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第887話

Auteur: シガちゃん
麗子から祐一に電話が入ったとき、祐一はキッチンで夕食の支度をしていた。

「社長、情報は流しておきました」

麗子の声はかなり抑えられていた。わずかに緊張が滲んでいる。

「ヤクモヘルス社内では、社長が木谷市へ向かったという話で持ちきりです。もし本当に裏切り者がいるなら、今回のチャンスを見逃すはずがありません」

祐一は顔を上げることなく、料理の盛り付けに集中していた。

「加藤たちは、もう木谷市に着いたか?」

「おそらく、もう到着しているかと」

麗子は少し間を置いてから、ためらいがちに尋ねた。

「……加藤さんに、社長のふりをしてもらっていますよね。本当に、相手は食いついてくるでしょうか?」

「木谷市が調査対象になっている以上、連中がこの機会を逃すことはない」

祐一は淡々と答えた。

「取り逃がすくらいなら、少しでも怪しい動きをした人間を潰そうとする連中だ。加藤には出発前に、十分警戒するよう伝えてある。誰かが焦って手を出せば、必ず尻尾を出す。あとは、その尻尾を掴めばいい」

そう言って、祐一は最後の一皿を整えた。

皿の縁に残っていた、目にはほとんど見えないほどの汚れを、指先
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  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第887話

    麗子から祐一に電話が入ったとき、祐一はキッチンで夕食の支度をしていた。「社長、情報は流しておきました」麗子の声はかなり抑えられていた。わずかに緊張が滲んでいる。「ヤクモヘルス社内では、社長が木谷市へ向かったという話で持ちきりです。もし本当に裏切り者がいるなら、今回のチャンスを見逃すはずがありません」祐一は顔を上げることなく、料理の盛り付けに集中していた。「加藤たちは、もう木谷市に着いたか?」「おそらく、もう到着しているかと」麗子は少し間を置いてから、ためらいがちに尋ねた。「……加藤さんに、社長のふりをしてもらっていますよね。本当に、相手は食いついてくるでしょうか?」「木谷市が調査対象になっている以上、連中がこの機会を逃すことはない」祐一は淡々と答えた。「取り逃がすくらいなら、少しでも怪しい動きをした人間を潰そうとする連中だ。加藤には出発前に、十分警戒するよう伝えてある。誰かが焦って手を出せば、必ず尻尾を出す。あとは、その尻尾を掴めばいい」そう言って、祐一は最後の一皿を整えた。皿の縁に残っていた、目にはほとんど見えないほどの汚れを、指先でそっと拭う。その所作は、これから始まろうとしている危うい駆け引きなど、まるで意に介していないかのように、ひどく優雅だった。しばらく話すと、祐一は電話を切った。そして振り返る。すると、キッチンの入口に由奈が立っていた。手にはスマホ。画面にはニュースサイトが開いたままだった。「祐一……」彼女の声が少し掠れている。どうやら、言いたいことがあるらしい。「ここ数日、私にスマホを触らせなかったのって……これが理由だったの?」祐一が近づいてスマホを取ろうとすると、由奈は半歩後ろへ下がった。そして、スマホの画面を彼の目の前に突きつける。「ヤクモヘルスがこんなふうに叩かれて……株価だって7%も下がってるじゃない。大変なことになってるのに、どうして私に何も言わなかったの?」祐一は画面を一瞥する。画面には、ここ数日のヤクモヘルスをめぐる騒動を報じるニュースがずらりと並んでいた。そして、困ったように小さく息を吐いた。「心配させたくなかったんだ」そう言って、由奈を自分のそばへ引き寄せる。手の甲を、宥めるようにそっと撫でた。「それに、俺の手に負えないほどの問題じゃ

