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彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる

彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる

Von:  サンドクッキーAbgeschlossen
Sprache: Japanese
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10Kapitel
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新港市では、こんな話が昔から語り継がれてきた。 「言うことを聞かない嫁がいたら、酒井家の嫁さんに会わせるといい。旦那さんが毎晩違う女を連れて帰ってきても、子供のためならと我慢できるのは、後にも先にも彼女くらいだろうから」 だから、セレブ妻の集まりでは決まって、誰かが冗談めかしてこう言うのだ。 「うちの嫁も、酒井家の嫁さんの半分でも心が広ければね」 でも、彼女たちは知らなかった。 彼女たちが「もっとも従順で我慢強い」と思っていた人が、ごくありふれたある日、夫に離婚を切り出したことを。 子供さえも、いらないと言って。 私が離婚を切り出した時、誰もが信じてくれなかった。 私の夫、酒井朔也(さかい さくや)でさえも。

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Rezensionen

松坂 美枝
松坂 美枝
えー反省しないクズ父子のままかー 人間としての成長もない 主人公逃げて良かったわ〜
2026-03-23 10:52:23
4
2
10 Kapitel
第1話
新港市では、こんな話が昔から語り継がれてきた。「言うことを聞かない嫁がいたら、酒井家の嫁さんに会わせるといい。旦那さんが毎晩違う女を連れて帰ってきても、子供のためならと我慢できるのは、後にも先にも彼女くらいだろうから」だから、セレブ妻の集まりでは決まって、誰かが冗談めかしてこう言うのだ。「うちの嫁も、酒井家の嫁さんの半分でも心が広ければね」でも、彼女たちは知らなかった。彼女たちが「もっとも従順で我慢強い」と思っていた人が、ごくありふれたある日、夫に離婚を切り出したことを。子供さえも、いらないと言って。私がそう切り出した時、誰も信じてくれなかった。私の夫、酒井朔也(さかい さくや)でさえも。……「何のつもりだ?」私が離婚を切り出した時、朔也は顔も上げなかった。ただ、指先にたまったタバコの灰を落とすのを、忘れただけだった。「だから、離婚したいって言ってるの」朔也は眉をひそめて腕時計に目を落とすと、的外れな答えを返した。「あと17分で、勲が学校から帰ってくる」分かっていた。朔也は息子の酒井勲(さかい いさお)をダシにして、私にプレッシャーをかけているのだ。でも、朔也は知らない。昨日の酒井家の食事会で、いつものように朔也が嫌いなネギを私が取り除いているのを、8歳の勲が見ていた時のことを。勲は不意に顔を上げて、私にこう言ったのだ。「ママってさ、本当にみっともないよね」私はその場で凍りつき、お箸を床に落としてしまった。でも勲は、その音にも気づかないふりで、自分勝手に言葉を続けた。「だからみんな、ママのこと馬鹿にしてるんだ。おばあちゃんでさえ、ママのこと嫌ってるもん。それに、パパが連れてくる人のほうが、ママよりずっと面白いし」その言葉に、その場にいた酒井家の親戚たちはみんな、口を覆ってクスクス笑い始めた。私だけが、たまらず泣き出してしまった。勲は私が傷ついていることに気づいていた。それでも、眉をひそめてこう言った。「ママ、いちいち僕がママをいじめてるみたいな雰囲気にしないでよ。すぐに子供みたいにめそめそ泣いてさ。恥ずかしくないの?」その瞬間、私は8年間育ててきた息子の姿に、夫の面影が重なって見えた。ちょうどその時、朔也がその日のパーティーの相手の女性を連れてやっ
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第2話
