎年の夏休み、母と故郷の村に帰っていた。そのたび、必ず一人の男の子が私の後ろをついてきて、一緒に遊ぼうとせがんだ。私は彼を仲間に入れて四年間遊んだ。五年目の夏休み、彼は背中に一つのかごを背負って、私にこんなことを言った。「好きだ、僕と結婚してください!ほら、僕の大好きなしいたけ、さっきたくさん採ったんだ。全部綾乃ちゃんにあげる!」母は冗談めかして言った。「来年も同じかごを背負ってきたら、考えてあげるわよ」だが翌年、両親は事故で亡くなり、私は二度とあの村に戻ることはなかった。幼い日の記憶はぼんやりしていたが、あの子は、私との冗談をずっと心に留めていたのだ。翔は、世界の広さに改めて感慨を覚えた。こんなにも広い世界で、彼は十年以上も私の行方を探していたのに、ずっと音信が途絶えていたのだ。そして、翔はまた、二人は運命の縁にあるのだと、心の中で思わず呟いた。長い年月を巡り巡って、ついにまた再会できたのだ。私も、もし最初から翔に出会っていたら、嘉人ではなく、あの悲劇は起きなかったのかもしれない、
嘉人の姿を目にしても、私の心は不思議なほど静まり返っていた。愛も、憎しみもない。そこにはもう何も残っていないのだ。私は淡々と口を開く。「嘉人、離して。私たちはもう、離婚してるの」嘉人は正気を失ったように叫んだ。「綾乃、僕はまだサインしてない!僕たちは、まだ夫婦だ!芽衣のことは僕が悪かった。美乃梨たちに惑わされて、正気を失ってたんだ。頼む、許してくれ。もう一度、やり直させてくれ!」私は彼の腕を振りほどき、その目をまっすぐ見据えて言った。「嘉人……私たちは、もう戻れない。許しなら、私ではなく芽衣に求めて。あなたが本当に傷つけたのは、あの子なのよ」嘉人は一瞬、呆然としたかと思うと、突然また私を強く抱きしめた。「綾乃、大丈夫だ。もう一人子どもを作ろう。そうすれば、きっと挽回できる」そう言って、彼は私に口づけようと顔を寄せてきた。怒りと羞恥で声が震える。「嘉人、離しなさい!」だが彼は聞く耳を持たず、まるで私を自分の身体に埋め込もうとするかのように、さらに強く抱き寄せた。「彼女から、離れろ」その声と同時に、翔が駆けつけ、拳を嘉人の顔に叩きつけた。嘉人は呻き声を上げ、私を放した。私はすぐに翔の背後へ身を隠した。嘉人は目を見開き、私を睨みつける。「誰だ、そいつは?綾乃、まだ離婚も成立してないのに、男を作るなんて、恥ってもんを知らないのか!」激しい雨が容赦なく顔を打ちつける。けれど、身体のつらさなど、この胸の痛みに比べれば取るに足らなかった。私が言葉を返す前に、翔が再び拳を振り抜いた。「その汚い口を閉じろ!心が腐ってる奴は、見るものすべてが汚く見えるんだよ!綾乃さんに想いを寄せてるのは僕だ。お前みたいなクズに言われる筋合いはない」嘉人は殴られて頬を腫らしながらも、翔の言葉を聞いた途端、突然高らかに笑い出した。「やっぱりな。綾乃、君はまだ僕を愛してる」じっと向けられるその視線に、背筋が粟立つ。私は翔の腕を引いた。「行こう」背後で嘉人が叫ぶ。「綾乃!僕は待ってる!君は必ず、僕のところへ戻ってくる!」その言葉を、私は気にも留めなかった。しかし、翌日、翔は警察に連行された。容疑は、故意による傷害だということだ。分かっていた。これは嘉人が、私を追い詰めるための手段だと。それでも私