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第886話

    紬は風呂から上がると、まだ水滴の残る髪をそのままに、そっと浴室の扉を開けた。まずは頭だけを出して、左右をきょろきょろと見回す。廊下に誰もいないことを確認すると、生理用品を胸元へ抱え込み、まるで人目を忍ぶように寝室へ戻っていった。ところが、慌ててスーツケースの中からスキンケア用品を探していた、そのとき。何の前触れもなく、寝室のドアが開いた。「……!」倫也が戻ってきた。電話をするために、外に出ていたらしい。視線がぶつかった瞬間、紬は驚きのあまり足から力が抜け、そのままベッドの縁にへたり込んだ。「ちょ、ちょっと!いつも足音がしないんだけど!」倫也は答えなかった。ただ、紬の顔から腹部へ視線を落とす。「生理痛、治りましたか?」「……とっくに治ったし」紬は頬が熱くなるのを感じた。風呂上がりの熱気がまだ残っているせいだ。きっと、そう。そうに決まっている。倫也は紬の前まで歩いてくると、彼女を見下ろした。そして、からかうような気配もなく、何気ない口調で言った。「この前、私を押し倒そうとしたときは、ここまで恥ずかしがっていなかったのに」「……っ」その瞬間、紬の顔が一気に熱くなった。まるで火がついたように、耳まで真っ赤になる。あの夜のことを思い出してしまったのだ。思えば、今回いつもより早く生理が来たのも、あのとき無理をしたせいなのかもしれない。あんなに勢い余ってしまったのだから――紬は気まずさをごまかすように、ぷいっと顔を背けた。「こ、これは暑いだけだから!別に恥ずかしがってないし!」「そうですか」倫也はあっさり頷いた。それ以上からかうこともなく、紬の様子を気遣うように言う。「生理痛が治ったならよかったです。今はちゃんと身体を休めてください。生理のたびに熱を出すようでは、さすがに辛いでしょうから」「今回だけだってば。今までこんなこと、一度もなかったし……」紬は小さな声で言い返した。それから、ふと何かを思いついたように目を細める。ちらりと倫也を見上げると、少しだけ口元を緩めた。「じゃあ……白石さんが、私の体調を整えてくれる?」倫也が黙った。部屋の空気まで凍ってしまう。紬はそんな彼の反応が面白くなって、少しだけ身を寄せた。わざとらしく恥ずかしそうな顔を作る。「だ

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第885話

    達也が用事を済ませると、克也のもとへ戻った。「ご指示の通り、葬式を荒らした件は、ヤクモヘルスと滝沢グループの仕業ってことにしてきました」克也は返事をせず、店の奥にある神棚の前に立っていた。手を合わせ、目を閉じる。まるで本当に神様に何かを祈っているような、妙に丁寧な所作だった。しばらくすると、ようやく口を開いた。「さっき、柴崎さんから電話があった。滝沢グループの社長、滝沢祐一が木谷市に来るらしい。せっかく本人がこっちまで来たんだ。だったら――永遠にここに留まってもらおう、そういう指示だ」その言葉を聞いた瞬間、達也の顔から笑みが消えた。「……それって、あいつをやれってことですか?」達也は克也の耳元に顔を寄せ、声を潜める。「金子さん、俺は柴崎のこと、信用できません。あいつ、俺たちに人を殺させようとしてるんじゃないですか?」達也は周囲を気にしながら、さらに声を落とした。「もし本当に手を出したら、こっちは一生、弱みを握られることになります。これから先、柴崎に何かあった時、俺たちのことを黙ってるとは思えません」克也は何も言わず、達也の顔をじっと見つめていた。やがて、ふっと口元に笑みを浮かべる。「……分かってるさ」そう言って、克也は達也の肩を軽く叩いた。「心配するな。俺たちが直接、手を汚す必要はない」「え?」克也は手を離すと、そのまま窓辺へ歩いていった。外では、いまだに雨が降り続いている。窓ガラスを打つ雨粒を眺めながら、克也は小さく笑った。「息子を失ったあの夫婦は、葬式の一件でヤクモヘルスの連中を心底憎んでる。そこへ、滝沢社長のことを聞かせてやるんだ。そしたら、俺たちが手を下すまでもないだろ?」達也は両手をこすり合わせながら、へこへこと笑った。「いやぁ、さすが金子さん。考えることが違いますね」ふと何かを思い出し、首を傾げる。「……そういや、例のあの若い2人はどうします?張りつけときますか?」「もういい。こうなった以上、もうあの2人に構う必要はない」「了解っす」……特効薬をめぐる騒ぎが大きくなってからというもの、紬と倫也はこの3日間、食料の買い出し以外、ほとんど家を出なかった。外で見張っている連中も、2人は調査を諦めたのだと思っていた。だが、実際はそうではなく、紬の生理が予定

