Masuk午前4時。空港に降り立った直後、スマホに夫・富沢千広(とみさわ ちひろ)のSNS投稿が通知された。 画像は、スーツケースを引く湯上日菜(ゆがみ ひな)の美しい後ろ姿。 添えられた文章はこうだ。 【37回目の空港迎え。無事に家まで送り届けた】 投稿時刻は午前3時30分。 その時、私・富沢唯(とみさわ ゆい)は上空3万フィートにいた。機体が突然の激しい乱気流に巻き込まれ、頭の上から酸素マスクが勢いよく落ちてきた。 シートベルトを必死に握りしめ、震える手では満足な遺書すら書けず、ただ心の中で何度も何度も願いを繰り返していた。 もし生きて降り立つことができたら、もし千広が私を迎えに来てくれていたら、海外赴任を断って、彼のそばに残ろう、と。 だが、無事に着陸し、スマホを開いても、着信履歴もメッセージも一切なかった。 彼は、日菜を迎えに行っていたのだ。 結婚して4年。彼が空港へ足を運んだ37回のうち、私を迎えに来てくれたのは一度もなかった。 そこまで愛する人が他にいるのなら、私は身を引こう。 海外赴任の申請はすでに承認されており、離婚届の準備も整っている。 これが、私が彼のもとへ降り立つ最後のフライトだ。
Lihat lebih banyak証明書の縁には、わずかにシワが寄っていた。まるで誰かに力いっぱい握りしめられたかのようだ。日付は3日前。ファイルの下には、いくつかの品物が押し込められていた。結婚写真が入ったフォトフレーム。伏せられていたはずの写真が表向きに返され、きれいに拭き上げられた上で緩衝材に包まれていた。隣に添えられた付箋が一枚。【この写真は手元に置いておいてくれ。唯がどこにいようと、俺たちのいちばん輝いてた姿を忘れないでほしいんだ】フォトフレームの下には、小物入れのケース。109枚の領収書が詰まった、あのケースだ。彼は捨てずに送り返してきたのだ。ケースの中にも付箋が一枚入っていた。【領収書、一枚残らず目を通した。印字された日付は、唯が一人きりで歩んできた道のりそのものだ。俺には捨てる資格なんてないから、返す】ケースの一番底に、見慣れない新しい領収書が敷かれていた。今住んでいる街のタクシーの領収書だ。日付は5日前で、金額から推測するに、おそらく空港から市内まで乗ったのだろう。千広が私を探しにやってきたときのものだ。彼はたった一度乗っただけで耐えられないと弱音を吐いた。私はそれを、109回も繰り返してきたというのに。そのとき、突然スマホが鳴った。母からだ。「唯、千広くんが家に来たのよ」「何をしに?」「お父さんにって差し入れを持ってきてね。この前の入院のお見舞いに行けなかったお詫びだって。玄関の前でずっと突っ立ってたんだけど、お父さんが突っぱねて中に入れなかったの」「もう帰ったの?」「ええ。帰る間際、私に一言残していったわ」「なんて?」「『お義母さん、すみませんでした。唯を幸せにしてあげられなくて』って」母の声がかすかに湿り気を帯びている。「唯……本当にもう、千広くんとはやり直さないの?」「お母さん、私が捨てたんじゃないわ。彼が先に私を捨てたのよ。彼は4年間ずっと他の女を選び続けて、私は4年間待ち続けた。もう、うんざりよ」「そう。じゃあ、体を大切にしなさいね。耳の具合はどう?」「だいぶ良くなったわ」嘘だ。左耳の電子音は相変わらず響いており、医師からは長引くかもしれないと言われている。通話を終えると、再び画面が点灯した。千広からのメッセージだ。【離婚届もう提出した。他
3行目:【日菜の迎え】7行目:【日菜の引っ越しの付き添い】12行目:【日菜の自宅の水回り修理】23行目:【日菜の通院の付き添い】38行目:【日菜の家具の組み立て】109行目:【日菜の迎え】109回のうち、37回は日菜の迎え。残りの72回も、日菜の雑用を手伝っていたか、さもなければ眠りこけていた。【唯の迎え】と書かれたことは、ただの一度もなかった。表の最後のページに、彼の手記が添えられていた。【こうして書き並べたものを、自分で何度も何度も見返した。自分が犯したことだとは信じたくなかった。109回……一度として迎えに行ってやれず、唯を毎回一人きりにさせて、何時に着くのかさえ知ろうとしなかった。唯には手がかからないと思い込んでたんだ。愚痴ひとつこぼさず、怒りも見せなかったから……本当に気にしてないのだとばかり。けれど唯は傷ついてた。ただ口に出さなかっただけだったんだな】私はその束をデスクの上に置いた。彼は2日間を費やし、私の4年間のフライトを一回ずつ洗い出した。ついに目に入ったのだ。だが、知ることと、改めることはまったく別だ。午後、彼にメッセージを送った。【読んだ】【一度だけでいいから、会ってくれないか?】【会っても何も変わらない】【分かってる。でも、顔を見て話したいんだ】【明日の午後、会社のビル1階にある喫茶店で】……翌日の午後3時、喫茶店に入った。千広はすでに隅の席についており、テーブルには二つのカップが置かれていた。ブラックコーヒーとオーツミルクラテ。オーツミルクラテは私の好物だ。彼はようやく覚えてくれたらしい。「座ってくれ」向かいの椅子を引いてくれた。私が腰を下ろしたものの、ラテのカップには手を触れなかった。「お話って何かしら?」「すまなかった」「それはもう聞いたわ」「俺の言葉が足りなかったんだ」彼はポケットから何かを取り出し、テーブルの上に置いた。シルバーのブレスレット、あの飛行機のチャームがついた品だ。「日菜に返してもらった」「最初から人にあげるようなものじゃなかったはずよ」「ああ」「このブレスレットにどんな意味があったか、知ってる?」「『飛び立つたびに、あなたが私の着陸を待っていてくれる』、そうだ
