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後悔する夫と、去った最愛の妻
後悔する夫と、去った最愛の妻
Author: ヴェスパー・ショウ

第1話

Author: ヴェスパー・ショウ
寝室に戻るなり、私はスマホを取り出し、顧問弁護士に電話をかけた。

「離婚届を用意してください。今すぐに」

電話の向こうで、息を呑むような沈黙が流れる。

「離婚届……ですか?春本社長はご存じなのですか?」

「知ってます」

嘘のせいで喉の奥が焼けるようだった。それでも構わず、言葉を無理やり絞り出す。

「とにかく、書類だけお願いします」

30分後、私は小さなコンソールテーブルの前に立っていた。プリンターはまだ温かい。

離婚届に署名を済ませ、書類を束ごと公共料金の請求書の下に滑り込ませる。

平常心を装ったその時、和真が部屋に入ってきた。彼の視線が私を捉えた瞬間、端整な顔に驚きの色が浮かんだ。

「愛奈?出張は金曜までだと思っていたが」

私は微笑みを作った。

「驚かせたくて、早く終わったの」

彼は大股で部屋を横切ると、両手で私の頬を包み込んだ。

かつてはその掌の温もりが、世界で一番好きなものだった。今はただ、肌が粟立つばかりだった。

「……やっと帰ってきたか。ずっと会いたかった」

彼の親指が私の頬をそっと撫でた。

その愛おしげな言葉に、先ほど耳にした会話が、すべて自分の妄想だったのではないかとさえ思えてくる。

崩れ落ちそうになる前に、私はコンソールの上の書類を掴み、差し出した。

「せっかくだから、これにサインしてもらえる?家の請求書なの。片付けておきたくて」

「ああ、いいよ」

彼は何の疑いもなく束を受け取り、上着からペンを抜くと、付箋の貼られた箇所に次々とサインしていく。

1枚、また1枚と、流麗で堂々とした署名が連なっていく。疑うことすら知らないかのように。

私はそのペン先を見つめていた。一番下に紛れ込ませた離婚届の上を、ペンが滑っていく。彼は書類の見出しにすら目を通さなかった。それほどまでに、私を信じ切っていた。あるいは、私がこんなことをするなど、想像すらしていなかったのだろう。

