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第5話

Author: 魚住 澄音
ことはは荒く息を吐きながらも、すぐに冷静さを取り戻し、果物ナイフをそっと置いて、傷に貼るための絆創膏を探しに向かった。

本来なら、涼介があそこまでしつこくしなければ、自分を傷つける必要などなかった。今の彼女は、もっと自分を大切にして、決して惨めな姿を見せたりしない。

涼介が出ていくのを見届けた彼女は、すぐさま荷物を車に積み込み始めた。

一刻も遅らせず、錦ノ台レジデンスへと向かった。この物件には様々なタイプの部屋があるが、指定された階に到着してようやく気づいた。ここは普通のマンションではなく、一フロア一世帯の、超高級マンションだった。

特に、荷物を運び終えて書斎の窓から外を見たとき、ことはは驚いた。そこには、山腹に佇む橘ヶ丘の別荘がはっきりと見えたのだ。

ことはの表情は複雑だった。

隼人の「特別な配慮」があまりにも露骨だった。

荷物の整理を終えると、ことははスーパーで日用品を買い込み、アシオンホールディングスへ車を走らせた。

路肩に車を停めてから、ようやく翔真に電話をかける。

すぐに繋がり、男の低く掠れた声が返ってきた。「ことは」

ことはは口を開く前に、翔真の声色に微妙な違和感を感じ取った。わざと問いかける。「今、会議中?」

「……ああ」翔真は深く息を吸い、平静を装って続けた。「今日はちょっと忙しくてな。何か用なら、夜、新居で話さないか?……うん」

ことははゆっくりと目を閉じた。昨夜に見たあの気持ち悪い光景が、また頭をよぎった。

さっきまで他の女とベッドを共にしていた男と離婚の話をするなんて、耐えられるわけがない。

あの匂いで窒息しそうだ。

「分かった。夜に話そう」吐き捨てるように言って、彼女は即座に通話を切った。手は汚れていなかったが、思わず何度も拭いた。そして、履歴も削除する。

ようやく、心の中に渦巻いていた嫌悪感が少しだけ和らいだ気がした。

エンジンをかけると、森田ゆき(もりた ゆき)に電話をかける。「ゆき、店にいるの?今からそっちに行くよ」

同時刻、翔真のオフィス。

情事を終えると、彼は無表情でズボンを穿き、先ほどまでの情欲に満ちた面影はすっかり消えていた。

「もうおわった。帰っていい」

寧々の頬は上気し、瞳はまだ潤んでいた。「翔真、ひどいよ。終わった途端に追い出すなんて……」

彼は冷たい視線を向けた。「義妹が俺のオフィスに長居したら噂になる。それがことはの耳に入ったら許さない」

今でもあの女のことばかり考えていると聞き、寧々は嫉妬に狂いそうになり、早く死ねばいいと心で呪った。

唇をかみしめながら、甘えた声を出す。「翔真、あんたの愛人でも構わないの。ただ、たまに優しくしてくれるだけでいいのよ。それすらダメなの?」

彼は淡々と告げた。「宝石を一式、用意しておく」

宝石で片付けようとする態度に、寧々はますます不愉快になった。「翔真と恋人になりたいの、お金が欲しいんじゃないよ!」

「与えられるのは金だけだ。感情はことはにしか注げない」翔真は駄々をこねる隙を与えず続けた。「また自殺で脅すつもりか?もしやるなら、帝都で死ぬな。遠くで死ね」

「……」寧々は胸が詰まる思いだったが、ようやく手に入れた翔真を失うまいと、渋々態度を軟化させた。「あたしが悪かったよ、翔真」

「ならさっさと帰れ」翔真はうんざりしたように追い払った。

寧々は悔しそうに唇を噛み、その場を後にした。

エレベーターの中で思いつき、階数表示を撮影すると、得意げにことはへ送信した。【ことは、さっき電話してた時、あたしは翔真のオフィスにいたよ】

ことはが内容を見ようとした瞬間、ゆきがスマホを奪い取った。

ゆきは読むなり怒鳴った。「この厚かましい鬱病女!篠原家が雇ってる心理専門家は大丈夫か?あんなの鬱病じゃなくて、不倫依存症だよ」

ことはは唇を曲げたが、それでも一つはっきりさせておかなければならなかった。「探した専門家は全国トップの心理専門家で、間違いわけがないよ」

「じゃあ彼女の鬱病が変異進化して、発作を起こし始めたんだね」ゆきはスマホを返しながら、ことはを憐れむように見つめた。「あのクソ男とそんなに長く付き合ってたのに、本当に忘れられるの?」

