Mag-log in定時を過ぎても、わたしはすぐに席を立てなかった。
パソコンの画面はもう閉じている。 やるべき仕事も終わっている。 それでも、椅子に座ったまま、何となく時間をやり過ごしていた。 理由は分かっている。 白石さんが、まだ席にいるからだ。 オフィスの人数は少しずつ減っていく。 帰り支度をする音、エレベーターに向かう足音。 それらが遠ざかるたび、空間が静かになっていく。 ふと、視線を上げると、白石さんは資料を片付けているところだった。 真剣な横顔。 仕事の顔だ。 ——やっぱり、綺麗だな。 そんなことを考えてしまった自分に、少し驚く。 今まで、こんなふうに誰かを意識したことはなかった。 わたしは、彼女のことをほとんど知らない。 それなのに、目で追ってしまう。 白石さんが、バッグを手に取る。 そろそろ帰るのだろうか。 その瞬間、心臓が少しだけ早くなった。 ——別に、何かあるわけじゃない。 そう自分に言い聞かせる。 立ち上がると、椅子の音がやけに大きく聞こえた。 白石さんが、こちらを見る。 「篠原さんも、もう帰りですか?」 声をかけられて、足が止まる。 「……はい」 それだけで、胸がざわつく。 「よかった。偶然ですね」 白石さんは、そう言って少し笑った。 偶然。 その言葉に、わたしは小さく頷く。 エレベーターへ向かう廊下を、二人で並んで歩く。 これまで何度もすれ違ってきたはずなのに、こんなふうに並ぶのは初めてだった。 沈黙が続く。 気まずい、はずなのに。 不思議と、落ち着かないだけで、嫌ではなかった。 「……篠原さんって」 白石さんが口を開く。 「仕事終わるの、いつも早いですよね」 「え……そう、ですか?」 「はい。無理しないタイプなのかなって」 無理しない。 そう見えていたのか。 「……得意じゃないだけです。残るの」 正直に答える。 「分かります」 白石さんは、少しだけ声を落として言った。 「わたしも、実はあんまり得意じゃないです」 意外だった。 白石さんは、仕事が好きそうで、何でも楽しそうにこなす人だと思っていたから。 「でも、周りが残ってると帰りづらくて」 そう言って、困ったように笑う。 「……そう、ですね」 わたしも同じだった。 エレベーターが来る。 中には、誰もいない。 二人で乗り込むと、扉が静かに閉まった。 密閉された空間。 白石さんの距離が、急に近く感じる。 「篠原さんって」 また、名前を呼ばれる。 「はい」 「わたし、篠原さんのこと、ちょっと気になってて」 その言葉に、息が止まった。 「……え?」 「いつも静かで、あんまり喋らないのに、ちゃんと周り見てるなって」 気になっている。 そう言われた意味を、頭がうまく処理できない。 「見てる、って……」 「はい。視線、結構感じます」 心臓が跳ねる。 ——ばれてた。 「す、すみません……」 慌てて謝る。 白石さんは、くすっと笑った。 「謝らなくていいです。嫌じゃないので」 その一言が、胸に落ちる。 「……嫌じゃ、ない?」 「はい」 白石さんは、こちらを見て、はっきりと頷いた。 エレベーターが、一階に着く。 扉が開くまでの数秒が、やけに長く感じた。 外に出ると、夜の空気がひんやりと頬に触れる。 「このあと、予定ありますか?」 白石さんが、少しだけ遠慮がちに聞いてきた。 「……特には」 本当だ。 予定なんて、何もない。 「じゃあ……少しだけ、話しませんか?」 少しだけ。 その言葉に、逃げ道を感じて、安心してしまう。 「……はい」 そう答えた自分の声は、思っていたよりも落ち着いていた。 会社の近くのカフェに入る。 遅い時間で、店内は静かだった。 向かい合って座ると、白石さんはカップを両手で包み込む。 「さっきは、ちょっと急に言ってしまって」 「いえ……」 「驚きましたよね」 「……はい。でも」 言葉を探す。 「悪い気は、しませんでした」 白石さんは、少しだけ目を細めた。 「よかった」 それだけで、胸が温かくなる。 「篠原さんって、恋人いるんですか?」 突然の質問に、言葉が詰まる。 「……いません」 「そうなんですね」 白石さんは、安心したように息を吐いた。 「わたしも、いないです」 知っている。 でも、本人の口から聞くと、重みが違った。 「よく、誤解されるんですけど」 白石さんは、苦笑する。 