篠原澪は、キーボードを打つ手を止めた。画面には、さっきから同じ行が表示されたまま動いていない。カーソルが規則正しく点滅しているのに、頭の中は別のところにあった。少し離れた場所で、笑い声がする。「それでさ、先方が急に仕様変えたいって言ってきて」聞き慣れた声だった。白石由奈。柔らかくて、よく通る声。職場の誰とでも自然に話せる人。「えー、それは大変ですね」男性社員の声が続く。由奈は書類を胸に抱えながら、少し身を乗り出して話していた。距離が近い。特別な意味はないと分かっているのに、私は視線を逸らせずにいた。「でも、まあ何とかなるかなって。こういうの、嫌いじゃないし」由奈はそう言って笑う。困ったようで、どこか楽しそうな表情。自分が座っている椅子の背もたれに、わずかに体重を預けた。ここから見えるのは、横顔と、少しだけ見える横目。——まただ。由奈の視線が、一瞬こちらに流れる。目が合った。ほんの一秒にも満たない。けれど確かに、視線は私を捉えていた。「……」慌てて画面に視線を戻す。何もしていないのに、見られた気がして、胸がきゅっと縮んだ。「篠原さん」名前を呼ばれて、肩が跳ねる。「は、はい」振り向くと、同じチームの先輩が立っていた。「この資料、午後の会議で使うから、確認お願いできる?」「分かりました。すぐやります」返事をして資料を受け取る。その間も、意識は完全には戻ってこなかった。——白石さん。呼び捨てにするほど親しくはない。けれど、苗字に「さん」をつけるだけで、少し距離を感じる名前。私は、由奈とまともに話したことがほとんどなかった。挨拶と、業務上の最低限の会話。それだけ。それでも、なぜか気になる。由奈は、よく男性社員と話している。明るくて、愛想がよくて、距離の詰め方が自然だ。——きっと、彼氏がいる。そう思うのが、普通だった。だから私は、踏み込まなかった。視線を向けるだけで、それ以上は望まない。「篠原さん、集中してます?」再び声がして、我に返った。「す、すみません。今、確認します」資料に目を落とす。文字は読めるのに、頭に入ってこない。そのとき、由奈たちの会話が途切れた。「じゃあ、後でまたお願いします」男性社員が去っていく。残された由奈は、軽く息をついてから、くるりとこちらを向いた。そして
Dernière mise à jour : 2026-01-14 Read More