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奈落の真紅はいつか散る

奈落の真紅はいつか散る

By:  穂守巫Completed
Language: Japanese
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二宮知世(にのみや ちせ)は声をひそめて言った。 「二宮おじさん、この間おっしゃっていた条件……妹の代わりに、私があの家へ嫁ぐことを受け入れます」 その口調は柔らかだった。表情にも一切の動揺は見えない。だが、彼女の指先は、自分の掌の肉を深々と食い込むほどに握りしめられていた。 静まり返った居間で、知世の言葉は水があつい油鍋に落ちたかのように、一瞬にして激しい反応を引き起こした。 ソファの向こうでその言葉を聞いた優太の父は、思わず顔をほころばせた。 「本当にそう決めたのかい?君が本当に妹の代わりに嫁ぐってのか?」 知世はこくりと頷き、声を強くした。 「ええ、もう決めました」 「よし、よし……代わりに嫁ぐというなら、長谷川家の方は十五日もあれば式の日取りを決められるだろう。他のことはこっちで何とかする」優太の父はそう言うと、スマートフォンを操作し始めたが、何か思い出したように顔を上げた。「ところで知世、君が付き合っているって言ってた彼氏とは、もう別れたのか?」 知世は唇を噛み、重たいように「うん……」と答えた。 その様子を見て、優太の父は何かを悟ったようだ。 「まあ、いいさ。長谷川家の次男坊は、君の言う彼氏なんかより、あらゆる面でずっと優れた男だ。君の選択は間違ってない。ただな……長谷川家は常に海外で事業をしている。知らないどころで、多少の不便は覚悟しなきゃならんかもしれないがな」 優太の父は一呼吸置き、口調に少し後ろめたさを滲ませて続けた。 「知世よ、二宮家は君を長年育ててきた。もし君が望むなら、俺はこれからも君の父親であり続けたい。ただ……家族を、妹を恨まないでほしい。お願いだ」 優太の父の鬢の白髪を見つめながら、知世は唇を噛みしめ、伏せたまつげを上げた。口を開こうとしたその時だった。 「海外?……何の話をしているんだ?」 突然の声が、知世の言葉を遮った。

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Chapter 1

第1話

二宮知世(にのみや ちせ)は声をひそめて言った。

「二宮おじさん、この間おっしゃっていた条件……妹の代わりに、私があの家へ嫁ぐことを受け入れます」

その口調は柔らかだった。表情にも一切の動揺は見えない。だが、彼女の指先は、自分の掌の肉を深々と食い込むほどに握りしめられていた。

静まり返った居間で、知世の言葉は水があつい油鍋に落ちたかのように、一瞬にして激しい反応を引き起こした。

ソファの向こうでその言葉を聞いた優太の父は、思わず顔をほころばせた。

「本当にそう決めたのかい?君が本当に妹の代わりに嫁ぐってのか?」

知世はこくりと頷き、声を強くした。

「ええ、もう決めました」

「よし、よし……代わりに嫁ぐというなら、長谷川家の方は十五日もあれば式の日取りを決められるだろう。他のことはこっちで何とかする」優太の父はそう言うと、スマートフォンを操作し始めたが、何か思い出したように顔を上げた。「ところで知世、君が付き合っているって言ってた彼氏とは、もう別れたのか?」

知世は唇を噛み、重たいように「うん……」と答えた。

その様子を見て、優太の父は何かを悟ったようだ。

「まあ、いいさ。長谷川家の次男坊は、君の言う彼氏なんかより、あらゆる面でずっと優れた男だ。君の選択は間違ってない。ただな……長谷川家は常に海外で事業をしている。知らないどころで、多少の不便は覚悟しなきゃならんかもしれないがな」

