LOGIN「瘴気がまだこんなに残っているなんて」
アレックスの体にはったガーゼをレティーシャが慎重にはがすと、黒く染まったガーゼに付着していた腐った血肉がどろりと滴った。
ガーゼから、アレックスから剥がされたため次の宿主を探すように立ちのぼる瘴気。
黒い瘴気は、ガーゼをもつレティーシャの華奢な手にまとわりつく。
その不気味な光景に騎士団長は眉を顰めたが、レティーシャは冷静にそれを観察する。
(呪われた、ですか)
アレックスのこの状況を、ラシャータが「呪われた」と言ったことをレティーシャは理解した。
アレックスがいまもこうして床に伏している原因は、魔物の“瘴気”であって“呪い”ではない。
しかし瘴気の禍々しさ、しつこくて粘着的なこれは、確かに呪いのように見える。
(やはり、瘴気に意思があるように見える。まるで、魔物の怨念のようだわ)
通常の瘴気は、宿主とした魔物が死ぬと体内から出てきて、自然の循環システムに従って魔素へと分解される。
しかし、アレックスの体から出てきた瘴気は循環システムに抗い、レティーシャの腕に絡まり、レティーシャの体内に入り込もうとする。
その侵食してくるような動きに、レティーシャは気味の悪さを感じるけれど、慣れてもきた。
「ぐううっ」
アレックスが呻き、アレックスの肌に水疱が現れ始める。
アレックスの体の中で、アレックスの火魔法が暴発している症状。
「……え?」
レティーシャが治癒力を強めた瞬間、レティーシャが持っていたガーゼから瘴気が勢いよく吹き出てレティーシャに向かっていった。
「ラシャータ様っ!」
レティーシャは浄化魔法を起動して、瘴気を浄化した。
「大丈夫ですかっ?」
「ええ……でも、急に、なぜ……」
(治癒力を使っただけ……治癒力……魔法?)
「騎士団長様、ガーゼを持っていてくださいますか?」
「え、ええ……」
レティーシャは治癒力を使う。
騎士団長が持っていたガーゼが揺れて、瘴気がレティーシャのほうに向かおうとした。
(では、浄化魔法なら?)
レティーシャが浄化魔法を使うと、また瘴気がレティーシャのほうに向かおうとした。
何度か、確認をする。
「これは、一体……」
ガーゼを持っている騎士団長には、瘴気は向かっていない。
「騎士団長様、魔法は使えますか?」
「水魔法でしたら」
「使ってみていただけますか? そこの盥に水を入れてみてください」
「はい、分かりました」
「その際、瘴気が向かっていくと思われますのでご注意ください」
「……分かりました」
レティーシャの予想通り、騎士団長が水魔法を起動すると同時に瘴気がそちらに向かった。
「魔力に、反応しているのでしょうか」
「そう、かもしれませんね」
(治癒力が、うまく巡らない感じは……もしかして、瘴気かしら)
巡らそうとしたとき、その力が何かに阻まれることには気づいていた。
(それなら……)
レティーシャはいつも、最も肌が焼けてしまっているアレックスの胸に手を当てて治癒魔法を使っていたが、今回は肩に手を触れて治癒魔法を使ってみる。
そして、いつも通り、また胸に手を当てて治癒魔法を使ってみる。
いつもは阻害場所は同じだったのに、今回は僅かにその位置がずれた。
そして……。
(ズルズルとこちらに近づく感じ……まるで、虫みたい……“虫”)
今まで、伯爵家の裏山にある山小屋に住んでいたレティーシャ。
虫が出てくるのは、日常茶飯事。
レティーシャにとって虫の退治は、“踏み潰す”か“叩き潰す”の二択。
攻撃手段が手か足かの違いで、やることは“潰す”。
「騎士団長様、閣下の体内に瘴気が塊のようなものがあり、虫のように閣下の体内で動いています」
「なんと!」
「なので、引っ張り出して叩き潰そうと思います」
