Short
彼が私のビザ申請書類を抜き取った夜、私は別れる決意をした

彼が私のビザ申請書類を抜き取った夜、私は別れる決意をした

By:  陽だまりCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
9Chapters
35views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

実家が没落して奥山家に居候するようになってから、奥山蒼真(おくやま そうま)は一度も私・栗原凪(くりはら なぎ)をまともに見ようとはしなかった。 だが、留学申請の前日、蒼真は珍しく私の代わりに必要な書類をまとめてくれた。 別れを惜しんで目を赤くした私は、準備を終えると、お礼を言おうと蒼真の書斎のドアを開けた。 すると、中にいた蒼真は足を組みながら、電話の向こう側の相手に笑いかけていた。 「安心しろ。あいつの大事な書類を2つ、わざと入れなかったから。 確実に落ちるはず。そうすれば、お前の枠が空くからな」 入り口で立ち尽くす私と蒼真の視線が合う。 蒼真は面倒くさそうに電話を切った。 「盗み聞きか? お前の英語じゃ、行っても恥をかくだけだろ? だから、梨花(りか)に枠を譲れ。あいつが行った方がいいんだから」 大雨の中で私の手を取って「怖がらなくていい。俺が一生養ってやるから」とまで、言ってくれた人なのに、今では私の未来の邪魔をしてくる。 その日、私は涙を拭った。 徹夜で足りない書類を補い、夜が明けると、始発の電車で大使館へ向かった。

View More

Chapter 1

第1話

実家が没落して奥山家に居候するようになってから、奥山蒼真(おくやま そうま)は一度も私・栗原凪(くりはら なぎ)をまともに見ようとはしなかった。

だが、留学申請の前日、蒼真は珍しく私の代わりに必要な書類をまとめてくれた。

別れを惜しんで目を赤くした私は、準備を終えると、お礼を言おうと蒼真の書斎のドアを開けた。

すると、中にいた蒼真は足を組みながら、電話の向こう側の相手に笑いかけていた。

「安心しろ。あいつの大事な書類を2つ、わざと入れなかったから。

確実に落ちるはず。そうすれば、お前の枠が空くからな」

入り口で立ち尽くす私と蒼真の視線が合う。

蒼真は面倒くさそうに電話を切った。

「盗み聞きか?

お前の英語じゃ、行っても恥をかくだけだろ?

だから、梨花に枠を譲れ。あいつが行った方がいいんだから」

大雨の中で私の手を取って「怖がらなくていい。俺が一生養ってやるから」とまで、言ってくれた人なのに、今では私の未来の邪魔をしてくる。

その日、私は涙を拭った。

徹夜で足りない書類を補い、夜が明けると、始発の電車で大使館へ向かった。

……

「朝早くからどこへ行ってたの?」

帰ってきてドアを開けると、井上梨花(いのうえ りか)が私のベッドの上で胡坐をかき、私のアルバムをめくっていた。

シルクのパジャマを着て、髪を下ろした姿は、まるでここが自分の家だと言わんばかりだ。

視線を梨花の左手首に落とした瞬間、私は体が凍りついた。

上質なヒスイのブレスレットが、部屋の電気に照らされ、透き通るような緑色の光を放っている。

それは母のものだった。

「ねえ、手首にしてるそれ、どこから持ってきたの?」

「蒼真くんがくれたの」梨花が手首を見つめて、無邪気に笑う。「あなたが全然使ってないからって。引き出しに入れたままじゃ輝きも鈍るし、ヒスイは身に着けてこそのものだって、知らないの?」

