تسجيل الدخولあれ……?
もしかして、ずっと前から知っていたの?
私が、こうなる運命にあるって──。
だから、今まで何も言わずに、好きにさせてくれていたの?
遠くから見守るように。
そう考えた瞬間、気がつけば私は無意識のうちに一階へと足を運んでいた。
階段を降りる足音も聞こえないほど、頭の中はざわめいていた。
「ねえ! 一体いつから知ってたの?!」
勢いよくリビングの扉を開け放つと、目に飛び込んできたのは、涙を浮かべた母の姿だった。
……え?
普段、あんなにも明るくて元気な母が、そんな顔をしているなんて──想像もしなかった。
立ち尽くす私に、母が静かに名を呼んだ。
「優里香……」
その一言だけで、体から力が抜けていくのを感じた。
怒りとも戸惑いともつかない感情が、すっと冷めていく。
私はかすれた声で、もう一度だけ尋ねた。
「……いつからなの?」
すると、沈黙を破って父が口を開いた。
その声には、どこか後悔と覚悟が滲んでいた。
「優里香が二十歳になった年だよ。母さんに呼ばれてね……そのときに、初めて話を聞かされたんだ」
言いづらそうに視線を外しながら語る父の隣で、母が目元の涙をぬぐいながら、かすれた声で続けた。
「ごめんね、優里香……。私たちがちゃんと、この話を断っていれば、こんなことにはならなかったのに……」
本当に……そうだよ。
そんな馬鹿げた話、もっと早くにきっぱりと拒否してくれていれば──。
もし、母の頬を伝う涙を見ていなければ、私は今すぐにでも声を荒らげていたと思う。
けれど、あの涙を見たら……もう何も言えなかった。
「……お祖母ちゃん、なのね……」
ようやく口からこぼれたのは、その一言だけだった。
自分でも聞き取れたかどうか分からないほどの、かすかな声でこぼれた「お祖母ちゃん」。
その一言を口にした瞬間、私の中で何かが静かに折れたような気がした。
同時に、胸の奥で、ほんの少しの諦めが芽生えていくのを感じた。
──ああ、そうか。
そうだった。思い出した。
うちはごく普通の家庭だ。特別な家柄でも、伝統ある旧家でもない。
それでも、なぜか昔から、父方のお祖母ちゃんには誰も逆らえないという、暗黙の空気があった。
親戚の集まりでも、お祖母ちゃんの言葉は“絶対”のように扱われていたし、父でさえ、何かあれば「母さんが言うなら……」と従っていた。
そんな存在が関わっているのなら──話は、簡単には終わらない。
「私たちもね、本当は……優里香がこんな政略結婚なんかじゃなくて、ちゃんと相手の人と自然に出会って、気持ちを通わせてくれたらって……そう思ってたのよ」
ぽつりと、母が言った。
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「……どういう意味?」
母は一瞬ためらうように視線を泳がせ、それから静かに告げた。
「翔太郎さん、あなたの勤めている会社にいるの。ARMで、ね」
……翔太郎さん?
