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第4話

Author: 魚住 澄音
チャット画面を閉じると、ことはは無表情のまま食べ物をすべて包み、階下へ降りて、かつて餌を与えたことのある野良犬たちに届けた。

振り返った瞬間、少し離れた場所に立っていた男が、軽く会釈をする。「篠原様」

ことははわずかに目を見開く。隼人の特別補佐——芳川浩司(よしかわ こうじ)がここにいるとは予想外だった。

「芳川さん」彼女は礼儀正しく返事した。

芳川は書類袋をことはに差し出す。「神谷社長の指示で、篠原様にマンションの鍵をお届けに参りました。また、今日中に引っ越しを済ませ、明日の入社に支障がないように状態を整えてほしいとのことです」

ことはは淡々とそれを受け取る。「承知しました」

昨夜交わした契約により、彼女は正式に隼人率いる建築設計チームに加わることが決まった。契約には特別条項があり、隼人の指示には無条件で従う義務がある。

引っ越しは、昨夜の別れ際に隼人が提示した最初の条件だった。

もっとも、彼が言わなくても、ことははこの部屋を出るつもりだった。

このアパートは表向き篠原家が彼女に贈ったもので、世間に与えるための演出だった。たとえ偽物でも、篠原家は彼女を実の子同然に扱っていると外界に示すため。実際には、涼介の提案によって、篠原夫婦がしぶしぶ与えたに過ぎない。

要は、間接的な精神的補償のようなものだった。

それにこの部屋は、篠原家の誰もが自由に出入りできるうえ、翔真の痕跡があちこちに残っている。

ことはは、この空間に強い嫌悪感を抱いていた。

アパートに戻り、書類袋を開くと、そこに書いてあるのは……錦ノ台レジデンス?たしか、橘ヶ丘の麓にある高級マンションの名前だったはず。

記憶が正しければ、錦ノ台レジデンスは隼人が手がけた不動産プロジェクトのひとつだ。

コンコンコン──突然のノック音に、ことはの肩がびくりと震える。

書類袋を急いで寝室に隠し、覗き穴から外をのぞく。来訪者を確認した瞬間、彼女の瞳は一気に冷え込んだ。

ことははドアを開けた。

こげ茶のトレンチコートを着こなした涼介が目の前に立っていた。

「ことは」彼はいつものように甘やかな笑みを浮かべ、親しげに声をかける。その笑顔に、ことはは昨夜の出来事すべてがまるで幻だったかのような錯覚すら覚えた。

だが、彼を見るまなざしはさらに冷えたものとなる。右手を鍵に添え、家に入れる気などないという意思を無言で伝える。「兄さん、こんな朝早くに、何か用?」

涼介は彼女が怒っていると気づいていながらも、軽く受け流すような態度だった。手に提げた紙袋を掲げ、熱を帯びた笑みを浮かべながら言う。「ことはの大好きなマンゴーのミルクレープ、持ってきたよ」

「もうマンゴーは好きじゃないの」

その言葉に涼介は一瞬表情を曇らせたが、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。「ことは、外は寒いんだよ。中に入れてくれないか?」

「兄さん、他に用がないなら……」ことはが言い終える前に、涼介が突然彼女の右手を握った。

「ことは、僕たちは小さい頃から一緒に育った家族だ。兄妹喧嘩は夕限りだ。それに、他の男のことで関係を悪くするのはおかしいだろ?」

そう言って、彼はことはをそのまま中へと連れて入り、ドアを閉めた。

ことはは力いっぱい彼の手を振り払って、低い声で言った。「もう入ったでしょ。用件があるならさっさと言って」

涼介は寝室の前に置かれたスーツケースに気づき、眉をひそめた。「やっぱり翔真と一緒に住むつもりか?」

ことはは口元をかすかに歪めた。ほら、寧々のために説得に来ただけ。

兄妹だなんて、血の繋がりなんてない。

「もちろんよ。昨日入籍したばかりで、すぐ離婚したら笑われるだけよ」

「それが気になるなら、兄さんがなんとかする。誰にもことはを笑わせたりはしない」涼介はそう言って、穏やかに微笑んだ。

その言葉を聞いたことはは、疑わしげに彼を見上げた。ある荒唐無稽な考えが頭をよぎる。「もしかして、本当は翔真と結婚したのは寧々だって、外に言いふらすつもり?」

涼介は沈黙した。

ことはの胸が、無慈悲に引き裂かれた。

たしかに、篠原家は自分が実の娘ではないことを知ってからは態度が変わった。しかし育ててもらった恩は、まだ覚えている。特に涼介だけは、ずっと変わらずに接してくれていた。だからこそ、一番尊敬していた。