「“引っ張り出す”……意外と物理的な方法ですね」
「治癒の力は、治すに特化しているため、攻撃はできませんもの」
騎士団長は、自分の腰にさした剣を見た。
「分かりました。引っ張り出されたあとは、私がこの剣で叩き伏せましょう」
虫のようになっているだけで、“虫”ではない。
しかし、一度ついた“虫”のイメージのまま騎士団長は宣言した。
「閣下の枕元に、新聞紙を細く丸めたものでも置いておいてくだされば、私が叩き潰しますわ」
そして、レティーシャの、虫も殺さぬ見た目は、見た目だけだった。
「……いや、落ち着きましょう。虫ではないのですよね」
「そうですね、瘴気です。魔力に反応して、虫のように動いているだけです」
「瘴気が、動く……」
騎士団長が聞いたことのない現象だが、その現象は先ほど見た。
見た以上、否定はできない。
「団長様は『魔物はこうして生まれる(第三版)』をお読みになりましたか?」
レティーシャの言葉に、騎士団長は怪訝な顔をする。
「ずいぶんと古い版をお読みになりましたね。私が子どものときで、すでに第八版でしたよ」
レティーシャは、ラシャータのように教師をつけてもらえなかった。
独学で身に着けろと言わんばかりの父伯爵から、出入りを許された古びた書庫。
そこにある書物や歴代の当主や聖女たちの手記をレティーシャは読み、治癒力を身につけた。
「あれはずいぶんと古い本だったのですね……どうしましょう……」
「基本的な情報は変わらないでしょうから、気づいたことを教えてください」
騎士団長の励ましに、レティーシャは頷く。
「このままでは、閣下は魔物になるかもしれませんわ」
「そうですか。閣下が魔物に……はああ!?」
仰天する騎士団長に、レティーシャは冷静に頷く。
「閣下が魔物になるだけでも問題なのに……上級……」
そうなったら王都は火の海。
いや、王都だけですめば御の字で、下手をしたら……それを想像した騎士団長の顔が青くなった。
その朝は、ウィンスロープ公爵邸の目覚めは静かで、とてもゆっくりだった。 使用人たちは部屋に近づかないように厳命されていたため、二人の寝室の傍は静まり返っていた。その静けさの中で、レティーシャは目覚めたものの、夢とうつつを行ったり来たりで、時間の流れをほとんど感じていなかった。(……朝?)カーテンのすき間、窓の外から淡い光が差し込んでいた。でも、それが夜明けの光なのか。それとも、昼前の柔らかな陽光なのか。レティーシャには判断がつかず、ぼんやりした頭は答えを出す気がなかった。(眠い……)寝台の天蓋越しに揺れる光。まるで夢の続きのように誘うようで、レティーシャはそれをぼんやりと眺めていた。ふと、レティーシャは重みに気づく。そして、隣の温もりに。隣を見ると、アレックスがいた。アレックスはレティーシャの肩を抱き寄せたまま眠っており、先ほど感じた重みはそれだった。その腕の重みが、レティーシャには心地よかった。 昨夜からずっと、アレックスの温もりは途切れることなく続いていた。レティーシャはそっと身じろぎした。 すると、アレックスの腕がわずかに強くなり、抱き寄せられ、ぴたりとくっついた肌越しに、レティーシャの体の中でアレックスの声が低く響いた。「……どこへ行くんだ、レティ?」「起こしてしまいましたか?」「離れようとすれば、すぐに分かるさ」アレックスの声音は、眠気を含んでいるのに甘く、レティーシャは胸の奥をくすぐられたようだった。レティーシャは頬を染め、そっと微笑む。「少し、窓の外を見ようと思っただけです」「それなら、俺も一緒にいこう」アレックスはゆっくりと体を起こし、レティーシャを抱き寄せた。その仕草は、まるでレティーシャを一瞬でも離したくないというようだった。