INICIAR SESIÓNその日は、いつもより仕事が静かに進んでいた。
電話も少なく、急ぎの案件もない。 オフィス全体が、少しだけ気の抜けた空気に包まれている。 わたしは画面を見つめながら、キーボードを叩いていた。 集中しているつもりだったのに、視線の端に白石さんの姿が入るたび、意識が引き戻される。 白石さんは、資料をまとめながら、同僚と小さな声で話していた。 相変わらず、自然な距離感。 誰といても、浮かない。 ——彼氏がいないなんて、やっぱり信じられない。 そんなことを考えていると、白石さんがこちらを見た。 一瞬。 でも、はっきりと。 わたしは、逃げなかった。 白石さんは、少しだけ目を細めてから、同僚との会話を終えた。 しばらくして、席を立つ音がする。 足音が、こちらに近づいてくる。 「篠原さん」 名前を呼ばれて、顔を上げる。 「はい」 「今、少し時間あります?」 「……あります」 そう答えると、白石さんはほっとしたように頷いた。 「給湯室、行きませんか」 断る理由はなかった。 並んで歩く短い距離。 沈黙は、もう重くない。 給湯室に入ると、他には誰もいなかった。 白石さんはマグカップを手に取り、コーヒーを淹れる。 「篠原さんは、何にします?」 「……同じので」 白石さんは笑って、もう一つカップを用意した。 「最近、よく一緒にいますよね」 不意に、そんなことを言われる。 「……そう、ですね」 「周りから、どう見えてるんだろ」 冗談めいた口調。 でも、どこか探るような視線。 「……気になります?」 そう聞くと、白石さんは一瞬だけ言葉に詰まった。 「少し」 カップを持つ指に、力が入る。 「誤解されること、多いので」 「……彼氏のこと、ですか?」 言ってから、少し後悔した。 踏み込みすぎたかもしれない。 でも、白石さんは否定しなかった。 「はい」 そして、少し間を置いてから、こちらを見る。 「彼氏はいないですし……いたことも、ないです」 その言葉に、胸が小さく跳ねた。 ——いないし、いたこともない。 頭の中で、反芻する。 「でも」 白石さんは、視線を外さずに、続けた。 「彼女は、いたことがあります」 その瞬間、心臓が、はっきりと音を立てた。 ——彼女。 一気に、空気が変わった気がした。 「……」 何も言えずにいるわたしを、白石さんはじっと見ている。 なぜ、そんなことを言うのか。 どうして、今、このタイミングで。 分からない。 分からないのに。 胸の奥が、どくん、と強く鳴った。 「……そう、なんですね」 やっと、それだけ口に出す。 声が、少しだけ震えていた気がする。 「はい」 白石さんは、静かに頷いた。 「だから……たぶん」 言葉を探すように、少しだけ視線を落とす。 「誤解されやすいんだと思います」 それは、理由の説明だったのか。 それとも——。 「……」 わたしは、カップを持つ手を見つめる。 どう反応すればいいのか、分からない。 でも、平然としていられなかった。 ——ドキッとした。 はっきり、自覚してしまう。 その言葉が、わたしに向けられたものじゃないと分かっているのに。 過去の話だと、理解しているのに。 それでも。 「篠原さん」 白石さんが、名前を呼ぶ。 顔を上げると、真っ直ぐな視線がぶつかった。 「驚きました?」 「……少し」 正直に答える。 白石さんは、困ったように笑った。 「やっぱり」 「……どうして、教えてくれたんですか?」 思わず、聞いていた。 白石さんは、一瞬だけ黙り込む。 そして、ゆっくりと口を開く。 「理由は……」 少し間があって。 「自分でも、よく分からないです」 その答えに、胸がまた揺れた。 「ただ……」 白石さんは、こちらを見たまま、続ける。 「篠原さんには、言ってもいい気がして」 その言葉が、静かに落ちてくる。 ——どうして? 聞きたいのに、聞けなかった。 「……」 沈黙が流れる。 でも、それは気まずいものじゃなかった。 むしろ、壊れやすい何かを、二人でそっと持っているような感覚。 「重い話、でしたよね」 白石さんが、先に口を開いた。 「ごめんなさい」 「……いえ」 首を振る。 「……嫌では、なかったです」 そう言った瞬間、自分でも驚いた。 白石さんの目が、わずかに見開かれる。 