優太の父は一呼吸置き、口調に少し後ろめたさを滲ませて続けた。

「知世よ、二宮家は君を長年育ててきた。もし君が望むなら、俺はこれからも君の父親であり続けたい。ただ……家族を、妹を恨まないでほしい。お願いだ」

優太の父の鬢の白髪を見つめながら、知世は唇を噛みしめ、伏せたまつげを上げた。口を開こうとしたその時だった。

「海外?……何の話をしているんだ?」

突然の声が、知世の言葉を遮った。

……

二人が声の方へ振り返ると、丁度帰宅したばかりの二宮優太(にのみや ゆうた)の姿があった。厄介な仕事を片付けてきたらしく、顔には少し陰りが浮かんでいた。長く続く仕事の疲れが、彼の目の下に隈を作っている。

優太は上着を脱ぎ、それを受け取った知世がおとなしく声をかけた。

「お兄さん、二宮おじさんと海外のニュースの話をしていたの」

優太は彼女を一瞥すると、優しい微笑を浮かべ、そっと彼女の頭を撫でた。

「そうか。それなら、ゆっくり話してくれ。俺は少し休みたい」

優太の背中が階段に消えるのを見届けると、知世は上着を傍らの使用人に渡し、優太の父に向き直ってほほえんだ。

「二宮おじさん、結婚式の件はすべてお任せします。でも、一つだけお願いがあります。他の誰にも、特に優太には……内緒にしていてください」

優太の父は理解できない様子だったが、深く考えずにうなずいた。知世は微笑むと、優太の後を追うように階段を上っていった。

階段を上りきった瞬間、彼女の腰に突然強い力が加わった。次の瞬間、彼女は何の前触れもなく、慣れ親しんだ腕の中に引き寄せられていた。

首筋が温かい湿り気に触れ、熱い息が頬にかかり、次に唇に軽く噛まれるような感触が走った。逃げ出そうとしたが、腰を締め付ける腕の力はますます強まり、この狭い場所で、彼女はまったく身動きが取れなくなっていた。

