Share

第10話

Author: サンドクッキー
それ以来、私は朔也と勲に会うことは二度となかった。

酒井家での記憶は、もうだんだんとぼやけてきていた。

それから10年後、勲が成人を迎えた日のこと。

ちょうど生徒の成人式に呼ばれていて、そこで18歳になった勲を見かけた。

背はすごく高くなっていて、朔也と瓜二つだった。

お互いに気づいたけど、どちらからも先に声をかけることはなかった。

でも、私が人にぶつかられて、カバンの中身をぶちまけてしまった時だった。

勲は真っ先に私のそばに来てくれた。でも、手を差し伸べてはくれなかった。

生徒に助け起こしてもらった時、勲は急に私を廊下へと引っ張っていった。

そして、私のカバンからこぼれ落ちたばかりのうつ病の薬を掴んで、私をあざ笑った。

「何年も見ないうちに、なんでそんな死にそうな顔してるんだ?」

実は勲が生まれてから、私は自分の感情が抑えられなくなって、わけもなく泣きたくなることがよくあった。

高所恐怖症だった私が、あの時は30階の窓から下を見下ろしていた。

でも、少しも怖くなくて、ただ自由になりたいと願うばかりだった。

だからあの時、智樹に電話をかけて、こう言ったんだ。
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる   第10話

    それ以来、私は朔也と勲に会うことは二度となかった。酒井家での記憶は、もうだんだんとぼやけてきていた。それから10年後、勲が成人を迎えた日のこと。ちょうど生徒の成人式に呼ばれていて、そこで18歳になった勲を見かけた。背はすごく高くなっていて、朔也と瓜二つだった。お互いに気づいたけど、どちらからも先に声をかけることはなかった。でも、私が人にぶつかられて、カバンの中身をぶちまけてしまった時だった。勲は真っ先に私のそばに来てくれた。でも、手を差し伸べてはくれなかった。生徒に助け起こしてもらった時、勲は急に私を廊下へと引っ張っていった。そして、私のカバンからこぼれ落ちたばかりのうつ病の薬を掴んで、私をあざ笑った。「何年も見ないうちに、なんでそんな死にそうな顔してるんだ?」実は勲が生まれてから、私は自分の感情が抑えられなくなって、わけもなく泣きたくなることがよくあった。高所恐怖症だった私が、あの時は30階の窓から下を見下ろしていた。でも、少しも怖くなくて、ただ自由になりたいと願うばかりだった。だからあの時、智樹に電話をかけて、こう言ったんだ。「智樹さん、助けに来て。ここにいたら、私、本当に死んじゃう」って。私の目を見て、勲はなにかを察したのかもしれない。彼は、やっと全てを理解したのだ。勲は私を掴んでいた手を離して、黙って背を向けて去っていった。私は黙って薬をカバンに戻した。人生、一度くらいは自分のために生きなくちゃ。自分を縛りつけているのは、いつだって誰か特定の人間なんかじゃない。自分の執着、そのものなんだ。私はもうすぐ40歳になる。最初の20年は、朔也への執着。その後の10年は、勲への執着。そして、一人になってからの10年で、私は自分の前半生を癒してきた。自由は、どんな悲しみも癒してくれると信じている。もちろん、時間に委ねてもいい。