「本当に離婚する気か?」私が黙り込みすぎたせいだろうか。いつの間にか、朔也が顔を上げて私を見ていた。私は彼の顔を見つめ、静かに口を開いた。「はい」私と朔也は、家柄、社会的地位、それに見た目、お世辞にも釣り合っているとは言えなかった。それでも朔也が私を妻に選んだのは、私が従順で、物分かりが良かったからに他ならない。この数年間、朔也に気に入られようと必死だった。だから、私はずっと、二つのルールを守ってきた。朔也を怒らせるようなことは言わない。朔也を怒らせるようなことはしない。「お前……」朔也が言い終わる前に、社長室のドアが不意に開けられた。予想外のことなことに、そこに立っていたのは凛音だった。朔也には、家に連れ込んだ女を会社に連れてこないという、妙なこだわりがあったからだ。でも、凛音は例外だった。「酒井社長、お邪魔だったかな?」凛音の顔を見ると、朔也の目つきが少しだけ和らいだ。「大したことじゃない。少し待っていてくれ。お前と勲との約束は忘れてない」凛音はにっこり笑って言った。「覚えててくれたならよかったわ」笑えてくる。私が離婚を切り出しているというのに、朔也の目には取るに足らない「大したことじゃない」用事らしい。普段は決して頭を下げない朔也が、凛音に急かすような視線を送られると、仕方なく私に折れた。「昨日の食事会で、酒井家の連中に嫌な思いをさせられたのなら謝る。もう二度とあんなことはさせないと約束する」凛音も話に乗ってきた。「加奈子さん、もうすぐ遊園地の開園時間なの。勲くんが車で待ってるよ。お願いだから、酒井社長を解放してあげてくれないかな?」指先が微かに震えた。これまで数え切れないほど、勲を遊園地に連れて行こうと提案してきたのに。勲はいつも、鼻で笑ってあしらうだけだった。「ママ、いい大人がさ、そんな子供みたいなこと言わないでよ。あんな所に行ったって、時間の無駄だよ」今、私はこみ上げてくる惨めさをぐっとこらえ、何度も修正を重ねた離婚協議書を指さした。「サインして。そうすれば、すぐにここからいなくなるわ。もう二度とあなたたちの邪魔はしないから」そこで凛音は、机の上の離婚協議書に初めて気づき、ぱっと目を輝かせた。「酒井社長、私、席を外した方がいい?」
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第3話
「凛音さん、安心して。僕が絶対に、もう誰にも凛音さんをいじめさせたりしないから」勲は、心配でたまらないといった表情で凛音に駆け寄り、彼女を慰めた。8年前、私は命がけで勲を産んだ。生まれたばかりの勲は手のひらに乗るほど小さくて、保育器の中で弱々しく息をしていた。病院からは、何度も容態が急変したという連絡が入った。医者からは、たとえ助かったとしても5歳までは生きられないだろうと言われた。だから、ほとんどの人が勲の命を諦めていた。でも、私だけは諦めなかった。医者にはもちろん、神様にも祈りを捧げ、助けてくれる可能性があるすべての人に頭を下げて、やっとのことで勲の命をつなぎとめた。だから、ここ数年の間。勲にどんなに無視されて、冷たい態度をとられても、耐えることができたのだ。朔也にとって、勲の存在こそが私を意のままに操るための弱点だった。そして今、朔也はとうとう開き直って私を脅してきた。「加奈子、本気で離婚したいと言うなら、もう二度と勲には会えないと思え!」「離婚」という言葉を聞いた勲は、ぴたりと動きを止め、冷たい顔で私を責めた。「ママ、凛音さんのことで、離婚するつもりなの?言っとくけど、もし離婚しても僕は絶対にママについて行かないから。ママみたいな鈍臭い人は、パパには釣り合わないんだよ。みんながママのことを笑いものにしてるし、おばあちゃんたちだってママのこと嫌いだよ。少しは自分のこと、反省したらどうなの?」私を見る勲の瞳には、引き留めるような気持ちは一切なく、ただ嫌悪の色が浮かんでいるだけだった。そんな勲に、もう何の未練もなかった。そして、私はただ淡々と告げた。「ちょうどよかった。私の方こそ、あなたなんかいらないから」勲はその場で凍りついた。驚いて大きく目を見開き、その瞳はみるみるうちに赤く潤んでいった。もちろん、勲も昔からこんな子だったわけじゃない。5歳になるまでは、私が誰かに笑われた時、ぎゅっと私の手を握って「ママには僕がいるよ」と言ってくれる子だった。私が感情を抑えきれずにいると、その小さな手で不器用に涙を拭ってくれた。「ママ、泣かないで。僕がいるから」あんなにも、この酒井家での、私のたった一つの支えだったのに。それなのに今では、なにもかもが変わってしまった。もう、泣き寝入りの日