改めてその名を口にされて、ようやく私は思い出した。
さっき、父が口にしていた名前──ほとんど聞き流していたけれど。
いま、改めてその音が、妙に耳に残った。
なんて……古風な名前。
そして、急に腑に落ちた。
──あれだけ両親が熱心にこの会社を勧めてきた理由。
「待遇がいいから」「将来性があるから」なんて言っていたけれど、実際は……この“出会い”を期待していたんだ。
まさか、そんな……。
私は驚きで胸がいっぱいになり、言葉を失った。
けれど、正直、ピンとこなかったのも事実だった。
「……でも、その翔太郎さんって人、社内で会った記憶、まったくないけど?」
それもそのはずだ。
何千人も社員がいる大企業。配属先も違えば、顔を合わせる機会なんてほとんどない。
ましてや、名前なんてフルネームで知っている人なんて限られている。
私だって、入社してから一年半、名前も顔も一致しない同僚なんて山ほどいる。
「そうだね……残念だけど、この一年半じゃ、出会うことがなかったみたいだね」
静かにそう言うと、私自身も視線を落とした。
すると、両親も同じようにうつむき、重たい沈黙が部屋に満ちていく。
出会っていれば、何かが変わっていたのだろうか。
もし、普通に恋をしていたなら、こんな風に戸惑うこともなかったんだろうか──
そんな思いが、ふと頭をよぎった。
しばらくの間、誰も口を開かない沈黙が続いた。
でも、その沈黙の中で私は、なんとなく悟ってしまった。もう逃げられないのだ、と。
深く息を吸って、重たい空気を押し破るように口を開く。
「それで……私はこれからどうすればいいの? お見合いでもするってこと?」
少し皮肉を込めたつもりだったが、返ってきた両親の顔は、気まずそうに視線を交わすばかりだった。
……嫌な予感がする。
それは見事に、的中した。
「えっと……お見合いとかそういうんじゃなくて……その……次の、お前の二十四歳の誕生日に……入籍と、同居を……」
「……は?」
一瞬、言葉の意味が理解できず、思考が止まった。
でも次の瞬間、胸の奥で何かが爆ぜる。
「なにそれ! いきなり!? あと一週間しかないんだけど!?」
我慢していた感情が一気に溢れ出す。
声を荒げた自分にすら驚くほど、激しく胸がざわついた。
──誰か、嘘だと言ってよ……。
***翌日。私は、同期入社で仲の良い友人・水野円花と、会社近くの和食屋でランチを取っていた。カウンター席に並んで座りながら、昨夜の出来事を淡々と語る。「……だから、そのまんま。呪いで、結婚することになったの」白米を口に運びながら言うと、円花は箸を止めて、ぽかんとした表情で私を見た。「……呪い?」「そう。たぶん。いや、恨み? どっちだったっけ? もうよく分かんないんだけど、とにかく、ご先祖様が勝手に決めたことで、今この時代に生まれた男女が結婚しないと不幸になるとか、なんとか……」ようやく西京焼きの鮭に手を伸ばした円花は、呆れを隠せない様子で呟いた。「……そんな時代錯誤な話、ほんとにあるんだ……」「ね? 今どきドラマでもここまで強引な設定ないと思わない?」「うん。たぶん視聴率取れないと思う」同意するようにコクコクと何度も頷いた円花は、ふと真剣な顔で私を見つめた。「ねえ、でも優里香、それで本当にいいの? この前さ、牧野さんのこと気になるって言ってたじゃない」──うっ。思わず喉が詰まりそうになる。牧野さん。それは、総務部の上司で、私が密かに想いを寄せている人。二歳年上で、仕事ぶりは丁寧で的確、なにより誰に対しても優しい。私はずっと、彼に憧れのような気持ちを抱いていた。「……よくないけど……でも、お祖母ちゃんの言うことって、どうやっても断れないみたいで……」呟くように言った私に、円花は箸を置き、少しのあいだ黙って何かを考えていた。そして、ぽつりと提案するように言った。「……なんかさ、私が言っても仕方ないんだけど、やっぱり納得いかないよ。優里香が一番そう思ってると思うけど。だったらさ、向こうから断ってもらえばいいんじゃない? わざとひどい態度を取って、“こんな子と結婚なんてできない!”って思わせるの。どう? 嫌われ作戦!」「それ……! それだよ!」思わず大声を上げ、勢いよく立ち上がってしまった。──しまった。周囲のテーブルから一斉に注がれる冷たい視線に気づいて、私は慌てて咳払いをひとつ。小さく「すみません」と呟きながら、そろそろと腰を下ろした。ちょっとはしたなかったけど……でも、光が見えた気がした。ああ、もう……。恥ずかしいったらない。さっきの勢いのまま立ち上がってしまった自分を思い出しながら、私は円花の顔を見つめ
あれ……?