  • 彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる   第9話

    でも、朔也が私を探している頃には、幼馴染の菊地智樹(きくち ともき)が用意してくれた偽の身分証で、とっくに国を出ていた。酒井家は新港市で絶大な力を持っている。あそこにいる限り、逃げ場はないとわかっていた。屋根裏部屋に閉じ込められたあの晩、私は絶望の中、智樹に電話をかけた。私たちは施設で知り合った。智樹はいつも私を本当の妹のように可愛がってくれた。私が結婚する時、智樹は目を潤ませてこう約束してくれた。「困ったことがあったら、いつでも電話してこい。絶対にお前の味方だから」そして智樹は、本当に約束を果たしてくれた。幸い、昔に藤本家の令嬢の家庭教師をしたことがあった。だから、そこそこ話せる英語のおかげで、M国で外国語を教える仕事が見つかった。私が受け持っている子供はみんな小学生で、外国語に初めて触れる子ばかりだった。でも、子供たちはたどたどしい言葉で、笑顔で挨拶してくれる。そんな穏やかな日々が続いていた、あの日までは。仕事が終わり、近所の男の子のベスを連れて帰る途中だった。その時、どこか懐かしくて、でも知らない顔と出会った。勲だった。前より背が伸びたみたい。私はベスの手を引いたまま、潤んだ瞳でこちらを見る勲を無視した。でも勲はベスを見ると、興奮のあまり、いきなりベスの手を振り払った。「お前は誰だ!なんで僕のママと手を繋いでるんだよ!」ベスは手を引っ込めたけど、目の前の人が何を言っているのか理解できなかった。不安そうに私を見上げるベスが可哀想で、私はすぐにしゃがみ込んだ。そして、赤くなったベスの手の甲に優しく息を吹きかけてあげた。それを見た勲は、もう堪えきれなくなった。駆け寄ってきて、私の腰に強く抱きついた。「ママ、僕、本当にごめんなさい……お願いだから、捨てないで!ママがいなくなってから毎日、眠れないんだ。すごく、すごく会いたかった」でも、私の心はとっくに麻痺していた。勲に対して憎しみもなく、可哀想だと思うこともなく、もちろん愛もなかった。たぶん、昔は本当に勲を愛していた。すごく、すごく愛していた。でも、一番苦しかった時期はもう過ぎ去った。今では体も心も、あの辛い記憶を忘れさせてくれようとしている。そして、勲への愛情も、すっかり消えてしまったみたいだ。私は、腰に回された勲の手

  • 彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる   第8話

    加奈子がみなしごだったとすれば、朔也も半分みなしごみたいなものだった。8歳の時、実の父親が紬の妹と不倫した。紬は怒りのあまり何度も薬を飲んで自殺しようとしたが、そのたびに助けられた。父が罪を償うために、何日間も母の部屋の前で土下座をしていたことを、朔也は今でも覚えている。しかし紬は許さず、この一件をゴシップ記者にリークして、ふしだらな二人の関係を大々的に報じさせたのだ。だが、紬にも予想外のことが起きた。翌日、夫と愛人が一緒に崖から身を投げて心中したという知らせが届いたのだ。朔也はそんな環境で育った。だから結婚も、好きという気持ちも信じていない。彼の知る限り、上流階級の家庭はどこもぐちゃぐちゃだ。表向きは仲の良い夫婦でも、裏では血みどろの争いを繰り広げている。だから、凛音が口にする「愛」が何なのか、分からなかった。交通事故で亡くなった初恋の人も、結婚から逃げた元婚約者も、そして今、生死不明の妻も。朔也は自分が彼女たちを本当に愛していたのか、分からなかった。おそらく、それはただの慣れが生んだ懐かしさなのだろう。もしかしたら、特定の一人の人間を愛することが、そもそも難しいのかもしれない。朔也は一睡もせずに夜を明かした。部下から連絡が入ったからだ。凛音が、死ぬと脅して朔也に会いに来るよう迫っているという。しかし、凛音は知らなかった。それがまさに朔也の逆鱗に触れることだとは。子供の頃、母が父を死で脅すのを何度も見てきたせいかもしれない。朔也は生まれつき、誰かに選択を強要されることが何よりも嫌いだった。しかし今回ばかりは、凛音に会うことにした。会うなり、凛音はお腹を押さえて泣きじゃくりながら訴えた。「酒井社長、加奈子さんが不幸な目に遭って、勲くんはまだ小さいからお世話する人が必要だわ。私をあなたたちのそばにいさせてくれない?お願いだから。この子はあなたの実の子で、勲くんとも血が繋がってるのよ。そんな無慈悲なことできないはずだわ!」朔也は感情のこもっていない声で口を開いた。「結婚する時、俺は加奈子に約束したんだ。生涯、妻は彼女一人だけだと」そう、何よりも約束を嫌う朔也が、加奈子には誓いを立てていたのだ。なぜかは朔也自身にもよく分からなかった。ただ、結婚式で加奈子の涙を見た時、心の奥深くで何かが