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第4話
私はきれいにたたんだ離婚協議書をバッグに入れて、時間を確認した。「遊園地に行くんじゃなかったの?今から行けば、まだ間に合うわよ」昔、何度も計画を立てたから、遊園地の営業時間はすぐに言えるくらい覚えている。それから私は勲の方を向いて、優しく言い聞かせた。「あなたはマンゴーアレルギーなんだから、もう隠れてマンゴーが入ってるものを食べちゃダメよ」そういえば一時期、勲は毎晩泣きながら朔也に会いたいと騒いでいた。でも、朔也からはいつも「忙しい」の一言が返ってくるだけだった。だから勲はこっそりマンゴー味のグミを食べて、全身にじんましんが出て息もできなくなってしまった。私は怖くなって、泣きながら朔也に帰ってきてほしいと頼み込んだ。その後、酒井家の人たちから代わる代わる責められた。私のせいで酒井グループは数億円の契約を逃したって。ちゃんと見ていなかったから、勲の背中にじんましんの跡が残ってしまったんだと。当時の私は自分をすごく責めたけど、勲はまるで弱みを見つけたかのように、朔也に会いたくなると家中マンゴーが入ったものを探し回るようになった。勲の中では、アレルギーさえ起これば、朔也が会いに帰ってきてくれる、そう信じていたのだ。そのせいで、私の心が何度もズタズタに引き裂かれていたなんて、知るよしもなくて。「勲、あなたは今年で8歳。もうすぐ小学三年生になるんだから、自分のことは自分でできるようにならないと」私が見ていると、勲は口をへの字に曲げ、そっぽを向いて凛音にしがみついた。「パパと離婚したら、もう僕のママじゃないんだから。心配なんかしなくていいよ!」勲が歩き始めたばかりの頃、私の後ろを一生懸命ついてきて「ママ」と呼んでいた光景が、ふと頭をよぎった。ツンと鼻の奥が痛くなり、声がかすれた。「わかったわ。もう何も言わない」私の気持ちの変化に気づいたのか、朔也はあざ笑うように言った。「こんな状況にして、満足か?」凛音は朔也の前に割り込むと、なだめるフリをして口をはさんだ。「酒井社長、そんなこと言わないであげて。加奈子さんだって、きっと今つらいはずよ。きっとカッとなって言っただけよ。お二人とも少し冷静になって、またちゃんと話し合ったらどうかしら。だって、加奈子さんが勲くんを手放せるわけないもの。
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第5話
酒井家に戻って、私は荷物をまとめ始めた。長年暮らしたのに、荷物はたったのスーツケース一つだけだったなんて。テーブルの上に、首にかけていたネックレスを置いた。ペンダントトップには、勲が3歳の時に、私が朔也に3日間も頼み込んで、やっと撮ってもらった家族写真が入っている。ちょうどその時、スマホにニュース速報が届いた。芸能ニュースで、朔也たちが遊園地にいるところを撮られた写真だった。写真に写る三人は、とても仲が良さそうで、まるで本当の家族のようだった。もう、未練なんてない。家を出る前に、私はこれまでの貯金を執事に渡して、こう言いつけた。「このお金を、勲の養育費にして」執事が何か言いかけたその時、紬がいきなりドアを押し開けて入ってきた。彼女は私の横にあるスーツケースを見て、少しきょとんとしていた。「勲から聞いたわよ。どうしても朔也と離婚するって騒いでるんだって?」私はしばらく黙ってから、首を横に振った。「騒いでいるんじゃなくて、もう離婚しました」紬は言葉に詰まり、怒りのあまりテーブルの上のものをすべて床に叩き落とした。「加奈子!誰があなたにそんな度胸を与えたの!この卑しい女め!なんであなたの方から朔也に離婚を突きつけるわけ!言っておくけど、離婚するなら一文無しで出ていくのよ!