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私は一生に向き直った。「少し、ふたりきりにしてもらえる?」一生の眉間に、心配げな皺が寄った。「本当に大丈夫か?僕、残ろうか」「大丈夫」彼の腕に、そっと触れる。安心させるための仕草だった。「約束する。終わったら、そっちに行くから」一生は一瞬迷ってから頷いた。和真に長く、鋭い視線を送ると、店を出て行った。扉が、かちりと音を立てて閉まる。続いた沈黙は、息が詰まるほどだった。和真は、荒らされた私の店の中に、奈穂美が投げ散らした本に囲まれて立ち、私を見つめていた。「愛奈」彼は私に歩み寄り、まるで抱きしめようとするかのように両腕を持ち上げた。私は思わず大きく後ずさり、カウンターに背をぶつけた。「触らないで」私は言った。「言いに来たことを言って、それから帰ってちょうだい」彼は足を止め、両手を力なく下ろした。「離婚届のことだ。俺は、自分が何にサインしているのかすら、わかっていなかった。お前が差し出してきたから、お前を信じて、文面すら読まずに、この結婚を終わらせる書類にサインしたんだ」「そこが問題なのよ、和真」私は自分の体を両腕で抱いた。彼との間に、壁を作るように。「私が書類を差し出して、あなたは見もせずにサインした。あなたがどれだけ私を見ていなかったか、それがよくわかる。目の前で起きていることにすら、気づかないほどに」「俺がお前を失望させたのは、わかってる」彼の声はかすれ、擦り切れていた。「嘘をついたこともわかってる。起きたその時に打ち明けるべきだったことを、隠してきたこともわかってる。でも頼む、愛奈。わかってほしい。俺は怖かったんだ。お前を失うことが怖かった。それで、何もかも間違ったやり方をしてしまった。お前を傷つけた。そのことを、俺は残りの人生をかけて悔やみ続ける」「後悔しても、何も変わらない」私は首を振った。「あなたは私の姉と寝て、妊娠させた。彼女があなたの子を身籠っている間、あなたは私の隣に座って、愛してると言った。私を島にひとり残して、彼女のもとへ駆けつけた。あなたが下した選択のひとつひとつが、私に対する裏切りだった。私たちに対する裏切りだった」「わかってる」彼の声が裂けた。「自分が何をしたか、わかってるさ。そのことで、俺は一生自分を許せない。でも、これだけは知って
奈穂美は店の奥へと踏み込んできた。視線は棚、肘掛け椅子、そして私がその日の午前中をかけて整えたショーウィンドウのディスプレイを、値踏みするように見回した。彼女は嘲るように笑った。「ここに隠れてたのね。こんな辺鄙な小さな店に?私の人生を壊しておいて、消えてしまうなんて!」「あなたの人生を壊した?」私はカウンターの奥のスツールから立ち上がった。「壊したのはあなた自身よ。私はただ、あなたがしたことの真実を話しただけ」彼女の声は、ほとんど叫びに近いところまで跳ね上がった。「あの動画を投稿して、世間を私の敵に回したのよ!私は全部失った。契約も、賞も、名声も。積み上げてきたもの全部、あなたのせいで消えたの!」「あなたが私のデザインを盗んだ」私は、声の調子を変えずに言った。「私の夫と寝た。彼の子を身籠って、家族の集まりでそれを見せつけた。そしてそれを私が人に話したからって、私に怒るの?よく言えたものね」奈穂美の顔が歪んだ。彼女は一番近くのディスプレイから本の束を掴むと、床に叩きつけた。私がその朝、丁寧に積み上げた本の塔が、けたたましい音とともに崩れ、本がタイルの上を滑っていく。店内にいたほかのお客さんたちが、驚いて顔を上げた。私は申し訳なさそうな表情で彼らと目を合わせ、扉を手で示した。「本当にすみません。ちょっと個人的な事情で、閉めさせていただきます」彼らはそそくさと出て行き、私は奈穂美とふたりきりになった。「私を潰しておいて、そのまま去るなんて許さない!」彼女は叫び、腕を振り回して棚の本を薙ぎ払った。文庫本が宙を舞い、ページがはためく。「あなたはいつだって、被害者面してたわよね、愛奈?『可哀想な愛奈』ってね。いつも私の陰に埋もれて、割を食ってるふりをして。ええ、おめでとう。とうとう勝ったわね。これで満足?」私はカウンターを回り込んだ。手が震えていた。「出て行って。今すぐに」「あなたが全てを正すまで、出て行かないわ」奈穂美は、大きなお腹を突き出すようにして詰め寄ってきた。指を突きつける。「もう1本動画を出しなさい。あのデザインは共同制作だった、私の成功に嫉妬して、私を悪者にするために都合の悪い事実を隠したって、みんなに言うのよ。私の人生を、返しなさい!」「嫌よ」私の声は、氷のように