「彼氏いるでしょ、って」 「……そうですね」 思わず、正直に答えてしまう。 「篠原さんも、そう思ってました?」 少しだけ、いたずらっぽい視線。 「……はい」 白石さんは、笑った。 「ですよね。でも、いないんです」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに揺れた。 彼女には、彼氏がいない。 それはもう、わたしにとって、逃げ道ではなかった。 カップの向こうで、白石さんと目が合う。 「これから、少しずつ話せたら嬉しいです」 その声は、仕事のときよりも、ずっと柔らかかった。 「……わたしも」 そう答えたとき、自分が少しだけ前に進んだ気がした。 静かな夜。 何かが始まる音は、しなかった。 けれど確かに、 わたしと彼女の距離は、少しだけ近づいていた。白石さんは、ゆっくりと唇を離した。名残惜しそうに、でも追いすぎない距離。その加減が、相変わらずずるい。「……息、できてます?」からかう声。でも、目は真剣だった。「……できてません」正直に答えると、白石さんは小さく笑う。「ですよね」そう言いながら、わたしの額に額を軽く当てる。触れているのに、もうキスはしない。「篠原さん」静かな呼び方。「今の、どういう意味か」少し間を置いて。「分かります?」胸が、また強く鳴る。「……」言葉にしようとして、喉が詰まる。分かっている。分かっているのに、口に出すのが怖い。白石さんは、急かさなかった。代わりに、わたしの手を取る。指を絡めるほど近くない、でも離れない。「答え、今すぐじゃなくていいです」その声は、驚くほど優しい。「でも」視線が、まっすぐ向けられる。「確かめに来たってことは」指先が、きゅっと握られる。「もう、戻れないところまで来てるのは、分かってますよね」否定できなかった。わたしは、ゆっくりと頷く。「……はい」その一言で、白石さんの表情が少しだけ緩んだ。「よかった」それだけ言って、手を離す。離れた瞬間、少しだけ寂しくなる自分に、驚いた。「今日は」白石さんは、一歩下がる。「ここまでにしましょう」「……え」「これ以上は」軽く肩をすくめる。「篠原さんが、考える余裕なくなりそうなので」また、からかい。でも、どこか本気だった。「……ずるいです」同じ言葉を、また口にしていた。白石さんは、はっきり笑った。「知ってます」玄関まで送られる。靴を履きながら、胸の奥が落ち着かない。「……白石さん」呼び止めると、すぐに振り返ってくれる。「はい」「……」言いたいことは、たくさんある。でも、今は、ひとつしか出てこなかった。「……また、会ってもいいですか」白石さんは、一瞬だけ目を見開いてから、すぐに微笑んだ。「もちろん」即答だった。「そのために、待ってたので」扉が閉まる。夜の空気に触れた瞬間、ようやく息ができるようになる。帰り道、唇に残った感覚を、何度も思い出す。——確かめたかったはずなのに。確かめ終わってしまった気がして、それが少し、怖くて、でも。胸の奥は、不思議と静かだった。答えは、まだ言葉にしていない。でも。白石
白石さんは、わたしが何も言えずに立っているのを見て、少しだけ目を細めた。「……緊張してます?」「……してます」正直に答えると、白石さんは小さく笑う。「ですよね」一歩、近づいてくる。それでも、まだ触れない。「確かめたいって言いましたよね」「……はい」「じゃあ」白石さんは、わたしの前で足を止める。「逃げないでくださいね」そう言ってから、ゆっくりと手を伸ばしてきた。触れたのは、肩。強くない、逃げられる程度の力。それなのに、体が動かなかった。「……」白石さんの視線が、わたしの目から唇へと落ちる。その動きだけで、胸が大きく鳴る。「嫌だったら、今でも止めます」囁くような声。「……嫌、じゃないです」そう答えた自分の声が、思っていたよりも震えていた。白石さんは、その返事を聞いてから、ほんの少しだけ距離を詰める。額が、触れそうなほど近い。「じゃあ」一瞬の間。「……いきますよ」返事をする暇はなかった。唇が、重なる。軽く触れるだけ、じゃなかった。白石さんの唇は、確かめるように、ゆっくりと押し当てられてくる。逃げ道を塞ぐみたいに、でも乱暴じゃない。「……っ」息が、うまくできない。唇が離れると思った次の瞬間、また重ねられる。