「本当ですか?」 「……はい」 嘘じゃなかった。 白石さんは、少しだけ安心したように息を吐いた。 「よかった」 その一言で、胸の緊張が、少しだけ解けた。 給湯室を出るとき、白石さんは、ほんの一瞬だけこちらを見る。 その視線には、昨日までとは違う何かが混じっているように見えた。 席に戻ってからも、しばらくは仕事に集中できなかった。 ——彼女は、いたことがある。 その言葉が、頭から離れない。 なぜ、わたしに言ったのか。 なぜ、あんな目で見てきたのか。 答えは、まだ出ない。 でも。 その事実に、ドキッとしてしまった自分がいることだけは、 はっきりと、分かっていた。白石さんは、ゆっくりと唇を離した。名残惜しそうに、でも追いすぎない距離。その加減が、相変わらずずるい。「……息、できてます?」からかう声。でも、目は真剣だった。「……できてません」正直に答えると、白石さんは小さく笑う。「ですよね」そう言いながら、わたしの額に額を軽く当てる。触れているのに、もうキスはしない。「篠原さん」静かな呼び方。「今の、どういう意味か」少し間を置いて。「分かります?」胸が、また強く鳴る。「……」言葉にしようとして、喉が詰まる。分かっている。分かっているのに、口に出すのが怖い。白石さんは、急かさなかった。代わりに、わたしの手を取る。指を絡めるほど近くない、でも離れない。「答え、今すぐじゃなくていいです」その声は、驚くほど優しい。「でも」視線が、まっすぐ向けられる。「確かめに来たってことは」指先が、きゅっと握られる。「もう、戻れないところまで来てるのは、分かってますよね」否定できなかった。わたしは、ゆっくりと頷く。「……はい」その一言で、白石さんの表情が少しだけ緩んだ。「よかった」それだけ言って、手を離す。離れた瞬間、少しだけ寂しくなる自分に、驚いた。「今日は」白石さんは、一歩下がる。「ここまでにしましょう」「……え」「これ以上は」軽く肩をすくめる。「篠原さんが、考える余裕なくなりそうなので」また、からかい。でも、どこか本気だった。「……ずるいです」同じ言葉を、また口にしていた。白石さんは、はっきり笑った。「知ってます」玄関まで送られる。靴を履きながら、胸の奥が落ち着かない。「……白石さん」呼び止めると、すぐに振り返ってくれる。「はい」「……」言いたいことは、たくさんある。でも、今は、ひとつしか出てこなかった。「……また、会ってもいいですか」白石さんは、一瞬だけ目を見開いてから、すぐに微笑んだ。「もちろん」即答だった。「そのために、待ってたので」扉が閉まる。夜の空気に触れた瞬間、ようやく息ができるようになる。帰り道、唇に残った感覚を、何度も思い出す。——確かめたかったはずなのに。確かめ終わってしまった気がして、それが少し、怖くて、でも。胸の奥は、不思議と静かだった。答えは、まだ言葉にしていない。でも。白石
白石さんは、わたしが何も言えずに立っているのを見て、少しだけ目を細めた。「……緊張してます?」「……してます」正直に答えると、白石さんは小さく笑う。「ですよね」一歩、近づいてくる。それでも、まだ触れない。「確かめたいって言いましたよね」「……はい」「じゃあ」白石さんは、わたしの前で足を止める。「逃げないでくださいね」そう言ってから、ゆっくりと手を伸ばしてきた。触れたのは、肩。強くない、逃げられる程度の力。それなのに、体が動かなかった。「……」白石さんの視線が、わたしの目から唇へと落ちる。その動きだけで、胸が大きく鳴る。「嫌だったら、今でも止めます」囁くような声。「……嫌、じゃないです」そう答えた自分の声が、思っていたよりも震えていた。白石さんは、その返事を聞いてから、ほんの少しだけ距離を詰める。額が、触れそうなほど近い。「じゃあ」一瞬の間。「……いきますよ」返事をする暇はなかった。唇が、重なる。軽く触れるだけ、じゃなかった。白石さんの唇は、確かめるように、ゆっくりと押し当てられてくる。逃げ道を塞ぐみたいに、でも乱暴じゃない。「……っ」息が、うまくできない。唇が離れると思った次の瞬間、また重ねられる。今度は、さっきよりも深く。白石さんの手が、肩から背中へと回る。引き寄せられて、距離が完全になくなる。キスが、長い。触れて、離れて、また重なって。