客足が途絶え、光が柔らかくなる午後には、私はスケッチブックを取り出して絵を描いた。指輪、ネックレス、ブレスレット。指先が記憶している線が、勝手に紙の上を滑っていく。カウンターの裏の棚には、参考にするためのデザイン集を何冊か置いていた。時折ページをめくって着想を得ながら、鉛筆をほとんど無意識のうちに走らせた。10月も終わりに近いある火曜日、一生が新しいコーヒー豆を持って現れた。ぜひ試してほしいのだという。ブルーベリーとダークチョコレートを思わせる風味の、希少なシングルオリジン。彼は明らかに興奮していた。一口飲んで、とても美味しいと伝えると、彼は満面の笑みをこぼした。私がスケッチブックの余白にメモを書き込んでいる間、彼はふとカウンターに視線を落とし、描きかけの絵に目を留めた。四つ葉のクローバーを連ねた、繊細なブレスレットだった。ここ数日、比率を詰めながら温めてきたアイデアだった。幸運と軽やかさを、デザインの中にどう落とし込むか、試行錯誤していたところだった。「これ、君が描いたのか?」一生が身を乗り出す。「愛奈、これ、すごく綺麗だ。クローバーの葉の細部、鉛筆でどうやってこんなに精緻に描けるんだ?」私は思わず肩をすくめた。急に気恥ずかしくなって。「ただの思いつきよ。ラフなスケッチ」「僕にはラフには見えないけど」彼は心からの感嘆を込めて絵を見つめた。「この店を開く前は、ジュエリーデザイナーだったのか?」私は言葉に詰まった。一生には、自分の過去について何ひとつ話していなかった。けれど、こうもまっすぐに聞かれてしまえば、うまくはぐらかす術もなかった。「……ええ」私はようやく答えた。「昔は、そうだった」彼は眉を上げた。「それを辞めたのか。どうして?」その問いが、ふたりの間にしばらく漂った。「全く別の人生を歩みたかったの」私は嘘をついた。「前に進むためには、何かを捨てなきゃいけないこともあるから」一生はゆっくりと頷いた。それ以上は踏み込まず、詳しい事情も聞かなかった。ただ、もう一度スケッチに目をやると、こう言った。「まあ、余計なお世話かもしれないけど。君にはまだ、その才能があると思う。このデザイン、きっと見事な作品になる」1か月ほど経ったある日、一生がスマホを片手に、抑えきれない興奮を
動画を公開した後、私はログアウトし、その後に起こることのすべてを手放した。海を渡る便に乗り込み、新しい生活を始めた。選んだのは、遠く離れた海辺に浮かぶ小さな島だった。あらゆる意味で、以前暮らしていた大都会とは正反対の場所。だからこそ、私はここへ来た。私は本屋を開いた。ささやかな、静かで小さな店だ。店内は狭いながらも温かく、剥き出しの木の梁、使い込まれた肘掛け椅子がいくつか、そして廃材から自分の手で組み上げた棚が並んでいる。本はジャンルではなく、感覚で並べた。お客さんたちは、その予測不能さを気に入ってくれた。規則性よりも、店そのものが息づいているような感覚が好きだと言ってくれる人もいた。毎週月曜の朝、店先のショーウィンドウに新しい選書のディスプレイを作った。近隣の島から、次に私が何を選ぶのかを見に来る人まで現れるようになった。写真を撮ってネットに投稿する人もいたけれど、それも構わなかった。SNSを強迫的にチェックする癖は、とうになくなっていた。けれど、島に来て2週間ほど経った、ある雨の火曜日、好奇心に負けてしまった。ツイッターを開き、自分の名前で検索し、続けて奈穂美の名前でも検索した。結果は、驚くべきものだった。投稿した動画。指輪のデザイン過程を映し、静かな別れの言葉で締めくくったあの動画は、数十万回もシェアされていた。ニュースサイトが取り上げ、デザイン系のブログが、私のデザイン画と奈穂美の応募作品を並べて詳細な分析記事を書いていた。結論はどれも同じだった。奈穂美は、私の作品を盗んでいた。コメント欄は、容赦なかった。【自分の妹のデザインを盗んだ上に、その夫と寝ないといけないほど才能がないって、どういうこと。茂木奈穂美は恥さらし】【ジュエリー業界は茂木奈穂美を追放するべき。これは紛れもない盗作でしょ】同じような書き込みを、私はいくつも読み飛ばした。奈穂美のSNSは非難の嵐に呑まれていた。彼女とコラボしていたいくつかのブランドが、契約解消の声明を出した。受賞したガレリア賞も取り消され、審査委員会は、応募作品のオリジナリティを検証できなかったことについて、公に謝罪していた。彼女は終わった。キャリアも、名声も、入念に築き上げてきた、あの台座のような立場も。すべてが、たった1本の動画で崩れ落ちた。数日後、奈穂美が謝罪動画を