「それ、母の形見なんだけど」

「知ってるよ?」梨花は灯りの下で腕を動かし、まるで口紅の色でも品定めするように言った。「でも、アクセサリーっていうのは、似合う人がつけた方がいいでしょ?」

こめかみが激しく脈打つ。

私は梨花に駆け寄り、彼女の手首を強く掴んだ。「返して」

「何するのよ!痛いっ――」

梨花が悲鳴を上げて、後ずさった。

すると、廊下の奥から足音が近づいてくる。

部屋の前に現れた蒼真は、室内を見回し、私が掴んでいる梨花の手首に視線を止めた。

「手を離せ」

その言葉に「誰」という主語は無かったが、それが誰への命令かは明確だ。

「梨花が私の母のブレスレットを持ってたから」

「俺がやったんだ」

蒼真は歩み寄ってくると、私の指を一本ずつ強引に剥がしていく。まるで、価値のない何かを取り外すように。

そして梨花の手首を握り、確認し始めた。

「痛むか?」

すると、梨花は首を横に振り、目を潤ませる。「私が悪いの……凪がそんなに大切にしてるなんて、知らなかったから」

「お前は悪くない」蒼真は梨花から手を放し、私を冷ややかに見据えた。「何をそんなに騒ぐことがある?ブレスレット一つで大げさな奴だな」

「母が残してくれた唯一の形見なの!」

「お前の母親はもう死んだんだ」

その一言を言った蒼真は、とても冷静だった。

「お前が持っていても無駄になるだけなんだ。欲しがってる梨花にやって何が悪い?」

梨花はここぞとばかりに鼻をすすり、か細い声を出す。「やっぱり……凪に返すよ。本当に――」

「返す必要はない」蒼真は梨花の肩を抱き寄せ、彼女の言葉を遮った。「梨花、お前は先に部屋へ戻って休んでろ」

梨花が私の横を通り過ぎる際、私にだけ聞こえる声で呟いた。

「母親の形見すら守れないのね」

ドアが閉まった。

蒼真は机に寄りかかると、スマホの画面を私へ向ける。

それは玄関の防犯カメラの静止画だった。

時間は6時7分。

「大使館に行ってたんだな」

「うん」

「梨花に譲れと言ったはずだよな?俺の話の意味が分からなかったのか?」

「あなたが言ったからって、その枠が誰かのものになるなんてことはないの。大使館だって、ちゃんと書類を審査するんだから」

「梨花のよりお前の資料の方がよくできているとでも?」蒼真が鼻で笑う。「梨花の経歴も推薦状も、どれもお前が敵うものか?だから、お前がその枠を取ることは、梨花の邪魔をしているのと同じなんだよ」