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第884話

    「何、その言い方?」由奈は足を下ろすと、身体をぐっと祐一のほうへ寄せた。「私が食べたくて食べてると思ってるの?お腹の子たちが食べたがってるの!」「そうだな」祐一は堪えきれず、くすりと笑う。「あの子たちがお腹を空かせて、由奈を困らせないようにしないと」「当然よ。あ、そうだ。アロマオイル取ってきて。私、動きたくないの」すっかり彼を使うことに慣れた由奈が、当然のように言いつける。「分かった」祐一は素直に立ち上がり、アロマオイルを探し始めた。すると、ちょうど通りかかった使用人が声をかける。「旦那様、奥様のアロマオイルをお探しですか?よろしければ私がお持ちしますが」「大丈夫。これだよな?」祐一は手を止めると、棚から見つけた数本を箱ごと取り出し、使用人に確認した。「はい、そうです」使用人は笑みを浮かべた。「旦那様、アロマオイルのことまでご存じなんですね」「ええ、まあ」祐一はさらりと答えた。もちろん、最初から知っていたわけではない。由奈が妊娠してから、母に聞いたのだ。フランキンセンスやグレープフルーツのオイルが肌の手入れや気分転換に使われること、ローズヒップオイルには肌の乾燥や妊娠線のケアに使われることなど。由奈は昔から美容には人一倍気を遣っている。子どもを産むだけでも大変なのに、そのうえ妊娠線や肌の変化、産後の体型のことまで気にするようになるかもしれない。もし、それが原因で余計な不安を抱え込んでしまったら。そう思うと、できることはしてやりたかった。祐一はオイルの入った箱を由奈のもとへ持っていくと、そのまま彼女のそばに腰を下ろした。そして、手入れをしてあげようとオイルを手に取る。「……使い方、分かるの?」由奈が不安そうに見上げた。「覚えるよ」祐一は手のひらにオイルを馴染ませると、由奈へ向き直った。眉をわずかに上げ、いたずらっぽく笑う。「教えてくれ」「……」由奈は言葉を失った。その様子をキッチンから見ていた使用人は、思わず頬を緩める。そしてこっそりスマホを取り出すと、2人の姿をカメラに収めた。そのまま千代へメッセージを送る。【奥様と旦那様、相変わらず仲がよろしいですよ】……祐一が木谷市へ向かうという情報は、案の定、康の耳にも入った。康はすぐに電話をかけ、どう対処すべきか指示を仰い

