Share

第235話

Author: 藤崎 美咲
数人が声のした方を振り向いた。

悠真がゆったりと歩いてくる。表情はどこか気の抜けたようだが、全身から放たれる圧の強さは隠しようがなかった。

その姿を見た瞬間、幸三の額を伝って冷や汗がつうっと落ちた。

――あれ?彼と星乃はもう離婚したはずじゃ?

どうしてまた篠宮家に?

正隆はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭きながら、頭が破裂しそうなほど混乱していた。

幸三と律人の件すらまだ片づいていないのに、今度は悠真まで現れた。

本来なら、星乃が悠真を篠宮家に連れてくることは、正隆にとって悪い話ではなかった。食事の席でうまく話を運べば、悠真にいくつかお願いをして篠宮家の利益に繋げることもできる。

だが、篠宮家が冬川グループの案件を台無しにして以降、星乃と悠真の関係は日に日に悪化していった。

正隆は次第に悠真を恐れるようになった。

それでも、恐れはしても無礼にするわけにはいかない。

慌てて前に出て声をかけた。「悠真……さん、今日はどうしたんだ?」

「ちょっと顔を出しに来ただけだ」悠真は淡々と答えた。「その顔は何だ。歓迎されてないのか?」

「い、いえ、そんなことは……」正隆は引きつった笑顔を浮かべる。

正隆の言葉を、悠真は軽く聞き流し、視線をゆっくりずらして星乃を見た。

ちょうど律人が彼女の手を握り、ふたりで何かを小声で話していた。星乃は手を振りほどく様子もない。

悠真の黒い瞳が、わずかに沈んだ。

無意識に拳を握りしめる。

――いつの間に、あんなに男を惹きつけるようになった?

先ほど、正隆と星乃の会話もすべて耳にしていた。幸三の姿を見て、もうすべてを悟った。

つまり――離婚の噂がまだ広まっていない今、彼女は律人という恋人をつくったうえに、正隆はさらに彼女を別の男に差し出そうとしている。

悠真は視線を外し、再び正隆の方を見た。相変わらず、腰を低くして立っている。

悠真は鼻で小さく笑って言った。「歓迎されなくても構わないよ。どうせ、これから話す内容は、お前が聞きたくないことだから」

そう言って、隣にいた誠司に視線を送った。

誠司が一歩前に出て、穏やかに口を開く。「正隆社長、契約書にも明記されている通り、今回の協業には成果保証の条項がありました。もし篠宮家が黒字を出せば、冬川家は次回も無条件で出資します。ですが赤字の場合――損失の二倍
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで   第389話

    星乃は一瞬きょとんとしたが、すぐに彼が何の話をしているのか理解した。「……見たの?」あの時は拘束されていて、彼女のスマホなんてとっくに誰かに放り捨てられていたはずだ。でも、あの証拠はかなり慎重に隠していて、誰にも話していない。まさか悠真に気づかれるとは思ってもみなかった。驚く星乃の視線を受けて、悠真は小さくうなずいた。星乃は一瞬だけ胸がざわついた。悠真がまた結衣を庇って、何か横やりを入れてくるんじゃないかと。でも、すぐに思い直す。今の自分たちの状況ではこの先、生きて帰れるかどうかもわからない。さっきまでの不安は、一気に霧のように消えた。星乃は少し考えてから言った。「もう、どうでもいいわ」そして付け加える。「あなたにとっても、もう関係ないわ。証拠は警察に提出したから。本当かどうかは、向こうがちゃんと調べる」自分に大した力がないことはよくわかっている。まして冬川家の存在があって、しかも結衣は妊娠までしている。自分が彼女に報いを受けさせられるとは限らない。でも、自分の子をただ泣き寝入りさせる気なんて、さらさらない。そう言い終えたあと、星乃は、どうせ悠真はまた信じないだろうと思っていた。自分が嘘をついていると言うか、あるいは前みたいに結衣の肩を持って「もうやめろ」と諭してくるかのどちらかだと。ところが、悠真は長いあいだ黙ったままだった。律人が戻ってくるまで、その沈黙は破られなかった。三人はひと休みしたあと、また出口を探して前へ進んでいった。彼らは誰も知らなかったが、その頃、瑞原市では大きなニュースが起きていた。遥生はすぐに通報し、さらに結衣が星乃を陥れようとした一連の証拠を提出し、結衣を訴えたのだ。この展開は、誰にとっても予想外だった。ひとつは、前回の冬川グループ公式サイトの発表で、結衣が悠真の婚約者で、もうすぐ婚約発表を控えていることは、すでに世間に知れ渡っていたからだ。世間の印象では、結衣は穏やかで控えめな性格、そして冬川グループの研究開発部門を支える才女として知られ、瑞原市の男性たちがこぞって憧れる「高嶺の花」そのものだった。誰も、結衣と「殺人」という言葉を結びつけることができなかった。もうひとつは、遥生が普段から温厚で落ち着いた人物として知られており、極端な行動を取ることはほとんどなく、