勲も置いていきなさい!もう二度と勲には会わせないから!」酒井家に嫁いでから、紬に最初に言われたのは「お母さんと呼ぶな」ということだった。勲が少しでも怪我をしたり、朔也の体調が少しでも悪かったりすると、全部私のせいにされた。これまでの罵声は、我慢できた。だって、私は昔から紬の八つ当たりの対象だったから。でも、これまですべて我慢してきたのは、勲のためだった。今はその勲さえ手放したのだから、もう我慢する必要なんてない。だから、紬が平手打ちをしようと振りかぶってきた時、私はその手首を強く掴んで、突き飛ばした。「朔也が離婚協議書にサインした時から、私は酒井家とは何の関わりもなくなったんです」私が抵抗するとは思わなかったのか、紬は体勢を崩して床に倒れ込んだ。その時、聞き覚えのある声がドアの方から聞こえた。「加奈子!いい加減にしろ!母さんに手を上げるなんて!」凛音もすぐ後ろにいて、驚きに目を大きく見開きながら、慌てて紬を
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第6話
窓から飛び降りる直前、本館の寝室のほうから、誰かの悲痛な叫び声が聞こえた気がする。……一番初めに様子がおかしいと気づいたのは、勲だった。加奈子を屋根裏部屋に閉じ込めた瞬間、その表情は驚き、悲しみ、そして最後には生気を失った顔へと変わっていった。まるで魂を抜かれて、抜け殻だけが残ったようだった。だからか、勲は言いようのない不安を感じていた。寝る前には、執事に屋根裏部屋の見張りを頼んでいたほどだ。そして、その嫌な予感は的中した。真夜中、眠れずに体を起こした勲の目に飛び込んできたのは、屋根裏部屋から上がるまばゆい炎だった。その瞬間、体は震えが止まらなくなり、何もできなくなった。ただ、屋根裏部屋に向かって何度も叫ぶことしかできなかったのだ。「ママ、ママ!」次にそのことを知ったのは朔也だった。彼は使用人からの報告でそれを聞いた。「旦那様、大変です!屋根裏部屋が、原因もわからず突然火事に……奥様はまだ中に……私たちが気づいたときには、もう火の回りが早くて」朔也は上着をひっつかむと、よろけながら部屋を飛び出した。だが、肌にいくつも赤い痕をつけたままの凛音が、涙目で彼を引き止めた。「酒井社長、どこへ行くの?私、一人じゃ怖いわ」朔也は、引き止める凛音のことをうっとうしく感じた。以前なら凛音が泣けばすぐに心配したのに、今は違った。「屋根裏部屋が火事なんだ。様子を見に行かないと」しかし凛音は、朔也が加奈子の元へ行こうとしていると察し、彼の手首を掴む力を強めた。その声は不安と焦りで震えている。「酒井社長、行っちゃだめ!まだ火は消えてないのよ。あなたまで怪我したらどうするの?それに、どうして屋根裏部屋が急に火事になんてなるのかしら。もしかして、加奈子さんがわざと火をつけて、みんなの気を引こうとしたんじゃない?」朔也が俯いて、何も言えずにいると、勲が走ってきた。勲は、凛音を思い切り突き飛ばした。「ママは火が何より怖いんだ!子供の時、火事に遭って、腰に火傷の痕が残ってるって言ってたんだ!自分で火をつけるわけがない!ママを悪く言うな!」勲の言葉で、朔也は思い出した。加奈子も同じことを自分に話していたのを。意図的に無視してきた些細な出来事が、今この瞬間に一気によみがえってきた。結婚した日、加奈子は感動
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第7話
凛音はその場に立ち尽くしていた。紬の鋭い視線に、引きつった笑みを浮かべながら床から立ち上がった。「あの、私は……」その言葉を言い終わる前に、紬は鼻であしらうように話を遮った。「言っておくけど、私は加奈子のことはずっと気に入らなかった。でも、だからといってあなたを認めた覚えはないわ。酒井家に入るなんて、夢にも思わないことね」凛音は屈辱に顔を歪めた。でも、このまま引き下がるわけにはいかなかった。朔也に近づくために、たくさんのものを犠牲にしてきたのだ。女優にとって命とも言える評判さえ、投げ打ってきた。だから今、加奈子があの火事で死んでいてほしいと願っていた。そうすれば、最大の恋敵がいなくなるのだから。