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形見を壊した手で、私の足元にすがるな
形見を壊した手で、私の足元にすがるな
Author: ファイブ

第1話

Author: ファイブ
よろめきながら病院を飛び出すと、駐車場の片隅に見覚えのある黒のマイバッハが停まっていた。

わずかに開いた窓の隙間から、怜奈が宗司の胸にすがって泣いているのが見えた。

宗司は彼女の背中を優しく撫でている。見ているのが辛くなるほど、その手つきは穏やかだった。

「……怖がるな。手術なら1ヶ月延期すればいい。その間に全国を探してでも適合する人間を見つける。何も心配いらない」

宗司の声が、はっきりと聞こえてきた。

「でも、亜麻美さんのお父さんは何度も危篤に……」

怜奈が涙に濡れた顔を上げる。

「大丈夫だ。余計なことは考えるな」

宗司は怜奈の鼻先を指先で軽くつまんだ。その親密な仕草は、かつて亜麻美だけに向けられていたものだった。

怜奈は涙を拭って微笑むと、宗司の胸にすっぽりと顔を埋めた。

「よかった……宗司さんがいてくれて。じゃなきゃ、どうしていいか……提供するとお約束して、支援までいただいていたのに、どうしても怖くなってしまって……」

「安心しろ。嫌がることをさせるつもりはない。俺はいつだって怜奈の味方だ」

宗司の声は、どこまでも優しかった。

エンジン音が響き、呆然と立ち尽くしていた亜麻美はハッと我に返った。

慌てて車へ駆け寄り、必死に窓ガラスを叩く。

だが、視界に入ったのは冷淡な宗司の横顔だけだった。

車は白い煙を残して急発進し、亜麻美はただ一人、駐車場に取り残されて震えていた。

スマホが再び震える。画面に表示されたのは病院の番号だった。

震える手で通話ボタンを押すと、医師の沈痛な声が響いた。

「ドナーの方はまだ到着されませんか……お父様の容態が、もう持ちません。たった今、多臓器不全により息を引き取られました。手を尽くしましたが……ご愁傷様です」

頭の中が真っ白になった。

亜麻美は冷たいアスファルトの上に膝から崩れ落ち、そのまま視界が暗転した。

*

長くて暗い夢を見た。

5年前、18歳だったあの頃の夢を。

当時の宗司は、東都で最も名高い梶浦グループの御曹司。

一方の亜麻美は、家計を助けるためにホテルで給仕のアルバイトをする貧しい学生に過ぎなかった。

あの日、個室にお酒を運ぶ途中、廊下で一人の男性とぶつかってしまった。

顔を上げた瞬間、吸い込まれそうな深い漆黒の瞳と目が合った。

「申し訳ありません!」

慌てて頭を下げたものの、相手の顔を見て息をのんだ。

梶浦宗司。

傲慢で、18歳の若い女としか付き合わないと噂される梶浦家の後継者。

宗司は亜麻美をじっと見つめると、不意に口元を緩めた。

「名前は?」

それからの日々は、まるで夢のようだった。

東都屈指の財力を誇る男が一目惚れし、情熱的に口説き落としてくれた。

バイト先のホテルの前にマイバッハを停めて迎えに来ては、「隣町の老舗の和菓子が食べたい」と呟けば、真夜中でも車を走らせて買いに行ってくれた。

煙草の匂いが嫌いだと伝えると、あっさり禁煙までしてくれた。

何より信じられなかったのは、家柄の違いによる家族の猛反対を押し切って、自分を妻に選んでくれたことだ。

披露宴の席で、宗司は大勢の参列者を前に片膝をつき、息をのむほど眩い指輪を薬指にはめてくれた。

「亜麻美。生涯、お前だけを愛し抜く」

結婚してからの溺愛ぶりも、誰もが羨むほどだった。

包丁すら握ったことのなかった男が、毎朝手作りのお弁当を用意し、どんな付き合いの席でも「会いたい」とメッセージを送ればすぐに切り上げて帰ってきた。

スマホの待受は亜麻美の写真、パスコードは彼女の誕生日。

すべてのSNSのプロフィール欄には「亜麻美の夫」と記されていた。

だからこそ、亜麻美の父が白血病を患ったときも、宗司があらゆる人脈を駆使してドナー探しに奔走し、貧しい学生の怜奈を見つけ出してくれたことを心から信じていた。

宗司は怜奈の学費や生活費を肩代わりし、自ら検査に付き添い、専属の栄養士をつけて体調を徹底管理させた。

「どうしてあの子にそこまで親切にするの?」

不安になって尋ねた亜麻美に、宗司は額へ優しく口づけを落として笑った。