大人の男性の力に抗う体力など彼女にはなく、彼の次第に深くなるキスを、ただ受け入れるしかなかった。

優太は彼女の硬直した様子を感じ取り、長くはキスを続けず、そっと離した。

「どうしてそんなに嫌がるんだ?また俺の何かが気に障ったか?」

自由になった知世は、やっと息ができ、軽く喘いだ。彼女はうつむいたまま黙り込み、両手を二人の間に差し挟むようにして、無言の抵抗を示した。

答えを得られなかった優太の表情は次第に険しくなり、周りの空気は息苦しいほどに重くなっていった。

彼は彼女の顎を掴み、無理やりに自分の目を見させた。

「知世、理由もなくそういう態度を取られるのは嫌だって、言ったはずだ」

彼がこうなると怒っているのだと知っていた知世は、瞬きをして、声を柔らげて弱々しく言った。

「今日は雨だから……腕の関節が少し痛くて……お兄さんに反抗してるわけじゃないの……」

彼女が折れたのを見て、優太の表情はようやく和らいだ。

「そうか……前回、海外から持って帰ってきた薬は効かなかったのか?雨の日はまだ痛むのか?」

「うん……」

優太は彼女を解放した。「わかった。自分の部屋に戻って、暖房の温度を少し上げておけ」

知世はおとなしくうなずき、肘の関節をさすりながら急いで自室に戻った。

冷たい軟膏を塗って数分もすると、痛みはほとんど引いていた。ベッドに横たわっても、どうしても眠れなかった。

誰も知らない。優太の父が口にした「彼氏」とは、実は彼女の兄・二宮優太のことだということを。

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第1話
二宮知世(にのみや ちせ)は声をひそめて言った。「二宮おじさん、この間おっしゃっていた条件……妹の代わりに、私があの家へ嫁ぐことを受け入れます」その口調は柔らかだった。表情にも一切の動揺は見えない。だが、彼女の指先は、自分の掌の肉を深々と食い込むほどに握りしめられていた。静まり返った居間で、知世の言葉は水があつい油鍋に落ちたかのように、一瞬にして激しい反応を引き起こした。ソファの向こうでその言葉を聞いた優太の父は、思わず顔をほころばせた。「本当にそう決めたのかい?君が本当に妹の代わりに嫁ぐってのか?」知世はこくりと頷き、声を強くした。「ええ、もう決めました」「よし、よし……代わりに嫁ぐというなら、長谷川家の方は十五日もあれば式の日取りを決められるだろう。他のことはこっちで何とかする」優太の父はそう言うと、スマートフォンを操作し始めたが、何か思い出したように顔を上げた。「ところで知世、君が付き合っているって言ってた彼氏とは、もう別れたのか?」知世は唇を噛み、重たいように「うん……」と答えた。その様子を見て、優太の父は何かを悟ったようだ。「まあ、いいさ。長谷川家の次男坊は、君の言う彼氏なんかより、あらゆる面でずっと優れた男だ。君の選択は間違ってない。ただな……長谷川家は常に海外で事業をしている。知らないどころで、多少の不便は覚悟しなきゃならんかもしれないがな」優太の父は一呼吸置き、口調に少し後ろめたさを滲ませて続けた。「知世よ、二宮家は君を長年育ててきた。もし君が望むなら、俺はこれからも君の父親であり続けたい。ただ……家族を、妹を恨まないでほしい。お願いだ」優太の父の鬢の白髪を見つめながら、知世は唇を噛みしめ、伏せたまつげを上げた。口を開こうとしたその時だった。「海外?……何の話をしているんだ?」突然の声が、知世の言葉を遮った。……二人が声の方へ振り返ると、丁度帰宅したばかりの二宮優太(にのみや ゆうた)の姿があった。厄介な仕事を片付けてきたらしく、顔には少し陰りが浮かんでいた。長く続く仕事の疲れが、彼の目の下に隈を作っている。優太は上着を脱ぎ、それを受け取った知世がおとなしく声をかけた。「お兄さん、二宮おじさんと海外のニュースの話をしていたの」優太は彼女を一瞥すると、優しい微笑を浮かべ
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第2話