  • 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで   第388話

    星乃の声は落ち着いていて、仕事の連絡みたいに淡々としていた。さっきまでとはまるで違う。悠真は、心の中で思わず毒づく。――私たち。彼女の言うその「私たち」は、彼女と律人のことだ。自分はもう部外者。まあ、そうかもしれない。今の自分は足を折っていて、連れて歩くにも邪魔に思われるだろう。そんなふうに考えてしまいながらも、悠真は胸の奥に湧き上がる感情を必死で押し込み、「ああ」と短く返し、皮肉っぽく笑った。「じゃあ、先に行けば?俺はここで救助を待つよ。……お二人さん、どうぞご無事で」星乃には、その刺々しい言い方が分からないわけがない。けれど、悠真が朝っぱらから何に怒っているのかも分からず、困ったように、さっきの説明をもう一度繰り返した。ここは救助が入りにくい、と。悠真は、聞いていなかったのか、それとも自分を信じていないのか。腕を組んだまま、また冷たい声で言う。「冬川家の連中が必ず探しに来る。だから、お前たちは行け。俺のことは放っておけ」星乃は思わずため息をつく。何か言いかけたところで、律人が口を開いた。「君は先に外へ出てて。僕が悠真さんと話すよ」星乃には、律人と悠真が何を話したのか分からない。けれど、数分後に出てきた悠真は、真っ黒な顔で、太めの枝を杖代わりにしながら、足を引きずって歩いてきた。脚を怪我しているというのに、あの気位の高さと冷たさは崩れないままだ。星乃は二人の会話について聞くつもりもなく、摘んできた野いちごや使えそうな物をまとめると、蔓で引ける簡易的な担架を引っ張り出した。担架の車輪代わりになっているのは、少し太めの丸太をくり抜いて作ったもの。細い枝を並べて括りつけただけの簡素な作りだが、大人の男ひとりくらいなら問題なく乗せられる。律人が体調を崩し、足手まといになるから置いていけと言い出した夜、星乃は彼を連れて行くために、この担架を作ろうと思いついたのだ。そして今、悠真の脚は骨折している。まさに出番が来たというわけだ。「あなた、その脚じゃ長くは歩けないでしょ。しんどかったらここに横になって」星乃がそう言うと、悠真は担架をちらりと見て、あからさまに嫌そうな顔をした。乗り心地が良いはずもないし、何より、自分が人に運ばれる「お荷物」になるなんて屈辱だ。そんなの受け入れるはず

