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第2話

ドウドウ
うつむいて初めて、いつの間にか手の甲に傷ができていることに気づいた。

私が黙っていると、彼は軽くため息をつき、そのまま私を引き寄せて抱きしめた。

「もういい加減、怒りも収まれよ。殴らせてやったんだから、もう泣くなよ。

それに俺も、本当に彼女と結婚するつもりなんて最初からないんだ。ただの証明書だよ。一ヶ月したら、すぐに離婚する。

花華は小さい頃から周りにちやほやされて育ったからな。ちょっと遊ぶくらいならいいけど、本当に嫁にして一緒に暮らすとなると、機嫌を取るだけでこっちが疲れ果てちまう」

そう言って、彼は一呼吸置き、声のトーンを柔らかくした。

「でもお前は違うんだ、円乃。お前は一度も俺に面倒をかけたことがない。一緒にいると、そんなに気を遣わなくていい。嫁にするのにぴったりだ。

一ヶ月経ったら、俺たちはまた婚姻届を出しに行こう。お前の母さんもずっとお前が結婚するところを見たがってたんだろ?そのときは、一番最高の結婚式をしてやるから……」

言い終わらないうちに、彼のスマホがまた震えた。

一目見ただけで、時人の口元がすぐにほころんだ。

「花華が『西の街の金木犀のお菓子が食べたい』って言ってる。あの店、もうすぐ閉まっちゃうから、急がないと。

買って帰らないと、今夜もまた彼女に振り回されるからな」

彼は一瞬私に目をやり、少し迷った末、車のキーを手に取り、背を向けた。

――私が「母さん」という言葉を聞いた瞬間、頭から水を浴びたような気持ちになった。

彼の言葉に込められた暗い脅しに気づかないほど鈍感ではない。

けれど、あのとき母の入院にかかった高額な費用を、時人が二つ返事で負担してくれたのだ。

その後の治療もある。私の毎月の給料では、とても足りない。

そう考えると、思わず皮肉な笑いが漏れた。

こうも行き詰まっている私だから、時人が好き勝手に浮気するのも無理はない、ということなのだろうか。

扉が閉まる音とともに、私はもう限界で、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。

部屋の中の散らかりようを見渡すと、記憶が突然、一年前に引き戻された――

あの夜の誕生日会。花華が私の手を取って、目をキラキラさせながら言った。

「円乃、今夜ね、ちょーービッグなサプライズを用意しちゃったんだよね」

そう言って彼女はいたずらっぽくウインクする。その仕草は、私たちが小学六年生でこっそりアイスクリームを食べて教頭に追いかけられたあの日の姿と重なった。

私は一晩中、期待で胸を膨らませていた。

ケーキが倒れるまでは。

その向こうに露出した絡み合う二つの影を見て、私の頭の中は真っ白になった。

花華は慌てる様子もなく、時人の上着をひらりと羽織ると、私に向かって顎を上げた。

「お誕生日おめでとう、円乃!これが私からの誕生日プレゼント。どう?気に入った?」

十数年にわたる友情は、その瞬間、ケーキとともに崩れ去り、瓦礫の山と化した。

……

私は悪夢の中で突然目を覚ました。

ベッドのそばにいる時人が視界に入り、しばし現実かどうかわからなくなる。

正気に戻る間もなく、手の中に彼からスープの入った椀が押し込まれた。

「円乃、俺が作ったんだ。ちょっと味見してみてくれよ」

私は呆然と口を開き、聞き間違いかと思って、「……あなたが?」と尋ねた。

彼はうなずき、有無を言わさずスプーンを取って私の口元に運んだ。

「ああ、今日の午後、お菓子を買うのが遅くなっちまってな。花華の罰で、俺がスープを作ることになったんだ」

そして嬉しそうに口元を緩める。「あいつはホント、思いつきで動くんだから。俺にそんなもん作れるわけないだろ」

すでに冷めきったはずの心だった。それでもこの瞬間、私の目に予告なく涙がにじんだ。

まさか、この自ら進んで台所に立つことなど一生なさそうな御曹司が、誰かのために料理を作る日が来るなんて、想像もしていなかった。

うつむいてスープを飲んだとき、私はむせた。

すると彼はすぐに緊張して眉をひそめ、「どうした?しょっぱすぎか?」と尋ねた。

そう言って彼もスープを一口味わったそのとき、電話が鳴った。

「そこを動くな!すぐに着くから!」

向こうで何を言われたのか、彼の表情は一変し、慌てて出ていこうとした。

「花華が足首を捻ったんだ。担当医がいないから、円乃、薬を買って西通りの別荘に届けてくれ。急いでだぞ」

私は呆然とその後ろ姿を見送った。気づくと、ベッドから起き上がり、自嘲気味に笑い、傘を持って外に出ていた。

自分がどうやって薬を買ってあの別荘に辿り着いたのか、覚えていない。

ドアを開けて、私はその場に釘付けになった。

階段の手すりに無造作に引っ掛けられたストッキングが、目に焼きついた。

二階からは、艶めかしい吐息が聞こえてくる。

――また、この光景だ。

それまで積み上げてきた心の準備が、完全に崩れ去った。

私は絶叫し、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。

花華が私の声を邪魔に思ったのか、ぶつぶつと「もう、興ざめ」と愚痴った。

すると、苛立った足音が聞こえ、時人が乱れた服装で階段を降りてきた。顔には真紅のリップの跡がついている。

「何を騒いでるんだ。こんなにもう何度も見てきたんだろ、慣れろよ。薬をくれ。花華の足がまだ痛むって……」

言いながら、彼の体が突然硬直した。瞳孔が開く。

「円乃!どうしたんだ!?」

裏返った彼の声を聞きながら、私はうつむいた。

足元では、雨に混じって赤い血が流れ出し、地面に小さな暗い水たまりを作っていた。

そして、世界がぐるぐると回り始めたとき、私に向かって飛びかかってくる時人の姿が見えた。
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