十三歳の時、彼女は二宮家に孤児院から引き取られた。きっかけは優太が「妹がほしい」とふと言った一言だけ。そうして彼女は優太の、血の繋がらない妹となった。十七歳、恋心が芽生える年頃。彼女はパソコンで「自分のお兄さんを好きになったらどうする?」と検索したところを優太に見つかってしまう。彼の探るような視線に顔を真っ赤に染めたその時、優太はそっと彼女の頭を撫でると、口元に軽くキスを落とした。二十歳の時、二人は両親に内緒で禁断の果実を味わった。優太は責任を取ると言った。「両親が反対しても、血は繋がってない。お前を嫁に貰う」と。そんな幸せがいつまでも続くと思っていた矢先、知世が二十四歳の誕生日を迎えた日、二宮家の幼い頃に迷子になった実の娘、尾松美沙(おまつ みさ)が戻ってきた。美沙は迷子になった後、さほど苦労はせず、二宮家よりも裕福で権力のある尾松家に引き取られていた。しかし尾松家は彼女を政略結婚の道具としか見ておらず、長谷川家の障害を持つ息子に嫁がせようとしていた。嫁ぐ気のない美沙は、かつて目にした養子縁組の証明書を見つけ出し、実家に戻ってきたのだ。尾松家はこれを知ると激怒し、「いずれにせよ、こちらの人間を一人嫁がせる」と言い渡してきた。それを聞いた優太の母は、美沙を抱きしめながら「可哀想に……」と涙ぐみ、夫に「やっぱり知世を嫁がせるしかないんじゃないかしら?所詮は血の繋がらない子だし、育ててやった恩返しと思って」と相談した。知世はそれを聞き、はっきりと断ろうと思った。しかし、自分を育ててくれた二宮家の両親が哀願するような目で見つめているのを見ると、心が揺らいだ。そこで優太に二人の関係を打ち明けて、両親に話せば、堂々と一緒になれるかもしれないと考えた。しかし、その淡い期待は、その日、偶然にも優太と友人たちの飲み会に出くわしてしまったことで、完全に打ち砕かれてしまう。その日、優太の母に哀願され、泣きはらした目で優太のもとへ駆けつけた知世だったが、個室のドアを開けた瞬間、友人たちの嘲るような言葉が飛び込んできた。「二宮さん、あの家が引き取った孤児、遊んでみてどうだった?昔、俺らに『遊んでみるだけなら損はない』って言ってたけど、まだ手放してねーのかよ?」「二宮さんが『嫁に貰う』って言った時、あの子メソメソ泣いてたのマジで笑えたわ。世間知らず
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第3話
知世は翌朝、自然に目が覚めた。時計をちらりと見て、ベッドから起き上がり服を着替える。鏡に映った、腫れぼったい自分の目を見つめ、冷たい水を手ですくって顔を洗った。決心がついたのは一瞬のことだったが、積み重ねてきた年月の感情は偽れない。本当に、すぐに諦められるものではなかったのだ。彼女は真剣に考えた。後悔しないためには、優太ともっと関わることをなるべく避けるのが賢明だ。階段を下りると、美沙と見知らぬ女性がソファで楽しそうに話しているのが見えた。優太の母は目尻を下げて笑いながら、手招きした。「知世、ご紹介するわ。こちらは優太の婚約者、安藤真希(あんどう まき)さんよ。美沙の親友でもあって、今日は結婚式の打ち合わせでいらしてるの。ちょっと台所に行って、おかず出してきてくれる?」真希は立ち上がり、知世に優しい笑みを向けた。「お手伝いしましょうか、二宮おばさん」「いいえいいえ、お客様なんだから美沙とおしゃべりしてて。知世にやらせればいいのよ」知世は喉が詰まるのを感じた。少し離れたところに座る優太をこっそり見ると、彼はこちらの反応をじっと見つめていた。視線が合うと、ただ薄く笑っただけだった。知世は何も言わず、黙って台所へ向かい、おかずを運び始めた。彼女が台所に入るやいなや、優太が後を追って入ってきた。彼は彼女の肩を抱き、人目につかない隅に引き寄せると、顎をつまんでキスをしようとした。知世は慌てて顔を背け、キスをかわした。「やめてよ。婚約者が外にいるんだから。見られたら説明がつかないでしょ」優太は軽く笑い、彼女の頬をつねった。「焼きもち?彼女が今日来るなんて知らなかったんだよ。親が勝手に決めた結婚相手に過ぎないんだ。好きなんかじゃない。俺が好きなひとって、わかってるだろ?」知世は彼を見つめ、静かな瞳に一瞬、苦しみが走った。それでも嘘をつくのか?知らないって?好きだって?でも、親が結婚相手を決めたことは知っているはずだ。自分が娶るのは家柄が釣り合う相手だけだとも言っていたし、彼女はただの遊び相手だとも言っていた。好きでもないのに、なぜ嘘をつくのか?そうだ、彼にとって、自分はただの面白いおもちゃに過ぎないのだ。そんな彼女の様子に、優太の心に違和感がよぎった。以前、知世が彼の妹だと思った女の子が、