「なんだ、嫉妬か?万全の状態で骨髄を提供してもらうためだよ」

その言葉を、亜麻美は疑いもしなかった。

けれど、宗司が頻繁に怜奈と買い物を楽しみ、高級ブランドのバッグやジュエリーを買い与えるようになったこと。

怜奈からの電話一本で、重要な役員会議すら放り出すようになったこと。

怜奈の好みは完璧に把握しているくせに、二人きりの結婚記念日をすっかり忘れるようになったこと――

異変に気づいた亜麻美は、目を真っ赤にして問い詰めた。

「あの子、今年で18歳だものね。若くて瑞々しいから惹かれたんでしょ?遊び人が改心したなんて、全部嘘だったのね」

あのとき、宗司は眉をひそめてこう言い放った。

「バカなことを言うな。気を遣っているだけだ。骨髄提供は一大事なんだから、機嫌良く過ごしてもらわないと困るだろ」

だが今や、積み重なったすべての現実が、宗司の嘘を証明していた。

*

目を覚ました後、亜麻美は感情を失った人形のように、機械的に死亡届などの書類へ署名していった。

安置室の父は、まるで眠っているかのように安らかだった。

幼い頃、自分の手を引いて登校し、文字を教えてくれた大きな手を握りしめる。

だがその手は、すでに冷たく硬くなっていた。

「お父さん、ごめんなさい……」

喉が締め付けられるのに、涙は一滴もこぼれなかった。

胸にぽっかりと巨大な風穴が空いたようで、ただ鈍い痺れのような痛みが広がっていた。

あれから3日、宗司は一度も姿を見せず、連絡ひとつ寄越さなかった。

亜麻美がSNSを開くと、タイムラインの一番上に怜奈が投稿した写真が並んでいた。

海辺で撮影された、宗司とのツーショット。

宗司は怜奈の肩を抱き寄せ、見惚れてしまうほど優しい笑顔を浮かべている。

添えられた文章は短かった。

【宗司さんがずっとそばにいてくれたおかげで、気持ちがすごく楽になりました】

亜麻美は無感情に「いいね」を押した。

1分も経たないうちにスマホが震え、宗司からメッセージが届く。

【怜奈の精神状態が不安定で、今は骨髄を提供できる状態じゃない。国内外の最高峰の専門医を手配したから、1ヶ月以内に改めて手術を行う。それまで俺が付き添って気分転換させ、体調を整えさせるつもりだ】

画面を見つめながら、亜麻美はふっと乾いた笑いを漏らした。

宗司はまだ、父が亡くなったことすら知らないのだ。

ましてや、あの駐車場でのやり取りをすべて聞かれ、彼の心がとっくに別の女へ傾いていたのを亜麻美に見抜かれていたことなど、夢にも思っていなかった。

トーク画面を閉じ、別の番号へと発信する。

「お義母様。ずっと私を疎ましく思われていたのは存じています。離婚に応じますので、手切れ金をいただければ、宗司の前から綺麗に身を引きます」

電話の向こうで、宗司の母・梶浦夕理子(かじうら ゆりこ)が息をのんだ。

「……あれほど『真実の愛だから絶対に別れない』と言い張っていたのに?」

亜麻美は沈黙した。

かつての自分は愚かにも、宗司が永遠に愛し続けてくれると信じていた。

けれど、愛など幻に過ぎない。

人の心は移ろい、誓いはあっけなく色褪せ、遊び人の本性が変わることなどあり得ない。

彼はただ「18歳の若い女」に執着しているだけで、自分はもう二度と18歳には戻れない。

亜麻美は淡々と告げた。

「署名・捺印した離婚届をお送りします。宗司の分は、お義母様の方でサインさせてください」

夕理子は事情を察したのか、声音を明るく弾ませた。

「いいでしょう。署名したものを送ってくれれば、宗司にはこちらからサインさせるわ。手続きが済み次第、この街を出ていきなさい。手切れ金は予定通り口座に振り込むから。

ただし、約束は守りなさい。一度身を引いたら、二度と宗司の前に現れないこと」

「承知いたしました」

通話を切り、あらかじめ用意してあった離婚届を取り出す。

必要事項に迷いなくペンを走らせていく。

カリカリと紙を滑るペン先のかすかな音だけが、静まり返った部屋に響いた。

ペンを握る指先に迷いはなく、微かな震えすら起きなかった。

――私の人生から、完全に消えてちょうだい。

心の中で、静かに呟いた。

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