  • 彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる   第7話

    凛音はその場に立ち尽くしていた。紬の鋭い視線に、引きつった笑みを浮かべながら床から立ち上がった。「あの、私は……」その言葉を言い終わる前に、紬は鼻であしらうように話を遮った。「言っておくけど、私は加奈子のことはずっと気に入らなかった。でも、だからといってあなたを認めた覚えはないわ。酒井家に入るなんて、夢にも思わないことね」凛音は屈辱に顔を歪めた。でも、このまま引き下がるわけにはいかなかった。朔也に近づくために、たくさんのものを犠牲にしてきたのだ。女優にとって命とも言える評判さえ、投げ打ってきた。だから今、加奈子があの火事で死んでいてほしいと願っていた。そうすれば、最大の恋敵がいなくなるのだから。でも、もし加奈子が本当に死んでしまったら……そうなれば、自分は永遠に死んだ女にはかなわないということになる。……朔也が火事について調べるよう指示を出すと、勲は彼の後ろにぴったりとくっついて離れようとしなかった。勲は涙をぬぐいながら、あの遺体が自分のママでないことを心から願っていた。そう、8歳の勲にとって、それは初めての後悔だった。そしてその代償は、母親を永遠に失うことだった。自分が間違っていたのかどうかは、勲にはよく分からなかった。でも、今はただ本当に怖かった。DNA鑑定の結果が出るのは3日後だ。しかし、加奈子が火事で焼死したというニュースは、どのメディアでもトップで報じられていた。ご丁寧に、現場で見つかった焼け焦げた部屋の写真まで載せられている。誰もがその死を悼んだ。たとえ新港市では、加奈子のことが笑い話のように語られていたとしても。それでも、多くの人が知っていた。加奈子があれほど耐え忍んでいたのは、ほかでもない息子の勲のためだということを。加奈子がそこまでできた理由は、ある噂と関係があるのかもしれない。加奈子は藤本家が施設から引き取った養女だった。それは、藤本家の跡継ぎの話し相手をさせるためだったと言われている。だから、これだけ大々的にニュースになっているのに、藤本家の両親は形ばかりの電話を一本よこしただけだった。加奈子が死のうが生きようが、大して関心がないようだった。一日中忙しく働いて家に帰った朔也は、少し散らかった寝室を見て、眉間に深くしわを寄せた。彼の寝室に使用人が入ることは許さ