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第4話
知世の胸の奥が、かすかに震えた。二人を見つめ、反論しようと口を開いたその時だった。次の瞬間、まるで昔からの親友かのように、二人が彼女の服装を褒めちぎったのだ。ふと後ろを振り返ると、優太が近づいてくるのが見えた。車に乗り込み、彼女の働く店を目指して向かった。店に着くと、美沙は真希を引っ張り、ウェディングドレスの試着を始めた。横では店員が、二人が気に入った何着ものドレスを抱えている。優太も選びに加わるよう促され、知世のことを気にかける余裕などなかった。知世はその隙を見て編集長を見つけ、とっくに書き上げていた辞表を手渡した。編集長はその辞表を受け取ると、少し驚いた様子だった。知世は以前、この仕事が好きでずっと続けたいと言っていたからだ。「急にどうしたの?何か不満でも?給料?それとも休みが欲しい?何かあれば言ってよ、上に掛け合ってみるから」知世は編集長の好意を丁重に断った。それ以上は言いにくそうにしていた編集長も、しばらく残念そうにした後、受け入れた。「……そう。わかった。じゃあ、奥で荷物をまとめておくね。業務の引き継ぎはもう済んでるし、あとは私に任せて」「知世――」少し離れたところから、真希が興奮した声で呼んだ。「ねえ、見て見て!知世がデザインしたスタイルのドレスばかり持ってきてもらったんだけど、私に似合うの少ないみたい。選んでくれない?」知世は口元をわずかに緩めて、よそよそしく返した。「真希がいいと思えばそれでいいんじゃない?美沙にも相談してみたら?」真希は甘えた調子で言った。「だって、いいのが選べないから知世に頼んでるんだよ。それに、披露宴の時に宣伝してあげるからさ、ね?」「人それぞれ似合うドレスは違うもの。本人が気に入るかどうかが大事で、私が選んで真希が気に入らなかったら困るでしょう」まだ断ろうとしている知世を見て、真希の口調が急に柔らかく弱々しくなった。「知世、そんなこと言うのは……私のこと嫌いなの?優太を横取りしたって思ってるの?」知世はその言葉に喉を詰まらせた。言い訳したいのに、どう言えばいいのかわからなかった。真希は涙を浮かべて、そばにいた優太を見た。「優太……知世は、私のこと嫌いみたい」優太は言った。「そんなことあるか」「だって、ドレス選びすら手伝ってくれないんだもん。私を受け入れ
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第5話
家に戻って初めて、腕や下腹部に痛みを感じた。トイレに行って確かめると、生理が始まっていた。生理のせいで体はさらに弱り、何度も寒気に震えながら無理をして熱いシャワーを浴びたものの、結局風邪をひいてしまった。ベッドに倒れ込み、布団にくるまっても、少しも温かさを感じられない。そうして間もなく、うつらうつらと眠りに落ちた。夢の中では、自分が奇妙な世界にいるような気がした。物の大きさが変わり、目の前で天井がぐるぐる回り、尖った棘が追いかけてくる。足がふらついて、全く走れない。目を開けると、知世は自宅ではなく、病院のベッドの上にいた。そして、自分を抱いているのは優太だった。彼は痛々しい表情で、熱いタオルで何度も彼女の体を拭いていた。その目には、本当に彼女を失うかもしれないという恐怖があふれていた。知世が目を覚ましたのを見て、優太は慌てて額で彼女の熱を確かめ、ほっとしたように長く息をついた。「本当にびっくりしたよ!何度呼んでも返事がなくて……中に入ったら全身が火のように熱くて……よかった、熱は下がったみたいだ」優太の焦る様子を見て、以前の知世ならきっと感動しただろう。でも今、彼女が思ったのは、優太の演技が本当に上手いんだな、ということだった。「水……飲みたい」「ああ、ちょっと待ってて」優太はすぐに立ち上がり、水を汲みに病室を出て行った。知世が水を飲みたいわけではない。ただ今、優太の顔を見たくなかっただけだ。彼が出て行くのを確認すると、震え続けていたスマホを取り出した。開いてみると、真希が作ったグループチャットだった。真希はSNSに一枚の写真を投稿していた。