でも、もし加奈子が本当に死んでしまったら……そうなれば、自分は永遠に死んだ女にはかなわないということになる。……朔也が火事について調べるよう指示を出すと、勲は彼の後ろにぴったりとくっついて離れようとしなかった。勲は涙をぬぐいながら、あの遺体が自分のママでないことを心から願っていた。そう、8歳の勲にとって、それは初めての後悔だった。そしてその代償は、母親を永遠に失うことだった。自分が間違っていたのかどうかは、勲にはよく分からなかった。でも、今はただ本当に怖かった。DNA鑑定の結果が出るのは3日後だ。しかし、加奈子が火事で焼死したというニュースは、どのメディアでもトップで報じられていた。ご丁寧に、現場で見つかった焼け焦げた部屋の写真まで載せられている。誰もがその死を悼んだ。たとえ新港市では、加奈子のことが笑い話のように語られていたとしても。それでも、多くの人が知っていた。加奈子があれほど耐え忍んでいたのは、ほかでもない息子の勲のためだということを。加奈子がそこまでできた理由は、ある噂と関係があるのかもしれない。加奈子は藤本家が施設から引き取った養女だった。それは、藤本家の跡継ぎの話し相手をさせるためだったと言われている。だから、これだけ大々的にニュースになっているのに、藤本家の両親は形ばかりの電話を一本よこしただけだった。加奈子が死のうが生きようが、大して関心がないようだった。一日中忙しく働いて家に帰った朔也は、少し散らかった寝室を見て、眉間に深くしわを寄せた。彼の寝室に使用人が入ることは許さ
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第8話
加奈子がみなしごだったとすれば、朔也も半分みなしごみたいなものだった。8歳の時、実の父親が紬の妹と不倫した。紬は怒りのあまり何度も薬を飲んで自殺しようとしたが、そのたびに助けられた。父が罪を償うために、何日間も母の部屋の前で土下座をしていたことを、朔也は今でも覚えている。しかし紬は許さず、この一件をゴシップ記者にリークして、ふしだらな二人の関係を大々的に報じさせたのだ。だが、紬にも予想外のことが起きた。翌日、夫と愛人が一緒に崖から身を投げて心中したという知らせが届いたのだ。朔也はそんな環境で育った。だから結婚も、好きという気持ちも信じていない。彼の知る限り、上流階級の家庭はどこもぐちゃぐちゃだ。表向きは仲の良い夫婦でも、裏では血みどろの争いを繰り広げている。だから、凛音が口にする「愛」が何なのか、分からなかった。交通事故で亡くなった初恋の人も、結婚から逃げた元婚約者も、そして今、生死不明の妻も。朔也は自分が彼女たちを本当に愛していたのか、分からなかった。おそらく、それはただの慣れが生んだ懐かしさなのだろう。もしかしたら、特定の一人の人間を愛することが、そもそも難しいのかもしれない。朔也は一睡もせずに夜を明かした。部下から連絡が入ったからだ。凛音が、死ぬと脅して朔也に会いに来るよう迫っているという。しかし、凛音は知らなかった。それがまさに朔也の逆鱗に触れることだとは。子供の頃、母が父を死で脅すのを何度も見てきたせいかもしれない。朔也は生まれつき、誰かに選択を強要されることが何よりも嫌いだった。しかし今回ばかりは、凛音に会うことにした。会うなり、凛音はお腹を押さえて泣きじゃくりながら訴えた。「酒井社長、加奈子さんが不幸な目に遭って、勲くんはまだ小さいからお世話する人が必要だわ。私をあなたたちのそばにいさせてくれない?お願いだから。この子はあなたの実の子で、勲くんとも血が繋がってるのよ。そんな無慈悲なことできないはずだわ!」朔也は感情のこもっていない声で口を開いた。「結婚する時、俺は加奈子に約束したんだ。生涯、妻は彼女一人だけだと」そう、何よりも約束を嫌う朔也が、加奈子には誓いを立てていたのだ。なぜかは朔也自身にもよく分からなかった。ただ、結婚式で加奈子の涙を見た時、心の奥深くで何かが
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第9話