今度は、さっきよりも深く。白石さんの手が、肩から背中へと回る。引き寄せられて、距離が完全になくなる。キスが、長い。触れて、離れて、また重なって。そのたびに、息を奪われる。頭が、ぼんやりする。——考えたかったはずなのに。唇が触れているだけなのに、思考が全部溶けていく。白石さんは、焦らなかった。でも、迷いもなかった。まるで、「ここまで来るのを待っていた」みたいに。ゆっくりと唇が離れたとき、白石さんは、わたしの額に額を寄せたまま、低く言う。「……どうですか」息が、近い。「……」言葉が、出ない。胸が苦しいほど鳴っている。体が、熱い。それだけで、答えになってしまっている気がした。白石さんは、わたしの表情を見て、少しだけ満足そうに笑う。「その顔」親指で、わたしの唇の端をなぞる。「確かめに来た意味、ありましたね」「……ずるいです」やっと、それだけ言えた。白石さんは、静かに笑った。「でしょうね」もう一度、距離が縮まる。今度は、さっきよりも、迷いのないキスだっ
その日は、白石さんから何も仕掛けてこなかった。それが、いちばん落ち着かなかった。仕事は普通に終わった。首元も、誰にも指摘されないまま一日が過ぎた。なのに、心だけがずっと騒がしい。帰りの電車の中で、何度もスマホを見てしまう。——今日は、何もしません。——続きは、また今度。その言葉が、頭から離れない。家に着いて、コートを脱ぎ、ソファに座る。静かすぎる部屋。白石さんの声。視線。からかうような笑い方。考えないようにしようとしても、無理だった。スマホが震える。【ちゃんと帰れました?】画面を見つめて、少しだけ息を整える。【はい】すぐに既読がついた。【今日は、触ってないので】【安心してください】その一文を読んだ瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。安心しているのか。それとも、がっかりしているのか。自分でも、分からない。しばらく迷ってから、指を動かす。【……行っても、いいんですか】送信した直後、心臓が強く鳴った。——何を言ってるんだろう。でも、もう取り消せなかった。少しの沈黙。その数秒が、やけに長い。そして。【どうぞ】たった二文字。それだけなのに、胸が大きく跳ねた。考えるより先に、文字を打っていた。【じゃあ、今から行きます】送ってから、スマホを握りしめる。——どうして、行こうとしてるんだろう。白石さんに会いたい理由を、はっきり言葉にできない。でも、この気持ちが何なのか、確かめたかった。からかわれているから?触れられたから?それとも。彼女のことを考えると、胸が落ち着かなくなる、この感じ。それが何なのかを、知りたかった。上着を羽織り、鍵を手に取る。外に出ると、夜の空気が少し冷たい。白石さんの家までの道を歩きながら、何度も足を止めそうになる。でも、止まらなかった。——行くって決めたのは、自分だ。インターホンの前に立つと、指先が少し震えた。呼び鈴を押す。すぐに、扉が開く。「……早いですね」白石さんが、そこにいた。部屋着に近い服装。仕事のときより、ずっと無防備な雰囲気。「……すみません、急に」「いいえ」白石さんは、軽く首を振る。「来ると思ってました」その一言で、胸がまた騒ぐ。「……どうして」「顔、浮かんでたので」冗談みたいな言い方。でも、目は真剣だった。部屋に
その日の帰り道、わたしはずっと、首元を気にしていた。隠している。ちゃんと、隠しているはずなのに。——見られてる気がする。白石さんの視線が、まだそこに残っているみたいで、落ち着かなかった。駅までの道を歩きながら、今日一日を思い返す。触れられてはいない。でも、距離はずっと近かった。からかわれて、揺さぶられて。それなのに、決定的な一線は越えられない。「……ずるい」小さく、独り言が漏れる。家に着いても、すぐには落ち着けなかった。シャワーを浴びて、首元を洗う。鏡に映る自分を見て、息を止める。——やっぱり、ある。昼間よりも、少しだけ色がはっきりしている気がした。白石さんの声が、頭の中で蘇る。やっと気づいたんですね我慢、限界だったんですよ胸の奥が、じわっと熱くなる。「……何考えてるんだろ」相手のことなのか。自分のことなのか。布団に入っても、眠れなかった。白石さんは、どういうつもりなのか。からかっているだけなのか。