第6話

「あなたの夫を誘惑したって？」

篠原の母の声は次第に鋭く、感情的になった。「うちの篠原家がなければ、翔真のような人と知り合えると思ってるの？忘れないで、あなたが今持っているものは元々私の娘のものよ！」

彼女はついにその言葉を口にしてしまった。

以前は、篠原の母が言わなくても、その視線からはいつも彼女を宝物のような娘のすべてを奪った強盗のように見ていた。

ことはは心の中で、言わなかったらそれでいいと思っていた。少なくとも、彼女がこの繊細な関係を壊したくなかった。どうせ翔真と結婚したら、戻ってくることも少なくなるだろう。

でも今、彼女は離婚しようとしていて、篠原家もここまでやってきた。もう道徳で自分を縛るなら、それは自分が愚かで、他人に踏みつけられて当然だと感じていた。

涼介は彼女が何か言いかけたのを察し、止めようと手を伸ばした。

しかしことははすっとかわし、はっきりと言った。「それなら今回、私が篠原家と縁を切ると言っても、反対しないよね」

篠原の母はまさかこのタイミングでこんな言葉が出るとは思わず、怒りに震えながらも言い返した。「毎回こんなこと言って、ことは、あなたは本当に……」

「ドアの外までお前の大声が聞こえる。近所の人全員呼んで聞かせようか！」その時、玄関から篠原の父、篠原典明（しのはら のりあき）が突然現れた。

リビングは一瞬で静寂に包まれた。

篠原の母は感情を抑えたものの、まだ口調はきつかった。「この逆らい娘が、婚姻届を出した翌日からもう私に反抗しているによ」

典明は冷厳な表情でことはを睨みつけ、言った。「ことは、書斎に来なさい」

ことはは落ち着いて階段を上った。

書斎の扉が閉まると、典明はソファに腰掛け、厳しく言った。「君の母親の言う通りだ。婚姻届を出した翌日からこうなって、これまで教えてきた礼儀作法を忘れたのか！忘れるな、君は篠原家の娘だ！」

「父さん、それは違うんだ。帝都では、私が偽物だと知れ渡っているんだ」ことはは冷静に言った。

「それが何だ、俺たちが君を篠原家の娘だと思っていればいいんだ」

この言葉を聞いて、ことはは心の中で笑った。

篠原家の者はみなオスカー賞級の名演技者だ。彼らはマルチ商法のリーダーにでもなればいい。

典明は説教をほどほどに終えた。寧々が実の娘でも、ことはこそが幼い頃から大切に育ててきた娘だ。彼にとってことはの価値は寧々よりはるかに大きい。

深く息を吸い込み、典明は言った。「このことが君にとって不公平なのは分かっている。だが寧々の鬱は長いものだ。心理医の話では、今のところ翔真が彼女にとって最良の鎮静剤だそうだ」

「君が東雲家の若奥様であることに変わりはない。ただ今は翔真を一時的に寧々に貸してやる必要があるだけだ。君と翔真は幼馴染みじゃないか。二人の絆を誰が揺るがせようか？寧々が無事になれば、父さんは君たちを一生感謝し、これからも翔真を支援する」

ことはは感情を抑えるため、爪を掌に食い込ませた。

今夜の食事が簡単では終わらないことはわかっていた。こうした結果も想定内だった。

だが、それでもほとんど耐えられなかった。

ずっと従順で聞き分けがよかったからといって、彼女が騙しやすく、いいように扱えると思われているのか？

しばらくして、ことはは口を開いた。「父さんは、いつも私に人として正しくあること、正しい価値観を持つことを教えてくれた。女の子は本分をわきまえるべきで、特に篠原家の娘は名誉を重んじ、家の顔に泥を塗ってはいけないと」