指輪をはめた二つの手がしっかりと握り合い、そのダイヤモンドがきらめいている。その光が、知世の目を刺すように痛かった。投稿には祝福のコメントが並んでいた。【SNSで二人のイチャイチャ見ちゃったよ~!マジ羨ましい!絶対結婚式行って、ごちそうしてもらうからね!】【羨ましすぎる……あなたたちの結婚式がどれだけ豪華になるか、想像もつかないわ】すると、真希からの個人メッセージが届いた。【このペアリング、いくらだと思う?あなたにはくれてなかったでしょ?】確かに優太は知世に指輪を贈ったことはない。でも彼は言っていた。生涯で最初で最後の指輪は、必ず知世の指にはめるって
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第6話
知世の熱が下がったその日、家まで迎えに来ると約束していた優太は現れなかった。代わりに携帯に届いたメッセージには、今日は会社に用事があるから行けず、代わりに運転手を向かわせたと書かれていた。しかし、病院の正面玄関で待てど暮らせど、見慣れた車の姿は一向に見えない。タクシーで帰ろうかと思い立ったその時、携帯が鳴った。真希から送られてきたのは一枚の写真だった。そこに写る優太は、「会社の用事」などとは程遠い様子で、真希の服を丁寧に畳んでいた。写真と一緒に送られてきたのは、真希の音声メッセージだった。【バカめ、まだ運転手が迎えに来るの待ってるの?あの運転手、私が荷物の運びに呼んだんだから。優太も知ってるよ。今日、私たちが選んだ新婚用の家に引っ越すんだから】嘲笑をたっぷり込めたその声に、知世は返信せず、ただ一人タクシーで家に戻った。真希と出会ったあの日以来、彼女からのメッセージは、まるでベタベタくっついて離れない絆創膏のように、毎日のように送られてくるのだった。台所で優太が彼女のために料理を作る背中の写真、彼女のそばで優太が眠っている写真、そして鎖骨のあたりに浮かんだ赤い痕跡……知世が無視すれば無視するほど、真希は挑発的なメッセージを送り続けた。【二宮知世、この写真見てどう思う?優太はあなたのこと、犬みたいに弄んでるだけなのに、あなたは本当に何の尊厳もなくしがみついてるんだね。孤児の根性ってやつか?愛に飢えてるのはどうやっても治らないんだな】知世はただ黙っていた。家に着くと、彼女は寝室の鍵のかかった大きな戸棚を開けた。そこには、人には見せられない、優太にまつわる彼女の秘蔵品がしまわれていた。二人で過ごしたこの数年間に買った恋愛の記念品や、出かけた先で買い求めた骨董品、それに、優太のために彼女が自ら編んだペアのマフラーや小さなぬいぐるみ、ブレスレットまで。思い出でいっぱいのそれらの品々を眺めながら、知世はただただ滑稽に思えた。愛おしい気持ちは確かにある。けれど、脳裏をぐるぐる駆け巡るのは、優太が口にしたあの言葉。彼は孤児を妻にはしない、本当に面白い、騙しやすいって。まるで悪夢のように、あの言葉はあの日以来、四六時中彼女の頭の中で行ったり来たり、彼女を嘲笑っている。ついに知世は耐えられなくなった。それらの品を全部
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第7話
知世は自室に何日も閉じこもり、ウェディングドレスのデザインに没頭していた。胃の不快感が警告を発して、ようやく彼女は丸一日何も食べていないことに気づいた階段を降りてキッチンに入り、冷蔵庫を開けると、適当にヨーグルトを手に取った。差し迫った空腹を和らげてから、広い二宮家の屋敷に誰もいないことに気づいた。優太の結婚式が近づき、二宮家もてんてこ舞いだ。養女として引き取られた孤児である彼女に、今や実の娘である真希が戻ってきた以上、誰も構うはずがない。何年も育ててくれたこの家を、憎むことはできない。少なくとも、二宮家は彼女を飢えさせたり苦しめたりはせず、今の彼女のキャリアを築くための多くのリソースも与えてくれた。疲れ切った体を引きずりながら、知世は再び仕事を続けるため階上へ戻ろうとした。ドレスが完成したら、全てをきっぱり捨てて、ここを離れる時だ。ドアノブに手をかけたその瞬間、彼女は荒っぽい力で廊下の壁際に押しつけられた。数えきれないほどのキスが雨のように降り注ぎ、首筋を伝って下へと向かう。