  • 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで   第387話

    もう離れると決めたので、この一日、星乃と律人は、生きるために最低限のことをしながら、外に出る道を探し、周囲のまだ安全とは言えない環境を慎重に見て回っていた。夜になり、休憩用のスペースに戻ると、二人とも深く眠り込んだ。律人は大病から回復したばかりで、疲れに勝てず、そのまま深い眠りに落ちていた。ふたりとも、悠真が近づいてきたことにはまったく気づいていない。重い体を引きずるようにして星乃の反対側へ腰を下ろした悠真の胸には、最初、別の感情が渦巻いていた。星乃はたとえ元妻であっても、かつては想い合った相手だった。あの頃は、彼女に確認なんてしなくても、自然に触れ合うことが許されていた。その癖が出たのか、彼はそっと彼女の顔を持ち上げようと手を伸ばす。ところが、眠りながら何かを察したのか、星乃はふいに頭を律人のほうへ小さく傾けた。ふたりは寝る前にかなり近くに座っていたが、頭は壁にもたれていた。けれど、こうして傾いたことで、星乃の頭は律人の肩にそっと寄りかかる形になった。彼女を感じ取ったのか、律人もまた、無意識に彼女の方へと頭を寄せる。まるで寄り添って眠っているみたいだ。ほんの些細な、寝返り程度の動き。本人たちは気づきすらしていないだろう。それなのに悠真は、頬を打たれたような衝撃を受けたまま、その場に立ち尽くした。怒りたい。叫びたい。なのに喉が塞がったように声が出ない。そしてふと、星乃の顔や首もとに、小さな擦り傷がいくつもあることに気づく。さっき夕食のとき、彼女は何度も近くまで来ていたのに、あの時は何ひとつ見えなかった。なのに今さらになって気づく。そしてようやく思い至る――星乃は、あわや自分のせいで死ぬところだったのだ。彼女が今こうして無事でいるからといって、何もなかったわけじゃない。つい少し前、彼女は自分のせいで誘拐され、さらに、自分のせいで崖から落ち、本気で命を落とす寸前だった。彼女は、もう心の底から自分を憎んでいるのだろう。胸を突き動かした衝動は、静かに消えていった。代わりに残ったのは、どうしようもない罪悪感だけ。悠真は唇をきゅっと結び、視線を落とす。ぱちぱちと小さく跳ねる焚き火を見つめ、それから立ち上がり、もう一度だけ星乃を見た。寒いのか、彼女は腕で自分の体を抱きしめるようにして、さらに小さく丸ま

  • 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで   第386話

    星乃が渋々うなずくのを聞いて、悠真は得意げに眉を上げ、律人の方を見た。もちろん律人には、その「勝ち誇って見せつけている」気持ちが丸見えだった。心の中で苦笑しつつ、何も言わない。正直、自分がひと言止めれば、星乃は素直に聞くだろう。でも、そんな子どもの喧嘩みたいなやり方は本当にくだらなくて、付き合う気になれなかった。それに何より、ずっと前から星乃の気持ちには確信がある。こんな小さなことで嫉妬するほど余裕がないわけじゃない。星乃が外へ出てから、戻ってきたのはすっかり日が落ちてからだった。外で竹を何本か見つけてきて、簡単な蒸し器を作ったらしい。料理に取りかかる前に、星乃は念のためもう一度悠真に確認し、彼が何度もうなずいたのを見てから、魚を蒸し器に入れた。入れる前に、苦労して見つけたミントの葉や山ショウガも一緒に加えて、香りづけにした。魚が蒸し上がり、悠真が一口食べる。とても柔らかい。ほとんど臭みもない。悠真は眉を上げた。やっぱり、星乃が言うほど食べられないわけじゃない。悠真が何か言おうとしたそのとき、横にいた律人が、焼き上がった魚をひとかけら手で裂き、星乃の口元へ差し出した。「骨は全部抜いてあるよ。食べてみて」星乃は手が塞がっていたので、そのまま自然に口で受け取り、噛んで飲み込む。「悪くないけど、ちょっと火が弱いかな。私のほうが美味しくできてる気がする」「そう?」「うん、食べてみて」そう言って、星乃も焼けた魚をひとかけら裂き、骨を取って、今度は律人の口元へ差し出した。「本当だ、美味しい」律人は満足げに軽く声を漏らす。星乃は自分の焼いた分を律人のものと交換しながら笑った。「野外経験はあなたの方が上だけど、料理は私の方が経験あるからね」言いながら、どこか得意げだった。律人は素直に親指を立てて、しっかり褒めてくれる。二人が楽しそうにやり取りするのを見て、悠真にはなぜこんな些細なことでそんなに盛り上がれるのか本当にわからない。さっきまで美味しいと思っていた魚の味が、急に少し苦く感じた。その夜、悠真はどうしても眠れなかった。赤々と揺れる火の光越しに、目を閉じて眠りに落ちている星乃を見つめながら、彼は初めて気づく。彼女は、思っていた以上にずっと綺麗だということに。整った顔

