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彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる
彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる
Author: サンドクッキー

第1話

Author: サンドクッキー
新港市では、こんな話が昔から語り継がれてきた。

「言うことを聞かない嫁がいたら、酒井家の嫁さんに会わせるといい。旦那さんが毎晩違う女を連れて帰ってきても、子供のためならと我慢できるのは、後にも先にも彼女くらいだろうから」

だから、セレブ妻の集まりでは決まって、誰かが冗談めかしてこう言うのだ。

「うちの嫁も、酒井家の嫁さんの半分でも心が広ければね」

でも、彼女たちは知らなかった。

彼女たちが「もっとも従順で我慢強い」と思っていた人が、ごくありふれたある日、夫に離婚を切り出したことを。

子供さえも、いらないと言って。

私がそう切り出した時、誰も信じてくれなかった。

私の夫、酒井朔也(さかい さくや)でさえも。

……

「何のつもりだ?」

私が離婚を切り出した時、朔也は顔も上げなかった。

ただ、指先にたまったタバコの灰を落とすのを、忘れただけだった。

「だから、離婚したいって言ってるの」

朔也は眉をひそめて腕時計に目を落とすと、的外れな答えを返した。

「あと17分で、勲が学校から帰ってくる」

分かっていた。朔也は息子の酒井勲(さかい いさお)をダシにして、私にプレッシャーをかけているのだ。

でも、朔也は知らない。昨日の酒井家の食事会で、いつものように朔也が嫌いなネギを私が取り除いているのを、8歳の勲が見ていた時のことを。

勲は不意に顔を上げて、私にこう言ったのだ。

「ママってさ、本当にみっともないよね」

私はその場で凍りつき、お箸を床に落としてしまった。

でも勲は、その音にも気づかないふりで、自分勝手に言葉を続けた。

「だからみんな、ママのこと馬鹿にしてるんだ。おばあちゃんでさえ、ママのこと嫌ってるもん。

それに、パパが連れてくる人のほうが、ママよりずっと面白いし」

その言葉に、その場にいた酒井家の親戚たちはみんな、口を覆ってクスクス笑い始めた。

私だけが、たまらず泣き出してしまった。

勲は私が傷ついていることに気づいていた。それでも、眉をひそめてこう言った。

「ママ、いちいち僕がママをいじめてるみたいな雰囲気にしないでよ。

すぐに子供みたいにめそめそ泣いてさ。恥ずかしくないの?」

その瞬間、私は8年間育ててきた息子の姿に、夫の面影が重なって見えた。

ちょうどその時、朔也がその日のパーティーの相手の女性を連れてやってきた。

相手は人気女優の、金田凛音(かねだ りんね)だった。

それを見て、ようやく姑の酒井紬(さかい つむぎ)が場をとりなすように口を開いた。

「まあまあ、勲はまだ子供なんだから。母親のあなたが、自分の息子と本気で張り合ってどうするの?」

周りにいた人たちも、次々に口をはさんできた。

「そうよ、子供の言うことなんだから、本気にすることないわよ」

「それに、新港市じゃ加奈子(かなこ)さんの評判はみんな知ってるわ。勲くんも周りの真似をしてるだけ、悪くないわ」

私はただ黙って見ていた。さっきまで私にうんざりした顔を向けていた勲が、ぱあっと顔を輝かせると、朔也と凛音のもとへ真っ直ぐに駆け寄っていくのを。

勲は凛音の右腕に抱きついて、甘えるように体を揺すった。

凛音は楽しそうに笑って、背中に隠していたプレゼントを取り出した。それは、最新のゲームだった。

勲がたちまち満面の笑みを浮かべる。その様子は、凛音と初めて会ったかのようには見えなかった。

二人にはもう、私だけが知らない秘密があったのだ。

朔也は私の視線に気づいたようだった。けれど、ちらりと一瞥をくれただけで、すぐに私などいないかのように目をそらした。

きっと朔也は、私の涙を、またみんなに笑いものにされて悔しくて泣いている、いつもの涙だと思ったのだろう。

彼にとっては、見慣れた光景だったから。

でも、今回はちがう。私を笑いものにしたのは、他の誰でもない。

私がお腹を痛めて産み、この8年間、手塩にかけて育ててきた息子だったのだ。
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