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第883話

    麗子は和典のそばまで歩み寄ると、両手で書類を差し出した。「山本さん、滝沢社長が自ら木谷市へ向かうそうです。今回の件は、偽造薬事件にも関わっていますので。それから、田辺部長の残党が、まだ完全には片づいていないようです。社長はすでに、その人物が木谷市にいることを突き止めています」麗子は淡々と続けた。「秘密を守るため、この書類を閲覧できるのは山本さんだけだそうです」和典はわずかに目を見開いた。差し出された書類を受け取り、表紙に目を落とす。だが、すぐには開かなかった。代わりに、席を囲む一同をゆっくりと見渡す。その話を聞いた途端、室内には驚きの声が次々と上がった。「え?田辺部長にまだ仲間がいるのか?」「滝沢社長が自ら木谷市へ?ということは、すでに何か掴んでいるでしょうね。だったら、なぜ我々には何も知らせない?」「まさか……我々を信用していないんじゃないか?」互いに顔を見合わせる幹部たち。その表情には、驚き、不安、そして疑念が入り混じっている。麗子は何も言わず、ただ、彼らの反応を一人ひとり静かに見ていた。和典は書類の表紙に書かれた「社外秘」の文字を、指先でゆっくりとなぞる。そして、ようやく口を開いた。「滝沢社長が、この書類を私に託したということは……ヤクモの内部に、何か問題があると考えるべきだろう」和典の言葉に、一人の幹部が眉をひそめた。「山本さん、それはどういう意味です?」男は不快感を隠そうともせず、ゆっくりと立ち上がった。「まさか……ここにいる誰かが、田辺部長の仲間だと疑っているんですか?」その瞬間、会議室の空気が変わった。先ほどまで小声で交わされていた幹部たちの会話が、ぴたりと止まる。和典はゆっくりと顔を上げた。鋭い視線が、立ち上がった男を正面から捉える。「その可能性は、否定できない」「……冗談じゃありませんよ」男の声に、苛立ちが滲んだ。「もし本当に内部に裏切り者がいるなら、なぜ田辺部長は、事件が明るみに出たときに、その人物の名前を出さなかったんです?」別の株主も、考え込むように口を挟んだ。「確かに……そこは私も気になります。あの田辺部長が、自分だけ責任を負って、誰かを庇うとは考えにくい。自分の保身を優先するような人間ですからね。追及された場で仲間の名前を出さなかったというのは、確かに

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第882話

    咲子は呆然としたまま、何を考えているのか分からない顔で俯いていた。紬はそんな彼女の手をそっと握る。「大丈夫です。私たちが、必ず息子さんを助けますから!」その言葉に、咲子はゆっくりと顔を上げた。しばらく紬を見つめたあと、小さくうなずく。今の彼女には、もうそれしかできなかった。息子がどこにいるのかも分からない。それでも――目の前にいる2人に、すべての望みを託すしかなかった。咲子の家を出て車に戻ると、倫也は運転席に乗り込み、シートベルトを締めた。そのとき、堪えきれなかったように小さく吹き出す。「……何がおかしいの?」助手席に乗った紬が、不思議そうに倫也を見る。「いや」倫也は苦笑しながら、彼女の顔を見た。「あなたのことですよ。息子さんがどこにいるのかすら分かってないのに、『必ず助けます』なんて、よくあそこまで言い切れましたね」「うぅ……」紬は言葉に詰まった。「だって……あの人、すごく怯えてたから。少しでも安心してほしくて……それに、白石さんも言ってたじゃない。あの人たちが息子さんを利用するつもりなら、少なくとも今すぐ危害を加えることはないって」そこまで言ったところで、紬の声が少しずつ弱くなる。「……たぶん」最後の一言には、自信がなかった。倫也は口元をわずかに歪めた。「私は、そこまで断言していなかったけどね」紬は黙り込み、膝の上で両手をぎゅっと握った。「……本当に、何かあったりしないですよね」咲子の顔が頭から離れない。倫也はそんな紬をちらりと見て、低い声で言った。「大丈夫ですよ。少なくとも、金子さんたちが咲子さんに罪を被せるつもりなら、今の段階で息子さんに手を出す理由はありません。ただ……私たちが今日、彼女の家を訪ねたことが向こうに知られたら話は別です」紬の表情が強張った。「……それって、咲子さんが危ないってこと?どうすれば……」倫也は前を見たまま答えた。「先に手を打つんです。咲子さんに連絡して、これからも向こうの指示に従い、全部自分がやったことにして罪を被るよう伝えてください」紬は一瞬躊躇ったが、倫也が本気で咲子に罪を被せようとしているわけではないと信じ、スマホを取り出し、咲子にメッセージを送った。……木谷市の病院をめぐる騒動は、ついには世間を大きく騒がせるまでに発展した。遠く離れたヤクモヘ

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