書き終えた彼は、軽い笑みとともに書類を返してきた。

「これで終わりだ。他には?そろそろ、妻にただいまのキスをしてもいいか?」

答える間もなく、彼の力強い腕が私を胸に引き寄せる。唇が近づいてきた瞬間、私はうろたえ、ぎりぎりで顔を背けた。

彼の口づけは、ぎこちなく唇の端を掠めた。

和真が身を引く。瞳に戸惑いの色が浮かんだ。

「……どうした?」

私はうつむき、髪で表情を隠した。

「ううん、なんでもない。ただ……出張の疲れが出ただけ。移動だけで疲れちゃって」

彼の眉間から、すっと力が抜けた。案じるような声で言う。「それなら早く言えばいいのに。ほら、座って」

彼は私をソファへと導いた。親指がうなじの付け根に当たり、ゆっくりと円を描くようにほぐしていく。やがて指先はこめかみへと上がっていった。

「頑張りすぎなんだよ、お前は」

彼は優しく囁く。

「何度も言ってるだろ。仕事が辛いなら辞めればいい。俺が養う」

以前の私なら、こんな言葉ひとつで舞い上がるほど喜び、自分から振り向いて口づけをしていただろう。けれど今は、一言一言が胸を押し潰すだけだった。

私はただ頷き、小さく呟いた。「……そうかもね。考えてみる」

彼は私の頭のてっぺんに口づけを落とした。

「いい子だ。シャワーを浴びてくる。すぐ戻るから、そこで待ってろ」

浴室の扉が閉まり、水音が響き始めた瞬間、私は表情を崩した。クッションに深く沈み込む。目の奥が焼けるように熱いのに、涙だけは頑なに出てこなかった。

鋭いバイブ音が部屋の空気を切り裂いた。ナイトテーブルの上で、彼のスマホが光っている。

急ぎの用件かもしれない。そう思い、彼に渡そうと歩み寄った私は、画面に浮かぶ名前を見て息を呑んだ。

奈穂美。

血の気が引く感覚。

さらに二度震え、やがて静かになった。私はその場に固まったまま、手の中の端末の重みを感じていた。

戻そうとしたその時、ロック画面に新しいメッセージのプレビューが浮かび上がる。

【早くこれ見せたい】

考えるより先に、指先が動いていた。自分の誕生日を打ち込む。ロックはあっさりと解除された。

奈穂美とのトーク画面を開く。最新のメッセージには、画像が1枚添えられていた。

エコー写真だった。

開いてみると、粗い白黒の画像の中に、小さく丸まった赤ん坊の輪郭が写っていた。すでに頭の丸みまで、はっきりと見て取れる。

それは、姉の子供だった。そして、その父親は私の夫だ。

声が漏れないよう、拳を口元に押し当てた。

この1年半、私は和真との子を望み、ずっと授からずにいた。春本家の親族たちは、跡継ぎを望む声を、日に日に強めていった。

それでも和真は、いつも私を庇うように盾となってくれていた。

「時間はある」と、額に口づけながら彼は言った。

「子供なんて要らない。俺にはお前さえいればいい。ふたりだけの世界を作ればいいんだ」

なのに、私に叶えられなかったものを、奈穂美が与えていた。私が壁紙のように背景へ霞んでいく一方で、両親の愛を一身に受け、いつも私の欲しいものを先に手にしてきた姉。

そして今度は、それまで手に入れたのだ。

鈍く、深い痛みだった。心臓を抉り込まれたような。

私は画像を閉じ、端末をロックした。それから何事もなかったかのように、ベッドに座り直し、枕にもたれて自分のスマホをぼんやりといじった。

数分後、浴室から和真が出てきた。腰に緩くタオルを巻き、逞しい胸には、まだ水滴が光っていた。

彼はスマホに目をやった。その瞬間、顎に走る微かな緊張。こちらへ一瞬だけ向けられ、すぐに逸らされた視線。私はそれを見逃さなかった。

私は何気ない素振りを装って顔を上げた。

「何かあった?」

彼はスマホを裏返しにナイトテーブルへ置いた。

「仕事だ。南エリアの系列会社が、うちの物流倉庫のひとつに手を出そうとしてる。明日片付ける」

心が沈んでいくのを感じた。また、嘘をついている。

彼はベッドに滑り込み、私に身を寄せてくる。私は無理に体の力を抜き、あと数日だけ、何も知らない妻を演じ続けようと決めた。

翌朝、鏡の前でネクタイを結びながら、和真が実家の集まりの話を切り出した。

「明後日、お前の実家でだ。無理に来なくていい。ああいう場が、お前にとってどれだけ辛いか知ってるから」

私は彼を見た。

「どうしてそう思うの?」

彼は鏡越しに私と目を合わせた。

「奈穂美が部屋にいると、お前の両親はろくにお前を見もしないだろう。それを見せられるのが、俺は嫌なんだ」

一言一言、すべて真実だった。以前の私なら、その気遣いに心から感謝していただろう。

けれど今の私には、本当の理由が見えていた。彼は、私に来てほしくないのだ。奈穂美がそこにいるから。デザイナーズドレスの下で、もううっすらと膨らみ始めたお腹を隠して。

込み上げる苦さを、私は呑み込んだ。

「行くわ。家族の集まりだもの。みんな来るのに、私だけ欠席したら変でしょう」

彼の瞳の奥で、何かが揺れた。罪悪感か、あるいは居心地の悪さか。だがすぐに、それを塗り込めるように表情を戻す。

「わかった。お前がそう言うなら」

私はその集まりに行き、私を隅に置いたまま、奈穂美ばかりを溺愛してきた両親を、この目で見届けるつもりだった。私から何もかも奪っていった姉の姿も。

そして永遠に、彼らの世界から去るのだ。

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