もしかして、ずっと前から知っていたの?私が、こうなる運命にあるって──。だから、今まで何も言わずに、好きにさせてくれていたの?遠くから見守るように。そう考えた瞬間、気がつけば私は無意識のうちに一階へと足を運んでいた。階段を降りる足音も聞こえないほど、頭の中はざわめいていた。「ねえ! 一体いつから知ってたの?!」勢いよくリビングの扉を開け放つと、目に飛び込んできたのは、涙を浮かべた母の姿だった。……え?普段、あんなにも明るくて元気な母が、そんな顔をしているなんて──想像もしなかった。立ち尽くす私に、母が静かに名を呼んだ。「優里香……」その一言だけで、体から力が抜けていくのを感じた。怒りとも戸惑いともつかない感情が、すっと冷めていく。私はかすれた声で、もう一度だけ尋ねた。「……いつからなの?」すると、沈黙を破って父が口を開いた。その声には、どこか後悔と覚悟が滲んでいた。「優里香が二十歳になった年だよ。母さんに呼ばれてね……そのときに、初めて話を聞かされたんだ」言いづらそうに視線を外しながら語る父の隣で、母が目元の涙をぬぐいながら、かすれた声で続けた。「ごめんね、優里香……。私たちがちゃんと、この話を断っていれば、こんなことにはならなかったのに……」本当に……そうだよ。そんな馬鹿げた話、もっと早くにきっぱりと拒否してくれていれば──。もし、母の頬を伝う涙を見ていなければ、私は今すぐにでも声を荒らげていたと思う。けれど、あの涙を見たら……もう何も言えなかった。「……お祖母ちゃん、なのね……」ようやく口からこぼれたのは、その一言だけだった。自分でも聞き取れたかどうか分からないほどの、かすかな声でこぼれた「お祖母ちゃん」。その一言を口にした瞬間、私の中で何かが静かに折れたような気がした。同時に、胸の奥で、ほんの少しの諦めが芽生えていくのを感じた。──ああ、そうか。そうだった。思い出した。うちはごく普通の家庭だ。特別な家柄でも、伝統ある旧家でもない。それでも、なぜか昔から、父方のお祖母ちゃんには誰も逆らえないという、暗黙の空気があった。親戚の集まりでも、お祖母ちゃんの言葉は“絶対”のように扱われていたし、父でさえ、何かあれば「母さんが言うなら……」と従っていた。そんな存在が関わっているのなら──話
「はあ?」あまりにも予想外の言葉を耳にすると、人ってこんな声を出すものなんだな……。自分でも驚くほど間抜けな反応しか返せなかったのは、それほど現実味のない話だったからだ。私は、目の前に座る父と母の顔をじっと見つめた。「だからな、優里香。これは冗談でもなければ、夢の話でもない。現実に起きていることだ」父の真剣な口調。それに反して、私は完全に呆れた表情をしていたと思う。自覚はある。それでも言わずにはいられなかった。「ちょっと待って? この令和のIT社会で、何を言い出してるの? そんな突拍子もない話、信じろってほうが無理があるでしょ?」常識的に考えて、そんな非現実的な話を素直に「はい、わかりましたお父様」なんて答える娘、世界中探したってそうそういないはずだ。私は、ふざけてばかりの性格で、結婚30年になる今でも「バカップル」という言葉がしっくりくる両親を、じろりと睨みつけた。まるで陳腐な昼ドラか、チープなラノベの設定みたいじゃない。ありえない。そう心の中で毒づきながら、視線を窓の外へと向ける。広がる夏の空は、どこまでも青くて、白い雲がゆっくりと流れていた。──あーあ、夏季休暇にはどこか出かけたいな。海? いや、山もいいかも。涼しい高原も捨てがたいし……。「優里香! ちゃんと話を聞きなさい!」母の大きな声に、思わず肩がびくりと跳ねた。あんな風に叱られたのは、もしかしたら子供の頃以来かもしれない。小さくため息をつきながら、私は渋々ふたりのほうに顔を向けた。「……ねえ、お母さん。本気であの話を信じろって言うの? 何だっけ、何百年前の“言い伝え”? それとも“ご先祖様の約束”?」ひとまず質問を投げかけて、彼らの反応を待った。けれど、父も母も一切表情を変えることなく、ただ黙って私を見つめている。……どうやら、本気らしい。観念して、私は話を続けた。「つまり、昔、結ばれることのなかったご先祖同士のせいで、私がある男性と結婚しないと両家が不幸になるってこと……で合ってる?」「そうだ。それがわかっているなら、話は早い」父は淡々と頷いた。「いやいや、ちょっと待ってよ。言ってる内容自体は理解できるけど、それを“現実として受け入れろ”っていうのは無理があるってば」「信じるんだ、優里香」……え? 本気で?即座に返された父の言葉と、その真顔







