LOGIN実家が没落して奥山家に居候するようになってから、奥山蒼真(おくやま そうま)は一度も私・栗原凪(くりはら なぎ)をまともに見ようとはしなかった。 だが、留学申請の前日、蒼真は珍しく私の代わりに必要な書類をまとめてくれた。 別れを惜しんで目を赤くした私は、準備を終えると、お礼を言おうと蒼真の書斎のドアを開けた。 すると、中にいた蒼真は足を組みながら、電話の向こう側の相手に笑いかけていた。 「安心しろ。あいつの大事な書類を2つ、わざと入れなかったから。 確実に落ちるはず。そうすれば、お前の枠が空くからな」 入り口で立ち尽くす私と蒼真の視線が合う。 蒼真は面倒くさそうに電話を切った。 「盗み聞きか? お前の英語じゃ、行っても恥をかくだけだろ? だから、梨花(りか)に枠を譲れ。あいつが行った方がいいんだから」 大雨の中で私の手を取って「怖がらなくていい。俺が一生養ってやるから」とまで、言ってくれた人なのに、今では私の未来の邪魔をしてくる。 その日、私は涙を拭った。 徹夜で足りない書類を補い、夜が明けると、始発の電車で大使館へ向かった。
View More蒼真は目を閉じた。「凪……」「あなたが梨花のために私の申請書類をわざと抜いたこと。私の部屋を梨花に明け渡して、私の目の前で梨花の方がふさわしいと言ったこと……でもね、そんなことはもうどうだっていい。一番許せないのは、あなたが井上家の悪事をどこまで知っていたのかっていうこと」蒼真は口を開いたが、声はほとんど聞こえなかった。「知らなかった」「なら、今知ったでしょ?」梨花は地面にしゃがみこみ、化粧の崩れた、ぐちゃぐちゃになった顔で震えていた。「私じゃない。あれは全部お父さんがやったこと。私には関係ない……」しかし、誰も梨花を見ようとはしない。私は梨花の前に歩み寄り、しゃがんで彼女の腕からヒスイのブレスレットを外す。梨花は抵抗しなかった。母の形見のブレスレットが手の中に戻ったとき、それはひんやりと冷たかった。私は立ち上がって、蒼真のそばを通り過ぎる。彼は袖を掴もうと手を伸ばしたが、指先が触れただけで握ることはなかった。「凪、俺に何ができる?」「何もする必要はないから」……「凪、頼むよ」1ヶ月後、留学プロジェクトの修了式の日に蒼真が校門の前で待っていた。彼はすっかり痩せ細り、大きなコートはぶかぶかで、街路樹の下に立つ姿は倒れそうな木の杭のようだった。「まだ来るのね」「梨花の父親のところに調査が入ったんだ。奥山家のことも、父さんに問い詰めて白状させたから、弁護士を通じて捜査協力の書面を出したよ」「そんなことは私じゃなくて、弁護士に話して」「最後まで聞いてくれ。梨花の学術賞は取り消され、大学からも除籍された。SNSのアカウントも事実無根の書き込みで凍結されたんだ。知っていると思うけど……」「うん、知ってる」「俺にできることは、すべてやったつもりだ」「蒼真。あなたがそんなことをしているのは、自分の罪悪感を軽くしたいだけで、私のためじゃない」蒼真が言葉を失った。「私が奥山家にいた3年間、どれだけの夜をゲストルームの天井を見つめながら一人で過ごしたと思ってるの?梨花が私の日記を読んでいるのを知っていながら、あなたは知らないふり。彼女が勝手に私の写真を投稿しても、私の服を着ても、私の母の形見を身につけても……あなたは見て見ぬふりをした。知らなかったんじゃない。私のこ
「何してくれてるの?これで私の人生が台無しになったらどうするのよ!」「盗んだ時には、そう思わなかったわけ?」「凪!」梨花の声が裏返った。弱々しかった姿が一変し、ヒステリックに叫ぶ。「何様のつもり!結局、人の家に拾ってもらった居候の厄介者じゃない?なのに、こんなことして!」「梨花」私は一歩前に出て、梨花をまっすぐ見つめる。「論文を盗んだ件、徹底的にやらせてもらうし、母のブレスレットも取り返す。それに、あなたと父親が私の家族にしたことも――」梨花の瞳が大きく揺れた。「何か知ってるの?」私は答えない。振り返ると、廊下の3メートル先に蒼真が立っていた。どれくらい聞いていたのかは分からないが、彼の表情は、信じていた世界が崩壊した後のように凍りついていた。梨花は蒼真を見つけるや否や、泣きながらすがりつこうとする。「蒼真くん、凪が……」「梨花」蒼真の声は掠れていた。「あの論文、お前が書いたものじゃないのか?」「蒼真くん、違うの。それには訳があって……」「答えろ。あの論文は、本当にお前が書いたのか?」廊下が静まり返る。梨花の顔にはまだ涙が流れていたが、嗚咽は止まっていた。「私は……凪の資料を少し参考にしただけ。考えの根幹は私自身のものよ……」「23個のファイルと、3年分の修正記録」私は梨花を見ず、蒼真に向けて言った。「比べてもらえばすぐに分かるはずだから」「黙って!」梨花が化粧の崩れた顔で叫ぶ。「私が成功するのが気に入らないのね、この……」「もういい」梨花の言葉を遮ったのは、蒼真だった。彼はまるで初めてその女を見るかのように、冷めた目で梨花を見ていた。「凪の日記を勝手に見て、俺のこいつに対する印象を悪くしたのも、お前がやったのか?」梨花がごくりと唾を飲み込む。「あれは凪が書いたものを……少し見ただけでしょ……」「80万人以上もフォロワーがいるアカウントで、凪の写真をSNSで勝手に投稿して、炎上しているにもかかわらず、1年も放置して自分は何も知らないと言うつもりか?」蒼真の声は抑揚を失い、低く沈んでいった。まるで自分自身に問いかけるように。「凪の性格がひねくれているとか、考えすぎだとか、恥ずかしいやつだとか……それは全てお前が俺に思わせていたのか?梨花がたじろぐ。「