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
9 Chapters
第1話
実家が没落して奥山家に居候するようになってから、奥山蒼真(おくやま そうま)は一度も私・栗原凪(くりはら なぎ)をまともに見ようとはしなかった。だが、留学申請の前日、蒼真は珍しく私の代わりに必要な書類をまとめてくれた。別れを惜しんで目を赤くした私は、準備を終えると、お礼を言おうと蒼真の書斎のドアを開けた。すると、中にいた蒼真は足を組みながら、電話の向こう側の相手に笑いかけていた。「安心しろ。あいつの大事な書類を2つ、わざと入れなかったから。確実に落ちるはず。そうすれば、お前の枠が空くからな」入り口で立ち尽くす私と蒼真の視線が合う。蒼真は面倒くさそうに電話を切った。「盗み聞きか?お前の英語じゃ、行っても恥をかくだけだろ?だから、梨花に枠を譲れ。あいつが行った方がいいんだから」大雨の中で私の手を取って「怖がらなくていい。俺が一生養ってやるから」とまで、言ってくれた人なのに、今では私の未来の邪魔をしてくる。その日、私は涙を拭った。徹夜で足りない書類を補い、夜が明けると、始発の電車で大使館へ向かった。……「朝早くからどこへ行ってたの?」帰ってきてドアを開けると、井上梨花(いのうえ りか)が私のベッドの上で胡坐をかき、私のアルバムをめくっていた。シルクのパジャマを着て、髪を下ろした姿は、まるでここが自分の家だと言わんばかりだ。視線を梨花の左手首に落とした瞬間、私は体が凍りついた。上質なヒスイのブレスレットが、部屋の電気に照らされ、透き通るような緑色の光を放っている。それは母のものだった。「ねえ、手首にしてるそれ、どこから持ってきたの?」「蒼真くんがくれたの」梨花が手首を見つめて、無邪気に笑う。「あなたが全然使ってないからって。引き出しに入れたままじゃ輝きも鈍るし、ヒスイは身に着けてこそのものだって、知らないの?」「それ、母の形見なんだけど」「知ってるよ?」梨花は灯りの下で腕を動かし、まるで口紅の色でも品定めするように言った。「でも、アクセサリーっていうのは、似合う人がつけた方がいいでしょ?」こめかみが激しく脈打つ。私は梨花に駆け寄り、彼女の手首を強く掴んだ。「返して」「何するのよ!痛いっ――」梨花が悲鳴を上げて、後ずさった。すると、廊下の奥から足音が近づいてくる
Read more
第2話
「自分で稼いだお金で申請してるから」「自分で稼いだって?」蒼真は冗談でも聞いたかのように笑った。「お前の父親の会社が倒産する前、自分がどんなだったか忘れたのか?うちが拾ってやらなきゃ、大学にだって通えてなかったはずだよな?」「だから、私の許可もなしに書類を2通も抜いたの?」蒼真の表情が一瞬凍りついた。しかし、それは後ろめたさからきたものではなく、驚きのようだった。私が気づくとは、いや……気づいたとしても対応するとは、思ってもいなかったのだろう。「どれくらい聞いた?」「全部」部屋が一気に静まり返る。蒼真は踵を返し部屋を出て行った。入り口で一度足を止めたが、振り返ることはなかった。「ビザが下りるかなんてまだわからないんだから、喜ぶのは早いぞ」ベッドの上のアルバムは、私の10歳の誕生日のページで開かれたまま。そして、梨花はそのページを一枚引き裂いて持って行った。その写真は、蒼真が私の手を引く姿が写っていたものだった。……「本気で荷物まとめてるの?」翌日の昼、また梨花がやってきた。ドアの枠にもたれかかり、キャリーケースに服を詰め込む私を見下ろす梨花。口元の笑みはいつも通り、完璧に作り込まれたものだった。「あなたに関係ある?」「そんなつんけんしないでよ。私は心からあなたのことを心配してるんだから。言葉が通じない国での生活は本当に辛いんだよ。だから、蒼真くんも、あなたに合わないんじゃないかと思って――」「だからわざと大事な書類を抜いたってわけ?」梨花はまばたきを一つして、何も答えず棚から青い表紙のノートを取り出し、めくり始めた。一気に頭に血が上る。それは私の日記だ。「それを置いて」「あなた、昔はこんなに字が下手だったんだね」梨花がページをめくりながら声に出す。「今日、蒼真が傘に入れてくれた。彼も私のこと――」私は日記をひったくった。すると、後半のページに端が折られた跡があることに気づいた。空白の部分には、鉛筆で何やら文字が書き込まれている。しかし、これは私の筆跡ではない。2月14日のページには「重要」、7月のページには「使える」と書かれ、横にはチェックマークもあった。「ねえ……私の日記に書き込みをしてたの?」「凪、なんで蒼真くんがあなたのことを、毛嫌いする