突然の出来事に思わず悲鳴を上げそうになった知世は、必死にもがいたが、微動だにできないほど強く押さえつけられた。しかし、鼻に届いた懐かしい香りに、喉元まで上がっていた心臓の鼓動がようやく少し落ち着いた。次の瞬間、唇が柔らかな感触に包まれ、空気を奪われた。知世は唇を固く結び、優太のキスを避けようとした。だが、彼女が避ければ避けるほど、優太はより重く深く吻を刻んだ。目が回るほどキスされ、耐えきれずに心を鬼にして彼の唇を噛んだ。痛みに優太が離すと、知世はようやく手に入れた空気を大きく大きく吸い込んだ。話そうとしたその時、階下の玄関ドアが開く音がした。二宮家の人々と真希の声が聞こえてくる。彼らは婚約パーティーの打ち合わせをしているようだった。ふと真希が優太の部屋を見たいと言い出し、優太の母親は即座に承諾し、階上へ案内しようとしていた。優太の部屋は知世の部屋の真向かいにあり、二人は今まさにそのドアの前でキスしていたのだ。階段を上がってくる足音に、知世の心臓の鼓動はますます速くなった。優太の拘束から逃れようと、必死にもがき始めた。しかし、彼女がもがけばもがくほど、優太の力はますます強まった。焦った知世は声を潜めて警告するしかなかった。「離し
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第8話
彼女の涙が玉のようにこぼれ落ちるのを見て、優太の胸にはなぜか慌てるような気持ちが渦巻いた。付き合ってからというもの、知世だって泣いたりわがままを言ったりしたことはあった。でもそれはいつだって、少女のちょっとした気まぐれに過ぎない。優太がなだめればすぐに収まるものだった。だが今、目の前で彼女が無力感に打ちひしがれ、苦しそうに泣いているのは初めてのことだ。長い沈黙が続いた末、優太が先に折れた。彼は彼女を抱き寄せると、その涙にそっと唇を落とした。「ごめん、兄さんが悪かった。感情を抑えきれなくて……許してくれないか?」これまでは優太が謝れば、知世は必ずその言葉に乗って、甘えるように彼に抱き着いた。だが今回は違った。彼女は優太をまっすぐに押しのけた。「気分が悪いから、部屋に戻らせて」そう言い残すと、彼の返事を待たず、小走りに自分の部屋へと消えた。知世の視線が、真っ白なウェディングドレスをまとったマネキンの方へ向く。胸元はぽっかりと空いていた。あと一か所手を加えれば完成だ。その時こそ、彼女が優太のもとから完全に去る時でもある。それからの日々、知世が優太の姿を見かけることはほとんどなかった。それでも、真希からの嫌がらせは時折届いた。今日は彼女が去る日、そして優太と真希が婚約を交わす日でもある。知世はマネキンからドレスを丁寧に外し、入念にチェックを済ませると、梱包して安藤家へと送らせた。自分の荷物はとっくにまとめ、先に長谷川家へ送ってある。二宮おじさんが彼女を婚約パーティーに誘ってくれた。兄の大事な日を一緒に祝おうというのだ。どうせ知世の飛行機は午後発ち、時間は重ならない。ただの片隅でやり過ごすつもりだったが、車を降りた途端、目ざとい真希に見つかってしまった。真希は得意げな眼差しで知世を見つめ、全身から勝ち誇った者の余裕がにじみ出ていた。真希はとっくに知世の作ったドレスに袖を通している。純白のそのドレスはふわりと軽やかで、見る者誰もが褒めずにはいられない出来映えだった。両親に連れられてきた子供たちまでが、彼女を取り囲んで「お姉さん、きれい!」と声を上げる。「ありがとね、知世。優太が見た時、目が離せないくらいって言うの。こっちまで恥ずかしくなっちゃったよ」真希はそう言いながら、知世の腕を引いて会場の中へ連れて行く。入って
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第9話