「で、今私を見つけたとして、それが何なの?」蒼真が私を見る。唇を何度も動かして、ようやく絞り出された声は、掠れていた。「俺が悪かった」蒼真の口から出たその一言は、どんな映画のセリフよりも嘘っぽく聞こえる。廊下をほかの参加者が通り過ぎ、知り合いが一人、私に会釈をして行った。「蒼真。今さっき、中で20分座っていたよね」「ああ」「私の英語でのプレゼン、ちゃんと聞き取れたの?」蒼真が黙り込んだ。「私の英語は酷いとか、留学しても恥をかくだけとか言ってたわね」私は蒼真を見つめる。「それに、梨花の方が私より相応しいとも言った」「凪……」「うちの家系はもう終わってるから、留学しても結局は笑われるだけだって言ったよね?」「俺は……」「あなたが私に言った言葉、全部覚えてるから」蒼真は手を伸ばしかけたが、また下ろした。その指先が小さく震えている。「梨花は……お前が思っているような奴じゃない」「じゃあ、どんな人だって言うの?」しかし、蒼真の答えは、会場スタッフに遮られた。次の講演の準備のため、会場を空けるようにと告げられる。私は資料を鞄に入れると、彼に背を向けて歩き出した。蒼真が数歩、私のあとを追ってくる。「凪、いつからそんな人間になったんだ?」私は立ち止まったが、振り返りはしない。「ずっとこうだったよ。あなたが一度もちゃんと見てくれなかっただけでしょ?」……「凪、久しぶり」学会2日目の午後、ポスター発表のブースに梨花が現れた。梨花は私が奥山家にいた頃によく着ていたベージュのカーディガンを着て、手首には私の母のブレスレットまでしている。「なんでここに?」「蒼真くんが来るなら、私も来るに決まってるでしょ?」梨花はポスターに目を走らせ、ふっと笑った。「研究、すごく進んだのね。留学のおかげ?」「それを言いに来たの?」「そんなわけないでしょ」梨花はポケットに手を突っ込んで、声を落とした。「凪、あなたが調べてることは知ってるよ。でも、論文のことを公にしても、あなたに得にはならないと思うよ」「自分の心配?」「あなたのことを心配してるの」梨花は小首を傾げた。完璧に作り込まれた、これまで数々の男を落としてきたであろう心配そうな表情。「海外で一人暮らしってだけで大変なんだから、そん
「でも、草案も修正記録も、全部私が持ってる」「うん。パソコンに時間記録つきのファイルが残ってるはずだけど、取ってある?」「あるよ。引っ越しの時にバックアップをハードディスクに取っておいたから」「凪ちゃん、大学に通報する?」窓の外から、隣の部屋でバイオリンを練習する音が聞こえてくる。「まだ今じゃない。とりあえず、受賞者発表のページのスクリーンショットだけ撮っておいてもらえる?あと、梨花がどの雑誌に投稿したかも調べてほしいの」「わかった。あ、それと。もう一つ……」「なに?」「先月、奥山さんから教務課に問い合わせがあったの。凪ちゃんの今の住所と連絡先を教えてほしいって。教務課の人に教えるべきか聞かれたから、私が断っておいたよ」「ありがとう」「奥山さん、すごく焦って探してるみたい。前使ってたスマホにも何百回って電話をかけたらしいし、最後は誰かにお願いして大学まで聞きに来させてたっぽいよ。凪ちゃん、一体なにがあったの?」「どうでもいいの」電話を切ると、ノートパソコンを開いてハードディスクの中からその論文のフォルダを探した。全部で23のファイル。プロットから最終原稿まで、すべてのファイルに確かな時間記録がある。そして、一番古いファイルは、3年前の9月だった。梨花が論文を出したのは、去年の12月。私よりも、2年遅い。すべてのデータをコピーして3つのファイルを作る。一つはクラウドに、一つは澪へ送り、もう一つは暗号化したUSBに入れた。それを終えた頃には、もう深夜になっていた。机には来週提出の課題が広がっていて、宗一郎に与えられたタイトルが書かれている。【多国籍企業の株式買収における法的欠陥】私はその下に、母の手紙を置いた。【その名前は、『井上梨花』】ペンを取り、私は課題の冒頭の空白に一行だけ小さな字で書き込んだ。【井上誠。20XX年。悪質な貸し剥がし。ダミー会社。安値での買収】ノートを閉じ、電気を消す。……「次は、国際研究プログラムの栗原さんです」講壇に立つと、会場には200人くらいの人が座っていた。宗一郎が取り計らってくれた学術フォーラムでの発表で、議題はクロスボーダー資本流動におけるコンプライアンス・リスクだった。全編英語での発表。3ページ目のパワ