Read more
第3話
私が彼らに背を向けて荷造りを再開したとき、ポケットの中でスマホが震えた。なんとなくSNSを開いて、梨花の名前を入力する。画面には、フォロワー数83万のアカウントが表示された。最新の投稿は1時間前。昨日の昼間、私が梨花の手首を掴んだ時の防犯カメラの映像が貼られていた。梨花の顔にはボカシが入っているのに、私の顔はそのまま晒されている。【また凪に叩かれた。でも、怖くて蒼真くんには言えない】コメント欄は罵詈雑言の嵐。【警察に行ったほうがいいよ!】【この凪ってやつ、何なの?】【身元も住所も晒しちゃって!】そのまま下へスクロールしていく。3か月前、半年……そして、1年前。そのどれもが、完璧に被害者を演じきっていた。そして、最初から最後までボカシ一つ入れられていない悪役は私。一番「いいね」がついているコメントにはこうあった。【こんな人間は、その家からすぐに追い出されるべき】いいねの数は6300件。……「もしもし、栗原さんでしょうか?」3日目の朝、リビングで洗濯物を畳んでいると電話が鳴った。電話の主は、留学プログラムの審査担当。「スクリーンショットや動画が添付されており、栗原さんによるいじめが、匿名で通報されています。事実確認をさせていただきたくご連絡いたしました」「通報ですか?」「監視カメラの映像で、ある女性の手首を強く掴んでいる様子が確認されました。また、SNSに投稿された、栗原さんからの暴言や脅迫を受けたと主張する書き込みも多数送られてきています。事実であればプログラムの参加資格を再審査せざるを得ません」危うく、スマホを手から落としそうになる。電話を切って梨花を探すと、庭で花に水をやっていた。「私を通報したの?」「何のこと?」梨花は水やり用のじょうろを持ったまま、まぶしい笑顔で答えた。「通報って何?」「あなたのアカウント。83万人のフォロワーがいるアカウントで、私に嫌がらせをされているって書いているでしょ。その画像が送られたせいで、留学プログラムの審査に引っかかったの」「それはフォロワーが勝手にやったことじゃないの?」梨花は瞬きをひとつする。「私にはどうすることもできないから。まさか、私がやらせたって思ってる?凪、考えすぎ」「じゃあ、あの動画を消して」「動画って
Read more
第4話
「ごめんね、凪。蒼真くんが、あなたの部屋を私のウォークインクローゼットにするって言って。あなたの荷物はまとめておいたし、シワになったら困ると思って、カバーもかけておいたよ。あ、別に感謝なんかしなくていいからね」私は床にかがみこんで、一枚ずつ拾い集める。そのうちの一枚は踏まれていた。父の顔の上についた靴の跡。遊園地の前で父が私を抱き上げてくれている、最後の家族写真。「あなたが踏んだこの写真、父と撮った最後の一枚なの」梨花は首をかしげた。「私、踏んでなんかないよ?荷物を運ぶ時にたまたま……」すると、階下から蒼真の声が聞こえた。「凪、片付けが終わったならゲストルームに移れ。廊下でぼさっとしてるな」……【栗原様。ビザ申請が承認されました。3営業日以内にパスポートを受け取りに来てください】深夜2時、リビングのソファでメールの通知音に目を覚ます。画面の光がまぶしい。「Approved」の文字を三度読み返して、夢じゃないことを確かめた。起きて散らばった書類を確認し、必要なものだけをバッグに詰め込む。ポケットの踏まれた例の家族写真を取り出し、丁寧に折ってパスポートケースに挟んだ。大切なものが入った箱の底から、外に散らばらなかった最後の一枚を見つける。それは10歳の頃、大雨の日の写真。