「アレク様っ!」そのまま、レティーシャを抱き上げて寝台を降りようとするアレックスにレティーシャは慌てる。「自分で歩けます」「……昨夜は、痛がっていたじゃないか」「それは……それで……」アレックスはハハッと声を上げて笑うと、レティーシャを抱き上げたまま窓辺に向かう。窓から見えた外の景色は、薄い霧に包まれていた。 庭園の花々は露をまとい、風が吹くたびにきらりと光る。「……不思議な光景ですね」「神様も、俺たちを祝福しているのだろう」レティーシャが
夜はすでに深く、屋敷は静まり返っていた。遠くの庭で揺れる葉の音だけが、かすかな気配として窓辺に触れている。使用人たちの足音は、もうどこにもない。暖炉の火だけが小さく揺れる、緊張に息をひそめている様な夜の時間。 レティーシャは部屋の中央で立ち尽くしていた。湯あみをすませ、どの香油をつけるかと言われて、ウィンスロープ公爵領特産の花からとれる香油にした。夜着は、立場上は義母であるローゼマリア王妃が用意してくれた夜着を用意してもらった。着替えも終わり、髪もほどいてもらった。(次に、どうしていいのか分からない)嫁ぐ淑女の嗜みとして、閨教育は受けてある。でも、夫となる男性の行為を受け入れ、身を任せることしか先生は教えてくれなかった。(教えてもらっていないから途方にくれるなんて、子どもみたい……でも、子どもじゃない)レティーシャが目を向けたのは、廊下へと続く扉とは違う扉。夫となったアレックスの部屋とをつなぐ扉。(……夫……旦那、様)アレックスが夫になったことを実感するたび、レティーシャの鼓動が一つ跳ねる。扉の向こうに、アレックスがいると思うだけで、指先が震える。 コンコン扉が静かに叩かれた。レティーシャの体が、ビクッと震えた。「レティーシャ」低く、柔らかな声。「……はい」返事はした。(扉を、開けるべきなのかしら)それなのに、レティーシャの足が動かない。「開けても?」「はい……」一瞬の間。そして、扉がゆっくり開く。「こんばんは、俺の奥さん」アレックスが入ってきた。さっきまでの礼装ではなく、普段よりずっと軽い服に見えた。だからだろうか、永遠の愛を誓い合った昼間よりレティーシャには近く感じた。アレックスはレティーシャを見ると、少しだけ目を細めた。「……緊張しているな」「し、していません」即答してしまい、レティーシャは自分で驚く。アレックスはくすっと笑った。「嘘をつくときは、もう少しゆっくり話すといい。焦っていると……嘘だと、丸わかりだ」(それって、つまり……)アレックスの近づいてくる姿に、大きく聞こえる足音に、レティーシャの呼吸が浅くなる。逃げたいわけではない。けれど、胸がいっぱいで、どう振る舞えばいいのか分からない。目の前に立ったアレックスが、そっと手を取る。指先が触れただけで、アレックスの体
レティーシャはアレックスの腕に抱かれながら、城のほうを振り返る。レティーシャは、胸の奥に広がる不思議な感覚を味わった。王女という立場は、レティーシャにとって実体のない仮初の立場だったけれど、レティーシャの胸に寂しさのようなものを感じた。「レティーシャ。君が王女となるときにも言ったが、レティーシャはレティーシャだ」「アレックス様……」「俺にとって君は、初めて会ったときからずっと“ピンクの目をした可愛い子”だ」アレックスが顔を下げて、腕の中のレティーシャの目に口づけを落とす。「そして今日から、ピンクの目をした可愛い妻……」アレックスが突然笑い出し、レティーシャは首を傾げた。アレックスの目が、柔らかく微笑む。「“初恋は実らない”? 馬鹿言うな、ちゃんと実ったぞ」 二人は城の門に立つ。