4年後の今、千広は三軒の店を駆けずり回った。けれど、109回のネックピローなしのフライトは、もう二度と取り戻せない。壊れた左耳が、これで治るはずもない。ネックピローを引き出しに仕舞い、仕事を再開した。午後5時、同僚の一人が走ってきた。「岡崎さん、ビルの入り口に男の人がずっと立っています。警備員さんが用件を聞いたら、人を待ってるって」私が窓辺へ寄って見下ろした。入り口の前に千広があごを引いて立ち、左手をポケットに入れたままずっとスマホを見つめている。「お知り合いですか?」「はい」「追い払いましょうか?」「いいえ、様子を見に行きます」エレベーターで降り、回転ドアの外へ出た。千広はハッと顔を上げた。「唯!」「どうしてここが分かったの?」「会社の人に聞き回ったんだ」私を見つめる彼の唇がかすかに動いた。溢れんばかりの言葉を用意していたのだろうが、一言も形にならなかった。「……痩せたな」結局、彼はそう呟いた。「千広もね」「俺がどうやってここまで来たか、分かるか?」彼がいきなり話を切り出した。「午前1時の深夜便だ。着いても誰も迎えに来てくれなかったから、自分でタクシーを呼んだんだ。運転手に行き先を聞かれてホテルって答えたら、『こんな遅くに一人で出張ですか』って言われて、『はい』って答えた。40分ほど走る間、道には一台の車も走っていなかった。後部座席で外を眺めていると、急に唯のことが頭に浮かんだ。唯は109回も、こんな風にして家に帰ってたんだなって」彼の声が震え始めた。「俺はたった一回乗っただけで胸が押し潰されそうだったのに……唯は109回も耐えてたのか」「千広……」「最後まで言わせてくれ」彼は私の言葉を遮った。「ホテルに着いてもちゃんと眠れなかった。唯が土砂降りの日にタクシー乗り場で何時間も並んで、結局熱まで出したって話を思い出してさ。唯があんなに辛そうにしてたのに、一人で寒さに震えてたのに……その頃、俺は何をしてたと思う?日菜のためにご飯を作ったり、掃除をしたり……彼女が自分でできることばかり手伝ってたんだ」彼の目頭が赤く染まった。「上空で酸素マスクが落ちてきたとき、唯は何を考えてたんだ?」日差しが千広の顔を照らしている。その瞳には、これま
このメッセージで日菜が話したいのは、私と千広の夫婦関係のことではない。千広が空港まで彼女を迎えに来なくなったことなのだ。【最近、忙しいのかもしれません】日菜から長文が送られてきた。【唯さん、差し出がましいことを言いますけど。千広さんは唯さんにすごく良くしてくれていますよ。あの人はただ優しすぎて、誰に対しても親切なだけなんです。私に親切にしてくれるからといって、妬くのはやめてください。私たちは本当にただの友達ですから、そんなことで離婚騒ぎを起こすなんて、本当にもったいないですよ】彼女は、私が嫉妬に狂って離婚を選んだと思っているのだ。私が大げさに騒いでいると決めつけている。【湯上さん、千広は私にどんな風に良くしてくれていたと思いますか?】5分ほど経ってから返信が来た。【唯さんの話をするときは、いつもすごくしっかりしていて仕事ができる人だって誇らしそうに言ってましたよ。すごく褒めていました】褒めていた。愛おしむわけでもなく、思い焦がれるわけでもなく、心配するわけでもなく。まるで水やりすら要らないサボテンを大切にするように。【千広が湯上さんを空港まで迎えに行った回数を知っていますか?】【3……30回くらいでしょうか】【37回ですよ。じゃあ、彼が私を迎えに来てくれた回数は知っていますか?ゼロです】メッセージはすぐに既読になったが、返事はなかなか来ない。向こうで日菜が呆然としている様子が目に浮かぶようだ。やがて長い沈黙の後、新しいメッセージが届いた。【唯さん、そんなの……本当に知りませんでした。唯さんのことも当然迎えに行っているものだとばかり思っていました】【彼が未明に湯上さんを迎えに行っていたそのとき、彼の妻もまた同じ時刻に別の空港へ降り立っていたなんて、考えたこともなかったのですか?同じように一人きりで、同じように真夜中に、同じようにタクシーを拾って帰っていました。土砂降りの日にタクシー乗り場に長い行列ができ、寒い中で待っていたら熱まで出てしまいました。飛行機が激しい乱気流に巻き込まれて、酸素マスクが落ちたことだってありました。彼はそのどれ一つとして知りませんでした。なぜなら、湯上さんを迎えに行っていたからです】日菜は長い沈黙に陥った。やがて届いた音声メッセージは