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第6話

Author: 夜凪
last update Last Updated: 2026-01-15 13:52:03

その日は、いつもより仕事が静かに進んでいた。

電話も少なく、急ぎの案件もない。

オフィス全体が、少しだけ気の抜けた空気に包まれている。

わたしは画面を見つめながら、キーボードを叩いていた。

集中しているつもりだったのに、視線の端に白石さんの姿が入るたび、意識が引き戻される。

白石さんは、資料をまとめながら、同僚と小さな声で話していた。

相変わらず、自然な距離感。

誰といても、浮かない。

——彼氏がいないなんて、やっぱり信じられない。

そんなことを考えていると、白石さんがこちらを見た。

一瞬。

でも、はっきりと。

わたしは、逃げなかった。

白石さんは、少しだけ目を細めてから、同僚との会話を終えた。

しばらくして、席を立つ音がする。

足音が、こちらに近づいてくる。

「篠原さん」

名前を呼ばれて、顔を上げる。

「はい」

「今、少し時間あります?」

「……あります」

そう答えると、白石さんはほっとしたように頷いた。

「給湯室、行きませんか」

断る理由はなかった。

並んで歩く短い距離。

沈黙は、もう重くない。

給湯室に入ると、他には誰もいなかった。

白石さんはマグカップを手に取り、コーヒーを淹れる。

「篠原さんは、何にします?」

「……同じので」

白石さんは笑って、もう一つカップを用意した。

「最近、よく一緒にいますよね」

不意に、そんなことを言われる。

「……そう、ですね」

「周りから、どう見えてるんだろ」

冗談めいた口調。

でも、どこか探るような視線。

「……気になります?」

そう聞くと、白石さんは一瞬だけ言葉に詰まった。

「少し」

カップを持つ指に、力が入る。

「誤解されること、多いので」

「……彼氏のこと、ですか?」

言ってから、少し後悔した。

踏み込みすぎたかもしれない。

でも、白石さんは否定しなかった。

「はい」

そして、少し間を置いてから、こちらを見る。

「彼氏はいないですし……いたことも、ないです」

その言葉に、胸が小さく跳ねた。

——いないし、いたこともない。

頭の中で、反芻する。

「でも」

白石さんは、視線を外さずに、続けた。

「彼女は、いたことがあります」

その瞬間、心臓が、はっきりと音を立てた。

——彼女。

一気に、空気が変わった気がした。

「……」

何も言えずにいるわたしを、白石さんはじっと見ている。

なぜ、そんなことを言うのか。

どうして、今、このタイミングで。

分からない。

分からないのに。

胸の奥が、どくん、と強く鳴った。

「……そう、なんですね」

やっと、それだけ口に出す。

声が、少しだけ震えていた気がする。

「はい」

白石さんは、静かに頷いた。

「だから……たぶん」

言葉を探すように、少しだけ視線を落とす。

「誤解されやすいんだと思います」

それは、理由の説明だったのか。

それとも——。

「……」

わたしは、カップを持つ手を見つめる。

どう反応すればいいのか、分からない。

でも、平然としていられなかった。

——ドキッとした。

はっきり、自覚してしまう。

その言葉が、わたしに向けられたものじゃないと分かっているのに。

過去の話だと、理解しているのに。

それでも。

「篠原さん」

白石さんが、名前を呼ぶ。

顔を上げると、真っ直ぐな視線がぶつかった。

「驚きました?」

「……少し」

正直に答える。

白石さんは、困ったように笑った。

「やっぱり」

「……どうして、教えてくれたんですか?」

思わず、聞いていた。

白石さんは、一瞬だけ黙り込む。

そして、ゆっくりと口を開く。

「理由は……」

少し間があって。

「自分でも、よく分からないです」

その答えに、胸がまた揺れた。

「ただ……」

白石さんは、こちらを見たまま、続ける。

「篠原さんには、言ってもいい気がして」

その言葉が、静かに落ちてくる。

——どうして?

聞きたいのに、聞けなかった。

「……」

沈黙が流れる。

でも、それは気まずいものじゃなかった。

むしろ、壊れやすい何かを、二人でそっと持っているような感覚。

「重い話、でしたよね」

白石さんが、先に口を開いた。

「ごめんなさい」

「……いえ」

首を振る。

「……嫌では、なかったです」

そう言った瞬間、自分でも驚いた。

白石さんの目が、わずかに見開かれる。

「本当ですか?」

「……はい」

嘘じゃなかった。

白石さんは、少しだけ安心したように息を吐いた。

「よかった」

その一言で、胸の緊張が、少しだけ解けた。

給湯室を出るとき、白石さんは、ほんの一瞬だけこちらを見る。

その視線には、昨日までとは違う何かが混じっているように見えた。

席に戻ってからも、しばらくは仕事に集中できなかった。

——彼女は、いたことがある。

その言葉が、頭から離れない。

なぜ、わたしに言ったのか。

なぜ、あんな目で見てきたのか。

答えは、まだ出ない。

でも。

その事実に、ドキッとしてしまった自分がいることだけは、

はっきりと、分かっていた。

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