学校の前から家まで、蒼真が私の手を引いて走ってくれた。制服はずぶ濡れだったが、彼は振り向いて笑っていた。その瞬間を収めたもの。長いこと見つめてから、書斎の机に置く。蒼真へ残そう。そして、もう存在しない、あの蒼真へのさよならでもある。深夜4時、スーツケースを引いて梨花の部屋の前を通ると、半開きのドアから電話をする声が漏れてきた。「安心して。凪のビザなんか絶対通らないって、蒼真くんもそう言ってたから。重要な書類が足りないから、大使館が落とすはずだって」そう言って、彼女は甘く、そして静かに笑う。「不許可の通知が来れば、あの枠は当然私たちのものよ。決まったら美味しいものをご馳走するね」ドアの前で、私は最後まで聞いた。ノックもせず、声も出さずに。スーツケースを持って階下へ降り、玄関を静かに閉める。まだ薄暗い中、街灯の光が地面をぼんやりと照らし、空気は冷たく澄んでいた。始発の電車に乗り込むと、車両には
Read more
第5話
「君が栗原の娘さんかい?」到着した日、迎えに来てくれたのは学校のボランティアっぽくはなく、白髪まじりの男だった。出口でその男が掲げていた紙には、私の名前が書かれている。「どちら様でしょうか?」「結城宗一郎(ゆうき そういちろう)だ。君のお父さんの古い友人であり、君のプログラムの指導教員でもあるんだよ」宗一郎は紙を畳んでポケットにしまうと、私の顔をじっと見て言った。「君はお母さんにそっくりだな」宗一郎の車で学校へ向かう途中、私は母の手紙のことを彼にかいつまんで話した。話を一通り聞き終えた宗一郎は、黙ったまま車を走らせる。しばらくすると、「井上誠(いのうえ まこと)」と、宗一郎がぽつりと呟いた。「梨花の父親ですか?」「君のお父さんの当時の共同経営者だよ。社会が不景気に見舞われた時、栗原の会社も例に漏れず、資金繰りに行き詰まった。そこで井上は銀行と結託して悪質な貸し剥がしを行い、同時にダミー会社を使って安値で買収することを画策した。それは、準備から実行まで3ヶ月もかからず、栗原は何が起きたか知る暇もなくすべてを失ったんだ」窓の外の景色は見たこともないほど眩しく、広い通りでは街路樹の葉がはらはらと舞い落ちている。「その後、栗原は取り返そうとしたが、証拠を集めている最中に倒れてしまった。でも、君のお母さん一人では裁判をする金もなく、諦めるしかなかったんだ。だから、奥山家に頼ったんだ。あの時、君のお母さんにできる唯一の選択だった。奥山家と井上家は取引関係があったから。それに、奥山家はただの旧友だと思っていたんだろう。でも、彼女は内情を知らなかった。まさか、あの安値で買収した裏側に奥山家も噛んでいたとは思わなかったのだろう」車は古い集合住宅の前で止まった。スーツケースを手に道端に立つ。風が強く、学内の旗が激しくなびいていた。宗一郎は私の荷物を、4階の小さな部屋に運んでくれた。「結城先生、母が手紙に一つ書いていたんです。『見つけた証拠は、ヒスイのブレスレットの中に隠した』と」宗一郎の手が止まる。「ヒスイのブレスレット?」「はい。母が私に残してくれたものです」「それは今どこに?」部屋の照明が何度か点滅して、低い音を立てながら明かりが灯った。「梨花が持っています」宗一郎はじっと私を見つめ
Read more
第6話
「でも、草案も修正記録も、全部私が持ってる」「うん。パソコンに時間記録つきのファイルが残ってるはずだけど、取ってある?」「あるよ。引っ越しの時にバックアップをハードディスクに取っておいたから」「凪ちゃん、大学に通報する?」窓の外から、隣の部屋でバイオリンを練習する音が聞こえてくる。「まだ今じゃない。とりあえず、受賞者発表のページのスクリーンショットだけ撮っておいてもらえる?あと、梨花がどの雑誌に投稿したかも調べてほしいの」「わかった。あ、それと。もう一つ……」「なに?」「先月、奥山さんから教務課に問い合わせがあったの。凪ちゃんの今の住所と連絡先を教えてほしいって。教務課の人に教えるべきか聞かれたから、私が断っておいたよ」「ありがとう」「奥山さん、すごく焦って探してるみたい。前使ってたスマホにも何百回って電話をかけたらしいし、最後は誰かにお願いして大学まで聞きに来させてたっぽいよ。