でも、朔也が私を探している頃には、幼馴染の菊地智樹(きくち ともき)が用意してくれた偽の身分証で、とっくに国を出ていた。酒井家は新港市で絶大な力を持っている。あそこにいる限り、逃げ場はないとわかっていた。屋根裏部屋に閉じ込められたあの晩、私は絶望の中、智樹に電話をかけた。私たちは施設で知り合った。智樹はいつも私を本当の妹のように可愛がってくれた。私が結婚する時、智樹は目を潤ませてこう約束してくれた。「困ったことがあったら、いつでも電話してこい。絶対にお前の味方だから」そして智樹は、本当に約束を果たしてくれた。幸い、昔に藤本家の令嬢の家庭教師をしたことがあった。だから、そこそこ話せる英語のおかげで、M国で外国語を教える仕事が見つかった。私が受け持っている子供はみんな小学生で、外国語に初めて触れる子ばかりだった。でも、子供たちはたどたどしい言葉で、笑顔で挨拶してくれる。そんな穏やかな日々が続いていた、あの日までは。仕事が終わり、近所の男の子のベスを連れて帰る途中だった。その時、どこか懐かしくて、でも知らない顔と出会った。勲だった。前より背が伸びたみたい。私はベスの手を引いたまま、潤んだ瞳でこちらを見る勲を無視した。でも勲はベスを見ると、興奮のあまり、いきなりベスの手を振り払った。「お前は誰だ!なんで僕のママと手を繋いでるんだよ!」ベスは手を引っ込めたけど、目の前の人が何を言っているのか理解できなかった。不安そうに私を見上げるベスが可哀想で、私はすぐにしゃがみ込んだ。そして、赤くなったベスの手の甲に優しく息を吹きかけてあげた。それを見た勲は、もう堪えきれなくなった。駆け寄ってきて、私の腰に強く抱きついた。「ママ、僕、本当にごめんなさい……お願いだから、捨てないで!ママがいなくなってから毎日、眠れないんだ。すごく、すごく会いたかった」でも、私の心はとっくに麻痺していた。勲に対して憎しみもなく、可哀想だと思うこともなく、もちろん愛もなかった。たぶん、昔は本当に勲を愛していた。すごく、すごく愛していた。でも、一番苦しかった時期はもう過ぎ去った。今では体も心も、あの辛い記憶を忘れさせてくれようとしている。そして、勲への愛情も、すっかり消えてしまったみたいだ。私は、腰に回された勲の手
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第10話
それ以来、私は朔也と勲に会うことは二度となかった。酒井家での記憶は、もうだんだんとぼやけてきていた。それから10年後、勲が成人を迎えた日のこと。ちょうど生徒の成人式に呼ばれていて、そこで18歳になった勲を見かけた。背はすごく高くなっていて、朔也と瓜二つだった。お互いに気づいたけど、どちらからも先に声をかけることはなかった。でも、私が人にぶつかられて、カバンの中身をぶちまけてしまった時だった。勲は真っ先に私のそばに来てくれた。でも、手を差し伸べてはくれなかった。生徒に助け起こしてもらった時、勲は急に私を廊下へと引っ張っていった。そして、私のカバンからこぼれ落ちたばかりのうつ病の薬を掴んで、私をあざ笑った。「何年も見ないうちに、なんでそんな死にそうな顔してるんだ?」実は勲が生まれてから、私は自分の感情が抑えられなくなって、わけもなく泣きたくなることがよくあった。高所恐怖症だった私が、あの時は30階の窓から下を見下ろしていた。でも、少しも怖くなくて、ただ自由になりたいと願うばかりだった。だからあの時、智樹に電話をかけて、こう言ったんだ。「智樹さん、助けに来て。ここにいたら、私、本当に死んじゃう」って。私の目を見て、勲はなにかを察したのかもしれない。彼は、やっと全てを理解したのだ。勲は私を掴んでいた手を離して、黙って背を向けて去っていった。私は黙って薬をカバンに戻した。人生、一度くらいは自分のために生きなくちゃ。自分を縛りつけているのは、いつだって誰か特定の人間なんかじゃない。自分の執着、そのものなんだ。私はもうすぐ40歳になる。最初の20年は、朔也への執着。その後の10年は、勲への執着。そして、一人になってからの10年で、私は自分の前半生を癒してきた。自由は、どんな悲しみも癒してくれると信じている。もちろん、時間に委ねてもいい。
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