美乃梨は勢いよく突き飛ばされ、ドサッと床に倒れ込み、額を強く打ちつけ、鮮やかな血が滲み出す。「最初から、わざとだったんだろ?」美乃梨は身をすくめ、後ずさりしながら目を逸らす。「何のことか、分からないわ」次の瞬間、嘉人は彼女の喉元を鷲づかみにし、歯を食いしばって吐き捨てた。「よくやらかしたな……わざと僕に頼んで、お前たちの世界旅行に同行させたことも……わざと写真をSNSに載せて、綾乃を挑発したことも……それに、綾乃の目の前で、わざと僕を誘惑したことも……」美乃梨の顔が真っ赤になっていたが、それでも笑って嘉人を挑発した。「ねえ、嘉人さん。芽衣が肝移植を必要としてたって、知らなかったの?綾乃さんは何度もあなたに頼んだのよ。でも断ったのは、あなた自身。要するに、死ぬのが怖かっただけでしょ?臆病者だね、嘉人さんは。芽衣が死んだ今さら、ここで『いい父親』の真似なんて、白々しいわ」「黙れ!もう、何も言うな!」嘉人は叫ぶように怒鳴り、美乃梨を乱暴に蹴り飛ばした。手術室のガラス扉通しに、無様な彼の姿がしっかり見えている。そうだ。芽衣に肝移植が必要だと分かっていながら、自分はその場から逃げた。本当に、それは「死が怖かったから」なのか?違う。自分は芽衣を、綾乃を愛していた。こうなったのはすべて、美乃梨とその娘に惑わされたせいだ。すべて、あいつらが悪い。嘉人は美乃梨の襟元をつかみ、パシッ、パシッと、容赦なく平手を振り下ろした。看護師が警察を連れて駆けつけたとき、そこにいたのは、いつも穏やかで紳士的だった水原先生ではなかった。正気を失ったように、女に暴力を振るう男の姿だけだった。……私は母の実家へ戻った。南の山あいにある、小さな山村。空気は澄み、景色も美しく、人々は温かい。帰ってきた初日、近所のおばさんが、自家栽培の果物と青菜を持って訪ねてきてくれた。近所のおばさんは一緒に家の掃除をしてくれて、両親が若い頃、どれほど愛し合っていたかを語ってくれた。彼らがそばにいてくれるだけで、胸にぽっかり空いた穴の痛みは、少しだけ和らいだ気がした。芽衣を産んだあと、世話をする人がいなくて、嘉人は私に仕事を辞め、専業で育児をするよう要求した。気づけば、もう六年経った。社会から完全に取り残され、いざ仕事を探そうとしても、何をすればいいのか分
「……芽衣」私は泣き崩れながら、芽衣の冷たかった遺体を抱き上げた。嘉人が乱暴に芽衣の手をつかむ。「芽衣、いい加減ふざけるのはやめろ。早く起きろ」私は正気を失ったようにバッグを振り上げ、彼の手を思いきり叩いた。「嘉人、頭がおかしいの!?見れば分かるでしょう、芽衣はもう……もういないのよ!」彼は鼻で笑った。「はっ。綾乃、君たちがいつまで芝居を続けられるか見ものだな。どうせ最後は僕に泣きついて、芽衣のために肝臓をよこせって言うんだろ?」そう言い捨てると、嘉人は美乃梨を連れて立ち去った。正午。私はただ立ち尽くしたまま、娘の小さな遺体が火葬炉の奥へと送り込まれていくのを見つめていた。こぼれまいとしていた涙が、また頬を伝って落ちる。これから先、この世界に残されたのは、私ひとりだけなのだ。骨壺に納めたあとも、私はそのままに座り込み、夕日が沈むまで動かなかった。その日、一日中、嘉人からは一本の連絡も入らなかった。それでいい。せめて芽衣には、穏やかで温かい思い出だけを胸に抱えて旅立ってほしい。嘉人なんかに、輪廻の道まで汚されるのは絶対に許せない。最後の光が闇に呑み込まれた瞬間、私は悟った。嘉人との十年の結婚生活も、ここで終わったのだと。