凪ちゃん、一体なにがあったの?」「どうでもいいの」電話を切ると、ノートパソコンを開いてハードディスクの中からその論文のフォルダを探した。全部で23のファイル。プロットから最終原稿まで、すべてのファイルに確かな時間記録がある。そして、一番古いファイルは、3年前の9月だった。梨花が論文を出したのは、去年の12月。私よりも、2年遅い。すべてのデータをコピーして3つのファイルを作る。一つはクラウドに、一つは澪へ送り、もう一つは暗号化したUSBに入れた。それを終えた頃には、もう深夜になっていた。机には来週提出の課題が広がっていて、宗一郎に与えられたタイトルが書かれている。【多国籍企業の株式買収における法的欠陥】私はその下に、母の手紙を置いた。【その名前は、『井上梨花』】ペンを取り、私は課題の冒頭の空白に一行だけ小さな字で書き込んだ。【井上誠。20XX年。悪質な貸し剥がし。ダミー会社。安値での買収】ノートを閉じ、電気を消す。……「次は、国際研究プログラムの栗原さんです」講壇に立つと、会場には200人くらいの人が座っていた。宗一郎が取り計らってくれた学術フォーラムでの発表で、議題はクロスボーダー資本流動におけるコンプライアンス・リスクだった。全編英語での発表。3ページ目のパワ
Read more
第7話
「で、今私を見つけたとして、それが何なの?」蒼真が私を見る。唇を何度も動かして、ようやく絞り出された声は、掠れていた。「俺が悪かった」蒼真の口から出たその一言は、どんな映画のセリフよりも嘘っぽく聞こえる。廊下をほかの参加者が通り過ぎ、知り合いが一人、私に会釈をして行った。「蒼真。今さっき、中で20分座っていたよね」「ああ」「私の英語でのプレゼン、ちゃんと聞き取れたの?」蒼真が黙り込んだ。「私の英語は酷いとか、留学しても恥をかくだけとか言ってたわね」私は蒼真を見つめる。「それに、梨花の方が私より相応しいとも言った」「凪……」「うちの家系はもう終わってるから、留学しても結局は笑われるだけだって言ったよね?」「俺は……」「あなたが私に言った言葉、全部覚えてるから」蒼真は手を伸ばしかけたが、また下ろした。その指先が小さく震えている。「梨花は……お前が思っているような奴じゃない」「じゃあ、どんな人だって言うの?」しかし、蒼真の答えは、会場スタッフに遮られた。次の講演の準備のため、会場を空けるようにと告げられる。私は資料を鞄に入れると、彼に背を向けて歩き出した。蒼真が数歩、私のあとを追ってくる。「凪、いつからそんな人間になったんだ?」私は立ち止まったが、振り返りはしない。「ずっとこうだったよ。あなたが一度もちゃんと見てくれなかっただけでしょ?」……「凪、久しぶり」学会2日目の午後、ポスター発表のブースに梨花が現れた。梨花は私が奥山家にいた頃によく着ていたベージュのカーディガンを着て、手首には私の母のブレスレットまでしている。「なんでここに?」「蒼真くんが来るなら、私も来るに決まってるでしょ?」梨花はポスターに目を走らせ、ふっと笑った。「研究、すごく進んだのね。留学のおかげ?」「それを言いに来たの?」「そんなわけないでしょ」梨花はポケットに手を突っ込んで、声を落とした。「凪、あなたが調べてることは知ってるよ。でも、論文のことを公にしても、あなたに得にはならないと思うよ」「自分の心配?」「あなたのことを心配してるの」梨花は小首を傾げた。完璧に作り込まれた、これまで数々の男を落としてきたであろう心配そうな表情。「海外で一人暮らしってだけで大変なんだから、そん
Read more
第8話