それとも——。考えすぎて、答えが出ない。翌日。出社すると、白石さんはもう席にいた。こちらに気づくと、軽く会釈をする。それだけ。昨日までのからかいが嘘みたいに、普通だった。——あれ?少し、拍子抜けする。午前中、特に何も起こらなかった。距離も、視線も、いつも通り。逆に、それが気になってしまう。昼休み前、資料を届けに行ったとき。「篠原さん」静かな声で、呼ばれる。「はい」白石さんは、周りを一度だけ確認してから、少し身を寄せてきた。でも、昨日ほど近くない。「今日は」声を落として。「大丈夫そうですね」何が、とは言わない。「……何がですか」とぼけると、白石さんは小さく笑った。「隠すの」一瞬で、顔が熱くなる。「……もう、からかわないって言いましたよね」「言ってません」即答。「でも」白石さんは、わたしの表情を見て、少しだけ真面目になる。「昨日より、落ち着いてます」それは、褒め言葉なのか、観察なのか。「……それ、嬉しいんですか」聞いてしまった。白石さんは、一拍置いてから答える。「嬉しいですよ」はっきり。「篠原さんが、ちゃんと考えてくれてるって分かるので」その言葉に、胸が詰まる。「……考えさせてるの、白石さんですよ」思わず、本音が出た。白石さんは、少しだけ
目を覚ました瞬間、違和感があった。天井が、知らない。視界に入る白さも、光の入り方も、自分の部屋とは違う。「……?」ゆっくり瞬きをして、状況を確かめる。頭が、少し重い。体を起こそうとして、動きを止めた。——隣に、人がいる。心臓が一気に跳ねる。恐る恐る視線を向けると、白石さんが眠っていた。同じベッド。距離は近く、肩が触れそうなほど。「……っ」昨夜の記憶を辿ろうとする。夜ご飯。お酒。ふらついて……。そこから先が、途切れている。慌てて自分の体を見る。服は着ている。乱れていない。どこも痛くない。——何も、してない。その事実に、ほんの少しだけ息を吐く。それでも、この状況は落ち着かない。「……白石さん」小さく呼ぶ。反応がない。「白石、さん……」もう一度。少しだけ声を強める。白石さんが、ゆっくりと目を開けた。「……おはようございます」眠そうな声。でも、すぐにこちらを見て、口元が緩む。「起きました?」「……はい」自分の声が、少し掠れている。白石さんは、わたしの顔をじっと見たあと、視線を下げた。首元のあたり。何も言わずに、手を伸ばしてくる。「……?」指先が、首に触れる。軽く。確かめるように。「……白石さん?」名前を呼ぶと、白石さんは一瞬だけ動きを止めた。でも、すぐに指を離し、何事もなかったように体を起こす。「昨日、篠原さん、途中から完全に寝てました」淡々とした声。「家、遠かったので。連れてきました」「……そう、だったんですね」それ以上、聞けなかった。白石さんは、いつもの落ち着いた表情に戻っている。からかうような視線も、探るような仕草もない。ただ、距離だけが近い。「着替え、用意してあります」「……ありがとうございます」その気遣いが、逆に落ち着かない。準備をして、白石さんの部屋を出た。何も起きていない。そう、思うしかなかった。――――会社に着いてからも、頭はぼんやりしていた。白石さんとは、ほとんど言葉を交わしていない。目が合えば、軽く会釈するだけ。午前中、資料を整理していると、同僚が声をかけてきた。「篠原さん」「はい?」「首元、どうしたんですか?」一瞬、意味が分からなかった。「……え?」「赤くなってますよ。ここ」指で示される。心臓が、止まったみ
その日の終わりが近づくにつれて、わたしの神経は、ずっと張り詰めたままだった。触れられるたびに、体が反応してしまう。それを、自覚してしまっているからこそ、余計に苦しい。夕方、白石さんがまた、いつものように近づいてきた。何も言わずに、自然な動きで、手が伸びる。指が、わたしの手に触れようとする。その瞬間。「……やめて、ください」初めて、はっきりと声に出していた。白石さんの手が、止まる。周りには、人がいる。誰もこちらを見ていないけれど、心臓がうるさく鳴っている。白石さんは、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。「……あ」それから、すぐに、口元が緩む。「やめて、ですか」声を落として、わたしの方へ顔を寄せる。「でも」わたしの耳元、ぎりぎり。