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第2話

Author: ファイブ
翌日、亜麻美は出社した。

編集長室のドアを開け、まっすぐに退職届を差し出す。

編集長は意表を突かれたように目を丸くした。

「どうしたんだ、急に。あんなにやりがいを感じていただろう?父親の看病休暇だって、そろそろ手術が終わって快方に向かう頃じゃないのか?」

亜麻美は静かに首を横に振った。

「父は亡くなりました。私も……離婚して、この街を出るつもりです」

編集長はしばらく言葉を失い、深くため息をついた。

「……そうか。君の決断なら引き止めないよ」

同僚たちはみんな亜麻美を慕っていたため、退職を知るや次々に駆け寄り、別れを惜しんだ。

「落ち着いたら絶対に連絡してね」

「旦那さんにあれだけ溺愛されてるんだもの、専業主婦になるのも羨ましいわ」

亜麻美は何も否定せず、口元にかすかな笑みを浮かべたまま、静かに荷物をまとめた。

同僚たちに見送られてビルのエントランスを出た、そのときだった。

「あ、愛妻家の旦那様がお迎えに来てる!」

誰かの弾んだ声に、亜麻美の体が強張った。

ガラス扉の向こう、見覚えのある黒のマイバッハが会社前に停まっていた。

深く息を吸い込み、見送ってくれた人たちに小さく一礼すると、荷物の段ボール箱を抱えて歩き出した。

後部座席のドアを開ける。

車内では、宗司が怜奈の顎を指先で持ち上げ、はみ出た口紅を親指でそっと拭っているところだった。

怜奈は上目遣いに頬を染め、甘える子猫のように身を委ねている。

ドアが開いた瞬間、二人の動きがぴたりと止まった。

怜奈は慌てて姿勢を正し、消え入りそうな声を絞り出した。

「誤解しないでください……口紅が少し滲んでいたので、直していただいただけなんです……」

「誤解なんてしてないわ」

亜麻美は怜奈の言葉を冷たく遮った。その声には一切の感情がこもっていない。

言い訳を聞く気も、二人の拙い茶番劇に付き合う気も微塵もなかった。

宗司はそこでようやく亜麻美と目を合わせ、腕に抱えられた段ボール箱に視線を落とすと、わずかに眉をひそめた。

「会社、辞めたのか?」

「ええ。疲れたから。別の道を進むことにしたの」

適当にあしらうと、宗司は値踏みするように数秒間じっと見つめてきた。

何か言いかけようと唇を開きかけたが、結局は冷淡に告げた。

「乗れ」

亜麻美は心の中で自嘲しながら助手席に乗り込んだ。

「どうして急なお迎えを?」

「新しくオープンした店があってな。体にいい料理を出すらしい」

宗司は前を向いたまま、事もなげに言った。

「怜奈を連れていくから、お前も一緒にどうだと思ってな。味が良ければ、あとで義父さんにも差し入れできるだろ」

亜麻美の指先がかすかにこわばり、胸の奥を鈍い刃物でえぐられるような痛みが走った。

父はもう息を引き取った。

それなのに、この男は最期に顔を見せることすら放棄した。

だが何も言わず、ただ静かに流れる車窓の景色を見つめていた。

*

料亭の個室に通されると、宗司はテーブルいっぱいに身体に優しい薬膳料理を並べさせた。

「このスープ、術後の体力回復にいいらしい」

宗司は自ら器にスープをよそい、怜奈の前に置いた。

「まず飲んでみろ」

怜奈は恐縮した様子で受け取り、一口すすると瞳を輝かせた。

「すごく美味しいです!」

宗司は満足そうに口元を緩めると、今度は真鯛の酒蒸しに箸を伸ばし、丁寧に骨を取り除いて怜奈の小皿へと運んだ。

「栄養があるから、しっかり食べろ」

怜奈は頬を赤らめ、上目遣いに呟いた。

「宗司さん、本当にお優しくて……」

宗司は笑みを浮かべ、さらに蒸し菓子まで取り分けた。

「これも体にいい」

向かいの席で、亜麻美はその様子をただ無言で見つめていた。

まるで遠い世界の出来事を眺める赤の他人のように。

怜奈の口元についたスープを優しく拭う宗司の仕草、もっと食べられるかと気遣う低く甘い声音、そしてその瞳に宿る柔らかな熱――かつて、すべて自分だけに向けられていたものだった。

「宗司さんがこんなに優しくしてくださって……亜麻美さん、気を悪くされていませんか?」

不意に怜奈が、居心地悪そうに亜麻美へ視線を向けた。

「誤解なさらないでくださいね。すべてはお父様のためですから……」

「ええ、分かっているわ」

亜麻美は目を伏せ、箸先で料理を軽く突くだけで、一口も喉を通さなかった。

*

居心地の悪い食事がようやく終わったとき、宗司のスマホに着信が入った。

画面を確認した宗司はわずかに眉を寄せ、短く言った。

「先に下で待っていてくれ……すぐ行く」

二人でエレベーターに乗り込む。

扉が閉まった瞬間、怜奈の口元からふっと嘲笑がこぼれた。

先ほどまでの弱々しい態度は消え失せ、声音はねっとりと甘く湿り気を帯びていた。

「本当にお心が広いのね。宗司さんにあれだけ甘やかされて、少しも嫉妬なさらないなんて」

亜麻美は目線すら向けず、沈黙を保った。

すると怜奈はさらに距離を詰め、耳元へ顔を寄せて囁いた。

「本当は、もう気づいているんでしょう?宗司さんが愛しているのは、私なんだってこと」

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