LOGIN「お父さん、私は嫌よ!」正隆が話を続けようとしたその瞬間、美優が泣きながら遮った。向こうからは、綾子のかすれた声が聞こえてきた。「あなた……美優の結婚は大事なことなのよ。よく考えて決めるべきだわ。篠宮家も大切だけど、美優もあなたの娘なの。娘の幸せも同じくらい大事でしょ?」正隆はしばらく沈黙した。綾子の声が少しはっきりし、泣き混じりに続けた。「星乃……前はあなたに優しくできなかったのは認めるわ。でも美優もあなたの妹なの。どうか助けてあげて。律人さんに頼んで、篠宮家がこの難局を乗り切れるようにしてくれない?そうしたら家族みんな、あなたに感謝するわ」星乃には、綾子の言葉が本気だということがわかった。本当に美優のことを心配しているのだ。けれど、同時にこの話の裏にある微妙な気配も感じ取っていた。「その件は……白石家でもどうにもならないと思う」星乃ははっきりと言った。正隆は美優を溺愛している。もし白石家に頼めば解決できるのなら、美優を犠牲にするような真似は絶対にしないはずだ。きっと自分に頼み込んで、律人に助けを求めさせたはず。あるいは以前、冬川家に対してやったように、自分を利用して律人を脅したかもしれない。けれど正隆はそうしなかった。つまり、今回は白石家の力でもどうにもならないということ。白石家でさえ手を出せないとなれば、それはきっと悠真からの圧力だ。案の定、そんな予感がよぎった瞬間、正隆がため息をつき、力なく言った。「美優を幸三社長に嫁がせるのは、悠真の要求なんだ」綾子の声がいっそう焦る。「悠真なら、逆に話は早いじゃない!星乃と悠真は長い付き合いだったんでしょ?お願いしてみたらきっと助けてくれるわ」「お願い?」正隆は冷たく笑った。「お願いで済むなら、とっくに頼んでる」前回のことで彼も悟ったのだ。星乃と律人が一緒にいることで、悠真の怒りを買ってしまったのだと。これは悠真が篠宮家に対して仕返しをしているのだ。だが美優はそこまで考えが及ばなかった。電話を切ったあと、彼女は涙ながらに星乃の腕をつかんだ。「星乃、お願い……悠真に頼んでよ。私、幸三社長なんかと結婚したくない!」星乃は静かに腕を引き抜いた。「私、あの人の前であれだけ派手に離婚して、散々恥をかかせたのよ。しかも別の男と一緒にいる。そんな私がお
「星乃、そんな冷たいこと言わないで、見捨てないでよ!私が幸三社長と結婚したら、彼はあなたの義兄になるのよ。そんな噂が立ったら、あなたの顔にだって泥がつくわ」美優は綾子に教えられていた。相手に何かを頼みたいときは、まずその人の利益から話を持っていくこと。けれど、いくら考えても、美優の頭に浮かぶのはこれくらいしかなかった。実際、美優もわかっていた。星乃はもう篠宮家と縁を切っていて、自分たちが姉妹だなんて言える関係でもない。だからたとえ本当に幸三と結婚したところで、星乃にはたいした影響なんてない。それでも、美優にはもう他に頼る言葉がなかった。星乃は、彼女の脅しとも言えない言葉を聞いて、思わず苦笑した。篠宮家のことに関わる気はなかったが、美優が必死に足にしがみつき、振りほどこうとしても離れない。「……分かった。できる範囲で手は貸すから、とりあえず立って」ため息まじりにそう言うと、美優の目がぱっと明るくなった。「本当に?嘘じゃないわよね?」星乃は小さくうなずいた。幸三という男がどういう人間か、星乃も知っている。美優のことは好きじゃないが、さすがに彼女が一生をあんな男に台無しにされるのを黙って見ていられるほど、心が冷えてはいなかった。もし美優がここに来なければ放っておいた。けれど、彼女はわざわざやって来て、土下座までして頼み込んできた。そこまでされて、何も感じないほどの人間ではない。人目が気になった星乃は、とにかく美優を車の中に連れて入った。美優は星乃が気が変わるのを恐れ、その場で正隆に電話をかけた。通話がつながると、彼女はすぐにスマホを星乃に差し出す。星乃がそれを受け取た。「どうした、美優?」電話口の正隆は、美優からだと思い、柔らかい声を出した。星乃は一瞬ためらい、静かに言った。「私よ」相手の声が一拍止まり、そのあと急に冷たくなった。「……何の用だ」冷たく吐き捨てるような声音。「美優の結婚のこと」星乃は簡潔に言った。その一言で、正隆はすぐに察したようだった。だが、返ってきたのは冷笑混じりの声だった。「お前はもう篠宮家を出た身だろう?美優の結婚が、お前に何の関係がある?」「関係なんてないわ。ただ一つ、忠告しておきたかっただけ」星乃は隣の美優をちらりと見て、淡々と言った。「