夜の街は静かで、遠くに見える街の灯火が星空のように見えた。その光景は、まるで二人の未来を照らす道のようだった。目の前には、ウィンスロープ公爵邸の大門。高い鉄門には篝火が灯され、刻まれたウィンスロープ公爵邸家の紋章が浮かぶ。通りには騎士たちが並び、その先で門番たちが並んで立って頭を下げていた。 「歓迎してもらえているみたいです」「“みたい”ではない。誰もが心の底から歓迎している」アレックスが長い脚で通りを渡り、ウィンスロープ公爵邸の門をくぐる。「すごい……」ウィンスロープ公爵邸の広大な庭園は、レティーシャの記憶では色とりどりの花が咲いていたが今では白一色。夜露に濡れた花々が月光を受けて輝いていた。「……なんて、美しいのかしら」レティーシャが思わず呟くと、アレックスは微笑んだ。「君を迎えるために、庭師たちが心を込めて整えたんだ。 この邸は、今日から君の“家”になる」アレックスのその言葉に、レティーシャの胸は温かく満たされた。屋敷の正面玄関には、執事長のグレイブや家政婦長のソフィアを先頭に、使用人が整列して深々と頭を下げた。 レティーシャはアレックスの腕から地面に降ろされる。「おかえりなさいませ、レティーシャ様。ウィンスロープ公爵家一同、今日という日を心からお待ちしておりました」執事長のグレイブの声は落ち着いていて、いつものようにレティーシャに安心感を与えた。レティーシャは微笑み返し、丁寧に頭を下げた。「出迎え、ありがと……」
王女の婚礼を祝う宴の始まりが近づく頃、王城の外では、夜風が静かに吹き抜けていた。 昼間の喧騒が嘘のように、城下の通りは穏やかな灯火に包まれている。祝福の歌声は遠くから、微かに聞こえてくる優しい音だ。 だが、レティーシャの胸の内は、祝宴の余韻とは別の鼓動で満たされていた。今夜、レティーシャはアレックス・ウィンスロープに嫁ぐ。レティーシャの嫁入りは二度目。しかも、相手はどちらもアレックス。(でも、気持ちが違う……全然……)一回目は、ラシャータの替え玉。偽物の花嫁。(今度は、本当に妻になる)レティーシャとして、アレックスのもとに嫁ぐのだ。王家の伝統により、王女は婚礼の式典が終わると、夫となる男の家へ移る。これは王女が王籍を失って臣下となる政治的な意味があった。王城の正門前、ウィンスロープ公爵家の騎士たちが整然と並んできた。その先頭、婚礼の式典のときに比べるとマントをまとっていなかったりと綺羅びやかさが減ったが、まだ十分にキラキラしているアレックスが立っていた。レティーシャが階段の一番上に立つと、ウィンスロープ騎士団の騎士団長が黙って剣を構えると、他の騎士が続いて一斉に剣を構える。その迫力と、凛々しい雰囲気にレティーシャが息を呑む。少しだけ、怖気づく。「レティーシャ様」レティーシャの隣で、騎士のレダが優しく促すように声をかける。レティーシャが王女になったとき、レダは本人の希望とレティーシャの願いで、レティーシャの騎士として特例で近衛騎士となった。(近衛の制服もとても似合っていたけれど)レダは以前の、ウィンスロープ騎士団の制服を着ている。「レダ卿はこちらのほうがお似合いですね」「ありがとうございます」末永く仕えることをレダは誓いかけたが、婚礼の日の「末永く」の誓いは花嫁と花婿の特権だと思い口を噤んだ。「レティーシャ」「アレックス様?」いつの間に階段の上まで、とレティーシャが驚く間もなく、アレックスがレティーシャを横抱きする。「アレックス様!」「行くぞ」レティーシャを抱いたままなど思わせない軽い足取りで、アレックスはリズムよく階段を降りていく。そして、そのまま騎士たちの作った花道を歩いていく。「降ろしてください」「いいじゃないか。君はまだ、“お姫様”だからな」鼻歌を歌うかのような楽しげな顔で、アレックス