  • 彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる   第6話

    窓から飛び降りる直前、本館の寝室のほうから、誰かの悲痛な叫び声が聞こえた気がする。……一番初めに様子がおかしいと気づいたのは、勲だった。加奈子を屋根裏部屋に閉じ込めた瞬間、その表情は驚き、悲しみ、そして最後には生気を失った顔へと変わっていった。まるで魂を抜かれて、抜け殻だけが残ったようだった。だからか、勲は言いようのない不安を感じていた。寝る前には、執事に屋根裏部屋の見張りを頼んでいたほどだ。そして、その嫌な予感は的中した。真夜中、眠れずに体を起こした勲の目に飛び込んできたのは、屋根裏部屋から上がるまばゆい炎だった。その瞬間、体は震えが止まらなくなり、何もできなくなった。ただ、屋根裏部屋に向かって何度も叫ぶことしかできなかったのだ。「ママ、ママ!」次にそのことを知ったのは朔也だった。彼は使用人からの報告でそれを聞いた。「旦那様、大変です!屋根裏部屋が、原因もわからず突然火事に……奥様はまだ中に……私たちが気づいたときには、もう火の回りが早くて」朔也は上着をひっつかむと、よろけながら部屋を飛び出した。だが、肌にいくつも赤い痕をつけたままの凛音が、涙目で彼を引き止めた。「酒井社長、どこへ行くの?私、一人じゃ怖いわ」朔也は、引き止める凛音のことをうっとうしく感じた。以前なら凛音が泣けばすぐに心配したのに、今は違った。「屋根裏部屋が火事なんだ。様子を見に行かないと」しかし凛音は、朔也が加奈子の元へ行こうとしていると察し、彼の手首を掴む力を強めた。その声は不安と焦りで震えている。「酒井社長、行っちゃだめ!まだ火は消えてないのよ。あなたまで怪我したらどうするの?それに、どうして屋根裏部屋が急に火事になんてなるのかしら。もしかして、加奈子さんがわざと火をつけて、みんなの気を引こうとしたんじゃない?」朔也が俯いて、何も言えずにいると、勲が走ってきた。勲は、凛音を思い切り突き飛ばした。「ママは火が何より怖いんだ!子供の時、火事に遭って、腰に火傷の痕が残ってるって言ってたんだ!自分で火をつけるわけがない!ママを悪く言うな!」勲の言葉で、朔也は思い出した。加奈子も同じことを自分に話していたのを。意図的に無視してきた些細な出来事が、今この瞬間に一気によみがえってきた。結婚した日、加奈子は感動

  • 彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる   第5話

    酒井家に戻って、私は荷物をまとめ始めた。長年暮らしたのに、荷物はたったのスーツケース一つだけだったなんて。テーブルの上に、首にかけていたネックレスを置いた。ペンダントトップには、勲が3歳の時に、私が朔也に3日間も頼み込んで、やっと撮ってもらった家族写真が入っている。ちょうどその時、スマホにニュース速報が届いた。芸能ニュースで、朔也たちが遊園地にいるところを撮られた写真だった。写真に写る三人は、とても仲が良さそうで、まるで本当の家族のようだった。もう、未練なんてない。家を出る前に、私はこれまでの貯金を執事に渡して、こう言いつけた。「このお金を、勲の養育費にして」執事が何か言いかけたその時、紬がいきなりドアを押し開けて入ってきた。彼女は私の横にあるスーツケースを見て、少しきょとんとしていた。「勲から聞いたわよ。どうしても朔也と離婚するって騒いでるんだって?」私はしばらく黙ってから、首を横に振った。「騒いでいるんじゃなくて、もう離婚しました」紬は言葉に詰まり、怒りのあまりテーブルの上のものをすべて床に叩き落とした。「加奈子!誰があなたにそんな度胸を与えたの!この卑しい女め!なんであなたの方から朔也に離婚を突きつけるわけ!言っておくけど、離婚するなら一文無しで出ていくのよ!勲も置いていきなさい!もう二度と勲には会わせないから!」酒井家に嫁いでから、紬に最初に言われたのは「お母さんと呼ぶな」ということだった。勲が少しでも怪我をしたり、朔也の体調が少しでも悪かったりすると、全部私のせいにされた。これまでの罵声は、我慢できた。だって、私は昔から紬の八つ当たりの対象だったから。でも、これまですべて我慢してきたのは、勲のためだった。今はその勲さえ手放したのだから、もう我慢する必要なんてない。だから、紬が平手打ちをしようと振りかぶってきた時、私はその手首を強く掴んで、突き飛ばした。「朔也が離婚協議書にサインした時から、私は酒井家とは何の関わりもなくなったんです」私が抵抗するとは思わなかったのか、紬は体勢を崩して床に倒れ込んだ。その時、聞き覚えのある声がドアの方から聞こえた。「加奈子!いい加減にしろ!母さんに手を上げるなんて!」凛音もすぐ後ろにいて、驚きに目を大きく見開きながら、慌てて紬を

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status