「星乃!あなた、一体お父さんに何を言ったのよ!」美優が怒鳴りつけてきた。その目は真っ赤に充血していて、きっともう泣いた後なのだろう。星乃は少し戸惑いながら首を傾げた。「何のことを言ってるのか、よくわからないけど」「とぼけないで!あなたのせいでしょ。あの日お父さんと話したあと、急に私を嫁に出すって言い出したのよ!」美優は取り乱したように叫んだ。その言葉で、ようやく星乃は彼女の言っている意味を理解した。あの日、篠宮家で正隆に言ったのだ。もう家のために自分を犠牲にするつもりはない、と。もし同じような考えがあるなら妹のほうを考えたらどうか、と。あのとき正隆は渋い顔をしていた。まさか本当に美優を政略結婚させるつもりになるなんて、思ってもみなかった。どうやら篠宮家は、かなり切羽詰まっているようだ。悠真も本気で動いているのだろう。星乃が何も答えないのを見て、美優は彼女が動揺しているのだと思い込み、自分を嫁に出す話を父にしたのは星乃に違いないと確信した。昔の彼女なら、星乃が何を言おうと気にも留めなかったはずだ。正隆はずっと、美優と綾子を甘やかしてきたのだから。星乃の言葉なんて、取るに足らないものだった。でも今回は違った。正隆はどんなに綾子が泣いて頼んでも首を縦に振らなかった。──星乃が律人と組んだからだ。きっと律人に何か言ったに違いない。篠宮家は白石家の相手にはなれない。だから正隆が従うしかなかったのだ。美優はそう思い込み、ますます腹を立てていた。 星乃が調子に乗っていると、心の底から許せなかった。涙に濡れた目をさらに赤くして、美優は早足で彼女に近づいた。星乃は思わず身構える。手でも上げるつもりかと思ったが、美優はそのまま目の前で、勢いよく膝をついた。星乃は思わず息をのむ。かつての美優は、いつもわがままで高慢だった。何をしても謝ることすらプライドが許さないような子だった。そんな彼女が、まさか自分にひざまずくなんて。その音を聞きつけた周囲の人たちが、思わずこちらを見た。星乃は慌てて美優の腕を取り、立たせようとした。だが彼女は必死に拒んで動かない。「星乃、ごめんなさい。今まであなたに逆らってばかりで、本当に悪かった。お願い、私を助けて。あの太ってていやらしい幸三社長なんかに嫁ぐなんて絶対
もう一人は三十代半ばくらいの女性で、ある会社の人事部の幹部をしているらしい。写真を見る限り、柔らかい雰囲気の顔立ちで、話しやすそうな印象だった。それに、この二人が勤めている会社は、どちらも今UMEと取引のある企業だ。妙なところで縁がつながっている気がして、少し親近感が湧いた。星乃は他人とのルームシェアに抵抗はなかったし、よくよく考えれば悪くない案だった。少なくとも、悠真は体裁を気にするタイプだ。もし自分が誰かとシェアして暮らしていると知れば、もうそう簡単に押しかけてくることもないだろう。そう思い至り、星乃はその相手と内見の約束を取りつけた。一方で、不動産仲介業者のほうは星乃からの連絡を受けて、ようやく胸をなでおろした。「白石様、これならもう決まったも同然ですよ。ここまで話が進んだら大抵は契約決定ですから!」笑顔でそう言いながら、仲介業者は律人に向かってニヤついた。彼は笑みを張りつかせたまま渋い顔をした。「でも白石様、この二人、瑞原市にそれぞれ自分の家持ってるんですよ?しかも条件を見る限り年収も軽く二千万は超えてますよね?そんな人たちがシェアに同意しますかね?もし断られたら、こっちの嘘バレるじゃないですか?」この二人のプロフィールは律人がその場で適当に選ばせたものだった。どちらも新築マンションの購入客。家を持ってるのにシェア希望なんて、筋が通らないにもほどがある。律人はちらりと彼を見上げ、淡々とした声で言った。「君が余計なことさえ言わなければ、バレることなんてない」「逆に言えば、バレたとしたら、それは君が口を滑らせたせいだ」仲介業者は目を丸くした。「ちょ、白石様、それは……」「黙ってろ。ニヤニヤするな、気持ち悪いんだ」律人は立ち上がり、手にしていた鍵をぽんと彼のデスクに投げた。「あとでリストを送る。必要なものは全部それに沿って買って、部屋に運び込んどけ」言い終えると、律人はそれ以上何も言わず、ゆっくりと店を出て行った。残された仲介業者は半泣きになった。数十分前の自分を殴りたい。調子に乗って余計なことを言わなければよかった。目が節穴だった。今や彼は律人という大口の客を逃したばかりか、完全にこき使われる羽目になってしまった。――俺の人生、どこまでツイてないんだ。……