そのたびに、息を奪われる。頭が、ぼんやりする。——考えたかったはずなのに。唇が触れているだけなのに、思考が全部溶けていく。白石さんは、焦らなかった。でも、迷いもなかった。まるで、「ここまで来るのを待っていた」みたいに。ゆっくりと唇が離れたとき、白石さんは、わたしの額に額を寄せたまま、低く言う。「……どうですか」息が、近い。「……」言葉が、出ない。胸が苦しいほど鳴っている。体が、熱い。それだけで、答えになってしまっている気がした。白石さんは、わたしの表情を見て、少しだけ満足そうに笑う。「その顔」親指で、わたしの唇の端をなぞる。「確かめに来た意味、ありましたね」「……ずるいです」やっと、それだけ言えた。白石さんは、静かに笑った。「でしょうね」もう一度、距離が縮まる。今度は、さっきよりも、迷いのないキスだっ
その日は、白石さんから何も仕掛けてこなかった。それが、いちばん落ち着かなかった。仕事は普通に終わった。首元も、誰にも指摘されないまま一日が過ぎた。なのに、心だけがずっと騒がしい。帰りの電車の中で、何度もスマホを見てしまう。——今日は、何もしません。——続きは、また今度。その言葉が、頭から離れない。家に着いて、コートを脱ぎ、ソファに座る。静かすぎる部屋。白石さんの声。視線。からかうような笑い方。考えないようにしようとしても、無理だった。スマホが震える。【ちゃんと帰れました?】画面を見つめて、少しだけ息を整える。【はい】すぐに既読がついた。【今日は、触ってないので】【安心してください】その一文を読んだ瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。安心しているのか。それとも、がっかりしているのか。自分でも、分からない。しばらく迷ってから、指を動かす。【……行っても、いいんですか】送信した直後、心臓が強く鳴った。——何を言ってるんだろう。でも、もう取り消せなかった。少しの沈黙。その数秒が、やけに長い。そして。【どうぞ】たった二文字。それだけなのに、胸が大きく跳ねた。考えるより先に、文字を打っていた。【じゃあ、今から行きます】送ってから、スマホを握りしめる。——どうして、行こうとしてるんだろう。白石さんに会いたい理由を、はっきり言葉にできない。でも、この気持ちが何なのか、確かめたかった。からかわれているから?触れられたから?それとも。彼女のことを考えると、胸が落ち着かなくなる、この感じ。それが何なのかを、知りたかった。上着を羽織り、鍵を手に取る。外に出ると、夜の空気が少し冷たい。白石さんの家までの道を歩きながら、何度も足を止めそうになる。でも、止まらなかった。——行くって決めたのは、自分だ。インターホンの前に立つと、指先が少し震えた。呼び鈴を押す。すぐに、扉が開く。「……早いですね」白石さんが、そこにいた。部屋着に近い服装。仕事のときより、ずっと無防備な雰囲気。「……すみません、急に」「いいえ」白石さんは、軽く首を振る。「来ると思ってました」その一言で、胸がまた騒ぐ。「……どうして」「顔、浮かんでたので」冗談みたいな言い方。でも、目は真剣だった。部屋に
その日の帰り道、わたしはずっと、首元を気にしていた。隠している。ちゃんと、隠しているはずなのに。——見られてる気がする。白石さんの視線が、まだそこに残っているみたいで、落ち着かなかった。駅までの道を歩きながら、今日一日を思い返す。触れられてはいない。でも、距離はずっと近かった。からかわれて、揺さぶられて。それなのに、決定的な一線は越えられない。「……ずるい」小さく、独り言が漏れる。家に着いても、すぐには落ち着けなかった。シャワーを浴びて、首元を洗う。鏡に映る自分を見て、息を止める。——やっぱり、ある。昼間よりも、少しだけ色がはっきりしている気がした。白石さんの声が、頭の中で蘇る。やっと気づいたんですね我慢、限界だったんですよ胸の奥が、じわっと熱くなる。「……何考えてるんだろ」相手のことなのか。自分のことなのか。布団に入っても、眠れなかった。白石さんは、どういうつもりなのか。からかっているだけなのか。それとも——。考えすぎて、答えが出ない。翌日。出社すると、白石さんはもう席にいた。