「やめてほしい割には、いい反応してますけどね」からかうような声。胸が、ぎゅっと縮む。「……そういう意味じゃ」「分かってます」白石さんは、あっさり言った。「嫌なら、ちゃんと嫌って言えるのは、いいことです」そう言いながら、距離は保ったまま。でも、視線は外さない。「ただ」一瞬、間を置いて。「反応が、正直すぎるだけで」何も言い返せなかった。白石さんは、それ以上触れてこなかった。でも、それで終わりじゃなかった。「今日」少しだけ、声の調子が変わる。「夜、空いてます?」突然の話題に、言葉が詰まる。「……え」「ご飯、行きませんか」軽い口調。でも、視線は真剣だった。断った方がいい。頭では、そう思う。このまま一緒にいたら、どうなるか分からない。流されてしまう気がする。「……今日は」一度、言葉を切る。「……」白石さんは、待っていた。急かさない。でも、逃がさない。——気になってる。それは、否定できない。触れられて、揺れて、困って。それでも、離れたくないと思ってしまう。「……少しだけなら」気づいたときには、そう言っていた。白石さんの目が、ほんの少しだけ柔らぐ。「じゃあ、軽くで」仕事を終え、二人で会社を出る。夜の空気は、昼よりも落ち着いていた。歩く距離が、自然と近い。入ったのは、静かな居酒屋だった。照明は控えめで、周りの声も遠い。「お酒、飲めます?」「……強くは、ないです」「じゃあ、無理しないで」そう言いながら、白石さんは自分の分と一緒に
その日の午後は、ずっと落ち着かなかった。白石さんの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。彼女はいたことがある。そして、それをわたしにだけ伝えた。理由は分からない。けれど、意味がないとは思えなかった。仕事が終わる頃、白石さんが席を立った。こちらを見る。目が合う。「……篠原さん」小さく手招きされる。「少し、いいですか」断る理由は、もうなかった。人の少なくなったフロアの端。コピー機の音だけが、遠くで聞こえる。白石さんは、少しだけ距離を取って立っていた。でも、昨日までより近い。「さっきの話の続きなんですけど」前置きのような言葉。それだけで、胸がざわつく。「はい…
その日は、いつもより仕事が静かに進んでいた。電話も少なく、急ぎの案件もない。オフィス全体が、少しだけ気の抜けた空気に包まれている。わたしは画面を見つめながら、キーボードを叩いていた。集中しているつもりだったのに、視線の端に白石さんの姿が入るたび、意識が引き戻される。白石さんは、資料をまとめながら、同僚と小さな声で話していた。相変わらず、自然な距離感。誰といても、浮かない。——彼氏がいないなんて、やっぱり信じられない。そんなことを考えていると、白石さんがこちらを見た。一瞬。でも、はっきりと。わたしは、逃げなかった。白石さんは、少しだけ目を細めてから、同僚との会話を終え
翌日から、白石さんとの距離は、目に見えて変わったわけじゃなかった。挨拶は、相変わらず「おはようございます」で始まる。業務の話も、必要最低限。周りから見れば、昨日までと何も変わらない。それでも、わたしには分かってしまう。視線の向き。タイミング。ほんのわずかな間の取り方。朝、席に着くと、白石さんは一度だけこちらを見る。声はかけない。けれど、その一瞬で、ちゃんと「気づいている」と伝わる。わたしも、同じように視線を返す。それだけで、胸の奥が落ち着く。——これでいい。今は、まだ。午前中の会議は、少し長引いた。資料を見ながら説明を聞き、メモを取る。集中しているはずなのに
カフェを出ると、夜風が思ったよりも冷たかった。「寒くないですか?」白石さんが、こちらを見て言う。「……大丈夫です」そう答えたけれど、少しだけ嘘だった。そのことに気づいたのか、白石さんは自分のコートの前を軽く押さえながら、歩く速度をわたしに合わせてくる。並んで歩く道。会社から駅までの、いつも通っているはずの道なのに、景色が違って見えた。沈黙はあった。でも、それは居心地の悪いものじゃない。「さっきの話なんですけど」白石さんが、前を見たまま口を開く。「視線、感じるって言ったじゃないですか」「……はい」心臓が、また少しだけ速くなる。「最初は、たまたまかなって思ってたんで