和真はその場に凍りついたまま、書類の下部に並ぶ署名を見つめていた。見紛うことのない自分の筆跡が、彼女の名前の隣に並んでいる。春本愛奈。整った、迷いのない筆致。一文字一文字に宿る決定的な重みが、胸を締めつけた。自分の署名。自分自身の手で、離婚届にサインしていた。いつ?どうやって?その瞬間、頭を激しく殴られたような衝撃が彼を襲った。あの公共料金の請求書。出張から早く帰ってきたあの夜。寝室で、奇妙に硬い笑みを浮かべながら書類の束を差し出した、あの夜。「家の請求書なの」彼女はそう言っていた。「片付けておきたくて」彼は1枚1枚、ろくに見もせずサインした。このあとシャワーを浴びることしか考えていなかったから。彼女に、完全に騙されていたのだ。目の前に立ち、まっすぐに彼の目を見つめながら、離婚届を手渡していた。そして自分は、何のためらいもなくサインした。彼女を信じていたから。彼女が自分を欺くなど、あまりにも現実離れしていて、考えもしなかったから。「社長」部下が居心地悪そうに重心を移した。「今朝7時頃、言われた通り奥様に朝食をお持ちしたんです。別荘は空っぽでした。ベッドには横になった形跡もなく。これがナイトテーブルに置いてあって。奥様は……もう、出ていかれていました」和真の指が書類を握りしめ、端を歪ませた。愛奈は、これを計画していた。周到に、自分が姿を消すための段取りを整えていたのだ。「本土へ戻せ」和真の声は掠れていた。「今すぐだ」ヨットが桟橋に着くと同時に、和真は飛び降り、車に乗り込んだ。取り憑かれたように車を走らせた。他の車の間を縫い、普段なら決して無視しない信号も突っ切った。街並みが窓の向こうを流れていく。喧騒も動きも、何ひとつ彼の意識には残らなかった。玄関の扉を乱暴に開け放った瞬間、重苦しい静寂が彼を押し戻した。家の空気が違う。がらんとして、冷たい。「愛奈?」彼は玄関からリビングへと突き進んだ。誰もいない。キッチンへ。誰もいない。階段を一段飛ばしで駆け上がり、寝室の扉を勢いよく開けた。そこにも、彼女はいなかった。廊下で家政婦を見つけると、彼は詰め寄った。「愛奈は?いつ帰ってきた?」年配の女性は困惑した表情を浮かべた。「旦那様、奥様は一度もお戻りになっていませ
翌日、私は島へ持っていく荷物をまとめ始めた。サンドレスをバッグにしまい込み、サイドポケットには署名済みの離婚届と並べてパスポートを入れる。まるで、献身的な夫とロマンチックな休暇に出かける、ただの妻であるかのように振る舞った。午後も遅くなった頃、私たちは彼のヨットで波を切って進んでいた。海岸線が、みるみる背後に遠ざかっていく。和真は舵輪に手をかけ、操縦席に立っていた。風が黒髪を乱す。時折、あの独特の薄い笑みを浮かべて振り返る。「これが、俺たちの逃避行の始まりだ。ふたりきりで。仕事もなし、家族もなし、邪魔者もなし」私は頷いた。心から幸せなふりをして。やがて、水平線に島が姿を現した。ヨットが桟橋へと滑り込んでいく途中、砂浜で何かが揺らめいているのが見えた。何十もの小さな灯りが、半円を描くように並び、その中心にはふたり分のテーブルが設えられている。和真がエンジンを切り、私を桟橋へと導いた。彼の手は温かく、しっかりと私を支えていた。「サプライズだ」彼は囁くと、砂浜へと私を連れていく。テーブルには白いリネンがかけられ、並ぶ料理はすべて、私の好物ばかりだった。彼が椅子を引いてくれる。瞳に蝋燭の灯を映しながら、彼は言った。「大変だっただろう」それは低く、真剣な声だった。「お前の両親のことも、親族からの圧力も、全部。でも、これだけは知っていてほしい、愛奈。たとえお前の家族がお前の価値を見ていなくても、俺は見てる。俺はずっとお前の味方だ」私は彼を見つめた。しっかりとした顎、真摯な瞳、誠実さを滲ませたその口元。紡がれる言葉のひとつひとつが、誓いのように響く。けれど、そのひとつひとつが実は嘘なのだ。「ありがとう」私は言った。言葉が苦かった。「その言葉が、私には何より嬉しいわ」彼はほっとしたように笑い、グラスを掲げた。「俺たちに。二度目のハネムーンに」「私たちに」私も同じ言葉を返し、口をつけた。彼がグラスを置き、私に注ぎ足そうとワインボトルに手を伸ばしたその時、テーブルクロスの上でスマホが震えた。鋭く、無遠慮な音だった。和真は画面に目をやると、親指で操作し、着信を切った。再び、震えが響く。彼は再びそれを切り、微かに顎を強張らせた。「まったく、言っておいたはずだろ――」3度目の振動は、しつこ