  • 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで   第385話

    夕方、金色の夕日が斜めに崖の底へ射し込んでいた。星乃と律人は外で先へ進む道を探して走り回っていて、悠真は骨折で動けず、洞窟の中にひとり残るしかなかった。ほぼ丸一日が過ぎ、彼はようやく現状を受け入れつつあった。星乃を見つけた。それは本来なら喜ばしいことだ。けれど助けられたわけでもなく、一緒にここへ閉じ込められてしまった。胸の中はなんとも言えない苦さでいっぱいだった。星乃を見つけられたのは嬉しい。ただ、こんな過酷な場所で、腹を満たすのは野生の果物だけという状況は、さすがに少し堪える。そこまで弱いわけじゃないし、時間が経てば慣れていく。しかし、どうしても慣れないものがひとつだけあった――星乃が律人を見るときの目だ。星乃とはすでに離婚して、今彼女が律人と一緒にいることも、心のどこかではずっと前から受け入れているつもりだった。それでも、星乃があんなふうに笑って律人を見るのを目にすると、胸の奥がどうしようもなくざわつく。あの、溢れんばかりの愛情と柔らかさ。かつては、自分だけに向けられていたはずの眼差し。……いつからか、自分でさえまともに見ていなかった気もするが。そんなことを考えていると、洞窟の外から楽しげな笑い声が聞こえてきた。星乃と律人が何か話しながら、笑い合いながら洞窟の中へ入ってくる。その声が、悠真にはやけに耳障りだった。彼は小さく鼻を鳴らし、心の中でひねくれた文句が噴き出す。――律人、女の子をその気にさせるような調子のいいことしか言わないくせに。星乃だって、たった一言二言であんなに笑って……どこがそんなに面白いんだ。何がそんなに嬉しいんだよ!自分がどれだけ心配して眠れなかったか。悪夢ばかり見て、彼女の無事を案じていたというのに。こんなに楽しそうにしてるなら、来るんじゃなかった!考えれば考えるほど腹が立ち、悠真は衝動的に拳で壁を殴った。岩の壁はものすごく固い。現代のコンクリートとは比べものにならない。手の甲から骨にかけて、じんと熱い痛みが走る。彼は痛む手をさすりながら、星乃と律人が入ってくるのを見て、とっさに顔をそらし、いつもの冷たく無口な態度を装った。しかし数分経っても、二人は彼に気づく様子もなく、捕まえたばかりの魚をどう焼くか話している。堪えきれず、悠真は星乃のほう

  • 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで   第384話

    「人を探しに行ってよ!助けに行ってよ!」相手の男は困ったような顔をしたものの、救助がどれほど難しいかを花音に説明し、もっと安全な救助地点を探さなければならないと言った。「安全な救助地点って何よ!逃げてるだけじゃない!」言い終えるなり、花音は焦ったように怒鳴った。男は彼女にきつく言われて少し腹が立ったが、相手は若い女の子で、しかも先ほど大きなショックを受けたばかりだとわかっていたので、怒りを飲み込んだ。だが、それ以上何も言わなかった。花音は遥生の腕をぎゅっとつかみ、泣き腫らした目で訴える。「遥生、どうしよう?お兄ちゃんは大丈夫だよね?」遥生は無言で、そっと彼女の手を払いのけた。そのとき、結衣も前に出てきた。彼女の目も赤くなっていたが、花音よりはまだ落ち着いている。結衣は小さく声を落として言った。「遥生さん、どうにかできませんか?悠真にもしものことがあったらいけないんです」涙をこらえたような、頼りなげな声音だった。花音よりも、理性的に見える。男は結衣の素性を知らなかったが、丁寧な言い方に少し好感を持ったようだ。そのため、ついまた説明してしまう。「救わないんじゃなくて、これ以上は本当に難しいんです。救助に入る人間だって命を落とす可能性があります」言い終わるより早く、花音が噛みつく。「そんなの知るもんか!あなたたち全員の命を足しても、お兄ちゃん一人に全然足りないんだから!それに、もともとはあなたたちの責任でしょ!身元を分かってたくせに、なんであんな危険なことをさせたのよ!」そこまで言って、彼女は何か思い出したように足を強く踏み鳴らし、怒りに震える。「星乃だ!あの星乃のせいよ!死んでまでお兄ちゃんを巻き込んで!」遥生はわずかに眉をひそめた。冷えた声で言う。「誰が誰を巻き込んだかなんて、まだ分からないよ。そもそも星乃がこうなったのは、君のお兄さんが原因だ」はっきりとした不満の色をにじませていた。花音はその言葉にまた腹を立てたが、反論できなかった。そのうえ、遥生が星乃の味方をするようなことを言ったことで、彼女はひどく傷ついた。遥生は花音たちに構わず、荷物をまとめて次の救助地点へ向かうよう指示を出した。花音がまた何か言おうとしたそのとき、遥生のスマホが鳴る。崇志からの電話だった。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status