通話はスピーカーにしていた。星乃の声が響いたとき、律人はただ口元をほんの少しだけゆるめた。仲介業者の男は驚いて、律人の方を思わず見上げた。――どうして星乃が、律人がここにいるって知ってるんだ?さっき電話をかける前、律人からはっきり言われていたのだ。「僕がここに来てることは、星乃には絶対言うなよ」そのとき、仲介業者の男は正直、大げさだと思っていた。まさか、二人がここまで正確にお互いを読んでいたなんて。仲介業者は律人が怖くて、言われたとおりに黙っていた。しらを切るように言う。「はて?どちら様でしょうか?お客さん、何の話をしてるのかよく分かりません」その言葉を聞いて、星乃は一瞬だけ沈黙した。そして、自分が考えすぎていたことに気づく。仲介業者はもう一度、部屋の紹介を始めたが、星乃は最後まで聞かずに落ち着いた声で遮った。「もういいです。どうせ、あなたが見つけてくれる部屋なんて、もう怖くて住めませんから。ご自分で住んでください」仲介業者は、先ほど自分がふざけたせいで怒っているのだと悟った。泣きたい気分で、律人の方をちらりと見やる。――あのとき、余計なことを言うんじゃなかった。律人は、もしちゃんと任務を果たさなければ、そのうち誰かを送り込んで嫌がらせしてやると脅してきた。さらには、自分の「黒歴史」を全部暴露するとも。どうやって調べたのか分からないが、確かに彼ならやりかねない。犯罪ではないが、ちょっとした不正があったのは事実で、それを顧客に知られたら、業界ではもうやっていけない。彼には見抜けた。律人は、言葉だけの人間じゃない、実行する男だ。仲介業者は慌てて言った。「す、すみません星乃さん!さっきは道を間違えただけで、決してからかうつもりじゃなかったんです。店にはしばらく、ご希望に合う物件がなくて、焦ってしまって……でも、今ちょうどぴったりな部屋を見つけたんです。条件もかなりいいんです。お詫びとして、仲介業者手数料は半額にします!」星乃はもう話を続けるつもりはなかったが、「半額」という言葉に少しだけ心が動いた。「どこの物件ですか?」仲介業者は律人から渡されていた住所をそのまま送った。星乃は画面を見て、しばし考え込む。その住宅街の名前には聞き覚えがあった。中堅クラスの住宅街で、富裕層のエ
不動産仲介店の外。星乃が車で去ってまもなく、一台の高級車が静かに滑り込んできて、店の前にぴたりと停まった。窓が下がり、律人の整った横顔が現れる。彼は片肘をドアにかけ、頬杖をつきながら、簡素な看板をじっと見上げた。少し考えたあと、車のドアを開けて中へ入っていった。平日の昼間で客は少ない。さっき星乃を送り出した仲介業者の男は、すぐに社内チャットで愚痴を垂れ流していた。「女の扱いが分かってない」と笑われ、彼は「吐き気がする」のスタンプを送った。「女の扱い?冗談だろ。あんな場所に平気で住んでる女が、まともなわけないじゃないか」そのとき、外から人の気配を感じて、彼は気だるげに目を上げた。視線が素早く律人の全身をなぞる。高級ブランドのスーツに、磨き上げられた革靴。ただ者じゃないと気づくと同時に、慌てて立ち上がり駆け寄った。「い、いらっしゃいませ!ご購入ですか?それとも賃貸でしょうか?」律人はまっすぐに問う。「さっきの綺麗な女性、何を聞きに来てた?」星乃のことだと悟った瞬間、仲介業者のテンションが一気に下がった。頭の中に浮かぶのは、以前、遥生が来たときのこと。あの時も高そうな服を着ていたくせに、結局はボロ部屋を借りていった。――まさか今回も、あの星乃の近くにある安アパートを借りるつもりじゃないだろうな?どういう趣味だよ。最近はそういう遊びでも流行ってるのか?安アパートを借りたところで、紹介料にもならねぇってのに。内心で悪態をつきながら、仲介業者は椅子に座り直し、鼻で笑った。「こんなとこ来て何すんです?まさか俺とデートでも?もしかして、お客さんもあの女を追っかけてる感じですか?やめといたほうがいいですよ。見た目はキラキラしてますけど、裏じゃ何人の男と遊んでるか……隣の部屋にも男が住んでてさ、よく二人で……」その瞬間、律人の足が容赦なく椅子を蹴り上げた。あまりに突然で、仲介業者は声も出せず床に転がり、派手にひっくり返った。怒鳴る暇もなく、律人の靴が胸元を押さえつける。もう片手で襟をつかみ、まるで小動物を掴むように軽々と持ち上げた。シャツの襟に喉を締め上げられ、仲介業者の顔はみるみる赤くなる。騒ぎに気づいた店内の人たちが、次々とこちらに視線を向けた。誰かが助けようと一歩踏み出