この言葉を聞いた典明は不穏な気配を感じ取った。

しかし時すでに遅く、ことはの次の言葉に彼は顔色を変えた。

「今、私に夫を寧々に貸せと言っているが、それが正しい価値観なのでしょうか？父さん、鬱病は免罪符ではない」

「ことは！」典明は陰鬱な声で言った。「その言葉は翔真の意思を代弁しているのか？」

この言葉は明らかにことはの顔を叩くようなものだった。

代表できないことは分かっていた。翔真はすでに彼女を裏切っていたのだから。

「もし彼がそれでいいと言うなら、私は先ほどの言葉を撤回して、そのことを受け入れるよ。でも、一つだけ条件を承諾してもらえるか」

それを聞いて典明の表情は和らいだ。言い回しをしたのは、どうやら条件付きだったらしい。

彼は言った。「君が賢くて分別ある子だと知っている。言ってみろ、どんな条件だ？」

「翔真を寧々に譲るよ。代わりに篠原家との関係を解消させてください」

この言葉を聞くと、典明は急に立ち上がった。「それは脅しなのか？！」

ことはは恐れずに言った。「条件を提示しているだけだ」

「翔真が、君が彼を条件に出していると知ったら、怒るのではないか？」

ことはは冷笑した。「寧々が昨夜自殺騒ぎを起こしたのは、私と翔真が婚姻届を出したからだ。母さんとは寧々の二度目の自殺に耐えられるのか？」

初めて、典明は自分が育てた娘が別人のように変わってしまったと感じた。

彼は決してことはにこんなやり方を教えたことはなかった。

典明は気持ちを落ち着け、慈父の表情を見せた。「ことは、たとえ血の繋がりがなくても、生みの親より育ての親ってことだ。俺はずっと君を実の娘のように思ってきた」

「父さんのご恩は、一生忘れない」

典明は目を細めて穏やかに言った。「君は心の奥底でずっと不安だったんだろう。この前、君の兄と話し合って、グループの株を君に分け与えようと決めた。この件はすぐにでも実行できると思う。先ほどの言葉は怒りのあまりのものと見なして無かったことにする。明日には株式譲渡契約書にサインしよう」

またしても一方的な決定で、ことはの言葉を無視する行為だった。

さすがは本当の親子だ。

「父さん、私は感情に潔癖症なんだ」

「……いつからそんなに言うことを聞かなくなったんだ！」

「もう子供じゃないから」

典明のまぶたがぴくぴくした。ことはの反抗的な態度に、彼は腹立たしくもどうしようもなかった。

ことはは静かに告げる。「父さん、私の条件をよく考えた方がいいよ。それでは、失礼するね」

典明は引き留めようとはせず、そのまま彼女を見送った。

書斎を出た瞬間、ことはは深く息をついた。

最初に仕掛けてきたのは向こうだ。自分を都合のいい道具扱いするのなら、こちらも徹底的に利用価値を潰すまで。

彼女は表情を崩さず階段を上る。とにかく部屋に戻って横になりたい。

離婚については、ひとまず保留にする必要があると感じる。少なくとも篠原家との関係を断ち切れるまで。その時こそ離婚の価値を最大限に引き出せる。

どうせすべてを清算するつもりなら、一度で済ませるのが一番効率的。

階段を上る時、彼女のスマホが鳴った。

なんと、隼人からだ！

ことはは電話に出ると、声を抑えて話す。「神谷社長」

「タイミングが悪かったのかな、部下の篠原さん」隼人の声は相変わらず、尾音を長く伸ばして、曖昧に笑みを含んでいる。

ことははまぶたをぴくつかせた。隼人は誰とでもこう話すのか、それともわざと自分にだけこの調子なのか、とても気になる。

彼女は余裕を持って答える。「ご心配なく。ですが、正式な入社は明日ですので、その呼び方はまだ早いですよ」

「前もって慣れておこうと思って」

そうか？彼女にはこの電話がただの因縁づけにしか思えなかった。

「ああ……」

突然響いた、甘く濡れたような吐息。

ことはの手がドアノブの上で止まり、目が本能的に寧々の部屋へ向く。

同時に、通話越しの隼人も気づいたようだった。「篠原さん、本当に邪魔してないのか？」

「神谷社長がそう思うならそうなのでしょう。でも、申し訳ありませんが、先に失礼します」ことはは他のことを顧みず、すぐに電話を切った。そして足が勝手に寧々の寝室へと向かった。

曖昧な息遣いが、どんどん鮮明になる。

寝室の扉の前に立った時、少し開いた扉の向こうには、密着した二人の姿があった。

寧々は壁に身体を預け、男の首を抱き寄せ、その唇を胸元に受け入れていた。

彼女はことはに気づくと、眉を上げてこっちを見た。頬を紅潮させながら、あからさまな勝ち誇りと挑発を浮かべて。