*大聖堂の重厚な扉がゆっくりと開く。そして花婿であるアレックスが大聖堂に向かって歩いてくる威風堂々たる姿を、参列者たちは目にした。銀糸を織り込んだ漆黒の礼装は、アレックスが公爵であり、飾られた勲章たちは王国最強の騎士であることを示すもの。肩には騎士団長の証である白銀のマントがかかり、腰には剣が佩かれている。その姿は凛々しく、堂々としていて、英雄譚の挿絵から抜け出してきたかのようだった。しかし、アレックスの表情には戦場で見せる冷たさはなく、柔らかな光が宿っている。今日のアレックスは王国の守護者ではなく、一人の男として愛する女性を迎えにきている。万が一スタンピードなどが起きても、今日だけは絶対に行かないと言い張っていた。翌日には行くのかというケヴィンの問いについては、回答を拒否している。 大聖堂の奥から、静かに鐘が鳴り響く。白いヴェールをまとったレティーシャ王女が、オリヴィアに導かれて姿を現した。これは本来は筆頭侍女の仕事なのだが、オリヴィアが私がやると言い張った。純白のドレスは、王家に伝わる古い意匠をもとに仕立てられたもの。胸元には、王家の象徴である蒼玉が輝いている。金糸で織られたレースが光を受けて淡く輝き、歩みを進めるたびに裾が波のように揺れた。その美しさは、誰もが息を呑むほどだった。 レティーシャは気品を備えながらも、柔らかく、浮かべた温かな微笑みには心惹かれる。「聖女……」誰かの小さなつぶやきは、ただのタイミングなのか、それとも神様の悪戯か、大聖堂内で大きく響いた。聖堂内がざわめく。ほんの数年前まで信仰するように聖女と聖女を生み出すスフィア伯爵家を重用していた国だが、いまでは「聖女」は禁忌。スフィア伯爵家は王女を隠匿していた家、最後の当主となったドルマンは娘を聖女と騙った罪で投獄されている。咎める目線が、誰だと犯人探しをし始めたとき、レティーシャが足音を大きく鳴らして一歩進む。作法としては相応しくない。でも、目は集まる。目が集まると、レティーシャはふわりと笑う。その微笑みに、場は和む。花嫁で、被害者であるレティーシャ王女が気にしていないなら。そんな空気が聖堂内に満ちた。アレックスはレティーシャのその姿を見た瞬間、わずかに目を見開き、胸に手を当てた。戦場で幾度も死線を越えてきた男が、ただ一人の女性
「ん……」レティーシャは目を開けたが、まだゆらゆらと眠気が紗のように薄く被さっていることを感じた。(今日は……何日?)レティーシャは起きる気にならず、布団に頬を擦り寄せる。目を閉じて、レティーシャはアレックスと結婚した日に思いを馳せる。 *その日、王都の朝は、いつになく早く目を覚ましていた。 夜明け前から、城下の通りには人々が集まっていた。石畳の上には色とりどりの花弁が撒かれ、窓辺には王家の紋章を染め抜いた布が揺れている。国の新たな歴史の一ページを迎えるからだ。王国随一の騎士にして若き公爵、アレックス・ウィンスロープと、彼が救い出した(ことになっている)秘された王女(ということになっている)レティーシャの婚礼。 華やかに彩られた通りの向こうに見える王城の尖塔は、朝日を受けて金色に輝き、まるで天が祝福の光を降らせているかのようだった。城門前の広場には、農民から商人、職人、兵士、貴族に至るまで、身分を超えた無数の人々が押し寄せていた。誰もが晴れやかな顔で、今日は無礼講だと言わんばかりに、身分差を忘れ、同じ喜びを胸に抱いていた。「王女様がご結婚……いろいろあったが、幸せになっていただきたい」 「ウィンスロープ公爵ならば、きっと幸せになさるさ。ほら、あの御顔を見ろよ」城で行われる結婚式に臨む、アレックス・ウィンスロープ公爵。