こちらに気づくと、軽く会釈をする。それだけ。昨日までのからかいが嘘みたいに、普通だった。——あれ?少し、拍子抜けする。午前中、特に何も起こらなかった。距離も、視線も、いつも通り。逆に、それが気になってしまう。昼休み前、資料を届けに行ったとき。「篠原さん」静かな声で、呼ばれる。「はい」白石さんは、周りを一度だけ確認してから、少し身を寄せてきた。でも、昨日ほど近くない。「今日は」声を落として。「大丈夫そうですね」何が、とは言わない。「……何がですか」とぼけると、白石さんは小さく笑った。「隠すの」一瞬で、顔が熱くなる。「……もう、からかわないって言いましたよね」「言ってません」即答。「でも」白石さんは、わたしの表情を見て、少しだけ真面目になる。「昨日より、落ち着いてます」それは、褒め言葉なのか、観察なのか。「……それ、嬉しいんですか」聞いてしまった。白石さんは、一拍置いてから答える。「嬉しいですよ」はっきり。「篠原さんが、ちゃんと考えてくれてるって分かるので」その言葉に、胸が詰まる。「……考えさせてるの、白石さんですよ」思わず、本音が出た。白石さんは、少しだけ
目を覚ました瞬間、違和感があった。天井が、知らない。視界に入る白さも、光の入り方も、自分の部屋とは違う。「……?」ゆっくり瞬きをして、状況を確かめる。頭が、少し重い。体を起こそうとして、動きを止めた。——隣に、人がいる。心臓が一気に跳ねる。恐る恐る視線を向けると、白石さんが眠っていた。同じベッド。距離は近く、肩が触れそうなほど。「……っ」昨夜の記憶を辿ろうとする。夜ご飯。お酒。ふらついて……。そこから先が、途切れている。慌てて自分の体を見る。服は着ている。乱れていない。どこも痛くない。——何も、してない。その事実に、ほんの少しだけ息を吐く。それでも、この状況は落ち着かない。「……白石さん」小さく呼ぶ。反応がない。「白石、さん……」もう一度。少しだけ声を強める。白石さんが、ゆっくりと目を開けた。「……おはようございます」眠そうな声。でも、すぐにこちらを見て、口元が緩む。「起きました?」「……はい」自分の声が、少し掠れている。白石さんは、わたしの顔をじっと見たあと、視線を下げた。首元のあたり。何も言わずに、手を伸ばしてくる。「……?」指先が、首に触れる。軽く。確かめるように。「……白石さん?」名前を呼ぶと、白石さんは一瞬だけ動きを止めた。でも、すぐに指を離し、何事もなかったように体を起こす。「昨日、篠原さん、途中から完全に寝てました」淡々とした声。「家、遠かったので。連れてきました」「……そう、だったんですね」それ以上、聞けなかった。白石さんは、いつもの落ち着いた表情に戻っている。からかうような視線も、探るような仕草もない。ただ、距離だけが近い。「着替え、用意してあります」「……ありがとうございます」その気遣いが、逆に落ち着かない。準備をして、白石さんの部屋を出た。何も起きていない。そう、思うしかなかった。――――会社に着いてからも、頭はぼんやりしていた。白石さんとは、ほとんど言葉を交わしていない。目が合えば、軽く会釈するだけ。午前中、資料を整理していると、同僚が声をかけてきた。「篠原さん」「はい?」「首元、どうしたんですか?」一瞬、意味が分からなかった。「……え?」「赤くなってますよ。ここ」指で示される。心臓が、止まったみ
その日の終わりが近づくにつれて、わたしの神経は、ずっと張り詰めたままだった。触れられるたびに、体が反応してしまう。それを、自覚してしまっているからこそ、余計に苦しい。夕方、白石さんがまた、いつものように近づいてきた。何も言わずに、自然な動きで、手が伸びる。指が、わたしの手に触れようとする。その瞬間。「……やめて、ください」初めて、はっきりと声に出していた。白石さんの手が、止まる。周りには、人がいる。誰もこちらを見ていないけれど、心臓がうるさく鳴っている。白石さんは、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。「……あ」それから、すぐに、口元が緩む。「やめて、ですか」声を落として、わたしの方へ顔を寄せる。「でも」わたしの耳元、ぎりぎり。「やめてほしい割には、いい反応してますけどね」からかうような声。