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彼が振り返る前に、私はもういない
彼が振り返る前に、私はもういない
ドウドウ

第1話

ドウドウ
越智時人(おち ときと)が、私が働く市役所に迎えに来た。

窓口越しに、彼は突然、一通の婚姻届受理証明書を差し出した。

「実はな、これ、偽物なんだ。お前との再婚も、ただの暇潰しだ」

私が反応する間もなく、彼はもう一枚の証明書を手にひらりと振った。その口元は、何かを甘く思い返すようにほころんでいた。

「昨日、花華がな、俺の上に座ってキスしてきて……それがもう、たまらなくてさ。つい、こっちの本物を彼女と貰ってきちまった」

二度目の裏切り。バケツの冷水を頭から浴びせられたような気持ちだった。

信じられない。

私は彼を見つめ、震える声を絞り出した。「……どうして?」

「お前がバカだからだよ」

時人は、私の瞳が徐々に赤くなっていく様子を楽しそうに眺めながら、薄ら笑いを浮かべて、一枚のティッシュを差し出してきた。

「前に花華と三年間こっそりやってたときも、お前は最後まで気づかなかった。だから彼女と賭けたんだ。今度はどのくらいで気づくかってな」

そう言って、彼の視線が一瞬、私の首筋に残るキスマークに落ちる。一拍置いて、彼は肩をすくめた。

「花華は『せいぜい一年』って言ってた。だからこの一年、俺はわざと隙をたくさん見せてきたんだ。

でもな、こっちがもう演じるのに飽きても、お前は気づかなかったなんて。

今日が賭けの最終日だ。彼女に勝たせてやりたくて、機嫌を取ってやりたいんだ。

だから仕方なく、こうして自分から白状したってわけだ」

……

家に帰ってソファに座ったときも、私・須藤円乃(すどう まどの)の身体はまだ震えていた。

私の取り乱しようが、時人の笑いを誘った。

彼は手に持っていた、ぐしゃぐしゃに揉み潰されたバラを私の手に押し込み、なだめるように頭をポンポンと叩いた。

「お前の父さんの葬式の日、覚えてるか?あのとき、俺と花華は隣の部屋にいたんだ。ゴム一箱、二人で全部使い切った。

壁一枚隔ててな、花華の喘ぎ声がお前の泣き声より大きかった。かなり刺激的だったよ。

あんなに大胆で派手な女、初めて見た。お前とは正反対だ。俺が彼女に惹かれたのは、まさにあの瞬間からだ」

頭の中で「キーン」という音がした。信じられず、目を見開く。

あの日、私は霊堂で泣き崩れるほど泣いた。

しかし、誰かに支えられて外に出たとき、松原花華(まつばら はなか)は足を震わせていて、歩き方すら私よりふらふらしていた。

時人はあのとき私のすぐそばに立っていて、彼女の背中をひと目見ると、優しい声で言った。

「彼女はお前の一番の親友だし、お前の父さんが亡くなったことで、彼女も相当つらい思いをしたんだろう」

私はそれを信じた。

一人は私の一番の親友。一人は私が一番愛する男。

二人のことを、一度たりとも疑ったことはなかった。

――だがその後、裏切りは氷の棘となって、私の心に深く突き刺さった。

初めて現場を目撃したあの日、私は二度と二人を赦せないと思った。だがその後、母が重い病に倒れ、私が手術室の外で気を失ったとき。

時人は慌てふためいて走り回り、花華は私を抱きしめて声を上げて泣いた。

人はきっと、どん底にいるときには、どうしても心が弱くなるのだろう。

時人は私の心を見透かしたように、鼻で笑った。

「お前は確かに甘いんだよ、円乃。俺がただお前の母さんの病床の前で芝居をして、花を何束か送っただけで、よりを戻すって了承したんだよな。

花華がどれだけ笑ったか、想像つくか?」

指がぎゅっと握りしめられる。すると彼の口調が変わった。

「でも花華はな、初めてお前が浮気の現場を押さえたときの、お前の顔が特に面白かったらしいんだ。

だから俺に、お前を市役所の窓口に回すよう仕向けた。もし自分が偽物の婚姻届受理証明書を扱っていることに気づいて、二度目もまんまと引っかかったことを自ら発見したとき、どんな顔をするのか見てみたかったんだそうだ」

私は完全に固まってしまった。

気づくと、平手が一発、彼の頬に痛烈に打ち込まれていた。

ほとんど発狂したように、手の届く限りのものを掴んでは彼に投げつける。

身体を震わせながら、彼に問い詰めた。

「どうしてこんなことをするのよ!?」

時人の目に、一瞬、驚きが走った。

彼は顔をそらし、口元を拭う。そして、ふっと軽く笑った。

「どうだ?満足したか、お嬢様?」

私の動きが止まる。何のことかわからず、彼を見つめる。

次の瞬間――彼のスマホが突然、輝き出した。画面越しに、花華がプッと笑った。

「よくできたね、時人。今日はご褒美に、上を許してあげる」

愕然と顔を上げると、一瞬で血液が逆流するような感覚があった。

「花華はな、お前が真相を知ったときに取り乱す様子を特に見たがってたんだ。だからリモートで中継しろってうるさくてな。

承知しなきゃずっと駄々をこねるんだ。あの子のわがままっぷりは、お前も知ってるだろ?手がかかって仕方ないんだから……」

パクパクと動く彼の口を見ていると、耳の奥がキーンと鳴り、目の前が一瞬暗くなった。

無意識にテーブルの端を掴んで、どうにか倒れずに体を支えた。

そのとき、「ちゅっ」――花華がカメラに顔を近づけて、時人にキスをした。

「早く帰ってきてね、待ってるから」

そう言って、彼女は私に向かって顎を少し上げた。

「円乃、今日の泣き顔は前よりもっと醜かったわ。とっても満足よ」

画面が暗くなったあと、時人は何事もなかったかのように振る舞った。

彼の視線が無造作に私をなぞる。ふと止まり、眉をひそめて私の手を引いた。

「それ、どうやったんだ?」
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