おそらく寧々が戻ってきた頃からだろう、涼介も少しずつ変わっていたのだ。

今となっては……ふふ。

ことはの顔色と、傷ついたまなざしを見た涼介の胸に、チクリと痛みが走る。

彼は彼女の目の前に立ち、両肩に手を添えて、優しい声で言った。「ことは、翔真なんて君にはもったいない。君にはもっとふさわしい人間がいる。兄さんの言うことを聞いて、離婚しよう。海外にはもう住まいも用意してある。離婚が済んだら、一緒に向こうでゆっくりしよう……」

その言葉を聞いた瞬間、ことはは完全に崩れ落ちた。

彼女は力いっぱい涼介を突き飛ばし、目を真っ赤に染め、涙を止めることもできずに叫んだ。「篠原家って、みんな頭おかしいんじゃないの!私と寧々を取り違えたのは、あなたたちの敵のせいでしょ?私になんの関係があるのよ!」

「何度も自分から身を引くって言ったのに、それはダメだって引き止めておいて。今になって寧々のために私を国外に追い出すって!私は何?欲しいときだけ引き寄せて、いらなくなったら捨てる道具か何か!?」

「ことは、どうしてそんなふうに思うんだ……」涼介は穏やかな声で言った。「君はずっと、僕たちの家族だよ」

「バカ言わないで!そんなきれいごとを並べるな!ほんとに家族だと思ってるなら、翔真が私の夫だって知ってたくせに、昨日あんな風に、寧々が平然とあの人の腕の中にいたのを、なんで黙って見てたのよ!」

「昨夜からずっと彼の悪口ばかり言って、離婚を勧めて……篠原涼介、自分の胸に手を当てて考えてよ。私のために言ってるの?それとも、実の妹のため?」

涼介の動きが止まり、何かを言いかけて、だが言葉を飲み込んだ。そして一歩近づき、なおも穏やかに語りかける。「ことは、辛いのはわかってる。でも安心してくれ。今のこの辛さは、何倍にしても必ず償うから」

「ふざけないでよ!」

「ことは、いつからそんな口の利き方を……?」涼介は眉を寄せ、目の前のことはが、かつての素直で優しい彼女とは別人のように感じていた。

ことはは冷笑した。「もっとひどく言ってやろうか?」

「ことは!」涼介は鋭い視線を向けた。「君は、僕の言うことを一番よく聞く子だっただろう?」

言うことを聞け、従え、そればかり。彼女が従順すぎて、自分を縛りすぎるからこそ、他人に踏みにじられるんだ!

「ことは、さっき兄さんが言ったこと——」

涼介が言葉を終える前に、ことははさっとテーブルの上の果物ナイフを手に取り、自分の首に当てた。

「ことは!」涼介の声が震えた。まさか、彼女がここまで追い詰められているとは思ってもみなかった。

ことはは二歩下がり、もう片方の手で玄関を指差した。「ケーキを持って、出てって!」

「ことは、君はそんな衝動的に騒ぐような子じゃないだろう」涼介は眉をひそめて言った。

だがその瞬間、ことはの首筋から、細く赤い線が滲んだ。彼女は無表情で言った。「それでも、まだ衝動的だって思う?」

涼介は奥歯を噛み締めたまま、最後には静かに諦めたようにケーキを手に取った。「わかった。落ち着いたら、また話そう。ことは、いつかきっと分かるはずだよ。誰もが君を傷つけ騙すかもしれないが、僕だけは違う。僕は、ただお前を大切にするだけだ」

「出て行け!」ことはは彼を睨みつけ、低い声で怒鳴る。

涼介が玄関を出たその瞬間、ことはは勢いよくドアを閉め、内側から鍵をかけた。

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