飛行機を降りた途端、スマホが震え続けた。嘉人からのメッセージだった。【ごめん、綾乃。今日は僕が悪かった。感情的になりすぎた】【明日、芽衣に肝臓を提供する。だからもう怒らないでくれ】【まだ怒ってるよな。本当にすまない。行動で証明する。明日の朝、必ず時間通りに行く】ようやく落ち着いていたはずの心が、また音を立てて崩れ落ちる。なんて滑稽なんだろう。十年分の愛と信頼、そして娘の命さえも、美乃梨の甘言一つには敵わなかった。娘の遺体を目の前にしても、嘉人はなお、私が芝居を打って彼を騙していると思っていたのだ。幸せだった記憶が、走馬灯みたいに次々と浮かんでは消えていく。私の妊娠を知ったとき、彼は子どもみたいに泣いた。出産の痛みで顔が歪む私を見て、彼も目を真っ赤にして涙を流した。芽衣が夜泣きすれば、彼は一晩中抱いてあやしてくれた。他の子にいじめられたときは、迷わず芽衣の前に立ちはだかったのはいつも彼の背中。数え切れないほどの思い出があるのに、最後に脳裏に焼き付いたのは、これほどまでに見
嘉人は言葉を詰まらせた。「ぼ、僕は……」その間に、美乃梨がかぶせるように口を開く。「綾乃さん、お願いだから私と張り合わないで。天美は、今も嘉人さんの助けを待ってるの……命がかかってるのよ」嘉人は、ほっとしたように息を吐いた。「綾乃、怒らないでくれ。僕は医者だ。人を救うのが仕事なんだ。少し待ってて。すぐ戻るから」そう言い残すと、嘉人は美乃梨の手を引き、足早にその場を去っていった。私はその背中を見送りながら、かすれた声で呟く。「もう、いいのよ。嘉人」廊下の向こうから、看護師たちのひそひそとした声が聞こえてきた。嘉人は腎臓の適合検査に無事通り、すでに提供の同意書にもサインを済ませているらしい。このまま一週間ほど安静にしていれば、移植手術に踏み切れるという話だった。とうに分かっていたはずなのに。それでも胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられるように痛んだ。一日中病院中を駆け回り、ようやく病院の休憩室で一息つく時間ができた。部屋に入るその瞬間、目の前には、抱き合いながら唇を重ねる嘉人と美乃梨の姿があった。吐息が絡むほど近く、互いを離すまいとするような、あまりにも親密な様子だった。私に気づいた嘉人は、慌てて身を離し、必死に弁解する。「綾乃、違うんだ。天美が病気で……僕は、ただ美乃梨を慰めてただけで……」私は思わず、冷笑が漏れた。「へえ。慰めるのに、抱き合ってキスまでする必要があるの?」嘉人がさらに言い訳を重ねようとした、その時。美乃梨が彼の腕を掴み、声を上げて泣き出した。「綾乃さん、嘉人さんを責めないで……キスしたのは、私からなの……」私は容赦なく嘲笑った。「本当に節操がないのね。相手が誰でもいいわけ?」そう言って背を向けると、嘉人が慌てて追いかけてきた。「綾乃、待ってくれ。誤解だ。僕は美乃梨を妹みたいに思ってるだけなんだ」美乃梨は、今にも泣き出しそうな声で後ろから言った。「嘉人さん、先生が言ってたの。天美、もう限界で、今すぐ移植しないと危ないって」嘉人は苦悩の色を浮かべ、しばらく沈黙したあと、私に向き直った。「僕が行かなきゃ。先に、天美に腎臓を提供するから」それだけ言って、彼は一度も振り返らずに去っていった。皮肉な話だ。自分の娘が肝移植を必要とした時、嘉人は遠くへ逃げた。幼なじみの娘が腎移植を必要と