その端正な顔に浮かべた、いつもより柔らかく甘やかな表情に、沿道の女性たちは感嘆の声を漏らす。「レティーシャ王女が愛おしくて堪らないと言っているようなお顔ね」 「公爵閣下がレティーシャ王女を溺愛なさっていることは、国中の誰もが知っていることさ」そんな声が、風に乗って広場を満たしていった。 王城の大聖堂では、婚礼の準備が粛々と進められていた。 高い天井には聖獣を描いたフレスコ画が広がり、ステンドグラスから差し込む光が、虹のような色彩を床に落としている。祭壇には白百合と青薔薇が飾られ、王家の伝統を象徴する金の燭台が静かに炎を揺らしていた。「長かった」花婿の控室で、アレックスは長く深いため息をついた。そんなアレックスに、弟のケヴィンが苦笑する。この国では、王族が貴族に嫁入りするとき、花婿が「王女の相手に相応しいこと」を示すため、家からパレードをしてその姿を見せる。ただ今回、ウィンスロープ邸は通り挟
アレックスの婚約者に対する扱いはすごく雑だ。しかし、アレックスがこうも分かりやすく雑に扱うのはラシャータから婚約破棄をしてもらうためである。本来なら、公爵家当主のアレックスが伯爵令嬢のラシャータにそんな気を使う必要はない。本来なら、“公爵”のアレックスは前置きも説明もなしに婚約破棄を突きつけられる立場だ。しかし、相手はただの伯爵令嬢ではない。聖女。これが問題だった。 *この国には、聖女信仰がある。この国には国教がないため誰が何を信仰しても自由であるのだが、その中でも聖女信仰は平民から貴族まで幅広く信仰されている。その聖女信仰は、聖女に命を救われた者たちが聖女を崇めたところか
(ここは、どこ?)丸太がむき出しの天井をぼんやりと見ていて、ハッと気づいた。ここは、スフィア邸の裏山に離れの小屋。レティーシャがウィンスロープ邸にいくまで暮らしていた小屋だった。何代か前のスフィア伯爵が趣味で作った小屋で、レティーシャはここで育った。(でも何か少し違和感が……そうだわ。ドモはどこかしら?)頼りになる精霊を探そうとしたとき、タッタッタッと軽い足音が聞こえてきた。レティーシャが振り返ると、見覚えのある女の子がいた。(……私?)少女は見覚えのあるワンピースを着ていた。まだ継ぎ接ぎがなくきれいな状態だ。乳母がこれを作ってくれたのは、レティーシャの記
『マスター、何カ御用デスカ?』「きゃああああっ」「また喋った!」腕甲(名前:カホー君)に話しかけることにアレックスは滑稽さを感じていたが、ラシャータとサリーが盛大に驚いたので胸がすく思いがした。「カホー君、伯爵とレティーシャの声は覚えているな?」『モッチロンデース』「会話を再生してくれ」『喜ンデー』(サフィール商会の人に音声を入力してもらったが、どこの商人だ).『ラシャータ、やっと会えたな』『……はい』『久しぶりなんだ、二人で話したい……分かるな?』「カホー君、ストップ」『はい、マスター』アレックスは伯爵を見た。「伯爵、なぜレティーシャを『ラシャータ』と呼んだ?
「お待ちください、フレマン侯爵夫人」アレックスを押しのけて、オリヴィアがカテリーナに対峙する。「フレマン侯爵夫人、安心してくださいませ」オリヴィアは堂々とした佇まいだった。「オリヴィア嬢、“安心”とは何を担保に?」カテリーナの厳しい視線をものともせず、オリヴィアはパンッと胸を自信満々に叩いた。「お兄様はご自分が浮気したら去勢してもいいと仰っており、念書も書かせてあります」(去勢!?)思わず、レティーシャは隣のアレックスを見る。アレックスは項垂れていた。「オリー、ちょっと待て……」「止めないでくださいませ、お兄様。それとも、なんです……去勢宣言は嘘だったと」「いや、嘘で