知世が振り返ると、そこには険しい表情を浮かべた優太が立っていた。肝心の人物が到着したと見るや、真希はたちまち、大きな屈辱を受けたような表情に変わり、優太の胸に飛び込んだ。嗚咽をまじえながら訴え始める。「優太……私、知世に、私たちの正式な結婚式の時にぜひブライズメイドを頼みたいって話してただけなの。そしたら突然怒って私を叩いたの。顔が痛い……もしかして、私ってお嫁さん嫌われてるのかな?もしそうなら……私、行くから……」胸の中で泣く彼女があまりにも痛々しく、腫れ上がった頬を見て、優太の怒りは頂点に達した。「知世、真希がせっかく誘ってやってるんだぞ?気に入らなければ人を殴っていいとでも思うのか?二宮家がお前をそんな風に育てたのか?俺がそう教えたのか?お前の教養はどこへやったんだ?」知世は悔しさで目尻を赤くした。腕に鋭い痛みが走る。振りほどこうとしたが、優太の握る力は強く、もみ合ううちに「ブリッ」と不気味な布の裂ける音が響いた。次の瞬間、真希の悲鳴が上がった。彼女の顔が一気に赤らむ。なんとウェディングドレスが太ももから胸元まで裂けてしまい、少しでも動けば完全に肌が露出してしまう状態だったのだ。真希はすぐに追い打ちをかけるように、さらに大きな声で泣きわめいた。その声は遠くまで届き、人々の視線を集めた。「私のことが嫌いなのは分かってる!でもどうして私のドレスに細工までするの!?もうすぐ挙式なのに、私を人前で恥をかかせようってわけ!?」突然の展開に知世は呆然とした。彼女は確かに人に頼んで届けてもらう際、付いていた待ち針は全て外し、入念にチェックしたはずだ。布を傷つけるような鋭いものが残っているはずがない。「私……そんなことしてない、違う……」この光景を目にした優太は、ためらうことなく知世を平手打ちにした。力は強く、彼女はその場に打ち倒れた。優太はスーツの上着を脱ぎ、真希の露出した部分を覆った。挙式は延期すると告げると、冷たい目で床に倒れる知世を睨みつけた。「知世、本当にお前には失望したよ。いますぐ、真希に人前で謝れ!」謝る?何の真相究明もせずに、公衆の前で頬を打たれて、謝罪を強要する?真希に侮辱され、陥れられた彼女が、白黒もつけずに謝れだなんて。結局のところ、長年共に過ごしてきたにもかかわらず、彼は彼女を信じていなか
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第10話
飛行機は目的地まであと十数時間だ。機体が水平飛行に入り、張り詰めていた神経がようやく緩んだ途端、激しい睡気が押し寄せてきた。知世はもはや耐えきれず、疲れをたたえた瞼をゆっくりと閉じた。知らないうちに、十時間寝た。ようやく目を覚ましたのは、目的地まであと数時間という機内アナウンスが流れた時だ。窓の外では、地平線からゆっくりと太陽が昇り始めていた。その光景を見て、ようやく自分が本当に離れたのだという実感が湧いてきた。物心ついた時から孤児院で育ったけれど、青春時代の大部分は二宮家で、優太に守られるように過ごしてきた。今、まったく知らない土地で、全く知らない男性と政略結婚するのだと思うと、やはり不安はあった。それでも、叶うはずのない結果をいつまでも待ち続けるよりは、ずっとましだ。そう思うと、知世の緊張していた気持ちは、少しだけ和らいだ。彼女はスマートフォンを取り出し、付き添いの人が出発前に送ってくれた、既に用意済みの膨大なリストをざっと眺めた。足りないものがあれば言ってほしい、とのことだった。何ページにもわたるリストには、知世自身が考えもしなかったようなものまで網羅されており、彼女があれこれ心配する必要はまったくなかった。ただ、一つ気がかりなことがある。代わりに嫁ぐと承諾して以来、結婚相手となる人物についての情報は、ほとんど何も知らされていないのだ。顔さえ見たことがない。長谷川界人(はせがわ かいと)という名前と、障害があるという情報だけが、かすかに耳に入っているだけだった。政略結婚に感情などまずない。ほとんどは利害関係が絡んでいる。相手が自分のことをどれほど知っているのかもわからない。もし到着早々、気に入られずに破談にされたら……と思うと、それはそれでとても気まずいだろう……そんなあれこれの思いを巡らせているうちに、数時間はあっという間に過ぎた。飛行機が降下し、滑走路を滑り、停止する。乗客の降機が始まると、知世の胸の中では、緊張のあまり心臓がいっそう激しく高鳴った。周囲の乗客が大きな荷物を抱えているのを見て、知世は荷物を事前に送ってしまったことを急に後悔した。今あれば、その荷物の陰に隠れて、少しでも緊張を和らげられたかもしれないのに。付き添いの人に導かれてゲートを出た時、知世はすぐに自分の名前が書かれた掲示板を見
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