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第3話

Author: 夜凪
last update Last Updated: 2026-01-14 19:33:50

定時を過ぎても、わたしはすぐに席を立てなかった。

パソコンの画面はもう閉じている。

やるべき仕事も終わっている。

それでも、椅子に座ったまま、何となく時間をやり過ごしていた。

理由は分かっている。

白石さんが、まだ席にいるからだ。

オフィスの人数は少しずつ減っていく。

帰り支度をする音、エレベーターに向かう足音。

それらが遠ざかるたび、空間が静かになっていく。

ふと、視線を上げると、白石さんは資料を片付けているところだった。

真剣な横顔。

仕事の顔だ。

——やっぱり、綺麗だな。

そんなことを考えてしまった自分に、少し驚く。

今まで、こんなふうに誰かを意識したことはなかった。

わたしは、彼女のことをほとんど知らない。

それなのに、目で追ってしまう。

白石さんが、バッグを手に取る。

そろそろ帰るのだろうか。

その瞬間、心臓が少しだけ早くなった。

——別に、何かあるわけじゃない。

そう自分に言い聞かせる。

立ち上がると、椅子の音がやけに大きく聞こえた。

白石さんが、こちらを見る。

「篠原さんも、もう帰りですか?」

声をかけられて、足が止まる。

「……はい」

それだけで、胸がざわつく。

「よかった。偶然ですね」

白石さんは、そう言って少し笑った。

偶然。

その言葉に、わたしは小さく頷く。

エレベーターへ向かう廊下を、二人で並んで歩く。

これまで何度もすれ違ってきたはずなのに、こんなふうに並ぶのは初めてだった。

沈黙が続く。

気まずい、はずなのに。

不思議と、落ち着かないだけで、嫌ではなかった。

「……篠原さんって」

白石さんが口を開く。

「仕事終わるの、いつも早いですよね」

「え……そう、ですか?」

「はい。無理しないタイプなのかなって」

無理しない。

そう見えていたのか。

「……得意じゃないだけです。残るの」

正直に答える。

「分かります」

白石さんは、少しだけ声を落として言った。

「わたしも、実はあんまり得意じゃないです」

意外だった。

白石さんは、仕事が好きそうで、何でも楽しそうにこなす人だと思っていたから。

「でも、周りが残ってると帰りづらくて」

そう言って、困ったように笑う。

「……そう、ですね」

わたしも同じだった。

エレベーターが来る。

中には、誰もいない。

二人で乗り込むと、扉が静かに閉まった。

密閉された空間。

白石さんの距離が、急に近く感じる。

「篠原さんって」

また、名前を呼ばれる。

「はい」

「わたし、篠原さんのこと、ちょっと気になってて」

その言葉に、息が止まった。

「……え?」

「いつも静かで、あんまり喋らないのに、ちゃんと周り見てるなって」

気になっている。

そう言われた意味を、頭がうまく処理できない。

「見てる、って……」

「はい。視線、結構感じます」

心臓が跳ねる。

——ばれてた。

「す、すみません……」

慌てて謝る。

白石さんは、くすっと笑った。

「謝らなくていいです。嫌じゃないので」

その一言が、胸に落ちる。

「……嫌じゃ、ない?」

「はい」

白石さんは、こちらを見て、はっきりと頷いた。

エレベーターが、一階に着く。

扉が開くまでの数秒が、やけに長く感じた。

外に出ると、夜の空気がひんやりと頬に触れる。

「このあと、予定ありますか?」

白石さんが、少しだけ遠慮がちに聞いてきた。

「……特には」

本当だ。

予定なんて、何もない。

「じゃあ……少しだけ、話しませんか?」

少しだけ。

その言葉に、逃げ道を感じて、安心してしまう。

「……はい」

そう答えた自分の声は、思っていたよりも落ち着いていた。

会社の近くのカフェに入る。

遅い時間で、店内は静かだった。

向かい合って座ると、白石さんはカップを両手で包み込む。

「さっきは、ちょっと急に言ってしまって」

「いえ……」

「驚きましたよね」

「……はい。でも」

言葉を探す。

「悪い気は、しませんでした」

白石さんは、少しだけ目を細めた。

「よかった」

それだけで、胸が温かくなる。

「篠原さんって、恋人いるんですか?」

突然の質問に、言葉が詰まる。

「……いません」

「そうなんですね」

白石さんは、安心したように息を吐いた。

「わたしも、いないです」

知っている。

でも、本人の口から聞くと、重みが違った。

「よく、誤解されるんですけど」

白石さんは、苦笑する。

「彼氏いるでしょ、って」

「……そうですね」

思わず、正直に答えてしまう。

「篠原さんも、そう思ってました?」

少しだけ、いたずらっぽい視線。

「……はい」

白石さんは、笑った。

「ですよね。でも、いないんです」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに揺れた。

彼女には、彼氏がいない。

それはもう、わたしにとって、逃げ道ではなかった。

カップの向こうで、白石さんと目が合う。

「これから、少しずつ話せたら嬉しいです」

その声は、仕事のときよりも、ずっと柔らかかった。

「……わたしも」

そう答えたとき、自分が少しだけ前に進んだ気がした。

静かな夜。

何かが始まる音は、しなかった。

けれど確かに、

わたしと彼女の距離は、少しだけ近づいていた。

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