「何してくれてるの?これで私の人生が台無しになったらどうするのよ!」「盗んだ時には、そう思わなかったわけ?」「凪!」梨花の声が裏返った。弱々しかった姿が一変し、ヒステリックに叫ぶ。「何様のつもり!結局、人の家に拾ってもらった居候の厄介者じゃない?なのに、こんなことして!」「梨花」私は一歩前に出て、梨花をまっすぐ見つめる。「論文を盗んだ件、徹底的にやらせてもらうし、母のブレスレットも取り返す。それに、あなたと父親が私の家族にしたことも――」梨花の瞳が大きく揺れた。「何か知ってるの?」私は答えない。振り返ると、廊下の3メートル先に蒼真が立っていた。どれくらい聞いていたのかは分からないが、彼の表情は、信じていた世界が崩壊した後のように凍りついていた。梨花は蒼真を見つけるや否や、泣きながらすがりつこうとする。「蒼真くん、凪が……」「梨花」蒼真の声は掠れていた。「あの論文、お前が書いたものじゃないのか?」「蒼真くん、違うの。それには訳があって……」「答えろ。あの論文は、本当にお前が書いたのか?」廊下が静まり返る。梨花の顔にはまだ涙が流れていたが、嗚咽は止まっていた。「私は……凪の資料を少し参考にしただけ。考えの根幹は私自身のものよ……」「23個のファイルと、3年分の修正記録」私は梨花を見ず、蒼真に向けて言った。「比べてもらえばすぐに分かるはずだから」「黙って!」梨花が化粧の崩れた顔で叫ぶ。「私が成功するのが気に入らないのね、この……」「もういい」梨花の言葉を遮ったのは、蒼真だった。彼はまるで初めてその女を見るかのように、冷めた目で梨花を見ていた。「凪の日記を勝手に見て、俺のこいつに対する印象を悪くしたのも、お前がやったのか?」梨花がごくりと唾を飲み込む。「あれは凪が書いたものを……少し見ただけでしょ……」「80万人以上もフォロワーがいるアカウントで、凪の写真をSNSで勝手に投稿して、炎上しているにもかかわらず、1年も放置して自分は何も知らないと言うつもりか?」蒼真の声は抑揚を失い、低く沈んでいった。まるで自分自身に問いかけるように。「凪の性格がひねくれているとか、考えすぎだとか、恥ずかしいやつだとか……それは全てお前が俺に思わせていたのか?梨花がたじろぐ。「
Read more
第9話
蒼真は目を閉じた。「凪……」「あなたが梨花のために私の申請書類をわざと抜いたこと。私の部屋を梨花に明け渡して、私の目の前で梨花の方がふさわしいと言ったこと……でもね、そんなことはもうどうだっていい。一番許せないのは、あなたが井上家の悪事をどこまで知っていたのかっていうこと」蒼真は口を開いたが、声はほとんど聞こえなかった。「知らなかった」「なら、今知ったでしょ?」梨花は地面にしゃがみこみ、化粧の崩れた、ぐちゃぐちゃになった顔で震えていた。「私じゃない。あれは全部お父さんがやったこと。私には関係ない……」しかし、誰も梨花を見ようとはしない。私は梨花の前に歩み寄り、しゃがんで彼女の腕からヒスイのブレスレットを外す。梨花は抵抗しなかった。母の形見のブレスレットが手の中に戻ったとき、それはひんやりと冷たかった。私は立ち上がって、蒼真のそばを通り過ぎる。彼は袖を掴もうと手を伸ばしたが、指先が触れただけで握ることはなかった。「凪、俺に何ができる?」「何もする必要はないから」……「凪、頼むよ」1ヶ月後、留学プロジェクトの修了式の日に蒼真が校門の前で待っていた。彼はすっかり痩せ細り、大きなコートはぶかぶかで、街路樹の下に立つ姿は倒れそうな木の杭のようだった。「まだ来るのね」「梨花の父親のところに調査が入ったんだ。奥山家のことも、父さんに問い詰めて白状させたから、弁護士を通じて捜査協力の書面を出したよ」「そんなことは私じゃなくて、弁護士に話して」「最後まで聞いてくれ。梨花の学術賞は取り消され、大学からも除籍された。SNSのアカウントも事実無根の書き込みで凍結されたんだ。知っていると思うけど……」「うん、知ってる」「俺にできることは、すべてやったつもりだ」「蒼真。あなたがそんなことをしているのは、自分の罪悪感を軽くしたいだけで、私のためじゃない」蒼真が言葉を失った。「私が奥山家にいた3年間、どれだけの夜をゲストルームの天井を見つめながら一人で過ごしたと思ってるの?梨花が私の日記を読んでいるのを知っていながら、あなたは知らないふり。彼女が勝手に私の写真を投稿しても、私の服を着ても、私の母の形見を身につけても……あなたは見て見ぬふりをした。知らなかったんじゃない。私のこ
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status