ことははお茶を飲み、伏せたまつ毛の奥に痛みがよぎった。「私は感情に潔癖症なの」

彼女は相手に元カノがいることは気にしないが、交際中に他の女性に手を出すのは絶対に許せない。

翔真はそのことを知っていたのに、それでも過ちを犯した。

ゆきは憤慨して罵った。「世界中の男が浮気しても、翔真だけは絶対しないと思ってたわ。ふん、浮気男はクソ同然よ」

ちょうどその時、ことはのスマホが鳴った。

篠原の母からの着信だ。

ゆきもそれに気づき、眉をピクつかせた。「多分帰宅しろって言われるね。何か理由つけて断るか?」

ことはは携帯を取り上げ、軽く口元を歪めた。「今日ダメでも明日には呼び出される。逃げられないのよ」

そう言うと、彼女は電話に出た。「母さん」

電話の向こうで篠原の母が命令口調で言った。「翔真に連絡して、今晩家に食事に来いって。あなたは早めに来なさい。話があるから」

1時間後、ことはは篠原家に到着した。

リビングに入ると、寧々が篠原の母の胸に寄りかかり、篠原の母は満面の笑みで彼女にフルーツを食べさせているところだった。ことはが視線をそらそうとした瞬間、寧々が挑発的な目線を向けてきた。彼女はそれを無視した。「母さん、戻ったのよ」

ほぼ同時に。「ママ、ちょっと眠いから、ご飯ができたら呼んで」寧々は立ち上がり、あくびをしながら階上へ消えた。

篠原の母は優しく返す。「ええ、ご飯できたらすぐ呼ぶから」

そう言い終えると、篠原の母は振り返り、ことはを見て表情を一変させた。「昨夜、寧々があんなに危険な状況だったのに、あなたはよく平然と翔真を連れてそのまま帰ったね。ことは、昨日婚姻届を出したからって、本当に東雲家の人間になったつもりなの!」

「母さん、寧々のことは私も心配しているのよ。でも私も翔真も心理の専門家ではないから、ここにいても役に立たないの」と彼女は冷静に説明した。

「まだ強弁するつもり!?」篠原の母は怒りのまま手を振り上げた。

「母さん!」涼介がちょうど現れて、篠原の母の手首を掴む。「今夜は翔真が初めて家に食事に来るんだ。家族全員が揃うのに、今、ことはを叩いたら、どうして人前に出られるんだ?」

ことはは無表情でその場に立ち、涼介が助けに来たことに感動はない。たとえ彼がいなくても、さっきの一撃をただ受けるつもりはなかった。

「あの子は恩知らずよ。どうしてかばうの?」と篠原の母は憤怒を露わにする。

涼介の言葉が出る前に、ことはは作り笑いを浮かべながら言う。「母さんが私を恩知らずだと思うならそうでしょう。でも、篠原家は帝都で確かな地位があるよね。昨晩の部屋のことが外に漏れたら、世間はどう思うか分かっているのか?」

「ことは、少し黙りなさい」と涼介が彼女の手を引く。

「家の中のことは、外に知られるはずがない。もし知られたなら、それはあなたの口が軽いからだ!」篠原の母はことはの鼻を指さしながら罵る。「篠原家が養わなければ、あなたに今の地位があるのか?翔真のような身分の人と結婚できるのか?身の程をわきまえなさい。長年養ってやったのだから、恩返しもできるはずだ!」

ことはは涼介の手を振り切り、堂々と篠原の母の前に立って言い返した。「篠原家が私を育ててくれたことには文句はない。でも、母さん、寧々はあなたがやっと見つけた実の娘よ」

「父さんと何もかも与えて償いたい気持ちは分かるけど、償いにも限度があるはずよ。翔真とは正式な夫婦だ。それなのに、実の娘に私の夫を誘惑させることを許すのは正しいことなのか?」

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