胸が、ぎゅっと縮む。「……そういう意味じゃ」「分かってます」白石さんは、あっさり言った。「嫌なら、ちゃんと嫌って言えるのは、いいことです」そう言いながら、距離は保ったまま。でも、視線は外さない。「ただ」一瞬、間を置いて。「反応が、正直すぎるだけで」何も言い返せなかった。白石さんは、それ以上触れてこなかった。でも、それで終わりじゃなかった。「今日」少しだけ、声の調子が変わる。「夜、空いてます?」突然の話題に、言葉が詰まる。「……え」「ご飯、行きませんか」軽い口調。でも、視線は真剣だった。断った方がいい。頭では、そう思う。このまま一緒にいたら、どうなるか分からない。流されてしまう気がする。「……今日は」一度、言葉を切る。「……」白石さんは、待っていた。急かさない。でも、逃がさない。——気になってる。それは、否定できない。触れられて、揺れて、困って。それでも、離れたくないと思ってしまう。「……少しだけなら」気づいたときには、そう言っていた。白石さんの目が、ほんの少しだけ柔らぐ。「じゃあ、軽くで」仕事を終え、二人で会社を出る。夜の空気は、昼よりも落ち着いていた。歩く距離が、自然と近い。入ったのは、静かな居酒屋だった。照明は控えめで、周りの声も遠い。「お酒、飲めます?」「……強くは、ないです」「じゃあ、無理しないで」そう言いながら、白石さんは自分の分と一緒に
定時を過ぎても、わたしはすぐに席を立てなかった。パソコンの画面はもう閉じている。やるべき仕事も終わっている。それでも、椅子に座ったまま、何となく時間をやり過ごしていた。理由は分かっている。白石さんが、まだ席にいるからだ。オフィスの人数は少しずつ減っていく。帰り支度をする音、エレベーターに向かう足音。それらが遠ざかるたび、空間が静かになっていく。ふと、視線を上げると、白石さんは資料を片付けているところだった。真剣な横顔。仕事の顔だ。——やっぱり、綺麗だな。そんなことを考えてしまった自分に、少し驚く。今まで、こんなふうに誰かを意識したことはなかった。わたしは、彼女の
朝、目が覚めても、昨日のことが頭から離れなかった。白石由奈には、彼氏がいない。たったそれだけの事実なのに、どうしてこんなにも胸に残るのか、自分でも分からない。出社の準備をしながら、何度も昨日の光景を思い返してしまう。男性社員と話しながら、ふとこちらを見る横顔。一瞬だけ合った視線。そして、口の動きだけで伝えられた「お疲れさまです」。——気にしすぎだ。そう思おうとしても、心は簡単には言うことを聞いてくれない。通勤電車の窓に映る自分は、いつもと変わらない顔をしていた。眠そうで、少しだけ無表情で、感情を隠すのが上手な顔。会社に着くと、すでに何人かは出社していて、オフィスにはいつ
篠原澪は、キーボードを打つ手を止めた。画面には、さっきから同じ行が表示されたまま動いていない。カーソルが規則正しく点滅しているのに、頭の中は別のところにあった。少し離れた場所で、笑い声がする。「それでさ、先方が急に仕様変えたいって言ってきて」聞き慣れた声だった。白石由奈。柔らかくて、よく通る声。職場の誰とでも自然に話せる人。「えー、それは大変ですね」男性社員の声が続く。由奈は書類を胸に抱えながら、少し身を乗り出して話していた。距離が近い。特別な意味はないと分かっているのに、私は視線を逸らせずにいた。「でも、まあ何とかなるかなって。こういうの、嫌いじゃないし」由奈はそう言って
その日の午後は、ずっと落ち着かなかった。白石さんの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。彼女はいたことがある。そして、それをわたしにだけ伝えた。理由は分からない。けれど、意味がないとは思えなかった。仕事が終わる頃、白石さんが席を立った。こちらを見る。目が合う。「……篠原さん」小さく手招きされる。「少し、いいですか」断る理由は、もうなかった。人の少なくなったフロアの端。コピー機の音だけが、遠くで聞こえる。白石さんは、少しだけ距離を取って立っていた。でも、昨日までより近い。「さっきの話の続きなんですけど」前置きのような言葉。それだけで、胸がざわつく。「はい…







